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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
29/53

29話

 朝起きたら洗顔、朝食、歯磨き、身体を拭いてルームウェアを着替える――それらが終われば何をすることもなくなる。

 音楽を聴くでも、写真集を見るでもなくぼーっとしていると、昇さんが顔を出してくれた。

 きっと、相馬先生が帰国するまではこんな日が続くのだろう。

「調子は?」

「少しずつ痛みだしています。でも、こんなの全然かわいい」

 苦笑を添えて返すと、

「かわいい、か。まだ凶悪なやつじゃないんだな?」

 そんなふうに返してくれる昇さんは、人に話を合わせるのが上手だなと思った。

 昇さん曰く、患者と医師のコミュニケーションをはかるための会話をする。

「外、行くか? 中庭なら暑くないだろ」

「嬉しい! でも、日焼け止め塗るのでちょっと待ってもらってもいいですか?」

「その年から紫外線対策か?」

「対策は対策……。でも美白がどうの、じゃないですよ。私、すぐに赤くなっちゃうから」

「あぁ、そういう体質か」


 中庭に出ると、私の好きな木のもとまで車椅子を押してくれた。

 今日はふたり揃ってその木の根元に腰を下ろす。

 もう太陽は高い位置まで昇っているけれど、大きな木の下には日陰ができており、芝生の上はひんやりとしてとても気持ちがいい。

 吹き抜ける風はビル風に類似するけれど、風景に緑があるだけで、そうとは思わない。

 ここにも少しハーブが植わっている。それを見ていると、お姉さん――唯兄の大切な人を思い出す。

「なんか寂しそうな顔をしているな」

「……ここで何度か会ったことのあるお姉さんが亡くなったって、つい最近知ったんです……」

「そうか、残念だったな……」

 昇さんの曇った表情を見るのは二度目だ。

 そんな昇さんを見て、お医者様だからこそ反応しづらい話題なのだろうと察する。

 手を尽くしても救えない命は救えない。けれど、そのたびに心を砕かれていたら、この仕事は務まらない。そのくらいは何も知らない私でもわかる。だから、話を逸らそうと思った。

「今日はお昼時にお兄ちゃんが来てくれるんです」

「上? 下?」

「下、です。唯兄」

 上下で訊かれたことに笑みが漏れる。

「お仕事が忙しいみたいだけど、合間を縫って来てくれるみたい。色々と相談したいことがあったからすごく嬉しくて……」

「俺や栞に相談してくれてもいいのになぁ……」

 昇さんがどこかいじけているように見えた。

「俺はあらゆる分野に精通しているぞー? 医療の分野では特定の分野だがな……」

 名前の呼び方といい、負けず嫌いな先生だなぁ……。

 そんなことを思いつつ、悩みの一欠片を話すことにした。

「どうしたことか、ツカサを見ていると時々心臓がドキドキして困るんです」

 苦笑して話すと、昇さんの真顔がこちらを向いた。

「で?」

「それがどうしてかわからなくて、微妙に困っています。嫌ではないんですけど、気持ちの名前がわからなくて……」

「……それは素なのか?」

「す……? あの、真面目にわからないから唯兄に相談する予定なんですけど……」

 昇さんは一瞬にして大笑いを始めた。

「なんて奇特な兄ちゃんなんだ」

 心外な反応だけれど、さっきみたいに寂しそうな顔をしていないことに安心した。

「それで心臓壊れたりしないか不安になっていたら、それで死ぬ人はいないって言われちゃいました」

 昇さんはさらにお腹を抱えて笑いだす。

「でもね……前に、湊先生にも同じようなことを言われた記憶があって――でも、ツカサのことで訊いたのかは覚えていなくて、記憶がところどころなくて気持ちが悪いです」

「……記憶っていうのは人の歴史みたいなもんだからな。……思い出せるといいな」

 そう言うと、私の頭に大きな手を置き、

「そろそろ病室に戻るか」

「はい」

 車椅子に戻るとき、左足に痛みを感じた。

「痛いのか?」

「まだ大丈夫。……だって、痛くてもまだ歩ける」

「そうか……悪いな、治療してやれなくて」

「……昇さんは悪くないです」

「そうだよな、相馬が帰国したらふたりで恨みつらみをぶつけような」

「……それはどうしようかな?」

「なんでだ?」

「確かに恨みつらみはなくもないんですけど、これから治療してくれる人に、治療前に文句を言うのは得策じゃない気がします」

 真面目に答えたらまた笑われた。

「なかなか機転がきくな」

 昇さんは言いながら車椅子を押し始める。

 病室に戻っても、昇さんはスツールに腰掛け一向に出ていく気配がない。

「昇さん、お仕事は?」

「時々外科手術をやってる。あとは術前カンファレンスに参加して助言をしたり。まだ本格的には仕事をしていないんだ」

「どうしてですか……?」

「翠葉ちゃんの痛みがいつ襲ってくるかわからないからな。相馬が帰国するまではこっち重視。紫さんや涼さんからもそれでいいと言われてる」

「…………」

「あまり深く考えるなよ? 症例が少ないだけに貴重なデータ収集にもなってる。……って言うと、モルモットか何かみたいに聞こえて嫌だよな」

 先生は少しだけ顔を歪めた。

「……私の身体が何かの役に立てるなら、全然嫌じゃないです」

 それは本音。こんな身体の私でも、何かできることがあると思えるから。

「……君は変に物分りが良くて、時々話してるこっちが困るな」

「え……?」

「……ちょっとやるせなくなるときがあるよ。時には泣き叫んだり、つらいって零していいんだぞ? 病院はさ、我慢する場所じゃない。そりゃ、つらい治療を我慢しなくちゃいけないことはある。でも、翠葉ちゃんが泣き喚いても誰も責められはしない」

 それはそうかもしれない。でも、少し違う。

「私はいい子でいるために我慢してるわけじゃないです。泣き叫んだところで体力を消費するだけだから、泣いても叫んでも状況が変わらないのなら体力温存……。耐えているほうがカロリー使わないですむでしょう?」

「……思考回路がちょっと普通じゃないな。それで心がズタズタになるようじゃ意味がないんだよ」

 言うと、昇さんの手が頭に乗った。

「そんなだから、周りが放っておけなかったり、翠葉ちゃんの意思を尊重しては側に近寄れなくなるんだな」

 それは私にはわからないけど……。

「でも、私は楽になりたいとは思っているし、痛みに怯える日はもう散々……。早くこんな症状とは縁を切りたい」

 そういうふうには思っているんだよ。

「外科手術でどうにかできるのなら、俺が救ってやれたかもしれないのにな……。あいにく、翠葉ちゃんのこれは俺の専門外だ。当面、痛くなったら薬で眠らせるような処置になる……」

 先生は申し訳なさそうな顔をしていた。

「やだな。昇さんが申し訳なく思うことじゃないです」

 軽くパシ、と先生の腕を叩いてみせた。すると、

「いい子すぎるのは考えものだ」

 いつもは低く大きな声で話す人が、小さく小さく、一言だけ零した。

このお話には涼倉かのこ様が描いてくださった挿絵がございます。

個人サイト【Riruha* Library】にてご覧いただけますので、よろしかったら遊びにいらしてください。

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