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偽りの花嫁は、紅の檻で咲わない  作者: 秋月アムリ
第1章 偽りの始まり
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8.影の訪問者

 夜の闇は、どこまでも深く、そして冷たかった。

 イレーネは、自分の名前が刻まれた冷たい墓石の前から、どうやって部屋に戻ってきたのか、その記憶さえ定かではなかった。ただ、無意識のうちに、引きずられるようにして歩いていた。薔薇の甘い香りはもはや感じない。その代わりに、墓所の土の匂いが、ドレスの裾に染み付いているかのようだった。


 部屋に戻り、鍵をかける力もなかった。扉を背にして、そのままずるずると床にへたり込む。がらんどうになった心の中を、ただ一つの事実が、冷たい風のように吹き抜けていく。


 イレーネ・フォン・エルディアは、死んでいる。

 あの庭の墓標の下で、静かに眠っている。


 では、私は。

 今、ここで呼吸をしている、この私は、一体誰なのだろう。


 公爵は言った。「お前はただの、身代わりだ」と。

 その言葉が、今、恐ろしいほどの現実味を帯びて彼女にのしかかる。私は、誰かの代わりをさせられている。


 絶望は、あまりに深すぎると、感情という生温かいものをすべて凍らせてしまうらしい。涙は出なかった。指先が、氷のように冷たい。自分の体温が、この世の理から切り離されてしまったかのように、遠く感じられた。


 どれほどの時間が経ったのか。

 部屋を満たすのは、時計の針が時を刻む、かちり、かちり、という無機質な音だけ。その音が、まるで自分の命が削られていく音のように聞こえた。


 その、静寂を破ったのは、些細な物音だった。

 窓の外で、風が枝を揺らす音とは違う。もっと近く、この部屋の内側で何かが衣擦れするような、微かな音。


 イレーネは、はっと顔を上げた。

 部屋は薄暗い。夜の闇が、窓布の隙間から溶け込み、豪奢な家具たちの輪郭を曖昧にぼかしている。その闇が、いつもより濃く、そして重く感じられた。まるで、そこにいてはならない何かが、息を潜めているかのように。


 心臓が、大きく一度、跳ねた。

 侍女ではない。彼女たちなら、必ず扉を叩く。ヴァルド公爵でもない。あの男の訪れは、もっと圧倒的で、冷たい気配を伴う。

 では、誰。


 イレーネは息を殺し、闇の最も深い場所―――寝台の影を、じっと見つめた。

 そこに、人影があった。

 闇よりもさらに深い黒が、ゆらりと動いた。音もなく、まるで煙が形を成したかのように、一人の男がそこから姿を現す。月明かりが、その輪郭を鋭く切り取った。


 若者だった。歳は、イレーネと同じくらいだろうか。夜陰に紛れるような、黒い軽装を身に纏っている。その顔立ちは、貴族らしい気品と、それとは相容れない荒々しさが同居していた。月光を反射する銀色の髪が、闇の中でひどく印象的だった。


 しかし、イレーネの視線を釘付けにしたのは、その瞳だった。

 燃えるような、激しい光を宿した青い瞳。その瞳が、憎悪と、そして深い悲しみに濡れて、まっすぐに彼女を射抜いていた。


「……誰?」


 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

 男は、その問いには答えなかった。ただ、一歩、また一歩と、静かに、しかし確かな敵意を滲ませながら、彼女に近づいてくる。その動きは、しなやかで無駄がなく、手練れの狩人を思わせた。


 恐怖が、麻痺していたはずの心に、じわりと蘇る。イレーネは後ずさろうとしたが、背中は冷たい扉に阻まれていた。逃げ場はない。


 男は、イレーネの数歩手前で足を止めた。そして、その唇が、憎しみに歪む。


「……姉を、返せ」


 地を這うような、低い声だった。その声に含まれた激情が、部屋の空気をびりびりと震わせる。

 姉。その言葉の意味が、すぐには理解できなかった。


「何を……言って……」

「とぼけるな、偽物め」


 男は、吐き捨てるように言った。その青い瞳が、イレーネの顔を、髪を、ドレスを、まるで汚らわしいものでも見るかのように、隅々まで睨めつける。


「その顔で、俺の前に立つな。反吐が出る」

「偽物……?」


 公爵と同じ言葉。しかし、その響きは全く違った。公爵の言葉が絶対零度の侮蔑だったとすれば、この男の言葉は、灼熱の憎悪そのものだった。


「お前が、姉さんの代わりに、あの吸血鬼に嫁いできた女か」

「……っ」


 肯定も否定もできなかった。私は、身代わり。その事実は、もはや覆せない。

 男は、イレーネの沈黙を肯定と受け取ったのだろう。その顔に、絶望と怒りが、さらに深く刻まれた。


「なぜだ。なぜ、姉さんは死ななければならなかった。そして、なぜお前のような女が、姉さんの代わりにここにいる!」


 それは、問いかけというより、魂からの叫びだった。答えなど求めていない、行き場のない怒りの咆哮。

 イレーネは、ただ圧倒されていた。この男が誰なのか、全く見当もつかない。けれど、彼の言う「姉」が、あの墓標に眠るイレーネ・フォン・エルディアであることだけは、直感的に理解できた。

 ということは、この男は。


「あなたは……『イレーネ』の……」

「その名を口にするな!」


 男が、鋭く叫んだ。一歩踏み込み、その手がイレーネの肩を掴む。華奢な肩に、指が食い込んだ。痛みに、イレーネは顔を歪めた。


「お前なんかが、気安く姉さんの名を呼ぶな!」

「……ごめんなさ……」


 謝罪の言葉は、意味をなさなかった。男は、掴んだ肩を強く揺さぶる。イレーネの頭が、ぐらぐらと揺れた。


「謝って済むことか! 姉さんは、もういないんだぞ! あの優しかった姉さんが、なぜ……!」


 彼の声が、悲痛に震える。憎しみの奥に隠された、深い喪失と悲しみが、その瞳から涙となって溢れ落ちた。その涙を見て、イレーネは、はっとした。

 この人は、憎いのではない。ただ、悲しいのだ。大切な姉を失い、その理由も分からず、怒りと悲しみの間で引き裂かれているのだ。


 男は、イレーネの顔を、至近距離で睨みつけた。その青い瞳が、何かを確かめるように、彼女の顔の細部を執拗に検分していく。


「……確かに、似ている」


 彼は、苦々しげに呟いた。そして、その視線が、イレーネの髪に注がれる。


「だが、違う」


 きっぱりとした、拒絶の響き。


「姉さんの髪は、陽光を溶かしたような、輝く金髪だった。お前のような、色の褪せた栗毛ではない」


 髪の色。

 その言葉が、イレーネの心に、小さな棘となって突き刺さる。

 男の視線が、今度は彼女の瞳へと移った。


「瞳の色もだ。姉さんの青は、もっと澄んでいた。夏の空のように、どこまでも突き抜けるような青だった。お前の瞳は……どこか濁っている。悲しみか、恐怖か。何かに怯えている者の色だ」


 具体的な指摘。それは、ヴァルド公爵の「違う」という漠然とした言葉よりも、はるかに鋭く、イレーネの存在の不確かさを抉り出した。

 私は、髪の色も、瞳の色も、墓に眠るイレーネ・フォン・エルディアとは違う。


「一体、何者がお前を仕立てた。なぜ、姉さんの代わりに、お前のような不完全な偽物を、あの吸血鬼に差し出したんだ……?」


 男は、もはやイレーネを責めているのではなかった。その問いは、この不可解な状況そのものに向けられている。彼の掴む指の力が、わずかに緩んだ。


 イレーネもまた、同じ疑問を抱いていた。

 身代わり。その事実は受け入れよう。だが、なぜ私だったのか。


「……分かりません」


 か細い声で、イレーネは答えた。それが、今の彼女に言える、唯一の真実だった。


「私にも、分からないのです」


 その言葉に、男は虚を突かれたように目を見開いた。彼の青い瞳に、一瞬だけ、憎悪以外の色―――純粋な驚きと、困惑の色が浮かぶ。


「……なんだと?」


 その時だった。

 遠くの廊下で、複数の足音が響いた。城の衛兵たちの、巡回の音だろうか。

 男は、はっと我に返り、素早くイレーネから身を離した。その動きには、一分の隙もない。


「……ちっ」


 彼は忌々しげに舌打ちすると、一度だけ、複雑な光を宿した瞳でイレーネを睨みつけた。その視線は、まるで「お前は一体、何なのだ」と問いかけているかのようだった。


「覚えておけ。俺はセリオだ。俺は必ず姉さんの死の真相を突き止める。そして、お前が誰であろうと、この茶番に関わった者たちを、決して許しはしない」


 それだけを言い残すと、男は音もなく窓辺へと駆け寄った。そして、まるで夜の闇に溶け込むように、その姿を外へと消した。

 開け放たれた窓から、冷たい夜風が吹き込んでくる。窓布が、亡霊のように大きく膨らんだ。


 嵐が、過ぎ去ったかのようだった。

 部屋には、再び、死んだような静寂が戻ってきた。イレーネは、男が立っていた場所を、ただ茫然と見つめていた。肩に残る、彼の指の感触が、やけに生々しい。


 セリオ。彼は、イレーネ・フォン・エルディアの弟。


 彼がもたらしたものは、憎悪と、そして新たな、より深い謎だった。

 私は、『イレーネ』とは似て非なる、偽物。

 では、なぜ、そんな私が選ばれたのか。

 この身代わりの茶番を仕組んだのは、一体誰で、その目的は何なのか。


 墓標の謎。身代わりの事実。そして、今突きつけられた、不完全な偽物であるという現実。

 いくつもの問いが、渦を巻いて、彼女の心を苛む。

 もう、ただの絶望の中に沈んでいることは許されない。知らなければならない。この巨大な嘘の、その中心にある真実を。


 イレーネは、震える手で、床からゆっくりと立ち上がった。

 窓の外では、月が、何事もなかったかのように、静かに夜の森を照らしていた。

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