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偽りの花嫁は、紅の檻で咲わない  作者: 秋月アムリ
第1章 偽りの始まり
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2.紅の檻

 夜の闇が薄れ、窓布の隙間から青白い光が差し込む頃、イレーネは重い瞼を押し上げた。見知らぬ天井の精緻な彫刻が、ぼやけた視界の中でゆっくりと焦点を結ぶ。昨夜の出来事は、悪夢ではなかった。


 広すぎる寝台の上で、彼女はゆっくりと身を起こした。肌に触れるシーツは上質なものなのだろうが、氷のように冷たく感じられる。部屋の中は、物音ひとつしない。まるで時が止まった霊廟(れいびょう)の中に、自分だけが取り残されたかのようだった。


 昨夜、あの男―――吸血鬼公爵ヴァルドに言われた言葉が、頭の中で冷たく反響する。


 『話が、違うな』

 『あの女とはまるで違う』


 私はイレーネ・フォン・エルディア。その事実に疑いはないはずだった。なのに、彼の紅い瞳に見つめられた瞬間、自分の存在が砂の城のように、足元から崩れていくような感覚に襲われた。あの瞳は、見せかけの姿形ではなく、その奥にある魂そのものを見透かしているようだった。


 不意に、扉が静かに開いた。入ってきたのは、昨夜と同じ、無表情な侍女たちだった。彼女たちは一言も発さず、機械的な仕草でイレーネの寝間着を脱がせ、豪奢だが動きにくそうな室内着へと着替えさせる。その手つきに、温もりは一切ない。


 イレーネは、なされるがままになりながら、喉まで出かかった問いを何度も飲み込んだ。あなたたちは誰なのか。ここはどんな場所なのか。そして、公爵様が言っていた「あの女」とは、一体誰のことなのか。


 しかし、彼女たちの鉄のような無表情を前にすると、どんな言葉も意味をなさないように思えた。


 着替えが終わると、部屋の一角に置かれた食卓へ促される。並べられた食事は、見た目も美しく、香りも豊かだったが、食欲は全く湧かなかった。ただ、儀式のように銀の食器を手に取り、ほんの少しだけ口に運ぶ。


 その時だった。部屋の扉が再び、今度は何の合図もなく開かれた。現れたのは、ヴァルド公爵その人だった。


 部屋の空気が、一瞬で凍てついた。侍女たちは一斉に動きを止め、深く頭を垂れる。イレーネもまた、手にしていたフォークを皿の上に落としそうになり、慌てて握りしめた。


 彼は、昨日と同じく、夜色の衣を纏っていた。昼の光が差し込む部屋の中でも、彼の周りだけが夜の闇を帯びているように見える。彼は食卓には目もくれず、真っ直ぐにイレーネを見据えた。


「言い忘れていたことがある」


 彼の声は、静かだが部屋の隅々まで響き渡った。


「この城がお前の檻だ。そして、この部屋がお前の鳥籠だ」


 ヴァルドはゆっくりとイレーネに近づく。彼女は、椅子に縫い付けられたかのように身動き一つできなかった。


「俺が許すまで、この部屋から一歩も出るな。誰かと話すことも許さん。ただ、ここで息だけしていろ。いいな」


 それは問いかけの形をしていたが、返事を求める響きではなかった。有無を言わせぬ、絶対的な命令。イレーネは、かろうじて小さく頷いた。何かを言い返そうものなら、その紅い瞳に射抜かれ、魂ごと砕かれてしまいそうだった。


 彼は、イレーネの返事を確認すると、満足したわけでもなく、ただ興味を失ったように踵を返した。そして、扉から出ていく間際に、侍女たちに向かって冷たく言い放った。


「この女が余計なことを考えぬよう、しっかり見張っておけ。もし何かあれば、お前たちから先に処分する」


 扉が閉まると、部屋に残された侍女たちの顔が、恐怖で僅かに強張ったのが分かった。しかし、それも一瞬のこと。彼女たちはすぐに元の無表情に戻り、黙々と食事の後片付けを始めた。


 ヴァルドが去った後も、部屋の中には彼の冷気が残っているようだった。イレーネは、自分が本当に鳥籠の中の鳥になったのだと実感した。美しく飾られた、しかしどこへも飛んでいけない鳥。


 その日の午後は、ただ窓の外を眺めて過ごした。窓は固く閉ざされ、開けることはできない。硝子の向こうには、城の庭が広がっていた。そこには、見たこともないような深紅の薔薇が、狂おしいほどに咲き誇っている。美しい光景のはずなのに、その赤色はまるで血の色のように見え、イレーネの心を不安にさせた。


 時間は、恐ろしく緩慢に流れた。時計の針が刻む音だけが、この部屋に時が存在することを教えてくれる。


 夕食の時刻になり、再び侍女たちが食事を運んできた。その中に一人、他とは少し雰囲気の違う、若い侍女がいることにイレーネは気づいた。他の侍女たちが人形のようであるのに対し、その侍女の瞳には、僅かながら怯えと、そして同情のような色が浮かんでいるように見えた。


 侍女がイレーネのそばに食器を並べた時、小さな声で囁いた。


「お嬢様、何かございましたら、お声をかけてくださいませ。わたくし、マリアと申します」


 その声は、この城に来て初めて聞いた、人の温かみを感じさせる声だった。イレーネは驚いて顔を上げた。マリアと名乗った侍女は、他の侍女たちの視線を気にするように、すぐに目を伏せてしまったが、その一言は、乾いた大地に染み込む一滴の水のように、イレーネの心に沁みた。


「マリア……」


 何かを尋ねたい。けれど、公爵の「誰かと話すことも許さん」という命令が頭をよぎる。そして、彼女を危険に晒したくはなかった。イレーネはただ、彼女の名を小さく繰り返すことしかできなかった。


 マリアは、イレーネの葛藤を察したのかもしれない。彼女は仕事に戻るふりをしながら、もう一度だけ、ほんの僅かにイレーネに視線を向け、小さく頷いてみせた。それは、声なき約束のようにも思えた。



 その夜、イレーネはなかなか寝付けなかった。ようやく微睡みの中へ落ちていくと、奇妙な夢を見た。


 自分は、泥濘んだ道を裸足で歩いていた。周囲には、みすぼらしい家々がひしめき合っている。貧しい街の匂い。腐った野菜と、家畜の糞の匂い。そんな場所に、自分は一度も行ったことなどないはずなのに、その光景には奇妙な現実感があった。


 場面が変わり、今度は暗い部屋の中にいた。目の前には、紅いドレスを着た女が立っている。顔はよく見えない。女は何かを必死に叫んでいるが、その声は水の中にいるようにくぐもって聞こえなかった。ただ、その姿から、深い絶望と恐怖が伝わってくる。


 夢だと分かっているのに、心臓が激しく波打った。


 はっとして目を覚ますと、部屋は完全な闇に包まれていた。自分の心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。頬に、冷たい汗が伝っていた。


 今の夢は何だったのだろう。貧民街の風景。紅いドレスの女の叫び。どちらも、自分の記憶にはないものだ。しかし、あの夢の中の感覚は、ひどく生々しかった。


 イレーネは暗闇の中で、ぎゅっと自分の体を抱きしめた。

 公爵に「違う」と告げられた違和感。失われたかのように曖昧な記憶。そして、今見たばかりの不穏な夢の断片。


 全てが繋がりそうで、繋がらない。まるで、分厚い霧の中で、必死に手探りをしているようだ。


 この城は、美しいだけの檻ではなかった。人の心を、記憶を、静かに狂わせていく、何か得体の知れないものが潜んでいる。


 イレーネは、ただ夜が明けるのを待つしかなかった。この終わりの見えない夜が、いつか明ける日が来るのかも分からぬまま。

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