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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
24/53

24話

 翌朝、いつものように基礎体温計で目を覚まし、手が動くままに携帯を手に取った。

「……わからないけど、習慣みたいなものなんだろうな」

 私は手が覚えている操作を済ませて携帯を耳に当てる。

 携帯からはツカサの声が聞こえてくる。

 なんの会話なのかはわからない。でも、ツカサの声を聞くのは好きだと思った。

 ツカサが数える数を聞いていると、不思議と心が静まるのだ。

「あら、また聞いているの?」

 藤原さんがホットタオルを持ってやってきた。

「おはようございます」

「おはよう」

 携帯をテーブルに置き、受け取ったホットタオルで顔を拭く。

「さっき、お母様から電話があったわ。八時半には行きつけの美容師さんがいらしてくださるそうよ」

「え?」

「髪の毛、気になるくらいなら少し揃えましょうって」

 左サイドの髪の毛――まだ、どうして左だけが短いのかは知らない。それを見たからといって、もうパニックになることはないけれど、気になることは確かで……。揃えてもらえるならそれに越したことはなかった。

 今日は八月二日月曜日――八時半にきてくれるということは、お店に出る前に来てくれるということ。

 ちゃんとお礼を言わなくちゃ。宮川みやかわさんにも、お母さんにも……。


 朝食を食べて少しするとお母さんが来た。

「おはよ」と顔を見せたお母さんは血色が良く、そんな顔を見るだけでほっとする。

れんくん、あと少しで到着するって。さ、その前に着替えちゃおう」

 お母さんは手に持っていた手提げ袋から普通の洋服を出してくれた。

 ルームウェアではなく普通の洋服。前開きのブルーグレーのチュニックと、薄紫色のレギンス。

 今日、午前中にはお客様いっぱい。

 宮川さんのあとには桃華さんと佐野くんが来てくれる。だから、余計に洋服を着させてもらえることが嬉しかった。

 お母さんに手伝ってもらって着替えを終えると、ナースコールが鳴った。

『御園生さん、美容師さんがいらしたけれどお通しして大丈夫かしら?』

「はい、大丈夫です」

 答えてすぐ、病室をノックする音が聞こえた。

 お母さんがドアを開けに行くと、宮川さんともうひとり、女の人が入ってくる。

「久しぶりだね」

 宮川さんがにこりと笑う。

「はい、お久しぶりです。こんなところにまで出張していただいてすみません」

「気にしないで。その分お代はいただいているから」

「翠葉ちゃん、おはよう! 今日、アシスタントさせてもらう小宮こみやタマキです」

 とてもはきはきと話す、元気なアシスタントさんだった。

「タマキ、ここ病院だから声のトーンは落として」

 宮川さんが注意すると、小宮さんは「ショップのノリでスミマセン」と小さくお辞儀した。

「あ……えと、声は大きくても大丈夫だと思います。この階、私しかいないそうなので……」

 小宮さんはぱっと顔を輝かせ、

「シャンプー台の場所、女医さんに教えてもらったから、髪の毛洗ってきちゃおう!」

「はい」


 小宮さんが車椅子を押してくれ、ガランとした廊下を進む。

「今日、新しいトリートメントも持ってきたから、カットが終わったらトリートメントもしようね」

「わ、嬉しい……ありがとうございます」

「私ね、蓮が翠葉ちゃんの髪の毛を切るところ、いっつも見てたんだ」

「え……?」

「髪の毛がすごくきれいだから、ずっと触りたいと思ってたの」

「……なんだか恥ずかしいです。でも、嬉しいです。髪の毛だけは大事に伸ばしてきたので」

「うん、蓮から聞いてる。ホームケアを徹底してくれてるんだよね? 蓮がいつも褒めてるもん」

 会話をしていて気になることがひとつ……。

 宮川さんは若いけれど、美容室のオーナーだ。通常、一スタッフが下の名前を呼び捨てにすることはない。でも、小宮さんは――。

「……宮川さんと小宮さんはとても親しい……?」

 問いかけには何か足りないような言葉を口にすると、

「付き合ってるか、って意味?」

「あ、はい……」

「うん、そうなの」

 小宮さんは嬉しそうに返事をしてくれた。

「私ね、もともと『Ever Green』の常連客だったの。実家も美容院なんだけど、やっぱりイケメン美容師に切ってもらいたいじゃない? それで通っていたの。美容学校を卒業してからそのまま乗り込んじゃった」

 それはすごい……。

「最初は見向きもしてくれなくて、ただ指導してくれるだけだったんだけどねぇ……。男って案外押せば落ちるもんよ?」

 小宮さんはニヒヒ、と笑った。

「翠葉ちゃんは誰かいい人いないの?」

「お恥ずかしながら、初恋もまだなんです……」

 肩を竦めて答えると、「えっ!?」と小宮さんに顔を覗き込まれた。

 やっぱり、十七歳にもなって初恋がまだというのはおかしいのかな。でも、そう思える人がいなかったのだから仕方ない。

「いいな、って思う人は?」

 瞬時に思い浮かんだのはツカサの顔だった。

「あっ、いるんだ~! 格好いい?」

「あ……えと、あの……好きな人かはわからなくて、気になる人というのもちょっと違って……。でも、頭に浮かんだ人はど真ん中ストライクで格好いいです」

 自分でも何を言っているのか意味がわからない。

「そっか、どんな人? 芸能人にたとえると?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。きっと、こういう会話やこのノリは職業病みたいなものなのだろう。

 実のところ、今はもう髪の毛をお湯で流していて、これからシャンプーだ。

「芸能人って言われてもちょっとわからないです……。あまりテレビを見ないので」

「そっかー、残念っ!」

 因みに、宮川さんは誰が見ても格好いいと思うだろう。

 ダークブラウンのさらさらの髪の毛は自毛だというし、瞳も同じくらい明るい。お洒落な服装に小物使い、ちょっとした佇まいがモデルさんのような人なのだ。

 そんな人の隣に立っても遜色がないのは小宮さん。

 色白の小さな顔にパッチリとした目、ぽってりとした唇。少し派手なアイシャドウですら様になる。

 職業柄、流行にはとても敏感なのだろう。けれども、流行のファッションやメイクをきちんと自分のものにしているように思えた。

 一通り洗い終わりタオルドライを済ませると、ザックリトしたコームで髪の毛を梳かされる。

「若干毛先の櫛通りが悪いね。でも、トリートメントしたら一発で復活だよ!」


 病室に戻るまでの道のりでは新しいトリートメントの説明をしてくれ、病室では宮川さんがクロスを用意して待っていた。

 室内には等身大が映る大きな鏡が立てかけられており、床には新聞紙が敷き詰められている。

「そのまま車椅子に座った状態で切ろうね。なるべく早く終わらせるけど、途中でつらくなったら無理せず声をかけてね」

「はい」

「左サイドの髪の毛がこの長さ、か。ちょうど鎖骨のあたりだからシャギーを入れるのもいいかな。姫カットも似合うと思うけど、翠葉ちゃんはどうしたい?」

「……バッサリ、切っちゃおうかな」

 そのほうが自分で洗うのも楽だし、洗ってくれる人も洗いやすくなるだろう。乾かす時間だって短縮される。

「……翠葉ちゃん、ここまでの伸ばすのに何年かかったか覚えてる?」

「……五年くらい?」

「そうだよね、切るのは一瞬で終わる。でも、伸ばすのには時間がかかるんだ。一時の感情で切るのはお勧めできないな」

 一時の感情――。

 確かに、今ふと思っただけだった。

「……ワタシ、バリバリの姫カット希望……絶対に似合うよ」

 鏡の中に映りこんだ小宮さんが口にする。

「タマキ、おまえの意見は訊いてない」

 宮川さんはピシャリと締め出す。

「どうしたい?」

「……どうしましょう」

「絶対に似合うよっ」

 小声で小宮さんが主張するのがおかしくて、

「じゃ、姫カットにしようかな」

「……そうだなぁ。似合うけど……じゃ、こうしない? 姫カットで切るけども、前髪は左に流せる程度の長さを残してパッツンにはしない。サイドは今より少し短めで顎のラインからシャギーを入れる。後ろは傷んでる部分を切ると――二十センチから二十五センチ短くなるから、腰よりもやや上あたり。どうだろう?」

 次々に提案されたことを頭の中で想像する。でも、最後にはいつもこう言うのだ。

「宮川さんにお任せします」

 と。

「わかった。切りながらどうしたいかその都度訊くよ」

 鏡越しに微笑まれ、安心して身を任す。

 中学に上がる前から宮川さんに切ってもらっているけれど、今まで一度も失敗したと思ったことがないし、まとめづらいと思ったこともないのだ。

 髪質をきちんと把握してくれているし、いつもホームケアのアドバイスもしてくれる。だから、宮川さんが切ってくれるなら、きっとどんな髪型でも似合うと思える。

 切っていくうちに、

「後ろも少し梳いて軽くしよう」

 提案しながらサクサク切ってくれる。

 その間、小宮さんはひたすらその作業を観察していた。じっと見入るように、技術ひとつひとつを見落とさないように。

 小宮さんは宮川さんの外見も好きなのだろう。けど、それ以上に美容師として尊敬しているのかもしれない。

 尊敬できる人を好きになれるのは理想。さらには両思いだなんて羨ましい。いつか、私にもそんな人が現れるだろうか……。


 髪の毛を切り終わると髪の毛を乾かす。

「こんな感じだけどどう?」

 大き目の手鏡を渡されたけれど、残念ながそれを持つことはできず、お母さんが代わりに持ってくれた。

 後ろは三十センチ近く切った印象。お尻が隠れるほどに長かった髪の毛が、今は腰よりも少し上にある。それだけで、ずいぶんとサッパリした気がした。

「はい、大丈夫です」

「じゃ、最後に前髪。頭のてっぺんから少し多めに取って重めにするけど、あとでちゃんと梳くから軽くなるよ」

「ガッツリ前髪があるとアップスタイルがかわいく作れていいよね!」

 小宮さんが会話に入ってきてあれこれヘアアレンジを提案してくれる。

「そうだね。前髪やサイドの髪の毛が少し短くて後れ毛があるくらいがかわいいんだ。今度ポップな感じのアップスタイルにしてみようか」

 宮川さんに言われて、「ポップな感じのアップスタイル」とはどんなものだろう、と不思議に思う。

 悩んでいると、

「蓮くん、今日してもらってもいいかしら? このあと、クラスメイトがお見舞いに来てくれることになっているの」

「じゃ、ぜひ」

「……あの、ポップな感じのアップスタイルって?」

 少し不安に思って尋ねると、

「今のタマキみたいな感じ。高い位置でポニーテールを作ってルーズなお団子を作る」

 ……やったことのない髪型。

「嫌だったらやめるよ?」

「いえっ……あの、やったことがないので似合うかどうか不安で」

「似合うよ」

 宮川さんに笑顔で言われると本当にそんな気がしてくるから不思議だ。

「やってもらったら? 桃華ちゃんたちびっくりするんじゃない?」

「……うん。少し恥ずかしい気もするけど」

 普段あまり髪の毛を結ばないだけに、ほんの少し抵抗がある。でも、会うのが桃華さんたちなら大丈夫……。

「じゃ、タマキ、トリートメント行ってきて」

「了解っ!」

 少し離れて新聞紙の上を見ると、私の髪の毛が無造作に落ちていて、なんだか奇妙な感覚に囚われた。

 こういうの、どこかで最近見た気がするのだけど――。

 でも、長らく美容院へは行っていなかったし、美容院へ行かなければそうそう見る光景でもない。

 どうしてだろう……。

「頭、痛い?」

 小宮さんに訊かれて、手で額を押さえていることに気づく。

「あ、いえ……」

「そう? 髪の毛流してトリートメントするけど大丈夫?」

「はい、大丈夫です」

 小宮さんは弟さんの話やトリートメントの説明をしてくれていたけれど、私はどこか上の空で、ずっと散らばる髪の毛のことを考えていた。

 でも、それ以上の何かを思い出すことはなかった――。

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