5 魔女と少年
わたしが匙を差し出すと、彼はためらいながらそれを咥える。
毒がないか確かめるかのように、ゆっくり、ゆっくり。ほんの少しの粥だというのに、ひどく時間を掛けて嚥下する。
それを何度も繰り返して、ようやく1食が終わる。
彼を見つけてから、今日で八日だ。警戒しながらも食事をとってくれるようにはなったけれど、未だに会話はできていない。
わたしはすっかり、獣の仔を拾ったような気持ちになっていた。昔、わたしがうんと幼い頃に、実家の庭先に迷い込んだ仔犬の世話をしたことがあるのだが、彼の世話をしているとその時のことを思い出すのだ。こちらを向いて歯を剥き、噛みつこうとする仔犬を餌とミルクで釣りながら、警戒を解いてもらえるまでじっと待つばかりだった。一歩ずつ距離を詰めて、手を出さずに見守り、害意のないことを示す日々。その仔犬が背を撫でさせてくれた時のよろこびはまだ覚えている。この少年にも、そんな喜びを感じる日が来るだろうか?
とはいえ、毛布の中で虚空を見つめる少年は、獣には程遠い見目だった。よく見たら彼は、とてもきれいな顔をしていたのだ。すっと通った鼻筋と、上品な薄い唇、形の良い瞳、なだらかな顎。綺麗だと思った真っ青な瞳だけでなく、顔立ちそのものが整っている。怪我による発熱が続いた為にやつれて、青白くくすんだ肌ではあるものの、頬も手指もなめらかで、その皮膚は荒れていない。髪にも手入れの跡がある。
生活に荒れたところのない姿を持つ彼は、身の回りの事を自分でやらなくとも済む、それなりに裕福な暮らしを送る身分の人なのではないかと思う。少なくともわたしは、伸ばした髪の手入れをする男性など、裕福な人以外で見たことがない。
しかし、『傅かれるのが当然』の身分の人にしては、使用人に対する警戒心が強過ぎるようにも思える。
「まだ食べられる?」
「………………」
「水、飲む?」
強い視線を感じたので、そちらを向いて声をかけたけれど、返事はない。でも、わたしがコップを渡せば眉間にしわを寄せ、黙って受け取る。同時に丸薬を渡せば、それは拒まれる。
コップを受け取ってもらえるようになったのは、彼が泣き崩れたあの日からだ。最初の頃に比べれば、格段に進歩しているとは言える。もうちょっと態度が軟化してもいいのではないかとは思うけれど。
今だって彼は、瞬きの一つも恐ろしいと言わんばかりに目を見開いて、わたしの方を睨んでいる。見惚れているわけでも、観察しているわけでもない。わたしがおかしな動きをしないかどうか見張っている、という感じだ。やっぱり、体の動きもままならない人間が、数日看護した人間に向けるにしては、警戒が強すぎると思う。
彼は自分を『捕虜』だと考えているのではないか、と蒼の魔術師様は仰ったが、それもまた違うのかもしれない、とわたしは感じた。わたしが書物で調べてみた限りでは、『捕虜』という立場の人間ならば、こんな警戒以前にもっと怯えるか諦めを抱いていそうなものなのだ。けれど彼には、怯えや諦めの気配はない。
ひょっとすると彼は、『裕福』などというくくりではなく、『人の上に立つ地位』の身分の人間かもしれない、とわたしは思いついた。日常的に身を危険に晒す可能性のある地位――、例えば、継承位に荒れる王族や貴族、遺産相続で争う豪商や豪族、力の継承で揉める種族長といった立場だ。
彼が見た目通りの若さなら、血筋による継承位を争う地位、くらいが妥当だろうか。背中の傷も、その争いの中で負ったものかもしれない。使用人に気を許せないのは間諜を疑う証で、薬を拒むのは毒殺を恐れているからだとしたら、わたしを警戒する理由も分かる。
(今、継承争いをしている貴族がいたかしら? ……いや、言葉が違うのだから、遠方と考えるのが妥当よね。ちょっと調べてみようか。……ううん、異界から落ちてきた可能性もあるのだった。それはさすがに、わたしの手には余る)
わたしは小さくうめいて、空の器を抱え込む。
(でももし。本当に、そんな身分なら。命を狙われるということは、正当な権利を持っていて、尚且つ順当に行けばその地位につく可能性があるということだし。継承権上位のものが下位の者を殺すのは、下位の者が上位のものを脅かす存在であるためだし、下位が上位を殺すのは、自分がその地位につくには上位が邪魔であるから。もちろん、上位が愚鈍に過ぎるがゆえの反乱だとか、犯罪組織の長などというのだってありえるけれど)
ちらりと目をやれば、彼はやはりこちらを睨んでいた。その鋭い隙のない目つきは、どれも有り得そうに思える。会話ができれば言葉のはしから、相手の立場を想像することができるけれど、今のわたしに分かるのは、彼の見た目と所作ににじむものだけだ。判断材料が少なすぎる。
(……まあ、でも、彼がここまで警戒するのは、過去に命を狙われた経験があるから、っていうのはおかしな推測じゃないわよね)
だとすれば、器を銀器に変えてみたら、もっと安心して食事を取ってくれるだろうか。それとも、わたしが目の前で毒味してみればいい? いや、毒味は一度してみたはずだ。
ともかくも、こんな細い食事の量では、治るものも治らない。スープに混ぜ込んでおける薬の量にも限界がある。丸薬を拒む今、彼を元気にするのは栄養価の高い食事と深い眠り、この2つに尽きるのだから。
この時わたしは、ちょっと焦っていた。前にも言ったかもしれないけれど、森の魔女にとって亡命者を癒やすことは、義務というよりも本能に近い。だから、癒せずに死なせてしまうことは何よりも忌避すべき悲しいことなのだ。
もちろん、どれほどに魔女が力を尽くし、魂を込めても助からない旅人はいる。それはほとんどが、生きる気力を取り戻すことができなかった人たちだ。彼らは死ぬと森に囚われ、魂が空に帰れず、魔獣になるともいう。それを防ぐために、森の魔女達は死んだ旅人を深く弔う。それは嘆きの祭りとよばれていて、盛大で物悲しく、賑やかでわびしい。
嘆きの祭りを催すことは、森の魔女にとって一番の不名誉のひとつだ。しかし幸いにも、ここ数年は一度も開かれていなかった。
(この子はここまで回復した。ここから、祭りを開かねばならぬほど具合が悪くなったら、わたしの不手際。不手際で祭りを開催することになったら、オーロ様にも先の大魔女さまにもご迷惑をお掛けしてしまう。——それに、わたしの手からスープを飲んだ人を、死なせたくない。絶対に。でも、どうすればいい?)
夕飯のスープの味付けを濃い目にして、薬を多めに仕込んでやろうか。
不穏な事を考えたのに気づかれたのだろうか。空のスープ皿を抱えて立ち上がったわたしは、くんっとスカートの裾を引かれてつんのめった。
「うわ!」
「******?」
「何するのよ、危ないじゃ……え?」
「******?」
驚いたことに、わたしのスカートを裾を、少年が引っ張っている。そして彼は、同じ音を二度繰り返した。わたしはぱちくりと目を瞬かせる。
いま、彼はわたしに話しかけなかっただろうか。敵意なく、明確に『やりとりをする』という意思をもって。
ああ、うわあ、どうしよう。
わたしは柄にもなく上ずった気持ちで彼を見つめた。彼はぎょっとしたように目を見開いたけれど、スカート――よく見ればスカートの裾ではなかった、前掛けの裾を離さない。
「******?」
彼はまた、同じ音を繰り返した。間違いない、わたしに向かって何か語りかけている!
音がしそうなほど勢い良く、己の血が巡るのを感じて、わたしは慌ててぱくぱくと息をする。頬が火照って、胸が高鳴る。まるで恋に落ちた少女のような気分だ。
わたしはこの時、ひどく感動していた。多分心のどこかで、意思の疎通を諦めかけていたのかもしれない。だって、彼が何かを知りたがるなんて、この八日間、一度もなかったことだ。
語尾上がりの音は、質問だろうか。何かを問う時に語尾が上がるのは、万国共通だというけれど、うんと遠方の地でもその理は通じるだろうか。ああ、異世界でもそうだといいんだけど!
こんな時、問われるのはなんだろう。彼がすでに知っていることは、自分が怪我していること、わたしが看病していること、厠の場所と台所の場所。わたしが彼なら、何を聞く?
『ここはどこだ?』
『お前は誰だ?』
『なにが目的だ?』
……駄目だ。わたしにはこの程度しか、思いつくことがない。情報の入力が書籍や師匠ばかりの、森からほとんどでたことのないわたしの持つ発想力など、残念ながらたかが知れている。
彼の問いは、この3つのどれでもないかもしれない。けれど、この3つが伝わっても、悪いようにはならないはずだ。むしろ、最後の一つは、ぜひ知ってほしい。
彼から話しかけた、この機を逃すわけにはいかない。
わたしは、前掛けの裾をひいていた少年の指をそっと剥がしにかかった。彼が眉間に皺を寄せるのが見えたけれど構わずに、引き剥がしたその手を握る。肌は荒れていないとはいえ、ゴツゴツとした、女のそれとは違う手だ。
喉元を押さえつけられたあの日のような抵抗はなかった。わたしは腰を落として、彼の青い瞳を覗きこむ。ぎくりと少年の肩が震えたのは、眠らせたあの時のことを思い出したからだろうか。
きれいなきれいな、青い瞳。蒼の魔術師様の氷のような青ではなくて、地中の奥で長く眠った宝石のような、濃くて艶やかな青だ。
目に力を込めず、ただ覗く。魔女には難しいそれを慎重にこなして、わたしはなんとか微笑んで見せた。
少年の目が丸くなる。
「ここは黒の森、魔女の住む場所。そしてわたしは森の魔女、フェケテ。――貴方を癒やす者よ」
やっとか。やっとだ。