3.血の契約
マリアという侍女が残した温かい言葉の波紋は、しかし、夜の静寂が深まるにつれてゆっくりと消えていった。イレーネは広すぎる寝台の上で、一人、暗闇を見つめていた。あの侍女の瞳に宿っていたのは、怯えと、そして確かに同情の色だった。この冷たい城の中で、初めて向けられた人間らしい感情。それは心細い灯火のように思えたが、同時に、彼女を危険に晒してしまうのではないかという恐れがイレーネの心を苛んだ。
公爵の命令は絶対だ。『誰かと話すことも許さん』。あの言葉の冷たさは、思い出すだけで肌が粟立つ。マリアの親切が公爵の耳に入れば、彼女はきっと罰せられるだろう。そう思うと、軽率に彼女に頼ることはできなかった。
思考が堂々巡りを始める。自分は一体、誰なのか。自分の記憶は、なぜこうも曖昧で、他人の記憶のような夢を見るのだろう。公爵が言う「あの女」とは。そして、なぜ自分は「違う」と断じられたのか。
答えのない問いが、夜の闇に溶けてはまた浮かび上がる。時間の感覚はとうに麻痺していた。窓の外では、月が黒い森の梢を静かに照らしている。この部屋から見える景色だけが、世界のすべてだった。
不意に、扉が音もなく開いた。
心臓が喉元まで跳ね上がる。侍女たちの訪れにしては、時刻が遅すぎる。闇の中に、人影がすっと滑り込んできた。月光がその輪郭を縁取り、長い黒髪と、夜そのものを纏ったかのような衣の男がそこに立っていた。
ヴァルド公爵だった。
イレーネは息を詰める。身じろぎ一つできなかった。彼は何の合図もせず、まるで自分の部屋であるかのように、静かに、しかし圧倒的な存在感を放ちながら室内へと歩を進めてくる。その足音はほとんど聞こえない。闇に溶ける獣のように、滑らかな動きだった。
彼は寝台のそばまで来ると、足を止めた。そして、闇に慣れた紅い瞳で、寝台に縫い付けられたように固まっているイレーネを見下ろした。その視線には、何の感情も浮かんでいないように見える。ただ、獲物を前にした捕食者のような、静かな圧があった。
「今宵は、婚礼の儀を執り行う」
彼の声は、夜の静寂を切り裂く氷の刃のようだった。低く、温度のない声。
「こん、れいの……ぎ?」
かろうじて絞り出した声は、掠れて震えていた。婚礼など、とうに終わったのではなかったか。いや、そもそも婚礼らしい儀式など何もなかった。ただ、この城へ荷物のように運び込まれただけだ。
「吸血鬼と人間の婚姻は、ただ誓いを交わすだけでは成立せぬ」
ヴァルドはゆっくりとイレーネの顔に手を伸ばした。その指先が彼女の頬に触れる。ぞっとするほどの冷たさが、肌から血の気を奪っていく。
「互いの血を交わし、魂を縛る契約が必要だ。お前が、俺の『花嫁』であるという証を、その身に刻む」
血を、交わす。その言葉の意味するところを悟り、イレーネの全身から急速に熱が引いていく。恐怖が、冷たい蔓のように心臓を締め上げた。
「いや……」
拒絶の言葉は、音になる前に彼の指に塞がれた。ヴァルドはイレーネの唇にそっと指を当て、静かに首を振る。
「拒むことは許されぬ。これは決定事項だ」
有無を言わせぬ響き。彼の紅い瞳が、暗闇の中で妖しく光る。その瞳に見つめられると、意思も、思考も、すべてが吸い取られていくようだった。抗うことなど、初めから不可能だったのだ。
彼はイレーネの隣に、その重さを感じさせずに腰を下ろした。寝台が微かに軋む。間近で見る彼の顔は、この世のものとは思えぬほど整っていた。陶器のように白い肌、彫刻のように深い目鼻立ち。だが、その美しさは生命の温かみとは無縁の、死の美しさだった。
ヴァルドはイレーネの細い手首を取り、その白い肌を指でなぞった。彼の指が触れた場所が、そこだけ凍てつくようだ。
「……動くな。すぐに終わる」
彼はそう言うと、わずかに身を屈めた。そして、イレーネの首筋に顔を寄せる。彼の冷たい髪が、彼女の頬をくすぐった。吐息が耳にかかり、全身の産毛が逆立つ。
次の瞬間、首筋に鋭い痛みが走った。
「あっ……!」
短い悲鳴が漏れる。皮膚を突き破り、肉に食い込む二本の牙。それは、ただの痛みではなかった。生命そのものを、根こそぎ吸い上げられていくような、冒涜的な感覚。全身の力が抜け、思考が白く染まっていく。
血が、体から流れ出ていく。ごくり、と喉を鳴らす音が、間近で聞こえた。自分の血が、この男の喉を通っていく。その事実が、恐怖と共に、奇妙な背徳感を呼び起こした。
意識が遠のきかけた、その時だった。
痛みが、ふっと和らいだ。代わりに、体の奥底から、今まで感じたことのない微かな熱が湧き上がってくる。それはまるで、痺れるような甘い毒が、血流に乗って全身を駆け巡るかのようだった。
「ん……ぅ……」
意図しない、甘い吐息が漏れた。なんだ、これは。恐怖と痛みで麻痺していたはずの体が、奇妙な感覚に支配されていく。牙が突き立てられた場所から、快い痺れが波紋のように広がっていく。それは不快なはずなのに、どこか心地よくて、思考を蕩かしていく。
混乱するイレーネの反応を、ヴァルドは見逃さなかった。彼はゆっくりと顔を上げ、その唇を彼女の首筋から離した。彼の唇は、吸ったばかりの血で艶かしく濡れていた。そして、その紅い瞳には、初めて見る色が浮かんでいた。
それは、困惑の色だった。
「……お前は」
彼は、何か信じられないものでも見るかのように、イレーネの顔を凝視した。その瞳は、彼女の魂の奥底まで見透かそうとするかのように、鋭く細められている。
「この感覚……。あの女とは、まるで……っ」
吐き捨てるような、それでいてどこか愕然としたような声。彼はイレーネの血を味わい、その魂の反応を探っていたのだ。そして、その結果が、彼の予想を完全に裏切った。
「血の味も、香りも。そして、この魂の反応も……。なぜだ。なぜ、これほどまでに」
彼は独り言のように呟くと、再びイレーネの首筋に牙を立てた。今度は先ほどよりも深く、貪るように。激しい痛みが再びイレーネを襲うが、それと同時に、先ほどの甘い痺れもまた、荒れ狂う奔流のように全身を駆け巡った。
「あ……ぁっ……!」
快楽と苦痛の入り混じった、奇妙な感覚。意識が明滅し、現実と夢の境界が曖昧になっていく。自分の体が自分のものでなくなっていくような、抗いがたい感覚に、ただ身を委ねるしかなかった。
どれほどの時間が経ったのか。
ヴァルドがようやくその唇を離した時、イレーネにはもう、指一本動かす力も残っていなかった。ぐったりと寝台に沈む彼女を見下ろすヴァルドの表情は、険しく、そして不可解に満ちていた。
彼はイレーネの頬に再び触れた。その手つきは先ほどとは違い、何かを確かめるように、ひどく慎重だった。
「お前は、一体何者だ」
その問いは、静かな部屋に重く響いた。それは、イレーネ自身が、ずっと自問してきた言葉だった。
ヴァルドはそれ以上何も言わず、音もなく立ち上がった。そして、一度だけ複雑な色を浮かべた瞳でイレーネを振り返ると、そのまま闇の中へと姿を消した。
扉が閉まり、部屋には再び、完全な静寂が戻ってきた。
イレーネは、ぼんやりとした意識の中で、自分の首筋にそっと触れた。そこには、二つの小さな傷跡が残っている。まだ、じんじんと熱を持っている。あの男に付けられた、所有の印。
体の奥には、まだあの奇妙な痺れの余韻が残っていた。それは、彼女の体に深く刻み込まれた、消えない契約の証だった。
ヴァルドの最後の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
『お前は、一体何者だ』
違う。違うのだと、彼は言った。血の味も、魂の反応も。何もかもが、彼が知る「あの女」とは違うのだと。
ならば、私は。
この体に宿る魂は。
この城に来てからずっと感じていた違和感が、今、確信に変わろうとしていた。自分は、ただの代わりですらないのかもしれない。もっと根本的な何かが、間違っている。
イレーネは、暗闇の中で固く拳を握りしめた。涙は出なかった。ただ、冷たい怒りのようなものが、体の芯から静かに湧き上がってくるのを感じた。
このまま、何も知らずに飼われるだけの鳥でいるつもりはない。
奪われた記憶を、失われた自分を、この手で取り戻さなければならない。たとえ、その先に待つ真実が、どれほど残酷なものであっても。