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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
28/53

28話

 ナースセンターで藤原さんにツカサの見送りに行くことを告げ、そのあとしばらく携帯ゾーンにいることを伝えた。

 ツカサは軽く頭を下げて通り過ぎ、今は私の歩調に合わせて歩いてくれている。

 会話なくエレベーターホールまで歩き、

「あとで、電話するからねっ」

「待ってる」

 ツカサが一言口にしたらエレベーターのドアは閉まった。

 もっと何か伝えたかった気がするけれど、何を伝えたらいいのかがわからなくて、「電話するから」としか言えなかった。

 携帯ゾーンのソファに座るとフリースを膝にかける。

「こういうのも、いつもなのかな……」

 いつもこうやってフォローしてくれていたのかな。

 確かに、記憶がなくても困ることはない。でも、なんだか寂しい。

 その人とどんな会話をして、どんな関係を築いてきたのかがわからないのは、「思い出」というとても大切な宝物を盗まれてしまった気がする。

 どうしてこんなことになっちゃったのかな……。

 人の話を聞いても記憶が戻ることはなく、ただ「そうなんだ」と思うだけ。

 だからかな……携帯に残されたメールのやりとりを見るのが怖かった。

 見ればどんな関係だったのかはわかるかもしれない。でも、どうして私がこの人たちを忘れなくちゃいけなかったのか……。

「メールを見たら、それがわかったりするのかな」

 もし、その理由がわかったとして、私は記憶を取り戻せるのかな。

 不安が常につきまとい、どうしてもメールの受信ファイルや送信ファイルを開くことができないでいた。

「あ、十分……」

 咄嗟にリダイヤルを表示させたけれど、リダイヤルの上位にツカサの名前があった。もしかしたら頻繁に電話していたのかもしれない。

 そんなことを考えながら発信ボタンを押す。と、

『翠?』

「うん、電話したよ」

『……十、数えてくれない?』

「え……?」

『数、一から十まで数えてくれない?』

 それって……私の携帯に入っている録音データと同じこと……?

『翠は録音していたのに俺は録音してない。……ずるいだろ?』

 ずるい、のかな? ……よくわからない。だって、録音した理由もそのときの状況もわからないのだから。

 でも、これが「お願い」なのだと理解はできた。

「じゃ、数えるよ?」

 前置きをしてから、ツカサを真似るように一から十までの数を一定のリズムで数える。数回数えると、

『最後、一緒に数えて』

「うん」

 何もかもが、私の録音データと同じだった。

 ふたりの声が重なる。掛け声も何もなかったのに、一から十までの声がピタリと重なった。

 私の少し高い声と、ツカサの低く落ち着いた声。ふたつの声はアンバランスにも思えたけれど、私はふたつの声が重なる音が好きだと思った。

「……ツカサ、大丈夫だから、がんばってね」

『ありがとう。じゃ、おやすみ』

 通話が切れて、携帯を見つめる。

 本当は、私が思うよりはるかに緊張しているのかもしれない。ただ、顔には出さないだけで……。

「……わかりにくい人だなぁ……もう」

 でも、少しは心を許してくれているのかな……。だから、「お願い」をされたのかな。

 人を頼らず、なんでもできちゃいそうな人から頼まれた。そのことも嬉しいのだけど、ツカサに頼られたことが何よりも嬉しく思えた。

 携帯ゾーンにいるついで、と言ったら怒られてしまいそうだけど、唯兄に電話をしよう。

 蒼兄やお母さんとは会っているけれど、お父さんと唯兄には会っていない。

 そもそも、携帯のバッテリーを用意してくれたのは唯兄なのだ。

 コールすると、二コールで出た。

「唯兄?」

『……まだ就寝時間前か』

「うん、まだあと数時間はあるよ。夕飯だってこれからだもの」

『んーーー……どうも時間の感覚が』

 なんとなく、伸びをしながら発した言葉っぽい。

「お仕事忙しい?」

『ちょっとね。今は仕事量が多いからなぁ……』

「忙しかったら切るよ?」

『それはダメっ、俺の癒しっっっ。リィ、たまには気分転換も必要なの。なので、切るの禁止っ!』

「切らなくていいなら切らない」

 クスクス笑いながら答えると、

『具合はどう? 少し落ち着いてるって聞いてるけど』

「うん、まだ大丈夫みたい」

『またひとつ安心』

 声音が少し柔らかくなった。

「今日はね、午前中に髪の毛を切ったんだよ」

『あぁ、碧さんが言ってたね。早いところ新生リィを見に行かなくちゃ』

「あとね、学校の友達がアルバムを持ってきてくれたの。それからね、さっきはツカサが来てくれたよ」

 なんでもないことをつらつらと話す。

『そっか、司くんはインハイ前ってあんちゃんが言ってた気がする』

「うん、あのね……」

『どうした?』

 耳に響く唯兄の声が優しい。心配している声ではなく、普通に話して「どうかした?」と訊いてくれている感じ。

「ツカサの顔を見たら自分の顔が熱くなる……。すごく困るのだけど、対処法知らないかな?」

『……リィ、今、ものすんごく会って話を聞きたい気分。でも、それは物理的に無理なので、電話で我慢する。顔が熱くなるっていうのはさ、ドキドキしてるってこと?』

「……うん。だって、あの人無駄に格好いいんだもの……」

『……記憶がなくても受ける印象はあまり変わらないもんだなぁ……』

「……そうなの? 私、こんなこと言ってたの?」

『うん、言ってた。でも、そのときはドキドキするとか、顔が熱くなるってことはなくて、一感想って感じだったかな』

 じゃ、どうして今はドキドキしたり顔が熱くなるのかな……。

「話をしているととても落ち着くのに、ドキドキし始めると居心地が悪くなって、心臓の駆け足がちょっと大変なの」

『でも、それじゃ死なないから安心していいよ』

 それ、どこかで聞いたことがあるような気がする――。

 左手でこめかみを押さえつつ、記憶を手繰り寄せる。

「唯兄、それ……湊先生にも言われたことがあると思うんだけど、それもツカサのことだったのかな……」

『さぁ、それはどうかな……』

 それはそうだよね。唯兄に訊いてもわかるわけがない。これは湊先生に訊くべきだ。

『明日、お昼くらいに少し時間作っていくよ。そのときにまた話そう?』

「来てくれるの?」

『そりゃ、かわいい妹の新しい髪形を見に行かにゃなりませんからね』

「……無理してない?」

『無理どころか楽しみ』

 これはそのまま受け取ってもいいのかな。

「じゃ、明日、楽しみにしてるね」

『うん、明日ね!』

 電話を切って目の前に広がる空を見る。

 ソファの前は全面ガラス張り。ここからだと藤山が見える。

「山は今、深緑の季節だね」

 西日が当たる木々はオレンジ色の光を放つ。手を伸ばせば届きそうな気がするのに、手を伸ばしても届く場所にはない。

「まるで私の記憶みたい……」

 ポツリと零し、私は病室へ戻ることにした。

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