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9.侍女マリアの証言

 夜の闇は、城の石壁に深く染み込み、音を吸い尽くしていた。

 セリオと名乗る青年が嵐のように去った後、彼女は部屋の中央に立ち尽くしたまま、身じろぎ一つできなかった。彼の残した言葉が、冷たい残響となってがらんどうの心に響き渡る。


『姉を返せ』


 髪の色。瞳の色。

 彼女は、まるで初めて自分の体に触れるかのように、おそるおそると、震える指先で自分の髪に触れた。指に絡んだのは、落ち着いた色合いの柔らかな栗毛。窓ガラスに映る自分の姿を見ても、そこにいるのは青い瞳の自身だが、セリオの言う、空の深さを写し取ったような青とは、どこか色合いが違うのかもしれない。


 違う。何もかもが。

 ヴァルド公爵が言った「違う」。セリオが言った「違う」。そして、自分の名前が刻まれた、あの冷たい墓標。

『イレーネ・フォン・エルディア』は死んでいる。その事実は、彼女の存在の根幹を脅かしていた。


 では、自身のこの記憶は何なのか。別人である証拠ばかりが積み上がっていくが、しかし、自分はイレーネなのだ。


 そしてなぜ、「イレーネ」の代わりに、私がこの紅の檻へ送られなければならなかったのか。


 思考は、出口のない迷宮を彷徨う。答えを求めれば求めるほど、霧は深くなるばかり。胸の奥が、氷の塊で塞がれたように冷たく、重い。

 この城に来てから、ずっとそうだ。美しい調度品も、豪奢な食事も、何一つ心を温めてはくれない。ここは、美しいだけの牢獄。いいや、もっと禍々しい何かのための、祭壇なのかもしれない。


 その時、彼女の脳裏に、一つの顔が浮かんだ。

 怯えと、そして僅かな同情を瞳に宿していた、あの侍女。


 マリア。


 この城で唯一、人間らしい温かみを感じさせてくれた少女。彼女なら、何かを知っているかもしれない。ヴァルド公爵が激怒した、あの日の出来事。恐怖に泣き崩れた彼女の姿が、鮮明に蘇る。

 彼女は、かつての「イレーネ」を知っている。

 彼女に会わなければ。話を聞かなければ。


 その思いは、暗闇の中で見つけた唯一の灯火のように、彼女の心を強く照らした。危険なことだと分かっている。マリアを、再び公爵の怒りに晒すことになるかもしれない。その恐怖に、足が竦む。

 けれど、このまま何も知らずに、名もなき人形として飼われることの恐怖は、それに勝った。

 彼女は、固く拳を握りしめた。掌に、爪が食い込む。その微かな痛みが、自分がまだここに存在しているという、か細い実感を与えてくれた。


 翌朝、イレーネはほとんど眠れないまま、青白い夜明けを迎えた。

 朝の支度にやってきたのは、いつもの無表情な侍女たちだった。その中に、マリアの姿はない。彼女は失望を隠し、侍女たちの機械的な手つきに身を任せながら、平静を装って尋ねた。


「マリアは……今日は、お休みでしょうか」


 侍女の一人が、ぴくりと動きを止めた。その顔には何の感情も浮かんでいない。しかし、一瞬だけ、その瞳の奥に警戒の色がよぎったのを、彼女は見逃さなかった。


「マリアは本日、西翼の清掃を命じられております」


 感情のこもらない、平坦な声。それだけを告げると、侍女は再び無言で作業に戻った。

 西翼。その言葉を、彼女は心の中で繰り返した。


 食事を終え、侍女たちが部屋から出ていくと、彼女は行動を開始した。公爵は昼の間、書斎に籠っていることが多い。侍女たちの目さえ欺けば、あるいは。

 彼女は、これまで感じたことのないほどの緊張に心臓を鳴らしながら、そっと部屋の扉を開けた。幸い、廊下には誰の姿も見えない。壁に掛けられたタペストリーの影に身を隠しながら、彼女は記憶を頼りに西翼へと向かった。


 城は、迷路のように入り組んでいた。同じような扉、同じような廊下が、どこまでも続いているように思える。自分の足音だけが、不気味なほど大きく響いた。

 やがて、長い廊下の先で、床を磨く小さな人影を見つけた。

 マリアだった。

 彼女は、彼女の姿に気づくと、びくりと肩を揺らし、その顔からさっと血の気が引いた。その瞳に浮かんだのは、再会の喜びなどではない。純粋な恐怖だった。


「お、お嬢様……! なぜ、このような場所に……!」


 マリアは慌てて駆け寄り、彼女の腕を掴むと、近くの物置部屋へと引きずり込んだ。扉を閉めると、中は薄暗く、埃っぽい匂いがした。


「公爵様に見つかったら、どうなさるおつもりです! わたくしだけでなく、お嬢様ご自身も……!」


 マリアの声は、恐怖で震えていた。彼女の怯えようを見て、彼女の胸は罪悪感で締め付けられる。


「ごめんなさい、マリア。あなたを怖がらせたいわけではないの。でも、どうしても、あなたに聞きたいことがあるの」

「わたくしには、何も……何もお話しできることはございません!」


 マリアは固く首を横に振る。その瞳は、涙で潤んでいた。公爵の言葉が、彼女の心を完全に縛り付けているのだ。


「お願い、マリア。私は、自分が誰なのか分からなくなってしまったの」


 彼女は、必死に訴えかけた。その声は、自分でも驚くほど切実な響きを帯びていた。


「公爵様は、私を身代わりだと言ったわ。庭には、私の名前が刻まれたお墓がある。昨夜は、イレーネ・フォン・エルディアの弟だと名乗る方が現れて、私を偽物だと。……私は、自分が誰なのか、本当に何も分からないの。このままでは、心が壊れてしまいそう」


 彼女の瞳から、一筋の涙が頬を伝った。それは、悲しみや恐怖からではない。自分の存在が、砂のように指の間からこぼれ落ちていく、途方もない喪失感からくる涙だった。

 その涙を見て、マリアの表情が揺らいだ。恐怖と、彼女への同情が、彼女の中で激しくせめぎ合っているのが分かった。


「……お嬢様」


 しばらくの沈黙の後、マリアは意を決したように、か細い声で口を開いた。


「わたくしが知っているのは、ほんの少しのことだけです。それも、お話しすれば、きっとお嬢様をさらに苦しめることになる……」

「それでも、知りたいの。どんなに辛い事実でも、何も知らずにいるよりはいいわ」


 彼女の真っ直ぐな視線に、マリアは観念したように、小さく頷いた。


「……イレーネ様は」


 マリアは、周囲を窺うように声を潜め、ゆっくりと語り始めた。


「とても、お優しいお方でした。わたくしたちのような侍女にも、いつも笑顔で、親しく声をかけてくださいました。この城に来られた当初は、公爵様とも、とても仲睦まじいご様子で……」


 マリアの言葉は、彼女が漠然と抱いていた「イレーネ」のイメージとは、少し違っていた。もっと気位の高い、近寄りがたい令嬢だと思っていた。


「公爵様も、イレーネ様の前では、とてもお優しかった。あの方があのような穏やかな表情をなさるのを、わたくしは後にも先にも見たことがございません。まるで、長年探し求めていた光を見つけたかのように……それは、本当に、お幸せそうな光景でした」


 幸せそうな光景。その言葉が、彼女の胸にちくりと刺さった。自分に向けられる、あの絶対零度の視線とは、あまりにもかけ離れている。


「ですが……」


 マリアの声が、曇った。


「ある日を境に、すべてが変わってしまったのです。血の契約の儀式が執り行われた、その夜からでした」


 血の契約。彼女も経験した、あの儀式だ。痛みと、そして奇妙な痺れを伴う、冒涜的な契約。


「その日以降、イレーネ様は、何かにひどく怯えるようになられました。日に日にやつれ、笑顔も消え……。公爵様を、まるで化け物でも見るかのような目で、避けるようになられたのです」


 化け物。その言葉に、彼女は息を呑んだ。自分も、初めてヴァルドに会った時、同じように感じた。彼は人のかたちをしているが、その本質は全くの異種なのだと。イレーネも、血の契約を通じて、その本質に触れてしまったのだろうか。


「公爵様も、イレーネ様のそのご様子に、ひどく傷つかれたようでした。お二人の間には、冷たい壁ができてしまい……。そして、イレーネ様は、最後は……」


 マリアは、言葉を詰まらせた。その先の言葉を、口にするのが恐ろしいのだ。


「最後は、とても怯えておられて……。いつも何かに追われているように、部屋に閉じこもっておられました。そして、ある夜、突然……亡くなられたと」


 突然の死。その言葉の裏に、何か隠された真実があることを、彼女は直感した。


「私は、『イレーネ様』とは違うのね」


 彼女は、ぽつりと呟いた。

 優しい笑顔。公爵との幸せな時間。そして、血の契約を境にした、突然の恐怖。


「はい……。お姿は、本当に驚くほどよく似ていらっしゃいますが……纏う空気が、まるで違います。イレーネ様は、陽だまりのような方でした。ですが、お嬢様は……まるで、月明かりの下に咲く、白い花のようです」


 月明かりの下の、白い花。その儚い響きが、今の自分の心許ない状況と重なった。

 彼女は、マリアの震える手を、そっと握った。


「教えてくれて、ありがとう。マリア」


 その時、マリアは何かを思い出したように、はっと顔を上げた。


「……そうだ。イレーネ様が、お亡くなりになる少し前に、わたくしに託されたものが……」

「託されたもの?」

「はい。これは、決して誰にも見せてはならない、と。もしものことがあった時のために、と……」


 マリアは、懐から小さな布包みを取り出した。彼女は、それを渡すべきか、ひどく葛藤しているようだった。その顔は、恐怖で青ざめている。


「それは、何?」

「……日記、です。イレーネ様が、お書きになっていた」


 日記。その言葉に、彼女の心臓が大きく鳴った。そこには、イレーネの本当の心が、彼女が怯えていたものの正体が、記されているに違いない。


「マリア、お願い。それを見せて」

「ですが、これをもし公爵様に見つかったら……!」

「見つからないようにするわ。私が、必ず守るから」


 彼女は、マリアの手を強く握りしめた。その瞳には、先ほどまでの迷いはなく、強い意志の光が宿っていた。

 彼女のその気迫に押されたのか、あるいは、彼女の運命に何かを感じ取ったのか。マリアは、しばらくの逡巡の後、震える手で、その布包みを彼女に差し出した。


「……これは、日記の一部です。すべてをお渡しするのは、あまりに危険すぎます。ですが、これだけでも、お嬢様が真実を知るための、何かの助けになるやもしれません」


 彼女は、その小さな包みを、祈るように両手で受け取った。ずしりとした、重みを感じる。それは、ただの紙の重さではない。死んだ令嬢の、魂の重みだった。


「ありがとう、マリア。このご恩は、決して忘れないわ」


 その時、遠くの廊下から、複数の足音が聞こえてきた。

 二人は、はっと息を呑む。


「早く、お部屋へお戻りください!」


 マリアに促され、彼女は物置部屋を飛び出した。日記の包みを胸に抱き、見つからないように、壁の影から影へと身を滑らせる。

 どうにか自室にたどり着き、背後で扉を閉めた瞬間、全身の力が抜けて、その場にへたり込んだ。心臓が、今にも張り裂けそうだった。


 しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した彼女は、震える手で、受け取った布包みを開いた。

 中から現れたのは、革の表紙がついた、小さな手帳だった。ところどころ、染みがつき、古びている。これが、「イレーネ」の日記。

 彼女は、ごくりと唾を飲み込み、その最初のページを、ゆっくりと開いた。

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