5.侍女の囁き
その日の午後は、永遠に続くかのように長く、そして静かだった。
鳥籠と名指された部屋から出ることは許されない。イレーネは、窓辺に置かれた肘掛け椅子に座り、ただ時の過ぎゆくのを待っていた。窓は固く閉ざされ、開けることはできない。硝子の向こうには、城の庭が広がっている。狂おしいほどに咲き誇る深紅の薔薇。その赤は、まるで大地が流した血の色のように見え、彼女の心をざわつかせた。
読書をしようと本を手に取っても、文字は少しも頭に入ってこない。刺繍をしようと針を持っても、指先が震えてうまくいかなかった。思考は常に、あの夢と、自分の正体についての問いへと引き戻されてしまう。
エルディア公爵家の令嬢としての記憶。それは、美しい絵画のようではあるが、どこか現実感に乏しい。父の顔も、母の微笑みも、友人たちと交わした言葉も、すべてが薄い紗を幾重にも重ねた向こう側にあるようで、その手触りを確かめることができなかった。
不意に、部屋の扉が控えめに叩かれた。
イレーネは驚いて顔を上げた。この部屋を訪れるのは、食事の時間を告げる侍女たちだけのはずだ。こんな中途半端な時刻に、一体誰が。
「……どなた?」
声をかけると、扉が静かに開いた。そこに立っていたのは、彼女がその姿を探していた侍女だった。
「マリア……」
イレーネは思わず椅子から立ち上がった。マリアは、他の侍女たちとは違う、人間らしい不安とためらいをその瞳に浮かべていた。彼女は部屋に入ると、背後の扉をそっと閉め、イレーネに向かって深々と頭を下げた。
「お嬢様。……お加減は、いかがでございますか」
その声は、囁くように小さく、そして震えていた。彼女がここに現れたのは、命令されたからではない。自らの意思で、イレーネを案じて来てくれたのだと、すぐに分かった。
その事実が、乾ききったイレーネの心に、温かい雫となって落ちる。
「大丈夫よ。ありがとう、マリア」
イレーネは、できるだけ穏やかな声で答えた。この侍女を、これ以上怖がらせたくはなかった。
マリアは少しだけ安堵したように顔を上げたが、その表情はすぐにまた曇った。彼女は、何かを言おうとしてはためらい、視線を彷徨わせている。その様子から、彼女が何かを知っており、そしてそれを話すべきかどうかで激しく葛藤しているのが見て取れた。
「どうしたの? 何か、私に話したいことがあるのではなくて?」
イレーネは、マリアの葛藤を解きほぐすように、優しく問いかけた。
マリアは唇をきつく結び、しばらくの間、床の一点を見つめていた。やがて、意を決したように顔を上げ、イレーネの目を真っ直ぐに見つめた。
「お嬢様は……その、この城での暮らしは、お辛くはありませんか」
「辛いかどうかは……まだ、分からないわ。来たばかりですもの」
イレーネは慎重に言葉を選んだ。ここで不用意な発言をすれば、マリアを危険に晒すことになるかもしれない。
「ですが……」
マリアは言い淀んだ。彼女の瞳が、同情と、そして何か別の感情で揺れている。
「前のご令嬢は……」
その言葉が出た瞬間、マリアははっと息を呑み、慌てて両手で自分の口を覆った。しまった、という後悔が、その顔にはっきりと浮かんでいる。彼女の大きな瞳が、恐怖に見開かれた。
前の、令嬢。
その言葉は、静かな部屋の中で、雷鳴のように響き渡った。
イレーネの心臓が、大きく跳ねる。やはり、いたのだ。自分の前に、この城に嫁いできた令嬢が。それは、漠然とした推測ではなかった。今、目の前の侍女の口から、確かな事実として語られたのだ。
「……マリア」
イレーネは、自分の声が震えないように、必死で平静を装った。
「今、前の令嬢と……そう言ったわね? 私ではない、別の令嬢がいたということ?」
マリアは、青ざめた顔で、こくこくと小さく頷いた。その瞳からは、みるみるうちに涙が溢れ出してくる。
「申し訳、ございません……わたくし、決して、口外してはならぬと……」
彼女は、その場に崩れ落ちるように膝をつき、嗚咽を漏らし始めた。
イレーネは、彼女のそばに駆け寄り、その震える肩にそっと手を置いた。
「大丈夫よ、マリア。落ち着いて。私は、あなたを責めたりしないわ」
しかし、マリアの恐怖は、イレーネの慰めの言葉では到底拭い去れるものではなかった。彼女は、この城の支配者が誰であるかを、骨の髄まで理解しているのだ。
その時だった。
部屋の扉が、何の合図もなく、乱暴に開け放たれた。
部屋の空気が、一瞬で凍りついた。そこに立っていたのは、夜の闇そのものを纏ったかのような、吸血鬼公爵ヴァルドだった。
彼の深く昏い紅の瞳が、床に泣き崩れるマリアと、その肩に手を置くイレーネの姿を、冷たく射抜いた。その視線は、絶対零度の氷の刃だ。触れるものすべてを、容赦なく切り裂いていく。
「……何をしている」
地を這うような、低く静かな声。しかし、その声に含まれた怒気は、部屋中の空気を震わせるほどだった。
マリアは、ひっと悲鳴のような息を呑み、顔面から完全に血の気を失った。その体は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、小刻みに震えている。
「公爵、様……」
イレーネは、咄嗟にマリアを庇うように、ヴァルドの前に一歩踏み出した。彼の圧倒的な存在感を前にして、足が竦む。しかし、ここで引き下がるわけにはいかなかった。
「彼女は、ただ私の様子を案じて……」
「黙れ」
ヴァルドは、イレーネの言葉を冷たく遮った。彼の視線は、もはやイレーネには向けられていない。ただ、一点、床に蹲るマリアだけを、値踏みするように見下ろしている。
「俺は、この女に余計な口を利くなと命じたはずだ。違うか」
その問いは、マリアに向けられていた。彼女は、震えながらかろうじて頷くことしかできない。
「何を話した」
ヴァルドは、ゆっくりとマリアに歩み寄る。その一歩一歩が、まるで死刑執行人が絞首台へと近づく足音のように、不吉に響いた。
「答えろ。この女に、何を囁いた」
「な、何も……何も、話しては……」
マリアは、恐怖で声もろくに出せない。
ヴァルドは、マリアの目の前で足を止めると、その美しい顔を無感動に歪めた。それは、嘲笑とも侮蔑ともつかない、冷え冷えとした表情だった。
「嘘をつくな。下賤な人間の嘘は、反吐が出る」
彼は、すっとその白い指を伸ばし、マリアの顎を掴んで、無理やり顔を上げさせた。マリアの瞳に映るのは、絶対的な支配者への恐怖と、死への諦観だった。
「やめてください!」
イレーネは、思わず叫んでいた。
「彼女は、何も悪くありません! 私が、無理に聞き出そうとしたのです! 罰するのなら、私を!」
その言葉に、ヴァルドは初めて、その紅い瞳をイレーネへと向けた。その瞳の奥に、一瞬だけ、理解しがたい複雑な色がよぎったのを、イレーネは見逃さなかった。それは、単なる怒りではない。焦りのような、あるいは、苛立ちのような色だった。
なぜ、彼はこれほどまでに、自分が「前の令嬢」について知ることを恐れるのだろう。
ただの身代わりならば、その事実を知られたところで、これほどまでに感情を露わにする必要はないはずだ。
彼が隠しているのは、もっと深い、根源的な何かだ。
ヴァルドは、掴んでいたマリアの顎を、まるで汚れたものでも捨てるかのように乱暴に放した。そして、イレーネに向き直る。
「お前を罰する? ……お前には、まだ利用価値がある。今は、な」
その言葉は、イレーネの心を冷たく抉った。やはり、自分はただの道具なのだ。
ヴァルドは、再びマリアに視線を戻すと、氷のように冷たい声で言い放った。
「二度はない。次に俺の命令に背けば、その舌を引き抜き、四肢を砕き、塵になるまで焼き尽くしてやる。……下がれ」
マリアは、その言葉に赦されたと知り、もつれる足で何度も頭を下げながら、這うようにして部屋から出ていった。その背中は、絶望に打ちひしがれていた。
部屋には、イレーネとヴァルドの二人が残された。重苦しい沈黙が、二人を隔てる。
イレーネは、恐怖と、そして新たに芽生えた強い疑念で、目の前の男を睨みつけた。
「なぜ、そこまで隠すのですか」
震える声で、彼女は問うた。
「私の前にいたという令嬢のことを」
ヴァルドは、イレーネの問いには答えなかった。ただ、その紅い瞳で、彼女の魂の奥底まで見透かそうとするかのように、じっと見つめている。やがて、彼はふっと唇の端を吊り上げた。それは、全ての希望を打ち砕くような、残酷な笑みだった。
「知る必要のないことだ。お前は、ただの人形。俺の望むままに、ここで息をしていれば良い」
彼はそう言い放つと、もうイレーネには興味を失ったとでもいうように、踵を返した。
「余計な詮索はするな」
その言葉を残し、ヴァルドは部屋から出ていった。扉が閉まり、部屋には再び、墓場のような静寂が戻ってきた。
イレーネは、その場に立ち尽くしていた。全身の力が抜け、膝ががくがくと震える。今にも崩れ落ちそうになる体を、必死で支えた。
恐怖が、冷たい霧のように全身を包み込んでいる。あの男の怒りに触れることが、どれほど恐ろしいことか、今、身をもって知った。
しかし、その恐怖の奥底で、別の感情が静かに、しかし確かに燃え上がっていた。
怒り。そして、屈辱。
人形だと、彼は言った。
ただ、息をしていれば良いと。
違う。私は、人形ではない。
この体に、確かに意識があり、心がある。
たとえ、その記憶が偽りであったとしても。
今日の出来事で、確信したことがある。
「前の令嬢」の存在は、この城の、そしてヴァルド公爵の、決して触れられてはならない秘密の核心なのだ。そして、その秘密を解き明かすことこそが、自分が何者であるかを知るための、唯一の鍵なのだと。
マリアを危険に晒してしまったことへの罪悪感が、胸を締め付ける。もう二度と、誰かを巻き込むわけにはいかない。これからは、一人で戦わなければならない。
イレーネは、固く拳を握りしめた。爪が、掌に食い込む。
奪われた自分を取り戻す。
その決意は、今や、揺るぎないものとなっていた。たとえ、その先に待つ真実が、どれほど残酷なものであろうとも。
彼女は、窓の外に広がる血のように赤い薔薇の庭を、静かに見つめていた。その瞳の奥には、昨日まではなかった、硬く、そして冷たい光が宿っていた。