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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
31/53

31話

 相馬先生の帰国を待つ間、時間が過ぎるのがとても遅く感じていた。

 病室に誰かがいるときはあっという間に時間が過ぎていくのに、ひとりになると、一分という時間が途端に長く思えてくるのだ。

 実質、一分は六十秒で何が変わるわけでもない。ただ、私の体感時間が遅くなっているだけのこと。

 この病室で時を刻むのは時計の秒針と点滴が落ちる雫のみ。

 外を見れば快晴。夏だから、朝から夕方まで明るいまま。

 時計を見なくても、太陽の位置でだいたいの時間がわかる。

「雨じゃないけど痛いんだよね……」

 病室にひとりだとひとり言が増えていく。そんな自分にも慣れ始めていた。

 明日からはツカサのインターハイが始まる。私はそれを見にいくつもりだったのだろうか……。

「あ……佐野くんは今日からだ」

 すごく大切な日をすっかり忘れていた。「がんばってね」のメールも送っていない。

「今日の結果、もう出てるよね……」

 結果を知りたくて携帯ゾーンへ行きたかったけれど、一昨日から地味に続いている足の痛みがかなりつらいことになっていた。

 動かないほうが無難――。

 こういう経験則だけは身体が嫌というほどに覚えている。

 携帯が目に入れば、私は自然とツカサの声を聞いていた。

「たぶん、これは私の精神安定剤なんだろうな……」

 この声を聞くと、心が平静を取り戻す。自分の心拍がしだいにこのカウントに連動しだすのだ。

 ツカサは――ツカサも……?

 携帯に録音された私の声を聞いて、少しは緊張が解れるのだろうか。

 でも、緊張を解すために数を数えるというのは少し妙だ。言うならば、気持ちを切り替えるためとか、そういうことに使われそう。

 ……そういう用途だったりするのかな。

 もともと私はそういう用途でこれを録音していた、なんてことは――でも、もしそうだったら……?

「私はなんのためにこれが必要だったのかな……」

 考えごとをしすぎて頭が痛いのか、別の症状で頭が痛いのかよくわからないことになっていた。

 寝てしまおう……。

 そうは思うのに、身体中の痛みがそうはさせてくれない。

 痛い――でも、まだ大丈夫。

 ベッドを完全にフラットな状態にして、蹲るようにして横になっていた。

 どのくらいそうしていたかはわからないけれど、背後から声をかけられてはっとする。

「いつもこうやって耐えているのか?」

 静かに、驚かせないように声を発したのは昇さんだった。

 振り返ろうとすると、その動きを制された。

「俺がそっち側に行くよ」

 昇さんは場所を移動すると私の身体に手を伸ばし、右腕を掴んでいた左手を指一本ずつ剥がし始める。

 目一杯力を入れていた手は、腕に爪を立て皮膚に食い込むほどだった。昇さんに引き剥がされると、ところどころ内出血しているのが見て取れる。

「あとで爪切ろうな」

 昇さんは自分の手を握れ、と言わんばかりに私の手を離さない。

 私の手と昇さんの手は全然違う。同じ人間の手なのに、そうとは思えないほど違う。

 黒く日焼けした手はとても大きく、蒼兄やお父さんの手よりも大きい。そして、何よりも力強い。

 私の手は青白くて小さい。まるで頼りにならない手だ。

 何よりも、昇さんの手が人と違うのは、容赦なく力をこめてくれること。

 力加減をせず、しっかりと手を掴んでくれていた。

 蒼兄や唯兄、栞さんや湊先生とは違う。ツカサとも違う。

 なんだろう、この違いは……。

「薬を使いたくなくて我慢してるのか? それとも、痛いことを言えないのか――どっちだ?」

「……どっちでもないです」

「それ以外ってことか?」

「我慢できるから言わない……」

 その答えに昇さんが目を見開いた。

「でもね……本当はそれも違う。昇さん……我慢って、どこまですればいいんだっけ? いつからか、それがわからなくなっているの」

 泣き笑いで言うと、昇さんはナースコールを押し、

「注射の準備お願いします」

 と、一言だけ口にした。

 すぐに、ステンレストレイを手にした藤原さんが入ってきた。

 昇さんはゴム手袋をはめ、小瓶から薬を注射器に移す。

「点滴のラインから入れるから痛みはない」

 説明をすると、すぐに処置が行われた。

 処置といっても昇さんが言ったとおり、点滴のラインに注入するだけ。

 痛みも何も伴わない。けれども効果は覿面で、ふわりと意識が飛びそうになる瞬間に聞いた言葉。

「すごく難しいことだよ。どこまで我慢をすればいいのか、っていうのは。でも、翠葉ちゃんはもう少し早めに口にしていい」

 もう少し早目……。

 そういうの、あと何センチ、何グラム、ってもっとわかりやすかったらいいのにね――。




 目を覚ましたときには病室に蒼兄がいた。

「痛みは?」

「……少しだけ」

 今、何時だろう……。

 サイドテーブルを見ようとすると、「七時だよ」と蒼兄が教えてくれた。

 もう、そんな時間なのね……。

「起きたらご飯って言ってたから、藤原さんに声かけてくるな」

 蒼兄が病室を出てから考える。

 注射を打ってもらったのは夕方だったと思う。三時間くらいは寝ていたのだろうか。

 しばらくすると、藤原さんと蒼兄が一緒に病室へ入ってきた。

 ベッドを起こし、テーブルに置かれた食事に視線を固定する。

 藤原さんは高カロリー輸液のルートの消毒を始めた。

 蒼兄はなかなか手を伸ばさない私の代わりに器の蓋を開けていく。

 固形物よりも流動食っぽいものが増えていて、これなら飲み込むだけで大丈夫かも、と思えた。

 卵豆腐が美味しい。

 まだ、食べ物を口にして「美味しい」と思える余裕がある。

「蒼兄、佐野くんの結果聞いてる?」

「無事に勝ち進んでるよ」

「……緊張してるかな」

「まぁね、緊張しない選手はいないんじゃないかな。むしろ、適度な緊張はいい結果につながる」

「優勝できたらいいね」

 蒼兄は笑いながら、「そうだな」と答えた。

 改めて考えたらすごいことなのだ。

 インターハイへの切符を手にするには、地区大会や県大会で優秀な成績をおさめなければならない。

 この時点でもすごいことなのだ。

「でもさ、佐野くんはまだ一年なんだ。一年で入賞したらそれだけでもすごいことだと思うよ」

 蒼兄だって一年で入賞は果たしている。

「御園生さんってつくづく感覚のおかしな子よね?」

 藤原さんに言われて、「どうしてですか」と尋ねる。

「だって、高校総体よ? 身近な人間がふたりも出場ってそうそうないことでしょう?」

 そう言われてみれば、確かにそうだ。

 しかも同じ高校からふたり出場というのはとても珍しいことかもしれない。

「彼の目標は優勝だと思う。でもさ、目標にすぐ手が届くようじゃつまらなくないか?」

 え……?

「誰かが言ってた。すぐ手に届くものは夢とは言えないって。目標もそれに然りじゃないかな」

 すぐ、手に届くもの――。

「悔しい思いをしたからこそ、また次に向けてがんばることができる。たぶん、そういうものだよ。……別に彼の優勝を望んでないわけじゃないけどね」

 自嘲気味に笑った蒼兄に尋ねる。

「蒼兄も……? 蒼兄もそうだったの?」

「……訊かれるだろうなぁ、とは思った。そうだなぁ……。優勝したらさ、なんか気が抜けたんだ。それまで張り詰めていたからっていうのもあるんだけど、次の目標が欲しくなった。でも、それが陸上じゃなくてもいいかなって思っちゃったんだ」

 そうなのね……。

「ねぇ、訊いてもいいかしら? お兄さんもインターハイ出場経験者なの?」

 藤原さんは作業を完全に止めていた。

「そうですよ。一年は入賞どまりでしたけど、二年では優勝してます」

「……御園生さんの感覚が微妙にずれている理由が少しわかったわ」

 藤原さんはひとり納得して病室を出ていった。

「さて、食べられるところまではがんばって食べるんだろ?」

「うん」

 頭の中ではツカサのことを考えていた。

 陸上のようにタイムで順位が決まらないのが弓道。

 ツカサのことは覚えていないのに、弓道の知識だけは頭の中にある。射法八節も知っているけれど、それはいったい誰が教えてくれたものなのか……。

 ツカサ、かな……。ツカサは今頃どうしているだろう。

「翠葉?」

「えっ?」

「食べないと」

「あ、うん……」

 薄味のお味噌汁を口にしても、やっぱりツカサのことが頭から離れない。

「蒼兄……私はツカサが好きだったのかな」

 蒼兄を見ると、びっくりした顔をされた。

「どうしてそう思ったんだ?」

 努めて冷静に――そんな訊かれ方。

「ツカサの声を聞くと落ち着くの。……側にいてくれると安心する。なのに、顔を見るとドキドキする」

「……そっか。それはさ、何度も会って話をしていたらはっきりするんじゃないかな」

 やっぱり蒼兄もはっきりとした答えは教えてくれなかった。

 唯兄、栞さん、蒼兄――三人ともがそれは同じだった。

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