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偽りの花嫁は、紅の檻で咲わない  作者: 秋月アムリ
第1章 偽りの始まり
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4.夢の断片

 夜の静寂が、死んだように部屋を支配していた。

 ヴァルドが闇に消えてから、どれほどの時が流れたのか。イレーネにはもはや、時間の感覚というものがなかった。ただ、天蓋付きの寝台に横たわり、虚空を見つめるだけ。首筋に残る二つの小さな傷跡が、じくじくと熱を持っている。あの男に刻まれた、所有の証。血を吸われた体の気怠さと、魂の奥深くに注ぎ込まれた痺れるような毒の余韻が、彼女の思考を鈍らせていた。


『お前は、一体何者だ』


 彼の最後の問いが、呪いのように耳の奥で繰り返される。それは、この城に来てからずっと、彼女自身が抱き続けてきた問いだった。私はイレーネ・フォン・エルディア。そのはずなのに、なぜ彼は私を「違う」と断じるのか。


 ならば、私は。この私という意識は、一体誰のものなのだろう。


 答えは見つからない。思考は深い霧の中を彷徨い、やがて重い疲労が彼女の意識をゆっくりと沈めていった。抗う気力もなく、イレーネは暗く冷たい眠りの底へと落ちていく。


 ―――その眠りは、安息ではなかった。


 ふと気づくと、彼女は裸足で立っていた。足元に感じるのは、ぬかるんだ土の冷たい感触。生温かい泥が、指の間にじゅくじゅくと入り込んでくる。不快な感覚に眉をひそめ、イレーネは自分の足元を見た。白いはずの肌は泥に汚れ、見たこともないような粗末な草履を履いている。


 周囲を見渡すと、そこは信じられない光景が広がっていた。今にも崩れ落ちそうな、歪んだ家々が所狭しとひしめき合っている。壁は剥がれ落ち、屋根には穴が空いていた。道端には腐った野菜や汚物が打ち捨てられ、鼻をつくほどの悪臭が立ち込めている。家畜の糞と、澱んだ水と、貧しさそのものが発するような、重く湿った匂い。


 また、この夢だ。


 いったいここは、どこだ。こんな場所知らない。知るはずがない。エルディア公爵家の令嬢として、清浄な空気と磨かれた床の上でしか生きてこなかったはずの自分が、なぜこんな場所にいるのか。


 人々が、虚ろな目をして通り過ぎていく。誰もが痩せこけ、その顔には深い疲労と諦めが刻まれていた。彼らの纏う服は、色褪せたぼろ布のようだった。その光景は、地獄の絵図のようにも見えたが、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ、どこか懐かしいような、胸の奥が締め付けられるような奇妙な感覚があった。


 自分の体も、いつもの豪奢なドレスではなく、粗末な麻のワンピースのようなものを着ている。ごわごわとした生地が肌に擦れて痛い。風が吹くと、薄汚れた建物の隙間から、騒がしい市場の声や、子供たちの甲高い笑い声が聞こえてくる。それは、自分が知るはずのない、猥雑で、しかし生命力に満ちた音だった。


 なぜ。なぜ私は、ここにいるのだろう。

 これは夢だ。そうに違いない。けれど、足元の泥の感触も、鼻をつく悪臭も、肌を撫でる湿った風も、あまりに生々しかった。まるで、かつて自分が本当にここにいたかのように。


 その考えが浮かんだ瞬間、景色がぐにゃりと歪んだ。


 次の瞬間、彼女は薄暗い石造りの部屋にいた。先ほどの貧民街とは違う、ひやりとした空気が肌を刺す。窓のない、閉ざされた空間。壁にはめ込まれた松明の炎が、ゆらゆらと頼りなく揺れている。


 目の前に、誰かが立っていた。


 前の夢でも見た、紅い、ドレスを着た女だった。

 だが今回は前よりもはっきり見える。燃えるような、血のような深紅のドレス。その女は背を向けていたが、その立ち姿だけで、気高い身分の者だと分かった。豊かに波打つ豪奢な金髪が、松明の光を反射してきらめいている。


 女は、何かから逃れるように、部屋の奥へとおずおずと足を進めていた。その肩は小さく震えている。


「……いや……いやよ……」


 か細い、掠れた声が聞こえた。女の声だ。恐怖に引きつり、ほとんど音になっていない。


 イレーネは、その女に声をかけようとした。あなたは誰、と。しかし、声が出ない。体も動かない。まるで、自分はこの場の光景をただ見せられているだけの、透明な傍観者であるかのようだった。


 女は、部屋の最奥で足を止めた。そこには、床に直接描かれた、複雑で禍々しい紋様があった。魔法陣だ。黒いインクで描かれたそれは、まるで生きているかのように、不吉な光を放っている。


「違う……こんなはずでは……!」


 女は絶望に満ちた声で叫んだ。そして、ゆっくりとこちらを振り返る。


 その顔だけは、濃い影に覆われていて、はっきりと見えなかった。ただ、恐怖に見開かれた瞳だけが、暗闇の中で爛々と光っている。その瞳の色は―――自分と同じ、青い色をしているように見えた。


「いやあああああああっ!」


 女が、甲高い悲鳴を上げた。それは、魂を引き裂くような、断末魔の叫びだった。その叫びと同時に、魔法陣が眩い光を放ち、部屋全体が白く染まる。割れた硝子が飛び散るような、耳をつんざく甲高い音が響き渡った。


 イレー-ネは、思わず目を固く閉じた。


 はっとして瞼を開くと、そこは見慣れた自室の天井だった。心臓が、警鐘のように激しく胸を打ち鳴らしている。全身はびっしょりと汗で濡れ、シーツが肌に冷たく張り付いていた。


「はっ……はぁっ……」


 荒い呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと身を起こす。窓の外は、まだ夜の闇に閉ざされたままだった。部屋の中は、相変わらずの静寂に満ちている。


 この夢は何なのだろう。


 貧民街の風景。紅いドレスの女。魔法陣。そして、魂を揺さぶるような、あの叫び声。

 自分の記憶には、どこにも存在しないはずの光景。知らない場所、知らない出来事。それなのに、あの夢の中の感覚は、ひどく生々しく、今も肌に残っているようだった。泥の感触。悪臭。女の恐怖。


 これは、ただの夢ではない。

 イレーネは直感的にそう感じた。あれは、誰かの記憶の断片だ。


 では、なぜ自分は、あんな夢を見たのか。


 思考が、急速に回転を始める。この城に来てからの出来事が、次々と脳裏に蘇る。

 婚礼の日に、ヴァルド公爵に告げられた言葉。

 血の契約を交わした夜の、彼の困惑した表情。


 彼は、私ではない誰か―――「あの女」を知っている。そして、私はその女と、よく似ている。


 そして、今見た夢。

 金髪の、紅いドレスの女。あれが、公爵の言う「あの女」なのだろうか。


 だとしたら、私は?


 イレーネは、震える手で自分の顔に触れた。頬、鼻、唇。そして、自分の髪をひと房、手に取って見つめる。それは、夢で見た女のような輝かしい金髪ではなく、落ち着いた色合いの栗毛だった。


 記憶の中の自分は、どんな姿をしていた?

 父や母の顔は? 育った屋敷は? 友人たちの声は?

 思い出そうとすればするほど、記憶は濃い霧に包まれて、その輪郭を失っていく。確かなものは何一つない。まるで、誰かに与えられた物語を、必死に思い出そうとしているかのようだった。


 ぞっとするような寒気が、背筋を駆け上がった。

 もしかしたら、自分は。


 その疑念は、一度芽生えてしまうと、毒のように心を蝕んでいく。自分という存在の土台が、足元から崩れ落ちていくような、途方もない恐怖。


 私は、誰なの?


 その問いは、もはや漠然とした不安ではなかった。明確な形を持った、鋭い刃となって彼女の心を突き刺す。


 夜が明けるまでの時間は、永遠のように長く感じられた。イレーネは一睡もできず、ただ暗闇の中で、自分の存在が揺らいでいく恐怖に耐え続けた。


 やがて、窓布の隙間から、青白い光が差し込み始めた。夜の終わりを告げる光。しかし、その光は彼女の心に安らぎをもたらすどころか、これから向き合わねばならない現実の冷たさを、より一層際立たせるだけだった。


 扉が静かに開き、無表情な侍女たちが二人、入ってくる。いつもと同じ、機械的な動き。彼女たちはイレーネの存在など意に介さないように、黙々と朝の支度を始めた。


 イレーネは、なされるがままに着替えをさせられながら、侍女たちの顔をじっと見つめた。この者たちは、何かを知っているのだろうか。私の正体を。私が、偽物であることを。

 しかし、彼女たちの瞳は何も語らない。ただ、深く昏い井戸の底のように、感情というものが一切見えなかった。


 食卓に運ばれた食事は、見た目も美しく、銀の食器が鈍い光を放っている。しかし、今のイレーネには、それがただの石くれのようにしか見えなかった。食欲など、全く湧かない。


「……マリアは」


 ほとんど無意識に、その名が口をついて出た。

 侍女の一人が、ぴくりと動きを止める。そして、感情のない声で答えた。


「マリアは本日、別の任に就いております」

「そう……」


 落胆が、胸に広がった。あの侍女だけが、この冷たい城での唯一の光だった。彼女の瞳にだけは、怯えや同情といった、人間らしい感情が宿っていた。彼女になら、何かを尋ねることができたかもしれない。


 しかし、今はいない。

 イレーネは再び、孤独の淵に突き落とされたような心地がした。


 目の前の食事に、自分の顔がぼんやりと映っている。青ざめ、怯えに引きつった、見知らぬ女の顔。

 分からない。何もかもが、分厚い霧の向こう側だ。

 けれど、一つだけ確かなことがある。


 このまま、何も知らずに飼い殺しにされるわけにはいかない。

 この紅の檻の中で、ただ息を潜めて生きるつもりはない。


 イレーネは、スープ皿に映る自分の顔を、真っ直ぐに見つめ返した。その瞳の奥に、昨日まではなかった、硬く冷たい光が宿っている。それは、絶望の淵から生まれた、ささやかな反抗の光だった。


 奪われた自分を、この手で取り戻す。

 その先に、どれほど残酷な真実が待ち受けていようとも。


 彼女は、震える手で銀の匙を手に取った。冷たいスープを、ただ儀式のように、ゆっくりと口に運ぶ。味はしなかった。


 これから始まる戦いに備えるように、今はただ、生き延びなければならなかった。

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