【第4章】居候の少女
廃ビルから脱出して数十分後、街の夜はとっぷりと暮れていた。
行き交う人々の姿もまばらな裏通りを、不破 廉は手負いの少女を抱えるようにして歩いていた。
少女は相変わらず意識が朦朧としているが、先ほどよりはほんの少し表情に安定が見える。
身体の痺れが軽減したのか、それとも緊張が薄れたのか、まぶたが時折ピクッと震えるだけだ。
「大丈夫か? もうすぐ、うちに着くから」
返事はない。だが、こんな状態のまま病院に運ぶわけにもいかない。
突如としてビル内に発生した洪水、クラゲの怪生物、そしてこの少女の“腕の刃”……どれ一つ取っても、安易に医療機関にかかったところで理解が得られるとは思えなかった。
下手をすれば、彼女が研究機関や政府の特殊部隊に拘束される可能性もある。
「俺が、いったい何をしようとしてるんだか……」
頭では分かっていても、体が勝手に動いてしまう──それが廉の性分だった。
命を救われたのではない、むしろ自分が彼女を救ったというかたちかもしれないが、そもそも彼女こそ災害の“根源”に近い人物である可能性もある。
そんな危険性を頭の片隅で感じつつ、まっすぐ自宅アパートへと急いだ。
やがて見慣れた外階段を上り、鍵を開けて扉を開く。
狭いワンルームの中には、おそらく妹の凛がいるはずだ。
こんな時間まで外出しているのかもしれないが……いや、部屋の外に明かりが漏れている。
「ただいま……」
廉は静かに呼びかけながらドアを開けるが、その声を遮るようにして凛の声が響いた。
「おそーい! 兄ちゃん、連絡くらいしてよ……何時だと思ってるの?」
凛は少し怒ったような調子で、ローテーブルに散乱した漫画の下絵を慌てて脇にどけて立ち上がる。
ところが、玄関口に目をやった瞬間、その表情が驚愕に変わった。廉が抱きかかえるようにしている少女の姿が、あまりに異様だからだ。
「え、誰……? 兄ちゃん、まさかこんな遅くにナンパでもしてきたわけじゃないよね?」
「するか。ていうか、手伝ってくれ……この子、足を怪我して、まともに動けないんだ」
廉は半ば強引に少女を部屋に連れ込み、狭いながらもソファがわりに使っているクッションの上にそっと横たえた。
凛は目をパチクリさせながら、その少女の様子を見て固まっている。
まず、服装がおかしい。
濡れてボロボロになったピタッとした黒いスーツのような素材。
その腕の部分には裂け目があり、肌が露出しているが、そこにも不自然な硬質の痕跡が見える。
肌の色は病的なほど白く、唇はかすかに震えている。
こんな状態の女の子が倒れていて、どうして兄が連れてくることになったのか、凛には全く理解できなかった。
「兄ちゃん……まさか“人身売買”とか、“違法な研究の被験者”とか、そんなんじゃないよね?」
「そんな物騒な話じゃないって。詳しいことは、俺にもよく分からない。ビル内で大変な目に遭ってるところを見かけて……助けたんだよ、たぶん」
「たぶん、って何? てか、この傷は何……なんか電気ショックでも受けたみたいな痕があるよ?」
凛が恐る恐る少女の足首に触れると、青黒い内出血のような痕が薄く残っている。
触手のようなもので締め付けられ、痺れを受けたのだろうとはさすがに言えない。
廉はできるだけ簡単に説明しようとするが、洪水とクラゲの怪物、変形する腕など、どれも現実離れしているため、どうにも言葉が詰まる。
「とりあえず、体を拭いてやろう。寒いだろうし、このままじゃ風邪をひく。ああ、あとタオルと着替え……何か貸せるものあるか?」
「待って待って、どうしてうちに置くの? 救急車呼ぶとか、病院に連れて行くとか……普通はそうするでしょ?」
「それができない事情がある。というか、彼女が普通の医療を受けられるかどうか、俺にもわからないんだ。下手をすると政府や研究所に連れて行かれるかもしれないし……」
「はあ? 何それ。どういうこと?」
凛の目が険しくなる。
両親の死後、二人だけの世界で生きてきた彼女は、兄がこんな形で“見知らぬ誰か”を連れてくること自体が信じ難い。
危険な香りが漂うのに、兄はそれをなぜか望んでいるかのように見えるからだ。
「詳しくは、後でちゃんと話す。頼む、まずはこの子を何とかしよう」
廉はきっぱりした口調で言い、凛も渋々うなずいた。
結局、彼女は口やかましいことを言いながらも、無視できない性分なのだ。
二人で古いバスタオルと着替えを探し、少女の濡れた服を脱がせる。
すると、その体には幾筋もの傷跡や、どこか器械のパーツを埋め込んだような痕が見えて、凛はますます驚愕した。
「な、何これ……どういう手術をしたら、こんな痕になるわけ?」
「……わからない。でも、おそらく普通の人間とは違う。どこかの研究施設で作られたクローンか、改造人間か、そんな感じだと思う」
「改造人間? もうマンガの世界じゃん……嘘でしょ」
現実離れした光景に、凛は漫画家の想像力をもってしても戸惑いを隠せない。
やがて、清潔なタオルで少女の体を拭き終え、着替えとして凛の持っているスポーツ用パーカーとスウェットを着せた。
サイズは少し大きいが、体が冷え切っている今はこれで十分だろう。
髪はショートなので乾かしやすかったが、ところどころ焦げたような痕があり、クラゲの電撃の名残を感じさせる。
「重症ってわけじゃなさそうだけど、このままほっといて大丈夫なの?」
「よくわからない。普通なら骨折とか、低体温とか、色々考えられるけど……。とりあえず少し休ませて、様子を見よう。もし何かあれば、そのとき考える」
廉はそう言って、少女の呼吸を確かめる。胸が上下しており、脈も安定しているようだ。
見る限り、怪物にやられた外傷は致命的ではない。
しかし、そもそもどんな身体的構造なのか、まるで想像もつかない。
「はあ……もう、どうしてこうなるかなあ」
凛は頭を抱え込むようにしてソファへ倒れ込む。
一方、廉は床に腰を下ろし、バスタオルで自分の服も拭いていた。
水でずぶ濡れのシャツを脱ぎ、近くにかけてあったパーカーを引っ張り出して着替えると、とにかく温かい飲み物を用意しようとキッチンへ向かう。
いつもなら、廉が料理をし、凛がそれを受け取るという日常の光景があるだけのはずなのに、いきなり現れた得体の知れない少女。
部屋の空気は緊張感と混乱に満ちていた。
お湯を沸かしながら、廉は彼女の顔をちらりと見やる。
短く黒い髪がかすかに揺れ、閉じられた瞼が微弱に動いている。
いまにも目覚めそうで、まだ意識の闇を漂っているかのようだった。
「兄ちゃん、怪我とかしてない? そっちの方は平気?」
凛の声に振り返ると、彼女はまだ半信半疑ながらも、兄の方も心配している様子だ。廉は軽く肩をすくめて、
「そこまで大した怪我はない。打撲と擦り傷くらいかな……動けるし、平気平気。あとはスマホが水没しそうになったくらいで」
「それならいいけど……ねえ、本当に何があったか話してよ。洪水? ビルの中? どういうこと?」
廉は説明を省略する気などない。
むしろ、妹にだけは真実を話しておきたかった。
先日の“ビル内洪水”を調べた結果や、クラゲの怪物と少女が戦っていたこと、それに巻き込まれる形で自分が少女を助けたこと……
思い出すだけでも凄まじい光景だが、なるべく冷静に言葉を選んで語る。
凛は耳を疑うような表情を何度も浮かべた。
「ええ……本当にそんなことが? 現実に?」
「俺も正直、今でも自分が夢でも見てるんじゃないかって思うよ。でも、実際に目の前であの水の壁や触手を見たし、体もずぶ濡れになった。……この子がいたから、俺は何とか生き延びたようなものだと思う」
「意味わかんない……もう……」
凛は額に手を当て、深くため息をつく。
両親を震災で亡くした過去を持ち、災害を憎み恐れる気持ちは人一倍強い。
だからこそ、未知の災害現象に兄がのめり込むのを止めたかったのに、よりによってこんな形で最前線に飛び込んでしまうとは。
「でも……この子は、やっぱり危険なんじゃないの? もし正体不明の生物だったらどうするわけ? 目覚めたとたんに兄ちゃんを襲うかもよ」
「それは……わからない。でも、敵意は感じなかったし、少なくとも今は動けない。ひとまず助けてあげたいんだ」
「はあ……もう、兄ちゃんのそういうところ、昔から変わらないよね。困ってる人がいたら放っておけないんだもん」
苦笑いとも呆れとも言えない顔で、凛は否定する言葉を失う。
結局、彼女自身も見捨てることはできない性格だ。
「とりあえず、温かい飲み物を準備しとくか。意識が戻ったら、きっと喉が渇くはず」
そう言って廉は湯を注いだマグカップをテーブルに置き、毛布を少女の肩にかける。
凛も古い毛布やクッションをかき集めて、即席の寝床を作る。体勢が安定すると、少女の表情はわずかに落ち着いたように見えた。
「うわ、もうこんな時間か……ご飯も食べてない」
時計を見ればすでに夜の十時を回っている。
凛のお腹が鳴り、何とも言えない空気が流れる。
廉は苦笑しながら、「じゃあ、簡単なものでも作るか」とキッチンへ向かう。
こんな非常事態とはいえ、食事を取らないわけにはいかない。
食材を切り刻みながら、ふと廉はこの数時間の出来事がまるで夢のように思えた。
自分が未知の生物と遭遇し、謎の少女を連れて帰ってきたなんて正気とは思えない。
しかし、ズキズキと痛む打撲や、ずぶ濡れになったリュックは紛れもない現実を物語っている。
「明日以降、どうなるんだろう。この子が目を覚まして、何を話すのか、それとも話さないのか……」
頭の中でシミュレーションしてみても、想定外の事態ばかり。
だが、同時に強烈な興奮と好奇心が湧き上がる。
災害の真相を追い求める彼にとって、これ以上ない“情報の宝庫”が目の前に転がり込んだとも言えるからだ。
もちろん、それが危険の始まりでもあることは分かっている。
料理を終え、二人分の皿をテーブルに並べる。
凛は少女をちらちらと見やりながら、無言で箸をつけ始めた。
廉も黙々と口に運ぶ。
気まずいわけではないが、部屋の中心に“謎の少女”という存在が横たわっているのだ。
いつも通りに食欲が湧くわけもない。
そんな静寂の中で、ふいに少女がかすかに声を漏らした。
二人揃って動きを止める。
少女は眉間にシワを寄せ、薄く目を開けると、視線を左右に泳がせ、そして廉と凛の姿を捕らえた。
「……どこ……ここは……」
女の子らしい声。
それでいて、どこか硬い響きが混じっている。
廉は慌てて近づき、しゃがみ込んで声を掛けた。
「気がついたか? 大丈夫か、痛むところとかない?」
少女はしばらく瞬きを繰り返し、記憶を整理するかのような表情を見せた後、弱々しい声で呟く。
「あなた……さっきの。どうして人間が……ここにいるの? この場所は……」
「落ち着いて。ここは俺の家だ。大丈夫、今は安全だから」
その言葉を聞いた少女は、唇を噛むようにして目を伏せる。
警戒心が解けたわけではなさそうだが、体を起こす余力もないらしく、すぐにまた頭をクッションに沈めた。
「……痛い……身体が重い……」
「変なとこは折れてないっぽいけど、電撃みたいな痺れがあったよな? 無理に動かない方がいい」
「うん……」
少女はそれ以上言葉を発する気力がないのか、静かに目を閉じた。
会話はそこまでだったが、意識は確かに戻り始めている。凛は隣で心配そうに見守りながら、兄に小声で話しかける。
「とりあえず、寝かせとこう。今のまま無理に聞き出しても、混乱するだけだよ」
「そうだな。もう夜も遅いし、俺たちも今日は寝よう」
少女はまだほとんど喋れず、身元は不明のまま。
凛は困惑と不安で眠れそうにない。
廉もまた、興奮が冷めやらず、何度も布団の中で寝返りを打った。
そして、少女がただ規則正しい呼吸を続ける様子に安堵しながら、ようやく深い眠りに落ちていく。
こうして、謎の少女を拾った夜が過ぎた。
兄妹にとっては非日常の始まりであり、少女にとっては自分の存在を改めて問い直す夜でもあったのかもしれない。