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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
サイドストーリー
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08~09 Side Tsukasa 02話

 ナースステーションで藤原さんに挨拶するのはいつものこと。

 とくに何を話すわけでもない。この、必要以上にかまってこないあたりが心地いい。できれば、この距離感を姉さんと兄さんに見習ってもらいたいくらいだ。


 開いている病室のドアを軽くノックすると、

「はい」

 病室に入ると、移動テーブルの上にピルケースがあった。

 翠の薬はスタッフ管理のはずだけど……。

「薬……」

「お父さんと会ったあとにしようと思って……」

「そう」

 時計を見れば六時五十分。あと十分もすれば翠の父親が来るのだろう。そしたら俺はどうしたらいいものか。

 普通なら親子水入らずで話したいところだと思うが……。

 とりあえず、屋上へ移動する間はついていてやれるだろうか。

 なんとなしに翠を見ると、昼間とは違う表情をしていた。

 どこか落ち込んでいるような、そんな顔。父親と会うことに緊張している、というような表情には見えなかった。

「何かあった?」

 ベッド脇にあるスツールに座り、翠に訊く。

「どうして、ですか?」

「昼間に見た顔と違う」

 翠は手で顔を押さえた。

「言いたくないなら別に言わなくていいけど」

 俺はポケットから文庫本を取り出す。

 中身は大学一、二年で習う医学英語の本。英文に目を通し始めたところで翠が口を開いた。

 もう何度も読んでいる本のため、努力や集中力を要するものでもない。

「あのね、昇さんに言われたの」

 俺は本を閉じて顔を上げる。

「言葉で傷つけたくないって人を遠ざけている私は、遠ざけた時点ですでに周りの人たちを傷つけてるって――ノックアウト。その言葉にノックアウトだよ」

 翠はつらそうに、それでもわずかな笑みを浮かべる。

「傷つけたくなかったのに、もうすでに傷つけてるなんて……。しかも、一番ひどい傷つけ方だって言われた」

 吐き出すように言葉を口にしては、身体に力が入るのがわかった。

 両肩とも少し上がり、腕が震えている。その先にある手は、力いっぱい布団を握りしめていた。

 言葉で何かフォローできたらよかった。でも、人間関係のあれこれをフォローできるほど、自分が得意な分野でもない。むしろ、苦手な分野。だから、せめて力を抜いてほしくて翠の手に自分の手を重ねた。

「あのね、人を傷つけたら私が傷つくの。人を傷つけたことに負い目を感じるの。だから、大切な人をみんな遠ざけた。自己防衛をも含めて遠ざけてきた。そしたら、私は傷ついていないのに、遠ざけた時点でみんなを傷つけていた――知らなかったの……」

「……気づけて良かったんじゃない?」

 重ねた手はそのままに本を読み始める。けど、それは格好だけで、本当は内容なんて少しも頭に入ってこなかった。

 俺はそこまで考えて人と会話をしないし、自分が放った言葉による影響なんて翠ほどには考えない。こんなにもダメージを受ける翠を理解することはできない。

 でも、人と向き合う翠の姿勢には新鮮なものを感じていた。

 こんな人間だからこそ、俺みたいな人間とも向き合ってもらえるのか……。

 そうは思うものの、何も今でなくてもいい気がした。体調が安定していない今、人に気を回す余裕などないだろう。

 いつもなら気づけることでも今回は気づく余裕すらなかった。そういうことではないのか。

 泣かれるかと思ったけど、それはない、とすぐに思い直す。

 自分に非があるなら、翠はその場から逃げるようなことはしない。

 こういうときなら泣いてくれてもいいんだけど……。

 七時まではあと三分――。

「司先輩、屋上に連れていってくれますか?」

「……あと少しで七時だけど?」

「……うん、だから」

「わかった……」


 ナースセンターの前を通ると藤原さんに声をかけられた。

「父が来たら、屋上にいると伝えてもらえますか?」

「それは司くん付きでって言ってもいいのかしら?」

 それは俺も知りたい。

「……えぇと、内緒で」

「わかったわ」

 エレベーターに乗り尋ねる。

「俺、透明人間でいいんだ?」

「……はい。ひとりでがんばってみます。でも、だめだったら助けてください」

 思わず苦笑する。それは翠も同じだった。

「了解」


 エレベーターが屋上に停まりドアが開く。

「先輩……」

 肩越しに翠が振り返る。右手で鎖骨のあたりを押さえながら。

 きっと、IVHのラインが気になるのだろう。

「ありがとうございます……。側にいてくれて、ありがとうございます」

 このタイミングでそれかよ……。

 時々、ものすごく不意をつかれる。

「……そう思うなら敬語やめて」

「え……?」

 外との境界にある自動ドアが開く。と、稜線には沈みきった太陽の残光。赤と黄金色こがねいろが混じったような光がきれいだと思った。

「せめて夏休みの間だけでも」

 俺はずるいんだろうな。

 夏病み中に慣れ親しんだ話し方は翠の中に定着し、きっと学校に復帰したときにだって変わることはない。それを見越したうえでこんな条件を出しているんだ。

「ここは学校じゃないだろ?」

 なんて、もっともらしい理由をつけて。

「……慣れなくて変な気がするけど」

「タメにずっと敬語を使われている俺の身にもなれ」

 どのあたりに笑いの要素があったのかはわからないが、翠はクスクスと笑っていた。そして、

「先輩……私、先輩のことも傷つけちゃったよね」

「そうだな……。大嫌いとかムカつく程度のものだったけど」

 ショックはショックだったけど、貴重な体験だったとも思う。

「ごめんなさい」と謝られ、これ幸いと思う自分が恨めしくなる。

「……名前」

「え……?」

「敬語をやめるのと、プラスアルファ。名前に先輩つけないで」

「は……?」

「それで許してやるって言ってるんだけど」

「…………」

 無言、か――さすがにこれは図々しかったか……。

「……司、くん?」

 ……とことん素直なやつ。

 そんな相手に俺は調子に乗る。

「敬称禁止」

「……ツカサ?」

 翠は首を傾げて口にした。

「よくできました」

「ツカサ……」

「何?」

「……ツカサ」

「だから、何」

「……なんでもないです」

 よくわからない言動。呼んでは俺の顔を見て、また俺を呼ぶ。

 でも、その間の表情の変化が著しくて、止めるに止められなかった。徐々に表情が柔らかくなる――そんな気がしたから、止められなかった。


「先輩、ハーブ園のところがいいな」

 オーダーされなくてもそこへ行くつもりだった。

 ここはミントの背丈が高く、裏側に人がいても表から見えることはない。即ち、俺も翠も確信犯なのだろう。

「俺は裏ってこと?」

「ピンポンです」

 翠は人差し指を立てて軽快に答え、俺はハーブ園の裏へ回り、花壇の縁に腰を下ろした。

 そうしていても、あちら側からは見えないくらいにハーブが茂っている。母さんが見たら、「蒸れちゃうから適度に刈らないとだめ」とハサミを手に取るだろう。

 この裏で、翠は間違いなく緊張している。

 近くにいるとはいえ、この距離で俺ができることは何か……。

「数――」

 ……翠にだけ聞こえる声量で数を数えよう。

 俺の声に気づいたのか、二クール目には自分の声に翠の声が重なった。

 ブゥン、と遠くで自動ドアが開く音。

 さぁ、俺はおとなしく透明人間になりますか――。

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