1 吹雪の夜に
わたしは『森の魔女』である。
『森の大魔女』、オーロさまの治める黒の森のはずれで細々と魔法を営んでいる、どこにでもいる魔女のひとりだ。
『どこにでもいる』と言うのは言葉通りの意味で、魔法学の最高学府である『園』に入れるような魔力はないが、森の恵みを魔法に変換して行使できる程度の力はあり、見目もよくいる色合いである、ということである。
オーロさまのような、膝まで届く真っ直ぐな黒髪や金の瞳、『園』を主席で卒業したほどの実力を持つ魔女は稀なのだ。多分、魔術師としても稀なはず。その上オーロさまの魔術媒体は『手鏡』である。あんなにも使い勝手が悪く、それでいて『森の魔女』の本質を体現したような魔術媒体はそうそうない。それを、見事に使いこなすオーロさまは、わたしと5つしか違わないというのに、なんて偉大なんだろう。
……話が逸れた。
ともかくも、わたしは『極普通』の『森の魔女』なのである。
そもそも、魔法大国であるこの国では、魔女という職業の女はありふれているのだ。その上、わたしは魔力の量も普通であれば、魔術媒体も最も使用者の多い『杖』である。おそらくは寿命も、普通の人間とそうは変わらない。さらに言えば、顔立ちもまあ、普通と呼ばれる範疇であろうと思う。もちろん、くせのある黒髪もまったく珍しくはないし、森の色の瞳も、魔女に一番多い色だ。
そう、普通の魔女なのだ。なんどでも言う。平凡な、魔女なのである。
――だのに何故わたしは、雪の中で血塗れの男の下敷きになっているのだろう?
*
それは、この冬一番の嵐とともにやってきた。
生物の命を奪いかねない、大吹雪。それは、真冬の黒の森では珍しくもないことである。予兆があれば、人も獣も、おそらくは魔物でさえ、この日の為にあらゆる蓄えを用意して、棲家に引き篭もるものだ。
今年も、雲の流れが嵐の到来を教えてくれたので、わたしも早朝から、庵が埋もれてしまわないように結界を強化し、数日分の保存食と薬の備蓄を確認し、それから薪割りと水汲み、干していた薬草の取り込みといった、冬ごもりの支度に勤しんだ。
こういった家事は、魔女なら魔法で何とでもできるのでは? と良く言われるが、わたしのような普通の魔女は、術の行使より手作業の方が疲労しないのだ。もちろん、汲んだ水がこぼれない桶やどんな汚れも落とす魔法の石鹸、食品が日持ちする魔法の瓶など、魔女らしい便利な道具は使うのだが。
そうして嵐へと備え、用意万端で暖炉の前での籠城を開始したわたしのうなじに、ピリピリと走るものがあった。それからズシン、と何かが落ちる気配も。
「何……?」
森の結界が乱れているのを感じて、わたしは眉間にしわを寄せた。意識を自分の外へと延ばした。
森の結界は頑強である。古き森の民が施し、魔女たちが維持し、歴代の大魔女が綻びを繕ってきたそれは、世界一の守護だ。
森の魔女の魔法は『守護』と『癒やし』――その本質は、森の魔力による『眠り』であるといわれている。十重二十重に施された結界はその象徴でもあった。であるから、結界の乱れは森の魔女にとって、おおごとなのである。
わたしはすぐに、冷えた部屋の鏡台へと向かった。
「オーロさま」
『フェケテ、ああ、無事ね』
杖で縁を三度叩くと、鏡面が水面のように揺らいで、美しい人が映った。森の結界を統括する大魔女、オーロさまだ。彼女はわたしを見ると、深い安堵を滲ませて、お腹の上で指を組んだ。
『ちょっと今、そちらのほうが揺れたでしょう。気づいたのね』
「はい。それほど大きなものではありませんけれど」
『綻びができていたらちょっと厄介ね……』
「見てきましょうか」
『でももう、そっちの方も吹雪いているでしょう?』
「雪よけのまじないをしていきますよ。石の城壁もネズミの穴から、と申しますし」
己の庵の周りの結界を守り、保つのも森の魔女の仕事だ。荒天だろうがなんだろうが、火急の際には駆けつけるのが当然である。
『……ごめんね、あたしが行けたらよいのだけど』
「身重の人が何をおっしゃいます。春までは駄目ですよ」
『そうね』
微笑むその美しさは壮絶だ。わたしは目を細めてオーロさまを眺めた。
一昨年の夏至、良き方と婚姻を結ばれてから、オーロさまは益々美しくなられた。さらに、お子を授かってからの美貌は、古き森の民のようですらある。あふれる幸福というものは、人を美しくするものらしい。
「春までは、わたくしどもで森をお守りしますから、魔女より母に専念なさってください。……お加減は大丈夫ですか」
『体調は良いの。それに、今日はあの人も来ているし、大丈夫』
「よかった」
オーロさまの良き方は、存外にまめやかな性格らしい。日頃は遠方で暮らしておられるそうなのだが、些細な事を心配しては、転移の魔法でオーロさまのところにいらっしゃるという。
婚礼の祝祭の日にちらりと見た時には、冬の王のような方に見えたのだけれども、人は見かけによらぬものだ。
「ともかく、見てきますよ。もし不具合があったなら、ご報告いたします」
『可燃性のあたしたちとは違って、あなたがとても我慢強くて忍耐強い、頑強な魔女であることは分かっているのだけれど。それでも無茶はしないでね。……森の魔女はすべて、あたしの家族なんだから』
深く頷いて、わたしも微笑んだ。
森の魔女全ての姉のようだったオーロさま。春にはお子を産まれるお方。いずれ、全ての母のようになられるだろう。
――今は、わたしたちがお守りしなくては。
*
何かあればすぐにお伝えしますと告げて、鏡は元の鏡台に戻った。
波紋が消えるのを見届けて、わたしは立ち上がり、魔女のローブと毛皮を羽織り、手鏡を首に下げた。雪靴を履いて、帽子と杖とカンテラを持つ。そうだ、手袋に首巻きも必須だ。
衣服を整えると、全身に雪よけのまじないと、保温の魔法。それからカンテラに、魔力の火を灯す。風が吹いても消えず、少ない燃料で長く燃える魔法の炎だ。
「……よし」
うまくできた。魔力の綻びもなさそうだ。なにせ外は大吹雪。ここで失敗すると、遭難しかねない。
ひとつ気合を入れて頬を叩く。扉を開けると痺れるような冷気が、むわっと暖まった室内になだれ込んできた。慌てて保温と雪避けのまじないを強化して、わたしは外へと踏み出す。
「……魔法がなかったら凍死するわよね、これ」
びゅおお、と不気味な音を立て、強い風が雪を叩きつける。魔法の力で寒くはないが、雪礫が頬にあたってとても痛い。フードの周りの毛皮とまつ毛に雪がくっついて、あっという間に視界が狭まる。その上、見えるのはつま先のほんの少し前だけだ。森を知らなければ、迷ってそのまま死ぬだろう。長居は禁物だ。
「結界が荒れているのは……あっちか」
唸る風音に引きずられないように気を引き締めて、わたしは結界へと意識を延ばす。道が分からずとも、結界が乱れている場所を目指して歩けば、目的地にたどり着けるはずだ。
ぐるりと城壁のようにそびえる、幾重にも重なる魔力の帯。天垂れる幕のように、なめらかで濃密で美しい。森の魔力の凝縮されたそれは、強い安心感と圧迫感をわたしに抱かせる。
結界の乱れは、玉についた疵のようなものだ。そこから不安が広がって、わたしの心を締め付ける。ざくり、ざくり。深い雪の中、ただカンテラの明かりと結界の乱れのもたらす嫌な気配だけを頼りにわたしは歩く。さほど遠くはない。
心から雑念を追い出して一心不乱にザクザクと歩くことしばらく。わたしはようやく、結界の乱れた場所にたどり着いた。
「……ちょっと綻んでる、かしら」
わたしは結界に目をこらす。人ひとり通れるかどうか、といった裂け目のようなものができているようだ。
この綻びをなんと伝えればよいだろう。例えるならば、毛織物のストールをどこかに引っ掛けて糸が切れてしまって、穴のようになってしまっている、とでも言えばいいだろうか?
新しい糸で繕えば穴は塞がるが、伝統工芸品ような歴史深い結界を綺麗に繕うには良い糸――精度の高い、強い魔力が必要で、わたしの魔力では心許ない。
「綻びを広げぬような結界を上塗りしておくくらいかしら。それならわたしでも保たせられるはずだし……」
この吹雪だ。結界の外から侵入者があっても、よっぽどの猛者でない限り、森を侵すことはできないだろう。
しかし、月始めに点検した時はなんの傷もなかったというのに、いつの間にこんなにはっきりとした綻びができてしまったのだろう。
首をひねりながら、ともかくも保存の結界を、とカンテラを足元においたその時である。
「――!?」
真っ白な視界からわたしの首めがけ、何かが飛びかかってきたのだ!
「mmrykz!」
すわ魔物か!? 察知した瞬間、身体の周りに防御の風をまとったわたしから弾き飛ばされるように、影が飛び退る。これ程の吹雪、森の力を借りれば、常以上の風が起こるのは必至だ。
「***!」
影が何事か叫ぶ。まわりの風、ふぶきの風。相乗効果で轟々と鳴り響いて、声は全く聞こえない。ともかくも、敵の姿を捉えなければ。
「mgrykb!」
身にまとう風の魔法を強めてから、わたしは自分の周り3ヤードほどの結界を張り巡らせた。杖を構え、何が来ても跳ね返す所存である。
森の魔女の最も得意とする魔法は「護り」だ。攻撃は不得手だが、守りは硬い。歴代の大魔女には年単位の籠城を可能にした方もおられると言う。余程の力を持つ者が相手でなければ、その守りはそう簡単にやぶれるものではない。
魔法を知る知性ある生き物なら、防御体勢に入った森の魔女を襲う愚かさはよく知っているものである。『森の魔女より都の城壁』――黒の森を襲うより、国を落とす方がまだ容易い。そんなことわざもあるくらいだ。
「……男?」
わたしの結界に阻まれ、吹雪が止んで、しんと耳が痛いほどの静寂に包まれた時、そこに立っていたのは、見たこともない黒い筒をこちらに向けた、全身を黒い液体に染めた男だった。