4 看護人と少年
「確かこの辺りにしまっておいたはず……」
庵に戻ったわたしは、物置の櫃の中をごそごそと漁っていた。寝室の隅に置いてある大櫃には、私の数少ない私服をしまってあるのだ。
魔女は基本的にローブを着て暮らしているため、普通の娘さんたちのような衣装を身にまとうことはあまりない。ローブを常に身につけているのは、調合する薬の成分や魔法から肌を守るためであり、森に紛れて、外の人から身を守るためでもあるが、慣習と伝統によるところも大きい。
この、ローブというのは基本的には暗い濃い色で、黒に近い藍や緑、闇に紛れる黒、大地に紛れる渋色や茶色、濃い灰色などが主だ。袖や裾、襟ぐりなどに縫い込まれるのは魔術的な文様で、華やかな装飾というよりはひっそりと秘めやか。鏡や水晶を首からぶら下げたとしても、とても地味である。自然、風体もあやしげになってしまう。
箱の底の方にぞんざいに放られていた灰色のドレスと白い前掛けを見つけ出して、わたしは息をつく。森を出て町へ買い出しに行く時に着る、魔女らしくない――つまり、普通の町娘さんが着るようなドレスだ。腰が細く絞られている、くるぶしまでの丈を持つそれは、形こそシンプルだが生地は上等で、胸元にはくるみボタンと控えめなリボンが飾られている。地味ながら可愛らしさを秘めた、品の良いものだ。森の魔女にはほとんど必要のないそれはオーロ様のお下がりで、オーロ様が学園にいた頃着ていたというものである。
つまりわたしは、見た目から入ることにしたのだ。娘らしい格好――魔女らしくない見た目ならば、あの少年の警戒も薄まるのではと考えたのである。白い前掛けはわたしの姿を、看護人か使用人あたりに見せかけられるのでは、と思ってのものだった。
「よかった、まだ着られそう。……むしろわたし、あの頃より痩せた?」
鏡の前でくるりと回ってみたところ、上半身の生地があちらこちら、余っているようだった。数年前に着たきりだというのに、すんなり入ったドレスに安堵すればよいのやら悲しめばよいのやら。背も伸びなかったし、胸元も尻もスカスカと心もとない。歳の割に肉付きの悪い体はどうにも、娘らしさに欠けているように思う。
そうか、黒いローブに見を包んだ痩せぎすの女に近寄られれば、死神にでも見えたかもしれない。なるほどそれは怖い。反撃もするだろう。
「髪をまとめないと不自然ね」
森の力を借りるには、髪は流しておいた方が良いのだが、髪を下ろしたままの使用人や看護人がいるはずもない。久々のまとめ髪に四苦八苦し、なんとか団子を作ったわたしは、もういちど鏡を覗いて顔をしかめた。
全然、様になっていないのだ。
使用人にしては顔つきが不遜だし、看護人にしては佇まいがすっきりしていない。着慣れていないせいでどうにも、もっさりして見えるのである。まあ、百歩譲って、田舎のお屋敷の下女くらいにはみえるだろうか。とりあえず魔女には見えないから成功としたいが、かなり芋っぽい。
「まあ、いいのよ。魔女に見えなければ。そうよ。ともかく、ご飯を食べてもらうためなんだから」
魔力で身体を保つのにも限界がある。魔力で現状を維持することはできても、回復させるのは難しい。結局は、人間の持つ再生力にかなうものはないのだから。
「……でも、攻撃してきたってことは、死ぬ気はないってことよね? それが救いかしら」
*
木をくり抜いた椀に注いだ、野菜をグズグズになるまで煮込んだスープを持って、わたしは居間に寝かせてある男の様子をうかがった。
眠っているのか、起きているのか。彼は厚く敷き詰めた毛布の上でぴくりとも動かなかった。わたしの張った結界にも、特に乱れた様子はない。
「あのー……」
びく、男の肩が動く。起きていたらしい。わたしは水とスープを乗せたトレイを持ったまま、距離をとって観察する。
「そろそろ、ご飯を食べないと、治るものも治らない」
声に感情を込めるのは苦手だ。それでもわたしは精いっぱい、心配の気持ちを込めて声を出す。ちらりと目がこちらを向いたような気がする。
「毒、入ってないからね」
薬は混ぜてあるけれど、それは告げない。わたしは毒味のように、スープと水を一口ずつ口に含み、害意のないことを示してみた。彼は見ているだろうか。
「……ここにおいておくから」
こちらを警戒する獣は、視線があると餌を食べないという。ならばわたしも、彼を見ていないほうが良いのかもしれない。
わたしは細心の注意を払って、彼の毛布のそばに皿をおいた。パッと距離をとる。攻撃されては堪らない。
スープには、胃に働きかける、お腹の空く香りのハーブが混ぜ込んである。彼の傷が順調に回復していれば、そろそろこの手の香りに刺激されて、身体が食事を求めるはずだ。
わたしが台所へと退き、ついでに自分の夕食をと鍋をかき混ぜ始めた時、ガコン、と不穏な音がした。今度は火を止め、居間を覗く。
「ああ……」
トレイの横に転がった空の椀と、ぶちまけられたスープ。倒れたコップと水溜まり。
やっぱり見た目を変えたくらいでは警戒は解けないか。魔法で眠らせて、強制的に飲ませるしかないのかもしれない。そこまで考えて顔を上げ、わたしは気がついた。
毛布の上の彼は、わたしを攻撃した時のような憎しみの表情をしてはいなかった。ただ、呆然と器を見つめていたのだ。自分の見たものが信じられない、という体で。
「……どうしたの?」
布巾を片手に近づけば、彼の肩がビクリと震えた。
「気にしないで。新しいスープを用意しておくから」
スープと混じり合った水を布巾に吸わせながら、極力穏やかな声を作る。
「食べる気になったら食べ……」
ぼろり。
わたしは目を見開く。男の深い青の瞳から、ぼろり。
ぽろぽろ、なんてものじゃない。ぼろり、ぼろり。びっくりするほど大粒の涙が、男――少年の瞳から流れ落ちていた。
「ど、どうしたの!? どこか痛いの!? いや痛いだろうけど! 痛み止めの薬湯を飲む!?」
慌てて駆け寄っても、返事はない。彼はただただ涙を流し、拳を力なく握りしめた。
「どうしたの?」
「………………******」
絞り出された言葉の意味はわからなかった。けれどその響きはあんまりにも悲しげで、わたしはそっと、男に寄り添う。攻撃されるかと思ったけれど、彼の握りしめた拳が動くことはなく、わたしへと向かう意思もなかった。
彼は握った拳をゆるく開き、それからまた握って、それを己の瞳に当てる。信じたくないと、きつく寄せられた眉毛が主張する。隙間からこぼれる涙は止まらない。
「……手、あんまりきつく握ったら、爪で怪我するよ?」
「**……」
声も上げずに、ただただ、彼は泣くのだ。家を出され、帰るところのない迷い子のように。――幼い頃の、わたしのように。
ああ、言葉が分からないということがこんなにもどかしいなんて。彼の涙の理由が、わたしには分からない。ただでさえ、人の少ない世界で生きてきたわたしは、他人の感情に疎いのに、言葉さえ交わせないなんて。
身を震わせる、わたしよりいくらか若いように見える彼が酷く幼く見え、泣かせておくのは忍びなくて、わたしは思わず、その顔をぎゅうと抱きしめた。泣かないで。わたしはきみを害したりしない。それだけ、なんとかして伝えたくて。
彼は抵抗もせずぼろぼろと泣き続け、いつしか私の薄っぺらい胸元はびしょびしょになっていた。