止まぬ雨、咲かない花火
「そりゃっ」
男は谷に落ちた。いや、落とされたのかもしれない。はっきりしない。風が吹いたのか、誰かから押されたのか、自分からでんぐり返ししたのか、はたまた全部が重なったのか。
辺りを見回した。すり鉢の底のようで、とても登れそうにない。
男は深くため息をついた。
すると、雨が降ってきた。
男はとぼとぼと歩き出した。
雨は止みそうにない。肌に沁みて分かる。
地面がぬかるんでくる。足をとられて、歩くことさえつらくなってきた。
ああ、歩きたくない。
もう泥遊びでもしようかと屈んだ。
ぱしゃりぱしゃり。柔らかい泥を跳ね上げた。
汚れるだけだった。
仕方ないから、歩き始めた。
雨は、汚れを洗い流してくれた。
男にどんな痕跡も許さない。
全てを洗い上げて、水気以外の何ものも帯びさせない。
うんざりして歩いていたが、そろそろどうでもよくなっていた。
だからぼやけた視界の果てに光が見えても、なんだかよく分からなかった。
近づいて、ようやく家だと分かった。
明かりのついた家!
ただし、もはやくたびれ果てていたので、男は蜃気楼かと疑うばかりだ。
触れて確かな感触がある。幻を見ているわけではないらしい。
男は扉の前に立ち、ぼんやりと考えていた。
こんな水気を帯びていて、はたして助けを求めていいものか、濡らしてしまわないか、自分はこのまま雨に濡れて、埋もれてしまったほうが納まりがいいのではないか、云々。
考えているうちに扉が開いて、背の高い老人と目が合った。
「どうした? 中に入るといい」
「しかし、迷惑ではありませんかね?」
「いやしかし、もうおまえさんを見てしまった。放っておく方が寝覚めが悪い。
だから、中に入るといい」
男は気が進まなかった。
しかし、老人のしかめ面が息苦しい。なので、世話になることにした。
男は裸にされ、粗末なタオルで乱暴に水気を拭き取られた。
いくら拭かれても、まだ濡れている気がした。
毛布に包まれて、ようやく少し安らいできた。
「どうも、ありがとうございます」
「しかし、止まぬな」
「この雨は止むのですか?」
「やはり、止まぬと思うか?」
「私は、てっきりそう思い込んでいました。
この谷間はそのような場所なのだと。
這い上がることは決してできません。
落とされた者は止まぬ雨に苛まれ、延々と水気に悩まされるのです。湿り気から逃れることはできず、足場は脆くなるばかり。
やがて、水と泥と服の区別がつかなくなる。そして、髪と血肉がふやけて境界線がなくなる。もはや、世界と自分が一体化する。そして、際限なく希釈された私は、もはや綺麗になくなってしまう。
私はここがそんな世界だと思い込まされていました」
「ほうほう、おまえさんはよく分かっておるな」
老人は感心しながら、眠そうに頷いた。
「しかし、どうしてです!」
男は急に目を見開いて、老人を睨みつけた。
老人は眠気でうつらうつらとするのを、なんとか堪えている。
「なぜ、このような場所があるのでしょう!
説明がつかないではないですか!
こんな見放された場所で、あなたは一体何をしているのです!
早く放棄して、さっさと別な場所に行ってください。
子羊達が待っています。きっと空を見上げて慎ましく祈ってますよ。あなたは彼らに歓迎されるのが相応しいんです。彼らは温かく迎えます。喜んであなたの懐に飛び込んできますよ。あなたはそんなしかめ面をせずに、自然と満面の笑みがこぼれるでしょう。それがあなたに相応しい場所ではないですか。どうなんです?」
老人は座り込み、あごを杖にのせ今にも眠りそうだった。
それでもなんとか目を開き、男に続きを促した。
「それにどうして、転がり落ちるときに手を貸さなかったのです!
あのときなら、濡れずに済んだのに。
今更現れて、どうしようというのです! もう成す術なんてないでしょう。さっさと、放り出したらどうなのです! 別れを告げましょう! あなたには新しい人が待っているし、私にもはや付きまとう必要はないのです!
なのに、どうしてあなたは……」
男は半狂乱だった。もはや、無意識に口を動かしていた。
老人は椅子から崩れ落ちた。その際に強く頭をぶつけた。
痛みで目を醒まして、起き上がる。男を見下ろして、深くため息をついた。
急に杖を振り上げて、強く殴りつけた。
男は倒れて、気を失った。
「雨が止まぬな。いったいどこからこうも限りなく降ってくるんだろうな。
不思議だと思わんか?」
老人の呟きが、意識が落ちる前にかすかに聞こえた。
***
「どうも取り乱してしまったようで、すいません」
「いや、無理もないだろう」
「何か失礼なことを言いませんでしたか? そんな気がしてならないのですが。
何かまずい言葉を、あなたに浴びせかけていたことがおぼろげに記憶にあるのです。恩人に私は何てことを……」
「いやいや、気にすることはない。
しかし、もう大丈夫なのか?
まだ、疲れが残っているのではないかね?」
老人は、今度は積極的に彼を気遣っていた。
「いえ、流石にここまで長い時間眠れば大丈夫です。
まだ濡れている感じがしますが、気のせいでしょう」
男は窓を見やった。雨は止まずに、窓にたたきつける。
「しかし、……これからどうすればいいのでしょう。
雨は止まないし、谷底は深い。私はこのまま出られないのでしょうか?」
「ようやくまともに考えられるようになったようだな。
雨を止ませたいのだろう?
ならば、取っておきのものがある。今のおまえさんになら、使わせてもいいだろう」
老人は嬉しそうに話すと、懐から大きな黒い玉を取り出した。
「それは……、何です?」
「花火の玉だよ。この花火は特別製でな。
こいつを打ち上げれば、雲を晴らすことができる。
そうすれば、おまえさんも帰る道を勇んで探せることだろう」
意気揚々とした老人の語調につられて、男はすがりつくようにその見込みに食いついた。
「素晴らしいじゃないですか! 今すぐ揚げましょう!
火は何処ですか? いやいや、他にも必要なものがありますかね? 砲台とかやはり必要なんでしょうか?」
「まぁ落ち着け。火もあるし、砲台もある。あとは火薬だな。それだけで十分だ。
ただな、この花火は特別製が故に欠点があってな。水に極端に弱いのだよ。だから、今上げても大丈夫かどうか……」
「大丈夫でしょう! こういうときのための花火でしょう! きっとうまくいくようにできているはずです。でなきゃ、どうしようもないでしょう。ささ! 早く上げましょう」
男は老人をせきたてた。老人は仕方なさそうに道具の在り処を教えた。
すぐに準備が整った。板を被せた砲台の中には、玉が仕込んである。外に砲台を押し出し、あとは火をつけるだけだった。
「いきますよ」
男は老人に形式的に確認の言葉を発した。
そして、返答も待たずにさっさと火をつけた。
ドンと砲台が花火を打ち出す。
玉は揚がったが、弾けることもなく落ちてくることもない。
「失敗だな」
「どうして……」
「雨が止まぬからだよ」
「そんな……、こういうときのための花火じゃないんですか?
水に弱いなんて、不都合じゃないですか。
そのためにあるなら、どうしてそんな風に作られているのです?」
男の嘆きに、老人はまた眠そうに答えた。
「……そういうものだからだよ。
そういうものしか知らぬし、それぐらいしか与えられぬ」
男は未練たらしく空を眺めて、雨に打ちつけられていた。
「中に入ろう。花火ならまだある。じっくり考えるといい」
体を乾かしながら、二人とも黙っていた。
雨の音だけがずっと響いている。
やがて、男が口を開いた。
「花火はどこにあるんですか?」
「地下にある」
「とりあえず、見せてください」
地下室は暗くて広い。
戸棚がずっと続いていて、様々な花火がびっしりと詰めてあった。
先ほどの黒い大きな玉もあれば、おもちゃ花火の類もある。
「そこにあるのが、さっきの花火でな。
雨を晴らす力があるのは、ここの戸棚のものとそこのだけだな。
それで、あっちのは雨に強いが、晴らす力はない。
それであっちはな……」
老人は決まりごとのように、次々と戸棚の花火を説明した。
男も色とりどりの花火に見とれていた。
男は特に根拠もないが、それだけあればなんとかなりそうな気がしてきた。
老人の説明が終わると、男は提案した。
「とりあえず気晴らしに、雨に強い花火を上げてみませんか?
たくさん上げたら、楽しいと思いませんか?」
老人は悪くないと頷き、玉を運ぶのを手伝った。
男は老人が案外力持ちであるのに驚いた。
しかし、それは理にかなうことだなと思い直した。
玉の込め方や、連続でどう打つかを詳細に教わった。
男は要領よく手順を覚えていく。老人も嬉しそうに教えていた。
男は教わりながら、手を動かしながら、老人といろんな話をした。老人もちゃんと聞いてやった。
そうしているうちに、準備ができたので、外に出た。
雨は相変わらずだった。
ただこれから空に広がる情景を思い描くと、雨など気にならなかった。
教えられたとおりに、男は火をつけていく。
次々と砲台は、花火を打ち出した。
赤にオレンジに青に緑と花火は、煌びやかに空を飾った。
すぐに雨でぼやけて、煙ばかりが残る。
男はすかさず第二陣を打ち揚げた。
また、色とりどりの花火が空を染め上げた。
花火が打ち鳴るたびに、男の鼓動が高鳴った。
「楽しいじゃないですか」
うっとりしたような声に、老人は怪訝な表情を示した。
「……もうこれでいいじゃないですか。なかなか気分が弾みますよ。十分楽しいし、気持ちいい。弾けるたびに、なんだか心が少し晴れた気がするんです。
毎日この花火を上げて暮らすのも、悪くないと思いませんか?」
老人は杖をかざして、また殴りつけようとした。
しかし、仕方ないことかと呟き、思い直したようだった。
***
男はそれからいつも花火を打ち揚げていた。
老人はそれをつらそうに見守っていた。花火の数はいくらでもあったし、男のやりたいままにさせていた。
しかし、時期が経つに連れて、男の持ち運ぶ花火は減っていった。
次第に、男は部屋でごろごろしていることが多くなった。
ベッドに寝転びながら、男は呟いた。
「雨、止みませんね」
「そうだな」
「いつ、止むのでしょうか」
「分からんな」
「何度、こんな会話をしたでしょうね」
「……………」
「……花火をね、上げるんです。
結構楽しいんですよ。
準備をしていると、ワクワクするんです。
火を着けるときは、待ち遠しさがたまらないんです。
ドンと破裂すると、振動が心地よいのです。
色鮮やかに散っていくのが、綺麗なんです。
なんだか、それだけでいいんですよ。
でもね、すぐに雨が消し去るんです。
明るい花びらは、すぐにかき消されます。照らしても照らしても、すぐに不明瞭になってしまう。すぐに色褪せてしまう。
色を忘れた後は、煙ばかりが残って、視界が曇ってくる。花火を上げても、煙で霞んでしまいます。最近は、煙の濃さばかりが気になってしまうんです。
これでは楽しくないので、あとは不貞寝するだけなんです。そんな毎日をずっと続けてるんです」
男はため息をついて、また続けた。
「こうやって気晴らしをしていれば、いつか晴れるものだと思っていました。
そして、この花火は、私にとってずっと『気晴らし』であり続ける、と信じていました。
けれど、雨は止まない。『気晴らし』は褪せる。
だから、これからはひとつくらいこんな花火にも『当たり』が混じってないかと信じて、揚げてみようと思うんです。それを引き当てて空を照らせば、たちまちに明るくなるんじゃないかって。曇りのない無窮の蒼天が、視界に開けるんじゃないかって。
どうです? これならまた上げられそうじゃないですか?」
「……その幻想は虚しいだけだよ。
劇みたいに、一瞬でパッと明るくなると思うのかね?
そんなのは、アチラの世界だけの話だ。ただ、希望的観測を絵にした世界のお話なんだ。
それに今までそんなことは一度もなかった。
それでも、今を繰り返して良くなると思うかね? ふっと、黄金の玉が棚から落ちてきて、新しい太陽になってくれると思うかね?
ならんよ。おまえさんも分かっているだろう。ああ、おまえさんこそ一番分かっているはずだ」
「……そう、このままではいけないです。
しかし、どうすればどうすれば……」
老人は答えない。雨は続く。男は咳き込んだ。そろそろ、雨が体にこたえてきたらしい。
「こうしてはいられない。ああ、こうしてはいられない」
男はぶつくさ言いながら、地下室に向かった。
あれでもない、これでもないと選別した。花火は数も種類も膨大であった。見回せば目眩がする。
しかし、今やおもちゃ花火も、雨に強い花火も目には入らなかった。
大きな黒い玉、最初に教えてもらった雨に弱いが、雨を晴らす力のある花火。こいつをどうにかすればいいのではないか、男は確信した。
しかし、最初のままに花火をそのまま揚げては、また雨に負けてしまう。
ならば、少しずつ工夫を試してみよう。
そうだ、最初からやるべきことは示されていた。
男の新しい日々が始まった。
***
今までの回り道は決して無駄ではなかった。
男は何度も花火を扱っているうちに、いろんなコツが分かってきていたのだ。
雨に強い花火のことは、雨に弱い花火のことにもなんとか応用できた。
混ぜ方や、砲台の角度、火薬の加減、雨避けの方法……。
男は考えられる限りの組み合わせを試行錯誤し、それぞれの結果を記した(そのノートは×とメモ書きで一杯だった)。
たまに、『気晴らし』花火を打ち上げたくなったが、時間がないと思い直した。毎日欠かさず続けた。
すると、ようやく破裂音が聞けるようになった。
しかし、まだ花火は咲かない。
それでも、その破裂音の断片は大きな励みとなった。
より意欲的に試行錯誤の積み重ねに打ち込むようになった。
老人は男の体調が弱ってきているのも知っていたし、男を優しく見守り励まして労わった。話し相手として付き合い、監視役を喜んで務め、男が挫けぬよう喜んで支えた。
男はいつも老人に感謝を捧げつつ、素直にその世話を受けていた。二人は協力して雨に立ち向かっていた。
日々、破裂音は大きくなっていく。
しかし、まだ光は見えない。
男は諦めずに、日々の成果を支えに励んだ。
男は次第に弱って、老人から杖を借りるほどであった。
やがて、感覚も少しずつ曖昧になる。
そして、幻聴に悩まされるようになる。
「雨を晴らしたところで無駄だ。お前はそれから谷を越えなければらない。谷を越えても、今度は風に悩まされるだろう。どうだ、お前はそれを一生続けるのか? 続けていられるというのか?」
「あの老人は親切だな。もう一生甘えたらどうかね? なあに、そこまで頑張ったお前なら、老人も喜んで甘やかしてくれるだろうさ。あの老人は決して見捨てないさ。もう杖はお前のものだし、殴ることもできない。お前は甘えているだけで、楽に過ごせるぞ」
「そんな技術が身についたなら、今度は『気晴らし』花火に応用してみてはどうだ? きっとうまくいくに違いないさ。もちろん、今よりすんなりとね。七色の花火だって、今なら揚げられるかもしれない。どうだ、いい『気晴らし』を開発すれば、きっとお前の体調も良くなる。そのほうがすぐに幸せになれるじゃないか。何だって、そんな面倒な黒い玉に拘るというんだね。俺にはさっぱり理解できないね」
……それに類することを、何度も大声で聞かされた。
男はその幻聴に耐えながら、辛抱強く試行錯誤を続けた。
まだ、光は見えない。
次第に幻聴は実像を伴い、黒く大きな影となり男に付きまとった。男を征服しようと、日夜襲いかかってきた。
「やめろやめろ。お前が続けていられるのは今だけだ。ずっと頑張っていられるわけがない。苦しいだろう? 眠いだろう? もう疲れたろう? お前はどうせ妥協して、努力をやめるのだ。その自由には耐え切れない。お前には使いこなせない。お前の意志にその自由は重過ぎるんだよ。お前は自分の思っているより、弱く卑しく作られている。その意志ならば、発狂して終わるのがオチさ! さっさと楽を求める生活に戻ればいい。今のお前ならば、楽に安住する条件は揃っているだろうに」
――いくら責められても、男はやめるわけにはいかない――
「いや、私はやめるわけにはいかないのだ。楽を求めるだけでは、何も満たされない。私はあの老人の冷たい瞳を通じて、分かったのだ。
確かに私は自信をもって歩み続けられるかは、怪しいだろう。
しかし、それを判じることなどできない。
私が目覚めている限り、この手も足も感覚も私のものだ。
私は雨に抵抗し続ける。お前の誘惑にも打ち克ち続ける。
この雨が晴れても、私はこの経験を支えに励むであろう。
あの老人から受けた恩は一生大切にし続ける。
『気晴らし』なら、人を喜ばせるために用いよう。
もはや、私の視界は曇っていない。
後はこの世界の雨を晴らすだけなのだ。
悪魔よ、責めるがいい。
雨よ、苛むがいい。
私は決して屈したりはしない」
男は杖を振りかざし、抵抗の意志を示した。
それでも悪魔は消えず、雨は止まない。
しかし、男が目覚めている限り、彼らは無力に等しかった。
花火はまだ咲かない。だが、確実にそのつぼみは熟しつつあった。
***
老人に支えられて、男はようやく砲台を外に押し出した。
「大丈夫です。火は私がつけます」
支えを優しく拒んで、自ら火をつけた。
砲台はもう随分とくたびれている。
それでも力強く鼓動し、玉をまっすぐに打ち出した。
雨をものともせず、玉は天高く上っていく。
そして頂点まで上り詰めて、
――ついに咲いた――。
美しい大輪が、空一杯に広がる。
オレンジの光が、男の力を代弁した。
止まぬ雨に、精一杯の抵抗を示した。
雲の黒が退けられていく。
そして、一筋、一筋と光が差してくる。
その亀裂から、雨の世界が崩壊していく。
そして、無窮の蒼天が広がった。
「……眩しいですね」
「そうだな」
「青空ってこんなに眩しかったでしょうか?」
「いや、ここまでは眩しくなかっただろう」
「今までありがとうございます」
「うむ……。さて、そろそろお別れだな。杖はもうお前のものじゃ。ちゃんと使うといい」
「何から何まで、本当にありがとうございます」
「ああ、これからも頑張ろうではないか」
二人は、ずっと広がっていく空を見上げた。
「こんな空の下で、生きていけるんですね」
老人は消えていた。
気づけば、身体の痛みも消えていた。
杖を手に、男は力強く歩みだした。