春、君の名前を呼んだ日
春の匂いが混じる放課後の教室。
窓際の席に座る結衣が、頬杖をつきながら俺の方を見て笑った。
「ねぇ、奏。今日寄り道しない?」
いつもの誘いだった。断る理由なんて、俺にはない。
「いいよ」
それだけ言って、鞄を肩にかける。
俺と結衣は、幼稚園からの付き合いだ。家も近くて、小学校も中学校もずっと一緒だった。高校も当然のように同じところを受けて、同じクラスになった。
周りからはよく「付き合ってんの?」って冷やかされるけど、俺たちはずっと“友達”のままだ。…たぶん。
結衣の笑顔が、昔から好きだった。
元気で、よく笑って、誰とでも仲良くなれる。けどその明るさの奥に、たまにふっと影が差すのを知ってるのは、多分俺だけだった。
「今日、どこ行く?」
「んー、いつものとこ?」
「またあそこかよ」
小さな川沿いのベンチ。俺たちの秘密基地。
子供のころ、落ち込んだり嬉しいことがあったとき、必ずここに集まった。
他愛もない話をして、コンビニで買ったジュースを飲んで、くだらないことで笑って。
そんな時間が、ずっと続けばいいのにって思ってた。
季節は秋になって、文化祭の準備でバタバタしてたある日の放課後。
「ねぇ奏、文化祭終わったらさ、ちょっと話したいことあるんだ」
結衣がそう言った。
「なんだよそれ、怖いな」
「んー、秘密」
笑ってごまかすその顔に、ほんの少しだけ不安が混じってるのがわかった。
俺も、伝えようと思ってた。
ずっと言えなかった気持ちを。
でも、そのタイミングは結局来なかった。
文化祭当日。
クラスの出し物も盛り上がって、昼休み。
結衣が誰かと楽しそうに話してるのを見かけた。
相手は、隣のクラスの三浦。
背も高くて、成績も良くて、誰からも好かれるタイプ。
俺はその光景から目を逸らした。
いつもなら笑って話しかけに行くのに、なんでか足が動かなかった。
その日の放課後も、結衣からの誘いはなかった。
数日後。
「ごめん、最近忙しくて」
そう言って笑う結衣の後ろめたそうな目を、俺は気づかないふりをした。
距離が少しずつできていくのがわかった。
でも、どうすることもできなくて。
俺は、結衣の隣にいる資格がないんじゃないかって、勝手に思い始めた。
そんなことないって、自分でも思いたかったのに。
冬になって、駅前のイルミネーションが灯り始めた頃。
「奏、今日さ、久しぶりにあの川行かない?」
結衣から珍しく誘いが来た。
「…いいよ」
行くと、あの日と変わらない川の音がして、空気は冷たくて、でも結衣の横顔は優しかった。
しばらく沈黙のまま、コンビニで買った温かい缶コーヒーを手のひらで温める。
そんな時間も悪くなかった。
「私さ、転校するんだ」
ふいに結衣が言った。
「親の仕事の都合で、来月には」
頭の中が真っ白になった。
何か言わなきゃって思うのに、声が出ない。
「奏にはちゃんと言わなきゃって思ってた。でもなんか、言えなくて」
俺はただ、「そっか」ってしか言えなかった。
本当は、言いたかった。
ずっと、好きだったって。
お前が笑うたびに嬉しくて、誰かと話してるのを見るたびに胸が苦しかったって。
でも、その言葉は喉の奥に引っかかって、どうしても出てこなかった。
結衣も何か言いたそうにしてたけど、結局何も言わず、川の音だけが流れてた。
その日、帰り際。
いつもなら「また明日な」って笑い合うのに、その日はどっちも口を開けなかった。
ただ、手を振っただけ。
次の日から、なんとなくお互い避けるみたいに過ごして。
でも、どっちもそれを壊す勇気がなかった。
別れの日。
駅のホームで、結衣は最後まで笑ってた。
「奏とずっと友達でよかった」
そう言って、改札を抜けていく後ろ姿。
呼び止めることも、追いかけることもできなかった。
本当は、言いたかった。
「好きだよ」って。
ずっと隣にいたいって。
改札の向こうで振り返った結衣と、目が合った。
でも、言葉は交わせなかった。
ただ、お互いに笑った。
それが精一杯だった。
その瞬間、言葉にできない感情が胸の中を満たして、呼吸が少しだけ苦しくなった。
結衣はそのまま振り返って歩き出し、改札の向こうに消えていった。
俺はただ、その光景をぼんやりと見てた。
今でも、春の匂いがすると、結衣の笑顔を思い出す。
あの時、ちゃんと伝えてたら、何か変わってたのかな。
いや、きっとそんなこと考えても意味ないんだろうけど。
結衣がいない街で、季節は巡って。
あの川沿いのベンチも、今じゃもう少し古びていて。
でも、春の風が吹くと、決まって俺は思い出す。
あの日のことも、言えなかった言葉も、全部。
交差点の向こうで手を振る結衣の姿が、今でも目に焼き付いて離れない。
言葉にできない感情だけが、ずっと胸の奥で、静かに息をしている。
この気持ちは、きっともう誰にも言わないまま、俺の中だけで、生きていくんだろうな。
―終わり。