スコルダトゥーラ=カルーナ
ぼくらと反対の位置のヴァイオリンを見て、少し思い出 したことがあった。 「昔はね、ぼくヴァイオリニストだったんだ」 そんな大層なものではないけれど。 「本番直前に弦が切れちゃって」 特に調律もせずに弾き始める。音は未だに雲の中のよう だ。 「一本ないまま演奏したっけ」 一回くすり、と笑ってから、弦に弓をかけた。どうやら ぼくの周りに人が集まってくる。 アルカイック(*1)な空気を孕む、幽玄の音色。これだけ 綺麗なヴァイオリンは知らない。どれだけ調律が合わな くとも、錆びていても変わらない。 これは僕の繰る音楽より高貴なものになろう。天使の ラッパ隊にだって劣るまい。 周りの群集の、感嘆の溜め息。ちょっとしたコンサート にぼくは酔う。 見えないスポットライトで照らし出され、弦が切れる寸 前まで思い切り引いた。
結局アルペジオの最後に一弦がぷつんと切れてしまった が、人々は大喝采。 「聞きなれないあの曲は何?」 「特になんでもないよ」 19世紀以来使われることもほとんどなくなったスコルダ トゥーラ(*2)の奏法。ぼくは彼女の手をとってバーの外 へと連れ出した。 「そうだ、今夜限りだけど君が名前をつければいい」 「私が?」 そう既に忘れている部分が大半で、もう一度と言われて もできないが。 そのたった一つの曲を、捧げることにしよう。 「カルーナ」 「カルーナ。今からそれは、君だけのものだ」 月夜道を二人ぽつんと影を合わせる。何だか今日は不思 議な宵だ。もう一曲作れるきがする。 帰ったらアコースティックギターで何か弾こう。 ぼくは心に笑いかけた。
*1 アルカイック:古風
*2 スコルダトゥーラ:弦楽器を変則的な調弦にするこ と。現在はほとんど用いられない。
*3 カルーナ:ヒース。ツツジ科の低木エリカ属。色は 白、淡紅など。
単品で掲載してたものですが、こちらに纏めました。
手は加えていません。全く同じものです。