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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
サイドストーリー
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32 Side Tsukasa 01話

 宿舎となるホテルのロビーを通ると、ひとりの人間に声をかけられた。

 相手は隣のブロックから出場が決まった人間だった。

「俺、滝口隼人たきぐちはやと海新の三年。なーんかさ、いつか藤宮くんと話せないかと思ってたんだけど、なかなか機会ってないもんだよね」

 わざわざ自己紹介されなくても知ってる、と思っていると、

「君っていつもそんな顔してるわけ? いや、かっこいいけどさ」

 そんな顔とはどんな顔だろうか。自分が把握している感情としては、面倒くさい、それひとつなのだが。

 話しかけてきた人間は、雰囲気が若干海斗に似ていた。

 誰にでも気さくに話しかけられる人間で、なんとなくそこにいるだけで場の空気が明るくなるような――ま、それも俺の持つ空気で相殺だけど。

 そのとき、携帯が鳴った。

 ディスプレイを見れば翠からであることがわかる。

 でも、なんで……?

「出ないと切れるぞ?」

 当たり前すぎる言葉に通話ボタンを押した。

「翠……?」

『そうっ、私っ――』

 っていうか、なんでそんなに大声で必死なわけ……?

「いや、番号でわかるけど……」

 返事はそこまでに留めた。目の前に目を輝かせている男がひとりいるからだ。

『今っ、電話してても大丈夫っ!?』

 無理――。

「ちょっと待って。三分後にかけ直す」

 通話を切ると、

「なんだ、彼女かっ!?」

 さして仲も良くない、今初めて話した男に訊かれる。

「違います。単なる後輩――あ、友達だったかもしれません」

「でも女なんだろっ!?」

「男か女かと問われるなら女」

「なんだそれ。実はオネエとかそういう話?」

「いえ、生物上の分類として」

 そんな話をしていると、相手の携帯も鳴り始めた。

「俺のほうは部の後輩」

 と、苦笑しながら通話に応じた。

 俺はロビーの片隅まで移動する。

 ロビーには携帯を手に通話している人間が何人かいた。

 着信履歴を呼び出しかけ直す。

 何かあったんだろうか……。

 そんな不安を抱きながらかけると、一コール目で「はいっ」と応答があった。

「悪い、今なら大丈夫」

『ごめんねっ? 誰かと一緒だった?』

 話し中ではあったが、続行したいわけでもなかった。

「いや、そういうわけじゃないから」

 少しの沈黙があった。

 何かを言いたくて言えないのか……?

「なんかあった?」

『ううん、何もない』

 翠は普通に答えた。

 何も隠し事をしているふうではない。

「じゃ、どうして電話?」

 わからなかった。今まで、携帯が鳴るときはたいてい何かがあったときだったし……。

『……ただ話したかっただけって言ったら、怒る……?』

 自分の耳を疑った。

 続けざまに、

『ごめんなさいっ、怒った? あの、やっぱり切るからっ――』

「怒ってない。怒ってないから少し落ち着け」

 怒るどころか思考停止だ、バカ――。

『……本当?」

「本当、少し意外だと思っただけだから」

『意外……? 私はこんなふうに電話したことはない?』

 こんな電話は初めてだった。

「たいていは相談や悩みごと回線だったと思う」

 きっと、リダイヤルの上位に俺の番号が表示されていたのだろう。

 でも、なんだか奇妙だ。こんな電話がかかってくること事体が奇妙。奇妙というよりは異常……。

 そのうえ、翠は電話ってアイテムをきちんと理解していない気がする。

「翠、これ電話だから。話さないと意味を成さないんだけど……」

『あ、ごめんなさい。あの、調子はどう? 体調は? 精神面は? えっと、それから――』

 話す内容を考えながら口にしている、そんな感じ。

 なんか身体中の力が抜ける。いい意味でも悪い意味でも。

「体調は問題ない。メンタルは驚くことがあったけど、マイナスのほうには傾いてないから平気」

 驚くこととはこの電話だ。でも、異常も意外でもなんでもいい。

 翠の声が聞こえてくる――それだけでいい。

 翠はまだ会話の内容に困っているようだったから、こっちから話題提供を試みる。

「さっき、佐野と会った」

『え……?』

「無事に勝ち進んではいるけど、すごい緊張してた」

 試合会場は違うものの、宿舎として使うホテルは同じだ。

 夕飯のとき、声をかけようかと思ったが、それも憚られるほどの緊張ぶりだった。あれは、あまりいいほうの緊張ではない。

『……そうなの? そんなに緊張しているの?』

「見てわかるくらいには。……この電話のついでにかけてやったら?」

 翠が電話すればいい具合に脱力できるんじゃないだろうか。

 提案すると、翠は「うん」と即答した。

 俺も会話が得意なわけではない。そろそろ切り時かと思い、

「じゃ、切るよ」

『わっ、待ってっ』

 その必死さに驚いた。

『あのっ、試合がんばってね。それから、電話に出てくれてありがとうっ』

「前者の意味はわかるけど、後者の意味がわからない」

『……だって、声が聞きたくて電話したの。だから、電話に出てくれてありがとう……だよ?』

 嘘とか冗談、そういうのが含まれない声音。その声と言葉たちに動揺する自分がいた。

「……電話って、離れてる相手と話すためのアイテムだから、鳴れば出るだろ?」

 そう答えるのが精一杯。

『そうだよね』

 電話の向こうで、翠はその言葉を額面どおりに受け取った。

「でも、俺も話せて良かった……。録音してあるのを聞くのと、リアルタイムで話せるのはやっぱり違うな……」

 こんな言葉じゃ俺の言いたいことは伝わらない。だから、このくらいなら言っても問題はない。

 携帯からは「うん……」と声が届いた。

「そっちは星見える?」

『え?』

 携帯ゾーンにいるなら星が見えるだろう。

『見えるよ。白鳥座とか』

 不意に屋上で話した会話が浮上する。

「……夏の大三角形は?」

 覚えてないだろうな、と思いながらも訊いている自分がいた。

『えぇと……こと座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネブ……?』

 っ――なんで覚えてるっ!?

「……正解。じゃ、本当に切るから」

『うん、おやすみなさい』

「おやすみ」

 通話を切ってから、まだ光が灯ったままのディスプレイを見ていた。

 しだいにそれは光の分量が抑えられ、やがては消える。

「なんで星のこと覚えている……?」

 あれは記憶をなくす前にした会話なのに……。

 不思議に思いながらも、頭の中に今の会話が反芻している。

「やばい、整理がつかないかも――」

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