3 ほころびを見上げて
「君がフェケテか」
雪の落ちる音以外、何も聞こえない。ただひたすら真っ白で、耳が痛むほどの静寂に満ちた森の中。結界の綻びをぼんやりと確認していたわたしは、背後からかけられた声に驚いて飛び上がった。思わず漏れた悲鳴が、木の枝から雪塊を落とす。
慌てて振り返ると、旧き森の民のごとく整った、美貌の男性が呆気にとられた面差しでわたしを見ていた。
丁寧になでつけられた、月の如きの銀の髪。晴れた冬空と夏の海の青を併せ持つ瞳は、細い銀縁の硝子の奥からでさえ、力に溢れていることが分かる。冬の王のような美しい殿方だ。
「……それほど驚かせたか」
「蒼の魔術師様……」
ご無礼を。頭を下げると、首を振られた。瞳と同じ色の魔力をまとう彼の人は、蒼の魔術師と呼ばれる、国内でも有数の魔力を持つ魔術師だ。しかし、この森に置いてはもうひとつの通り名こそが大きな意味を持っていた。――大魔女様の良き方。つまりは夫である。
であるから、ご本人のいないところでは『良き方』。ご本人には『蒼の魔術師様』。そうお呼びするのが、わたし達森の魔女の間では通例になっている。
「申し訳ございません。魔力を感知できず」
「こちらも隠していたからな。君に感知されるようでは蒼の魔術師は名乗れない」
苦笑混じりに彼は言った。
この国には森の魔女の他に、色を名に持つ魔法使いの一族が4つある。最も古い黒を筆頭に、緑、赤、と続き、最も若い家柄が青だ。4つの一族の本家はそれぞれに貴族位を持っていて、黒・緑・赤の一族では、一般的な貴族位を持つ家柄同様、通常長子が跡を継ぐ。しかし、若い青の一族だけは完全に実力主義であり、己の魔力を最も使いこなせる魔術師が、『蒼の魔術師』と呼ばれ、家長となるのだそうである。なお、赤の家長は『紅の魔術師』、緑の家長は『翠の魔術師』と呼ばれるそうなのだが、黒の家長のみ、『闇の魔術師』と呼ばれるそうだ。なんだか禍々しい気配が漂っている。
話がそれた。つまり、目の前のこの方は、青の一族を束ねる優秀な魔術師なのだ。その身から溢れる強大な魔力を、わたしが感知できないほどに潜めることができるのは、その証しでもあった。見た目からして気さくな雰囲気はないが、お立場も中身も魔力も、まったくもって気さくでない。
できうる限りお邪魔はすまいと頭を下げ続けるわたしの顔を上げさせて、青の魔術師様は結界のほころびを見上げた。
「君は結界を見に来たのか」
「はい。わたしの力では塞ぐことはかなわず、保持しかできませんでしたので、保たれているか確認に。蒼の魔術師様は?」
「あれの代わりに見にきた。本人がどうしても来たがって、止めるにはこれしかなかったわけだ」
あの重そうな腹でよくもまあ。
愚痴のようにぽろりとこぼす面差しは、遠くに向けられてひどく優しい。
森の姉さま方には『おふたりとも素直になれないからほんとうにやきもきしたものよ』なんて聞いていたのだが、もうすっかり『良い夫婦』と言ってよいのではないだろうか。
「では、オーロ様は?」
「鏡越しに見たいというから、ほら」
蒼の魔術師様が、首から下げた銀の鎖をチリチリと揺らす。その先には森の魔女の小さな手鏡がぶら下がっていた。彼は鏡を曇らせるように手のひらで覆い、杖もなしに鏡面を散らした。曇りが晴れれば、そこに映るのは金の瞳の美女だ。
『あらアズ、早いじゃない。着いたの?』
「着いた。お前の妹弟子がいたぞ」
『フェケテ? フェケテがいるの?』
「はい、オーロ様」
青の魔術師様が、わたしに鏡を向けた。鏡面の向こうで、オーロ様はわたしに微笑む。
『元気そう。よかったわ。フェケテが保護したという人のお加減はどう?』
「ええ、まあ、滞りなく」
『何かあったら必ず言うのよ。男性なのでしょう? 亡命者といえども、貴女に何か良からぬことをしたら、あたしが飛んでいってぶちのめしてあげるからね』
「大丈夫ですので!」
物騒な言葉が飛び出して、わたしは慌てて首を振った。この人ならばやりかねないと、わたしも、もちろん青の魔術師様も知っている。妊婦だろうがなんだろうがお構いなしなのだ。
鏡を持つ人が呆れの息をつく。「なによう」と鏡の向こうから聞こえるのを無視して、青の魔術師様は木々に引っかかるようにして残っている、結界のほころびへと目を向けた。
「……あまり長居する気もない。とっとと検分しよう」
「はい」
『アズ、鏡をそちらに向けてくれる? 見えないわ』
青の魔術師様が鏡をかざすと、世界は再び静かになった。わたしも彼もオーロ様も、じっとほころびに視線を注ぐ。
しばらく眺めた後、青の魔術師様はほころびに手を伸ばした。指先から青い魔力が伸びて、ほころびをなぞる。
彼の術は『魔術』であり、森の魔法とは質が異なる。だから、魔法で編まれた結界のほころびを塞ぐことはできない。でも魔術は、体感によるところの大きい『魔法』よりも緻密で、歯車のごとく綿密に噛み合って発動するものである。それゆえに魔術とは、『解析』に長けた技術でもあるのだ。
青い光は雪景色の中でちらちらと明滅し、幻想的な陣を織り上げた。蒼の魔術師様が指をふる。またたきの合間に、陣の真ん中から凄まじい速度で、結界の構成式が吹き出してきた。
『……相変わらず、めちゃくちゃねえ』
「こ、この速度で、この複雑な式が読めるのですか!?」
「斜め読みだがな」
なんてことのないようにうそぶく蒼の魔術師様に、わたしは絶句する。吹き出す構成式の解析文は難解で、わたしにはほとんど読むことができなかった。
やがて、光が尽き、陣は消えた。蒼の魔術師様は眼鏡を外し、眉間を指先で揉むと息をつく。
「……というわけだ」
『いや、分かんないって!』
オーロ様の叫びが、蒼の魔術師様の手元から聞こえる。わたしは情けなくもホッとする。大魔女様に分からぬものが、末端の魔女にわかろうはずもない。
「術の構成式の授業で寝てばかりいたからだ」
『寝てない! 魔術とあたしの魔力の相性が悪かっただけよ! それに試験結果だって次席だったし!』
「主席は俺だったからな!」
『負けたのは実技のせいだから! 座学のせいじゃないから!!』
「あ、のう……」
夫婦喧嘩は犬も喰わないというけれど、確かだなぁと思いながらわたしはおふたりに声を掛けた。蒼の魔術師様はハッと我にかえられて、コホンとひとつ咳払い。鏡の向こうのオーロ様も、あははと乾いた笑いをこぼされる。
「すまない」
『ごめんねフェケテ、ついうっかり』
「おふたかたの仲が円満なのがよく分かって安心いたしました」
突然の沈黙である。
一体どうしたことかと鏡の向こうと蒼の魔術師様を見上げれば、オーロ様は頬を染めて口をへの字にしているし、蒼の魔術師様の目は遠くを泳いでいる。——おふたりのご成婚からは、もう2年が経とうとしている。今更照れることもあるまいに、と思うのだが。
『と、ともかくアズ、解説してちょうだい。あたしもだけど、フェケテにも多分分からなかったと思うし! ね? フェケテも分かんなかったよね??』
「はい。わたしは『魔法』しか学んだことがございません。情けないことですが、構成式の解読にはかなりの時間を必要です。この短時間では、最初のほんの少ししか理解できませんでした。ご説明頂けると助かります」
『ほ、ほらね!?』
「あ、ああ、そうか、そうだな。すまなかった」
ごほんごほんとわざとらしく咳をして、蒼の魔術師様は表情を改めた。再び、冬の王のような真面目で冷たい顔になり、ほころびを見上げる。
「端的に言えば、この綻びは『空間の裂け目』であるようだ。結界が解けていると言うより、どこか別の場所に繋がっている。しかもこれは、外から、誰かが粗い術で無理矢理こじ開けようとしてできたものだ。しかし、そのこじ開けようとした魔術は我々の知る術式ではない」
『……アズの知らない術式ですって?』
「術式自体は俺たちの使うものに似ているが、構成式の言語が、知らないものだ」
『アズの知らない魔法言語ですって?!』
「ああ、知らんなこれは。知識にかすりもしないぞ。似た言語も思い当たらん」
『うっそお!?』
ギョッとしたオーロ様の声はわたしの心境と完全に一致していた。
なにせ、蒼の魔術師様は蒼の魔術師様なのである。世界中の魔術に関する知識にあふれた、優れた魔術師だ。オーロ様によれば、趣味は魔導書のコレクションだそうで、それらを読むためにあまたの魔法言語を習得されているのだそうだ。
「……このほころびの向こうはひょっとすると、俺達の知る理の適用されぬ場所なのかもしれない」
きちんと調べる必要があるな。そうつぶやく蒼の魔術師様の声色は深刻だった。
わたしはそれを呆然と聞きながら、このほころびの下で見つけた男のことを思い出していた。
わたしの耳に全く聞き覚えのない言葉らしきものを喋る、綺麗な青い瞳の男。それは力に溢れていそうな光を湛えているのに、魔力はほとんど感じられない彼。彼の衣服に刻まれていた紋様は、魔法陣に似ていたけれど、わたしの知らない術式で……。
「ひょっとして……」
……彼はこのほころびから落ちてきた?
わたしはオーロ様に気付かれぬように、蒼の魔術師様に視線を送った。彼は不思議そうにまたたいてから、飲み込んだように微かに頷いてくれた。
「ともかくだ。これはきちんと調べなければどうしようもない。妹弟子には塞げないのだろう?」
「はい、力及ばず……」
『気にすることないわ、アズにだってできないのだし。雪解けを向かえたらあたしが行くから、それを保持しておいてもらえる?』
「はい」
わたしは周囲に意識を延ばす。雪の下で眠る大地、息を潜めている木々の力を借りて、ほころびの周囲に不可侵の覆いを編み上げた。
『いいわね。きれいに出来てるわ』
「問題なさそうだな。……では、俺は戻る。切るぞ」
『待って待って、フェケテ! ほんとに、何かあったら言うのよ! 腹が重かろうがなんだろうがボコボコにしにいってあげるからね!!』
「いえあの本当に大丈夫ですので!」
「……頼むから戻るまで大人しくしてろよ」
『……あら、戻る、って領地にじゃなくてここに?』
「領地にも戻るがまずそっちに戻る。大人しくしてろよ!」
『はいはい』
ほんとに言うのよ!
まだ言い募るオーロ様の映る鏡を、蒼の魔術師様は強制的に断ち切った。すっかり疲れている表情に、わたしの方が申し訳なくなってくる。心境としては、姉がお世話になっております、といったところだ。
「母親になれば少しは大人しくなるかと思ったが、あいつはちっとも変わらんな……」
「蒼の魔術師様とオーロ様は長いお付き合いなのですね」
ぼやく蒼の魔術師様にわたしは苦笑する。わたしが先代の森の大魔女様に弟子入りした頃ちょうど入れ違いで、オーロ様は魔術を正しく修めるために、森を出て学院へと進学された。オーロ様と蒼の魔術師様はそこで出会われたのだという。
長期のお休みで森に戻るたび、当時はまだ姉弟子であったオーロ様はぷりぷりと怒りながら、蒼の魔術師様の話をしていたものだ。とことん相性の合わないライバルがいるのだ、と力強くおっしゃっていたけれど、時が流れて今では夫婦である。
人生というのは驚きに満ちている。
話が逸れた。
わたしの言葉に頷いた蒼の魔術師様は、それで? とわたしに問いかける。
「あれを長く放っておくのも胃に悪い。――あれに聞かせたくない話しがあるのだろう?」
わたしは頷き、血塗れだった男の話を始めた。
*
「ここで拾った、言葉の通じぬ男、か……」
「ひょっとして、この裂け目の向こうから来たのではと思うのですが」
「有り得なくはないな」
蒼の魔術師様は顎に片手を当てて眉間にシワを寄せた。空間の裂け目だという、結界のほころび。その下で見つけた傷だらけの男は言葉が通じず、わたしの全く知らない魔法陣の縫い取られた服を着ていた。
話せば話すほど、そうとしか思えなくなってくる。
「その男の様態は?」
「まだあまり……」
「そうか。落ち着いたら様子を見に行こう。面会が可能になったら、あれにではなく、直接俺に連絡するように。……殴り込まれてはかなわんからな」
「はい」
「それで? それだけではないのだろう? こんな内容ならあれが居ても話せるしな」
さすが。見抜かれたわたしは息を呑んでこくりと頷く。
「……実は」
わたしは正直に話した。
男がわたしを激しく警戒し、敵意すら向けてくるということ。拾った時に一度、目が覚めた時にもう一度、攻撃をされているということ。
「……そんな状態のいわば手負いの狼のようなひとに、食事をさせるにはどうしたらいいと思いますか」
「もっと他に聞くことがあるだろう」
あれに聞かせなかった判断は正解だが。蒼の魔術師様は眉間を揉みほぐしながら深く息を吐く。姉妹弟子揃ってズレてるのか、と呟かれては立つ瀬がない。
「……そんなに的外れな質問でしたでしょうか」
「手に負えないので引取れとか、意識を奪う陣を書けとか、色々あると思うがな」
「森の魔女は亡命者を投げ出しません」
「……あれも言っていたが、身の危険を感じたら必ず連絡するように」
「はい」
もはや保護者である。眼鏡の奥の薄青の瞳が眇められ、わたしは頭を下げた。
森の魔女は皆、身内のようなものだ。特に同じ師を持つ魔女は姉妹のように互いを思う。蒼の魔術師様は、妻の妹弟子であるわたしを、身内と考えてくださっているのかもしれない。
「しかし、そんなに警戒されているのか。どのような傷を負っていた?」
「……珍しい傷でした。身が爆ぜたような。しかもそれが、背中にいくつも」
「落下の衝撃でできるような傷ではないということだな。何かに襲われてここまで逃げてきたのだろうか」
「聞き覚えのない言葉ですから、ずいぶん遠方から来たのではと思うのですが……」
「どこかの戦場から逃れてきたのかもしれんな。自分が捕虜であると考えているのかもしれない」
「捕虜……?」
「敵対勢力に生きながらにして捕獲された者のことだ。奴隷のように扱われたり、味方への人質とされたり、戦利品とされたりする」
なるほど、ありえなくはない。言われてみれば彼の傷は、事故で負うようなものではなかった。戦と縁遠いわたしには咄嗟に思いつかなかったが、襲撃の結果であると考える方が妥当だろう。
「わたしの格好が彼に警戒を与えるような姿なのかもしれない?」
「魔女と敵対していたのかもしれないな」
わたしはゾッとして身を震わせた。
この国は魔法大国と呼ばれている。国民の三割以上が魔法で身を立てているし、魔法を使えないまでも、魔力を持つ人が多い。
しかし。広い世界には、魔法が珍しく、その術者が希少である地域もあるのだと聞いたことがある。
希少故に珍重されるところもあれば、危険・異質と見なされ、排除されるところもあるのだとか。
「青の一族に移送するか?」
「…………いいえ、それでも、わたしは『森の魔女』ですから」
わたしはかぶりを振り、怖い考えを追い出した。
そう。わたしは森の魔女。先代の大魔女の最後の弟子。森の魔女は守り、秘め、癒やす者。森の魔女でなくなれば、森にはいられない。
「警戒されないように考えてみます」
「無理はするなよ」
「大丈夫です」
「君に何かあればあれが泣く」
深く被った雪よけのフードの上を、厚い手袋に覆われた大きな手が撫でる。わたしはちょっぴり泣きたくなって、少し俯いた。
森はわたしの居場所だ。森の魔女でなくなるわけにはいかない。
――わたしには、ここしかないのだから。
ヒーロー出てこないズラ〜