7.紅の庭
ヴァルドが部屋を去り、重厚な扉が閉まる冷たい音が響いた後、イレーネの世界は完全な静寂に包まれた。音だけではない。色も、匂いも、肌を撫でる空気の感触さえもが、意味を失っていく。彼女は、冷たい大理石の床にへたり込んだまま、身じろぎ一つできなかった。
身代わり。
その言葉が、呪いのように彼女に突き刺さっている。思考しようとしても、言葉がまとまらない。その響きだけが、空っぽになった頭蓋の内側で、意味もなく反響していた。
指先から足先まで、まるで氷水に浸されたかのように冷え切っていた。自分が誰なのか、どこにいるのか、なぜ息をしているのか。その全てが、分厚い霧の向こう側へと遠ざかっていく。
涙は出なかった。悲しいとか、悔しいとか、そういった感情が湧き上がるべき場所が、ごっそりと抉り取られてしまったかのようだった。
ただ、そこにいる。呼吸をしているだけの、名もなき肉の塊として。
どれほどの時間が過ぎたのか。
窓の外が、夕闇の気配を帯び始めた頃、控えめなノックの音と共に、侍女が夕食を運んできた。銀の盆の上には、彩り豊かな料理が並べられている。しかし、今のイレーネには、それがただの色のついた石くれにしか見えなかった。
侍女は、床に座り込んだままのイレーネを見て、一瞬だけ動きを止めた。だが、その瞳に驚きや同情の色が浮かぶことはない。彼女はただ、命じられた通りにテーブルの上へ食事を並べると、一礼し、音もなく部屋を出ていった。
まるで、壊れた人形が床に転がっているのを、気にも留めないかのように。
その無関心が、イレーネの心の奥底で、かさぶたのように固まっていた何かを、小さく引き剥がした。
ちり、と微かな痛みが走る。
このままではいけない。
このまま人形として、心が完全に死んでしまうのを待つだけではいけない。
その衝動は、ほとんど本能に近いものだった。
イレーネは、震える手で床を押し、ゆっくりと立ち上がった。足が、自分のものとは思えないほど重い。ふらつきながら、彼女は壁に手をついた。ひやりとした石の感触が、かろうじて自分がまだ存在していることを教えてくれる。
知らなければ、確かめなければならない。
私が誰の身代わりなのか。
答えは、この城のどこかにあるはずだ。あの男が、ヴァルドが、必死に隠そうとしている秘密の中に。
部屋から出るな、と彼は言った。誰とも話すな、と。それは、私を保護するためなどではない。真実から遠ざけ、無知な人形のままにしておくための、見えざる鎖だ。
ならば、その鎖を断ち切らなければ。
イレーネは、決意を宿した目で、部屋の扉を見据えた。恐怖はあった。あの男の、絶対零度の怒りに触れることの恐ろしさは、骨身に染みている。けれど、今の彼女にとっては、心が死ぬことの方が、よほど恐ろしかった。
彼女は、覚束ない足取りで扉へと向かい、その冷たい真鍮の取っ手に手をかけた。
初めて、自らの意思で部屋の外へ出る。
一歩踏み出すと、しんと静まり返った廊下の空気が、肌を刺した。蝋燭の灯りが、長い廊下に頼りない影を落としている。どこまでも続くかのような静寂。自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえた。
誰かに見つかるかもしれない。その恐怖に、心臓が早鐘を打つ。しかし、彼女は足を止めなかった。
どこへ行けばいいのか、当てはない。ただ、何かに引き寄せられるように、彼女は城の奥へと歩を進めた。
いくつもの扉を通り過ぎ、曲がりくねった廊下を抜ける。やがて、彼女は一つの大きな窓の前にたどり着いた。厚い硝子の向こうに、月明かりに照らされた庭が見える。
その光景に、イレーネは息を呑んだ。
そこは、一面、深紅の薔薇で埋め尽くされていた。
狂おしいほどの赤。月光を浴びて、その花弁は濡れた血のような、妖しい光沢を放っている。むせ返るような甘い香りが、硝子越しにまで漂ってくるかのようだ。
美しい。しかし、その美しさは、どこかこの世のものではない。生命の輝きではなく、死の淵を彩るような、冒涜的なまでの美しさだった。
紅の檻。
この城の通称が、不意に脳裏をよぎった。
人々は、吸血鬼公爵の居城を、そう呼んで恐れていた。その名の由来を、彼女は今まで深く考えたことがなかった。だが、今、この庭を見て、その意味を悟った気がした。
この城は、訪れる者の生命を吸い、その血で、この赤い薔薇を咲かせているのではないか。ここは、美しい牢獄などではない。もっと禍々しい、生者を贄とする祭壇そのものなのだ。
イレーネは、その血の庭に、まるで呼ばれるかのように、強く引きつけられていた。
彼女は窓から離れ、庭へと続く扉を探して、再び歩き始めた。やがて、重厚な樫の扉を見つけ、ためらいながらも、その鉄の閂を押し上げる。ぎ、と錆びた音が、静寂を破った。
扉を開けた瞬間、生温かい夜気と共に、薔薇の濃厚な香りが彼女の全身を包み込んだ。甘い、甘い香り。だが、その奥に、微かに混じる匂いがあった。鉄が錆びたような、血の匂い。
彼女は、吸い込まれるように庭へと足を踏み入れた。
柔らかな芝生を踏みしめ、薔薇の迷路の中を進んでいく。見上げるほどの高さにまで伸びた薔薇の垣が、壁のように彼女の行く手を阻む。どこもかしこも、赤、赤、赤。その色彩の洪水に、目が眩みそうだった。
ここは、美しいだけの庭ではない。人の心を惑わし、方向感覚を奪う、巧妙に作られた罠だ。
どれくらい歩いただろうか。
月が雲に隠れ、あたりが一層の闇に沈んだ時、彼女はふと、開けた場所にたどり着いた。
そこは、庭の中心なのだろうか。ひときわ大きな薔薇が広がっている中央が、ぽかりと空いている。その中心に、何かが静かに佇んでいた。
月が再び雲間から顔を出し、その正体を銀色の光で照らし出す。
それは、一つの墓標だった。
白大理石でできた、簡素ながらも気品のある墓石。周囲の狂騒的な赤とは対照的に、その白さだけが、静謐な空気を放っている。苔むしておらず、土も新しい。ごく最近、ここに建てられたものであることは明らかだった。
なぜ、こんな場所に墓が。
好奇心と、そして得体の知れない予感に導かれ、イレーネはゆっくりとそれに近づいた。
墓石には、流麗な文字が刻まれている。
彼女は、その冷たい石の表面に、震える指先でそっと触れた。そして、刻まれた文字を、一文字ずつ、確かめるように辿っていく。
―――イレーネ・フォン・エルディア
その名を認識した瞬間、彼女の思考は完全に停止した。
心臓が、凍りついた。呼吸の仕方を、忘れた。
イレーネ。
自分の名前が、そこにあった。
エルディア公爵家の令嬢、イレーネ。私の、名前。
何かの間違いだ。そう思おうとした。
しかし、その望みは、墓石の下に刻まれた日付によって、無慈悲に打ち砕かれた。
そこには、彼女がこの城に嫁いでくる、ほんの数週間前の日付が、はっきりと刻まれていた。
頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
混乱が、思考の許容量を超え、激流となって彼女の意識を飲み込んでいく。
私は、死んだ?
いや、この墓に眠っているのが、本当の私で。では、今ここに立っている、この私は、一体何なのだ。
幽霊? 亡霊?
それとも、あの男が言ったように、私はただの身代わりで。本物のイレーネは、ここに埋められているというのか。
じゃあ、この私の頭の中にあるイレーネとしての記憶はなんなのだ。
分からない。何もかもが分からない。
記憶の中の自分と、目の前の墓標が、どうしても結びつかない。自分が信じてきた「私」という存在の、その土台そのものが、音を立てて崩れ落ちていく。
立っていられなかった。膝から力が抜け、彼女はその場にがくりと崩れ落ちた。冷たい夜露が、ドレスの裾を濡らしていく。
夕闇が、いつの間にか深い夜の闇へと変わっていた。
薔薇の赤は、闇に溶けて、黒々とした血の塊のように見える。甘い香りは、死の匂いへと変質し、彼女の肺腑を重く満たした。
イレーネは、ただ、自分の名前が刻まれた冷たい石を、見つめ続けることしかできなかった。
答えのない問いだけが、渦を巻いて彼女の心を支配していった。