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光のもとでⅠ 第九章 化学反応  作者: 葉野りるは
本編
1/53

01話

 どのくらい眠っていたのだろう。とても長い時間眠れた気がした。

 ひどく口の中が乾いていてお水が飲みたい……。

 まだぼんやりとしている頭と身体。それらの感覚を研ぎ澄ませていくと――。

 首の下の方、鎖骨のあたりが少し痛む。それから、左手首があたたかい。

「……起きた?」

 この声――。

 目を開けると、自分の左側に先輩がいた。

 先輩の顔から視線をずらして手を見ると、先輩が左手首を握ってくれていた。

「手……」

「かなり冷たくなってた。あとでカイロを持ってきてくれる」

 先輩は誰が、とは言わない。でも、きっと蒼兄か唯兄。

「……お水、欲しいです」

 先輩はベッド脇にかけてあったリモコンの操作をして、少し身体を起こしてくれた。

 違和感のある首元に右手を伸ばすと、指先に点滴の管が触れる。通常のものより太いもの――高カロリー輸液だ。

 枕元に立っている点滴スタンドを見上げれば、見慣れたパックと一年前に見たことのあるパックが並んでぶら下がっている。

 口元に寄せられた水差しから水が流れてくると、最初の一口で口腔内を潤した。次の一口はを飲み込む。分量が少なかったからか、お水が食道を伝う感覚は得られない。代わりに、喉のあたりに違和感が生じた。

 高カロリー輸液をしているとき、どうしても皮膚が引っ張られるような感じがする。それを感じながら、とうとう入院してしまったことを実感した。

 なんだか、延命されているだけな気がする……。

「翠、目を覚ましたら紫さんを呼ぶことになってる」

「……はい」

 司先輩がナースコールを押すとすぐに応答があり、私が起きたことを話すと「お伝えします」と短い返答があった。

 それから十分ほどして、紫先生と見たことのない男の先生が入ってきた。

「翠葉ちゃん、具合はどうだい?」

 紫先生はいつもと変わらない笑顔で話しかけてくれる。けれど、私は一緒に入ってきた人が気になっていた。

 蒼兄よりも背が高く、黒い髪に日焼けした肌。髪の毛は少しパサついているようにも見える。

 じっとその人を見ていると、

「先に彼を紹介しよう。栞ちゃんの旦那さん、神崎昇かんざきしょう医師だ」

 この人が栞さんの旦那様……?

 紫先生の後ろにいた術着姿の人は一歩踏み出し、

「御園生翠葉ちゃん? 栞から話を聞いて会うのを楽しみにしてた」

 聞いたこともないような低い声にびっくりしていると、

「ははっ、びびってるなぁ……。取って食いやしないから安心して」

 陽に焼けた肌だからか、口を開けると真っ白な歯が印象的に見える。

 鋭く思えた目が一気に細まったけれど、これは笑顔、だろうか……。

「翠、大丈夫だから」

 水差しを置いた先輩の手は、また私の左手を握ってくれていた。

 どうやら、気づかないうちに手に力をこめていたみたい。

「司、ちょっと後ろ向いてろ」

 栞さんの旦那様の言葉に司先輩は私に背を向ける。直後、栞さんの旦那様の手がずい、と迫ってきて身体が逃げた。

「そんな警戒しなさんなって。ただ点滴の針に問題がないかチェックするだけだ」

 言って、躊躇なく左鎖骨に手が触れる。

 思わず顔を背けると、その動作だけで針が入っている場所が引っ張られる。

 皮膚なのか、筋肉なのか――と考えていると、

「こうしたら少し楽じゃない?」

 バリトンの声で尋ねられた。

 何をされたのかはわからない。でも、引きつる感じはだいぶ軽減された。

 びっくりして顔を正面に戻すと、栞さんの旦那様はずらした着衣をきれいに整えてくれていた。

「どう?」

「……あまり、引っ張られなくなりました」

「それは良かった」

 その人は司先輩の肩を叩き、

「司、もういいぞ」

 司先輩は体勢を直した途端、

「翠、お礼」

「っ……すみませんっ、ありがとうございますっ」

 なんだか自分の状態にも状況にもいたたまれなくなってくる。そんなとき、

「翠葉ちゃん、これからしばらく彼に君の主治医をしてもらおうと思っている。全く知らない人のほうが、君も当分はやりやすいだろう」

 それはつまり、湊先生でも紫先生でも楓先生でもなく、ということだろうか。

「彼は海外から帰国したばかりということもあって、通常勤務までにはまだ少し時間があるんだ。手持ちの患者もいない。だから、翠葉ちゃんについてもらおうと思う。麻酔の腕も確かだ」

 紫先生は変わらず柔和な笑みを浮かべている。そこへ、ピルルルル――院内PHSが鳴る。と、

「おっと、呼び出しだ。じゃ、悪いが昇、あとは頼んだよ」

 紫先生はあわただしく病室を出ていってしまった。

「相変わらず忙しい人だなぁ……」

 そう言ったのは栞さんの旦那様。

「ま、そんなわけでよろしく」

 差し出された手は右手。点滴の針が刺さっているのは左手であり、私の右手は空いている。

「ほら」

 ヒラヒラ、と手を振られ、戸惑いながら自分の右手を差し出すと、大きな手に掴まれた。

「冷たい手だな。寒くないか?」

「少しだけ……」

 司先輩は「え?」という顔をしたけれど、栞さんの旦那様は笑いながらナースコールを押し、「羽毛布団追加」と口にした。

「足も触るぞ」

 綿毛布をまくられ、足先にも触れられる。

「こっちも冷てぇな……。君、血圧低いは脈圧ないは不整脈あるは、若いのに苦労人だねぇ」

 薄く笑みを浮かべた様に腹が立つ。どうしてかわからないけどケンカを売られている気分に陥ってしまった。

 血圧も不整脈も、手脚が冷たいのも自分がなりたくてなってるわけじゃない。

「くっ、顔に出るねぇ」

「司先輩っっっ」

 どうしたらいいのかわからない感情を司先輩に向ける。と、

「はいはい……。昇さん、あまり刺激しないでもらえます? 今、翠の心ささくれ立ってるんで」

 先輩はものすごく適当そうに言った。

「何、おまえ通訳なんてやってんの?」

「えぇ、ちょっとした翻訳機ですよ」

「へぇ~、面白れぇ」

 話の中心人物は自分なのに、どんどん取り残されていく感じ。

 妙な疎外感を覚えつつ、ふたりの会話を聞くに徹する時間が続いた。

 その間、不思議と痛みは訪れなかった。

 そんなことを疑問に思っていると、司先輩が全く関係のないことを教えてくれた。

 私は運ばれてきてから翌日の今、午後前まで一度も起きずに寝ていたらしい。いっそのこと、そのまま眠っていられたら良かったのに……。

 薬を使って眠らされていたのかそうではないのか、それは訊かなかったし、先輩も話はしなかった。でも、こんなにまとまった時間を眠れたのはどのくらい久しぶりだろう。

 今は、地味な痛みがあるものの、全然我慢できる範囲の痛み。

 どうしてだろう――。

 謎だらけの自分の身体を不思議に思っていると、背の高い怖そうな主治医が口を開いた。

「司、そろそろ学校に行かないといけないんじゃないか?」

 先輩は無言で腕時計に目をやり立ち上がる。

「明日また来るから」

「おまえ、そんな時間あんのかよ。今年こそ、インハイで優勝目指してんだろ?」

 あ――。

 今日が何日なのかは定かではない。でも、八月前であることには間違いなく……。

「先輩、明日も明後日も明々後日も、来てくれなくていいです。インターハイが終わるまで来ないでください」

 そう口にした瞬間、ひどく鋭い視線で睨まれた。

「俺が気になるから無理」

「どうして……?」

「……翠」

 吐き出すように名前を呼ばれた直後、

「あんなに罵倒されてガンガン泣かれて、やっと懐いた小動物をケージに入れたからはい安心なんて思えるか」

 一息に言われてすごく驚いた。

 先輩の目は相変わらず冷ややかで、口元にはわずかに笑みを浮かべている。

「何か反論に組する文句があるなら聞くけど?」

 冷笑を向けられた私は蛇に睨まれた蛙になった気分だ。

「すみません、ごめんなさい、申し訳ございません……。私が悪かったと思います。でも、病室をケージにたとえるのはちょっと――いえ、ごめんなさい……」

 できるだけコンパクトになれるよう身を縮めていると、当面の主治医がくつくつと笑いだした。

 小さくなりながら先輩をじっと見ていると、

「少しずつでかまわないから経口摂取の努力をするように」

「おまえ、俺の仕事取るなよ」

 背の高い主治医に司先輩が頭をわしわしとされ、先輩は煙たがる。

「おまえカテキョがあるって聞いたけど? そっちはいいのか?」

 言われた途端に先輩は「最悪」といった顔をした。

 カテキョって……? ――あ、家庭教師の略……?

 確か、家絡みの何か、と言っていた気がする。

 先輩、インターハイの前なのに忙しいんだ……。だったら、本当にここへは来てくれなくてもいいんだけどな……。

 いくら病院が嫌いだからといって、脱走まで試みるつもりはない。ただ、まだ家族や大好きな人たちには会いづらいだけ。


 先輩は不機嫌な表情で帰っていき、私は初対面の人と病室にふたりきりになった。

 窓の外に目をやると、午後の陽射しが眩しかった。

「今日の最高気温は三十五度らしいぞ」

 いつの間にか、先生は司先輩が座っていたスツールに腰掛けていた。

 ……神崎先生って呼べばいいのかな。

 栞さんには申し訳ないけれど、少し怖くて苦手だ。

「あのさ、俺は君の正式な主治医じゃないんだ。仮の主治医。正式なのは俺よりも柄が悪いから俺で慣れておいたほうがいいぜ?」

 面白そうに口にしては、その先を話し始める。

「ヤツは来月の第二週までには帰国すると思うんだが……」

 と、明確ではない時期を教えてくれる。

「それまでは俺が君の主治医。ま、本格的な治療は正式な主治医が帰ってきてからになるけど、その場しのぎの処置は全部俺がやることになってる。そうだな、小船に乗ったつもりでいろ」

 ……小船って。

 不安を感じ始めると、神崎先生はニヤリと笑った。

「点滴が二ヵ所なのは、ひとつは翠葉ちゃんも知ってのとおり、高カロリー輸液。もうひとつはいつもの輸液。これはあってもなくてもいいんだけど、血圧が下がるとルートの確保が難しいって聞いたから予備として取ってる。採血なんかもここからできるから、いちいち痛い思いをしなくて済むよ」

「……はぁ」

 もう、なんと答えたらいいのかもわからない。ただ、聞いては適当に答えを返す。

 白くて四角い部屋。でも、ソファセットもついている広めの部屋で、明らかにランクの高い病室であることがうかがえる。窓の外を見ると――。

「駅ビル……?」

 駅ビルが遠くに見えるということは、もう少し右側に藤山があるということで――。

 真南の建物?

「先生……ここは藤宮病院ですよね? どこの建物になるんでしょうか」

 外を見たまま問いかけると、

「あぁ、ここは個室病棟だから南側の一等地だよ」

 個室病棟、南側の一等地――。

「この病院の中では結構いい値段のする病室だな」

 また、自分にお金がかかっている……。

「……ストレスは身体に良くないぞ」

 その一言には何を答えることもできなかった。

「君はなんでもかんでも深く考えすぎなんじゃないか? もっと楽観的に考えてみれば? 南側の一等地に入院なんてラッキー、とかさ」

「そんなの、無理……」

「……どうしてバカでいいやつが賢くて、少しは賢くなりやがれってやつが大バカなのかね」

 先生は大きなため息をついた。

 きっと、私は鉛のように重い物体で、何かに吊るされているのだろう。だから、少しの力が加わるだけで、右へ左へ、と振り子のように揺れるのだ。

 その振り幅は、私の意思とは裏腹にどんどん広くなっていく。そんなふうにして、私の心は不安定に揺れる。

 いっそのこと、糸が切れてしまえばいいのに。そしたら、鉛は落下し、揺れは止まる――。

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