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偽りの花嫁は、紅の檻で咲わない  作者: 秋月アムリ
第1章 偽りの始まり
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1.紅の婚礼

 馬車は揺れていた。鉄の車輪が石畳を噛む乾いた音が、周りを囲む深い森の静寂に吸い込まれては消える。窓の外を流れるのは、どこまでも続く黒い針葉樹の海。その梢の向こうには、血を吸ったような夕闇がじわりと滲んでいた。


 イレーネ・フォン・エルディアは、固く組んだ指先を見つめていた。指先は氷のように冷え、血の気が失せている。純白の絹で仕立てられた豪奢な礼装は、まるで彼女の体温を奪うかのようだ。


「もう間もなく、紅の檻(クレム・ケージ)の領域に入ります」


 向かいの席に座る男が、感情の乗らない声で告げた。王国からの使者であり、この婚礼の監視役でもある初老の貴族だ。彼の目は一度もイレーネの顔を捉えず、ただ窓の外の闇を見つめている。


「……はい」


 かろうじて絞り出した声は、自分のものではないかのように微かに震えた。胸の奥に、冷たい霧が立ち込めている。いつからだろうか。自分の記憶が、まるで薄い紗を幾重にも重ねた向こう側にあるように、ひどく曖昧なのは。


 婚礼を前にした緊張のせいだと、彼女は自分に言い聞かせていた。由緒あるエルディア公爵家の令嬢として、吸血鬼が支配するこの辺境の地へ嫁ぐ。それは王国と吸血鬼との和平を保つための、極めて政治的な婚姻。父であるエルディア公爵から言い渡された時も、自分はただ静かに頷いたはずだった。


 なのに、なぜだろう。父の顔が、自分の育った屋敷の庭の風景が、陽光の下で笑い合ったはずの友人たちの顔が、すべて遠い夢の中の出来事のように感じられる。思い出そうとすればするほど、霧は深くなるばかりだった。


「この婚姻が、王国にとっていかに重要であるか。ゆめゆめお忘れなきよう」


 使者は念を押すように言った。その言葉には、彼女個人の感情を一切許さないという、冷たい響きがあった。


「貴女様は、エルディア家の令嬢として、そして王国とヴァルド公爵領との架け橋として、その役目を果たさねばなりません。たとえ、いかなる仕打ちを受けようとも」


 いかなる仕打ち。その言葉が、イレーネの胸に小さな棘となって突き刺さる。嫁ぎ先は、夜を生き、人の血を糧とすると言われる吸血鬼の長、ヴァルド公爵。その名を聞くだけで、王都の令嬢たちは恐れ慄き、顔を青ざめさせた。冷酷で、耽美で、そして人の心を持たない、と。


 馬車が不意に速度を落とした。森を抜け、巨大な鉄の門がゆっくりとその口を開けていくのが見える。門の先には、天を突くように聳え立つ城の尖塔があった。黒々とした城壁は、まるで夜そのものを切り出して固めたかのようだ。あれが、これから自分が暮らすことになる城。吸血鬼公爵ヴァルドの居城、通称「紅の檻」。


 城の名を聞いた時、胸をよぎった微かな疼きは何だったのだろう。檻。その言葉が持つ不吉な響きに、イレーネは知らず息を詰めた。


 馬車が完全に停止し、従者によって扉が開かれる。外気に肌を晒した瞬間、ひやりとした空気が礼装の絹地を通して肌を刺した。それはただ気温が低いというだけではない。生命の温かみが希薄な、どこか墓所にも似た空気だった。


 イレーネは使者に促されるまま、馬車を降りた。目の前には、巨大な城の扉がそそり立っている。精巧な彫刻が施されているが、その意匠は茨や骸骨を思わせ、見る者に威圧感を与えた。


 城の扉が、音もなく内側へ開く。中から現れたのは、蝋人形のように無表情な侍女たちだった。彼女たちの動きは滑らかで無駄がない。しかし、その瞳には何の光も宿っていなかった。まるで魂を抜かれた操り人形のようだ。誰一人として、新しい花嫁を歓迎する言葉を口にしない。ただ、深い静寂だけが満ちていた。


 広大なホールは、高い天井から吊るされた巨大な燭台の光で、薄暗く照らし出されていた。磨き上げられた黒大理石の床に、イレーネの純白の姿が頼りなげに映り込む。壁には巨大な絵画が掲げられ、歴代の城主であろうか、いずれも人間離れした美貌の人物たちが、こちらを冷ややかに見下ろしていた。


 祝福も、歓迎の言葉もない。ただ、凍てつくような沈黙と、値踏みするような視線だけがある。ここは婚礼の場などではない。まるで、生贄が祭壇へ引き出されるのを待つ儀式の場のようだった。


 その時、ホールの奥、大階段の上から、一人の男がゆっくりと降りてきた。


 息を、呑んだ。


 それが、吸血鬼公爵ヴァルドだった。


 夜の闇を溶かし込んで固めたような黒髪は、燭台の光を吸い込んで鈍い艶を放っている。雪のように白い肌は、病的なほどに滑らかで、陶器を思わせた。通った鼻梁に、薄く引き結ばれた唇。そして、その瞳。あらゆる光を拒絶するような、深く昏い紅。宝石のようにも見えるが、その奥に宿るのは、生命あるものが決して持ち得ない絶対的な虚無と、永すぎる時を生きた者の底なしの倦怠だった。


 完璧すぎるほどに整った貌。しかし、それは生きた人間の美しさではなかった。死の淵を覗き込むような、抗いがたい魅力を放つ、恐ろしいまでの美貌だった。


 彼は、音もなく階段を降りきると、イレーネの目の前で足を止めた。その距離、わずか数歩。彼から発せられる冷気が、イレーネの全身を絡めとる。目の前にいるのは、確かに人のかたちをしている。だが、その本質は全くの異種なのだと、肌が、魂が、悲鳴を上げていた。


「……」


 ヴァルドは何も言わず、ただイレーネを見下ろしている。その紅い瞳が、彼女の髪の色を、目の色を、肌の質感を、まるで品定めでもするかのように、ゆっくりと、執拗に検分していく。その視線に晒され、イレーネは身を固くした。ドレスの裾を握りしめる指先に、爪が食い込む。


 長い、窒息しそうなほどの沈黙の後、ヴァルドがおもむろに口を開いた。彼の声は、見た目と同じように、深く、そして温度というものが全く感じられなかった。


「話が、違うな」


 その言葉の意味を、イレーネは理解できなかった。隣に立つ王国からの使者が、びくりと肩を揺らすのが分かった。


「公爵様、それは……」


 使者が何かを言いかけたが、ヴァルドはそれを無視した。彼はイレーネに向かって一歩踏み寄り、その白い指先で、彼女の頬に触れた。


 ひっ、とイレーネは短く息を吸う。触れられた場所から、熱が急速に奪われていく。まるで氷片を押し当てられたかのようだ。彼の指は、ゆっくりと彼女の輪郭をなぞり、顎のラインで止まった。


「似ている。だが、違う」


 ヴァルドの紅い瞳が、イレーネの瞳を真っ直ぐに射抜く。その瞳の奥を覗き込もうとした瞬間、彼女の頭の中に、鋭い痛みが走った。


 ―――紅いドレス。割れた硝子。誰かの、叫び声。


 一瞬だけ見えた、知らないはずの光景。それはすぐに霧の奥へと消えていく。イレーネは混乱に目を見開いた。今のは、何?


「魂の匂いが違う。血の香りも。……なにより」


 ヴァルドは、イレーネの耳元にその冷たい唇を寄せた。彼の吐息が、まるで冬の風のように彼女の肌を撫でる。


「その瞳に宿るものが、あの女とはまるで違う」


 囁かれた言葉は、呪いのようにイレーネの心に染み込んだ。


 あの女。


 その言葉が、彼女の存在そのものを揺さぶる。私は、イレーネ・フォン・エルディア。エルディア公爵家の令嬢として、ここに嫁いできたはず。それなのに、この男は、私を誰かと比べ、そして違うと断じている。


 では、あの女とは誰のこと?

 そして、なぜ私は違うと言われるの?


 思考はまとまらない。頭の中の霧が、渦を巻いて彼女の意識を飲み込もうとする。


 ヴァルドはふっと唇の端を歪めた。それは笑みと呼ぶにはあまりに冷たく、侮蔑の色さえ浮かんでいた。


「まあ、良い。人形は人形か」


 彼はそう吐き捨てると、もうイレーネには一片の興味も無いとでも言うように、身を翻した。その冷徹な背中は、いかなる言葉も届かない絶壁のように見えた。


「花嫁を部屋へ」


 背を向けたまま命じると、ヴァルドは階段を上がり、再び闇の中へと消えていった。まるで、嵐が過ぎ去ったかのような静寂がホールに残される。


「イレーネ様、こちらへ」


 いつの間にか隣に立っていた侍女が、感情のこもらない声でイレーネを促した。使者は、公爵が去ったことに安堵したのか、あるいはその冷たい歓迎に狼狽したのか、複雑な表情で立ち尽くしている。


 彼女に導かれるまま、イレーネはあてがわれた自室へと向かった。婚礼の儀式もない。晩餐会もない。ただ、花嫁は荷物のように、一つの部屋へと運び込まれただけだった。


 部屋は、無駄に広く、そしてひどく寒々しかった。天蓋付きの寝台も、豪奢な衣装箪笥も、美しい装飾が施された鏡台も、すべてが氷のように冷たく感じられる。まるで、持ち主のいない部屋のようだ。


 侍女たちが手際よく婚礼の礼装を脱がせ、薄い絹の寝間着に着替えさせる。その間、イレーネは人形のようにされるがままだった。思考は完全に麻痺していた。


 やがて侍女たちが退室し、部屋にはイレーネ一人が残された。広すぎる空間に、自分の呼吸の音だけが響く。彼女はふらふらと窓辺へ歩み寄った。厚い硝子の向こうには、どこまでも広がる夜の森が見える。月明かりが、黒い木々の梢を銀色に縁取っていた。美しい、しかし、どこかこの世のものではないような、隔絶された風景だった。


 結局、婚礼らしいことは何もなかった。

 ただ、冷たい言葉で「違う」と断じられただけ。


 胸の奥で、何かが軋むような音がした。それは、自分が信じてきたものが足元から崩れていくような、途方もない不安の音だった。


 イレーネは、窓枠にそっと額を押し付けた。硝子の冷たさが、燃えるように熱い肌に心地よかった。涙は出なかった。ただ、深い、深い喪失感だけが、彼女の心を静かに満たしていく。


 これから、この紅の檻で、自分はどうなっていくのだろう。

 答えのない問いが、夜の闇に溶けて消えた。

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