6.公爵の冷笑
マリアが恐怖に駆られて部屋を飛び出していってから、どれほどの時が流れただろうか。
イレーネは、ヴァルドが去った扉をただ茫然と見つめたまま、その場に立ち尽くしていた。部屋の空気は、彼の放った絶対零度の怒気のせいで、まだ凍てついているように冷たい。膝ががくがくと震え、今にも崩れ落ちそうになる体を、必死に支えるのがやっとだった。
怖い。
心の底から、あの男が怖い。
彼の命令に背くことが、どれほど恐ろしい結果を招くか、マリアの絶望に染まった顔が何よりも雄弁に物語っていた。
しかし、その恐怖の奥底で、別の感情が静かに、しかし確かに燃え上がっていた。
怒り。そして、屈辱。
なにより、拭い去ることのできない、巨大な疑念。
彼はなぜ、あれほどまでに自分が「前の令嬢」について知ることを恐れるのだろう。
ただの政略結婚の相手ならば、その過去を知られたところで、あそこまで感情を露わにする必要はないはずだ。彼が隠しているのは、もっと深い何かだ。その秘密の核心に、「前の令嬢」がいる。
そして、その秘密を解き明かすことこそが、自分が何者であるかを知るための、唯一の鍵なのだと直感していた。
固く拳を握りしめ、イレーネは自らを奮い立たせる。奪われた自分を取り戻す。その決意は、恐怖に打ち勝ち、彼女の瞳に硬質な光を宿らせた。
その夜も、イレーネはほとんど眠ることができなかった。微睡んでは、あの紅い瞳に見据えられる感覚にうなされ、目を覚ます。その繰り返しだった。
翌日も、城の中は息が詰まるほどの静寂に支配されていた。侍女たちは昨日まで以上に口を固く閉ざし、機械的な動きで世話をするだけ。マリアの姿は、どこにも見えなかった。彼女の身を案じるだけで胸が苦しくなる。
昼食を終え、窓辺の椅子に腰かけていると、何の予告もなく、部屋の扉が静かに開いた。
心臓が跳ねる。そこに立っていたのは、ヴァルド公爵だった。
彼は、昼の光の中でも、夜の闇を纏っているかのように見えた。音もなく室内へ入ってくると、イレーネの目の前で足を止める。その紅い瞳が、品定めをするように彼女の顔を眺めた。
「随分と、思い詰めた顔をしているな」
彼の声は、昨日とは打って変わって、不思議なほど穏やかだった。しかし、その静けさこそが、嵐の前の不気味さを感じさせた。
イレーネは何も答えず、ただ彼を睨み返す。恐怖に屈してなるものか、という意地が、彼女を支えていた。
ヴァルドは、彼女の反抗的な視線を気にも留めない様子で、ゆっくりと部屋を歩き回った。その指先が、テーブルの上の装飾品をなぞり、書棚の背表紙をなでていく。まるで、自分の領地を検分する王のような、傲岸な仕草だった。
やがて、彼は窓辺に立つと、外に広がる紅い薔薇の庭に目をやった。
「昨日は、少しばかり見苦しいところを見せた」
唐突に、彼は言った。謝罪の言葉のようだが、その口調には微塵も悔いる響きはない。
「だが、お前も理解しただろう。この城では、俺の言葉がすべてだということを」
「……ええ」
イレーネは、かろうじて答えた。
「余計な詮索は、身を滅ぼすぞ。人形は人形らしく、ただ黙って飾られていれば良い」
人形。またその言葉だ。その言葉が、イレーネの心の奥の琴線に、不快に触れた。
「……私は、人形ではありません」
ほとんど無意識に、言葉が口をついて出た。
ヴァルドは、ゆっくりと振り返った。その顔には、面白いものを見つけた子供のような、残酷な笑みが浮かんでいる。
「ほう。人形ではない、と?」
彼は、イレーネのそばに歩み寄った。その一歩一歩が、彼女の覚悟を試すように、重く響く。
「では、お前は何だというのだ。イレーネ・フォン・エルディアか? エルディア公爵家の令嬢として、王国との和平のために、この俺に嫁いできたと?」
彼の言葉は、絹の紐で首を絞めるように、じわじわとイレーネを追い詰めていく。
「……私は、イレーネです」
声が、震えた。自分でも、その言葉に確信が持てない。記憶の霧は、晴れるどころか、ますます深くなるばかりだった。
その答えを聞いて、ヴァルドは、ふっと息を漏らすように笑った。それは、心の底からの嘲笑だった。憐れみと、侮蔑が入り混じった、冷え冷えとした笑い声。
「愚かなことだ」
彼は、イレーネの顎に指をかけ、無理やり上を向かせた。抗うことはできない。紅い瞳が、至近距離から彼女の魂を覗き込む。
「教えてやろう。お前が何者なのかを」
その声は、悪魔の囁きのように甘く、そして毒に満ちていた。
イレーネは息を詰める。これから告げられる言葉が、自分のすべてを破壊してしまうだろうと、本能が警鐘を鳴らしていた。
「お前はただの、身代わりだ」
その言葉が、音として認識された瞬間、世界から一切の音が消えた。
身代わり。
みがわり。
その三文字が、頭の中で意味もなく反響する。思考が、完全に停止した。目の前に立つ男の唇が、まだ何かを語っているようだったが、その言葉はもう、彼女の耳には届かない。
血の気が、急速に引いていくのが分かった。指先が、氷のように冷たくなる。
その、魂が抜け殻になる瞬間を、ヴァルドは間近で見つめていた。
彼は、身代わりだと告げた時の、人間の反応を知っている。恐怖、怒り、絶望、あるいは命乞い。それが、当然の反応のはずだった。
だが、目の前の女は違った。
彼女の瞳に浮かんでいるのは、恐怖や怒りではない。もっと根源的な、自分の存在そのものが揺らいでいる者の、純粋な混乱と喪失だった。まるで、生まれたての赤子が、自分が誰かも分からずに、ただ世界を見つめているかのような、無垢なまでの戸惑い。
(……妙だ)
ヴァルドは、内心で眉をひそめた。
ただの身代わりならば、自分が誰であるかは知っているはずだ。金で雇われたのか、脅されたのか。いずれにせよ、「本当の自分」という確固たる軸がある。その上で、他人の役を演じているに過ぎない。
だが、この女は。
まるで、自分の正体すら、本当に知らないかのようだ。
(身代わりにしては……あまりに、魂が白すぎる)
血の契約を交わした夜の、あの奇妙な感覚が蘇る。彼女の血は、不思議な安らぎを彼に与えた。魂の反応も、穢れを知らない、清澄なものだった。
ただの替え玉が、これほどまでに純粋な魂を持っているものだろうか。
「……聞いているのか」
ヴァルドは、苛立ちを隠さずに言った。目の前の女の、魂が抜けたような表情が、彼の心をわずかにかき乱す。計画が、どこか狂っているような、不快な予感。
その声で、彼女ははっと我に返った。
そして、震える唇で、かろうじて言葉を紡ぎだした。
「……では、わたくしは……誰、なのですか」
それは、彼の予想しなかった問いだった。
ヴァルドは、一瞬、言葉に詰まった。彼は、彼女の正体など知らない。王国が用意した女。ただ、それだけだ。
彼の沈黙を、彼女は肯定と受け取ったようだった。その顔から、最後の血の気が失せ、ふらりと体が傾ぐ。
ヴァルドは、咄嗟にその腕を掴んだ。触れた腕は、驚くほどに細く、そして冷え切っていた。
「……せいぜい、己の無価値さを噛みしめるがいい」
彼はそう吐き捨てると、彼女の腕を乱暴に放し、背を向けた。これ以上、この女と対峙しているのは、不愉快だった。自分の計算が狂うような感覚が、彼を苛立たせる。
扉が閉まる冷たい音が、がらんどうになった彼女の心に響き渡った。
一人残された部屋で、彼女はその場にへたり込んだ。
身代わり。
では、私は、誰なの?
その問いには、誰も答えてくれない。答えなど、初めから存在しないのかもしれない。
彼女は、ただ、自分の両膝を抱きしめることしかできなかった。涙さえ、もう出なかった。