【第3章】出会いの瞬間
夕暮れが近づき、街には橙色の光が溶け込んでいた。
ビルの壁面や窓ガラスが、その光を受けて美しいグラデーションを作り出す。
視線を上げれば、空は薄く染まり、遠くに見える雲がぼんやりと輪郭を溶かしている。
穏やかな時間のはずなのに、廉の足取りはやけに急ぎがちだった。
「どうしても気になるんだよな……局所災害、法則的には今このあたりだと思うんだけど」
彼はスマートフォンの画面を睨みながら、小さく独り言を呟く。
前章で訪れた“ビル内洪水”の痕跡調査後、彼の頭の中には新たな疑問が生まれていた。
局所的な災害が発生する地点には、不可解な“藻のような痕跡”が残る場合がある。
それは生物的な要因が絡む可能性を示唆し、従来の自然災害とは一線を画す。
もしこれが一種のクラスターのように、同じ現象が連鎖的に起こるとしたら──先日調査したビルの近辺や、地形・人口密度・気象条件が似通ったエリアで再度起こるかもしれない。
そこで廉は、大学の図書館や海外の論文データベースを漁り、気象データや地質構造、人口動態を比較して“次に怪しい”と思われるポイントを幾つか割り出した。
今日、彼はそのうちの一つに来ている。
昼間の大学の講義を終え、バイトも入れずに足を運んだ場所だ。
周辺には小さなオフィスビルが数多く立ち並び、どこか活気の乏しい雰囲気が漂っている。
ビルの閉鎖や転居も多いのか、空きフロアだらけの建物が少なくないようだった。
「あんまり、人通りもないな……。でも、人口密度が一定値に達した地域“かつ”その瞬間にほとんど人がいない──って、どういうことなんだろう?」
言葉にしてみても、矛盾めいた条件だ。
しかし、過去の局所災害を振り返ると、「そこで働く人や住む人が多数いるにもかかわらず、起きた瞬間にはなぜかほとんど人がいなかった」という現象が散見される。
休日でビルに人がいない、あるいはたまたま避難訓練のタイミングだった、など“偶然”にしては奇妙な共通点がある。
この街区にある朽ちかけたオフィスビルも、その一つかもしれない。
ニュースにはならなくても、小規模な洪水や崩落が起きている可能性がある。
いずれにせよ、廉は自らの目で確かめたかった。
もしも危険なCalamityが発生するなら、その瞬間を捉えたい──文字通り命がけではあるが、それほどまでに彼の探究心は強かった。
ビル街の路地を奥へ進むと、工事用フェンスが目立つ場所に出る。
足元を見ると、亀裂の走ったアスファルトが斜めに切れ込み、まるで先日の洪水被害を思わせる痕跡が残っている。
人気がないところを見ると、既に廃ビル化しているかもしれない。
廉はフェンス越しに視線を巡らせ、注意深く観察した。
カラン……という金属の音が響いた。
強い風も吹いていないのに、何かがぶつかり合ったような音。
辺りを見回しても、人影はない。
けれど、その音は確かにビルの内部、あるいは裏手から聞こえた気がした。
廉は心臓が高鳴るのを感じながら、工事フェンスの隙間をこじ開けるようにして入り込む。
「……危険だってわかってるけど、行くしかないだろうな」
妹・凛の顔が脳裏をよぎる。「危ない真似はやめて」といつも言われているが、後戻りするのも性分に合わない。
最悪、建物が崩れかけていたら即座に引き返すと決め、慎重に前へ進んだ。
ビルの壁面は汚れとヒビだらけで、表面に苔のようなものまで付着している。
窓ガラスは粉々に砕け散った跡がある部分も多く、足元には割れたガラス片が散乱していた。
少し奥まったところに見える鉄扉は、錆びついて一部が外れている。
そこからかすかに風が吹き出し、室内の空気が漏れ出ているようだった。
廉は扉の縁をそっと押す。
ぎしりと嫌な音を立て、扉は半開きに倒れ込む。薄暗い室内は埃が舞い上がり、鼻をつくカビ臭さが漂う。
かといって、誰もいないような静寂……というわけでもなく、建物の上階あたりからかすかに滴る水音のようなものが聞こえた。
(まさか本当に洪水……?)
嫌な予感がしたが、もうここまで来た以上、引き返す気にはなれなかった。
ライト代わりにスマートフォンを手に持ち、足を踏み入れる。
床は半ば浸水したような跡があり、タイルは剥がれ、水溜まりがあちこちに点在している。
そっと足を踏み入れると、ぬかるんだ感触が靴越しに伝わってきた。
このとき、不意に一陣の風が吹き抜け、ビル全体が軋むような低い振動を起こした。
まるで建物そのものが呻いているかのようだ。
廉は思わず身をすくめ、顔を上げると、天井から水滴がぽたり、ぽたりと落ちてくる。
見上げた先には階段があり、そこから更に上のフロアにつながっているようだった。
「……行くか」
意を決して、その階段へ足を向ける。
コンクリートの壁には黒ずんだ筋が走り、かつて水が流れた跡があることを示していた。
階段を一段ずつ上がるごとに、湿った空気が濃くなっていく。
どこか生臭いような、藻のようなにおいが混じっている。
そして二階へ差しかかったとき、急に上層階から激しい水音が響いてきた。
ザバーッという勢いのある音。それも通常の雨漏りとは比べ物にならない程大きい。
胸騒ぎを覚え、廉は小走りに階段を駆け上がる。
三階へ向かう途中、踊り場に差しかかった瞬間、真正面から勢いよく飛沫が飛んできた。
「うわっ……!」
咄嗟に顔を背けるが、背負っていたリュックはずぶ濡れになり、水滴が床に跳ねる。
まさか、建物の中でこんな大量の水が流れてくるとは想像していなかった。
視線を上げると、三階フロアの入口らしき場所が、轟々と流れ込む水の奔流で覆われている。
まるで上下が逆転した滝でもあるかのようだ。
(建物内で……滝?)
Calamitiesで時折報じられる「ビル内洪水」の現場を目の当たりにするのは初めてだった。
恐怖に足がすくみそうになるが、彼の探究心と行動力はそれを上回った。
この瞬間を見逃すわけにはいかない、とスマホのカメラを構えると、まるであざ笑うかのように上階からの水流がますます激しさを増す。
突然、バシャアッという大きな飛沫が、三階のフロア奥で上がったのが見えた。
何かが動いた……そう直感した彼は、水流に逆らう形で踊り場から上層フロアへよじ登ろうとする。
危険な行為だと分かっていても、後退する気にはなれない。
半ば強引に手を伸ばし、フロアの入り口の縁にしがみついて、どうにか体を引き上げる。
腰まで浸かるほどの水が廊下に渦巻いていた。
中には瓦礫や散乱した家具、紙くずなどが漂い、目を凝らすと、天井の一部は崩落しているようだ。
この状態では建物がいつ崩壊してもおかしくない。
「あぶないな……でも、何かいる……?」
目線を奥へやると、廊下の突き当たりあたりで、確かに人影らしきものが動いたのが見えた。
しかも、その動きは人間離れした素早さ。
水飛沫の向こう側に立ち尽くす小柄なシルエットがある。
「だ、誰かいるのか?」
声を張り上げるが、水音が邪魔をして自分の声がよく聞こえない。
廊下の先の人影は、一瞬こちらを向いたように見えた。
廉はスマホのライトを照らし、目を凝らす。
そこにいたのは、黒髪ショートの少女──年齢にして十六、七歳くらいだろうか。
制服や作業着のようなものは着ておらず、戦闘服ともつかない、肌にフィットした黒っぽい服装をしている。
驚いたことに、その少女の手──正確には腕の一部が、妙に光沢を帯びていた。
まるで金属か硬質の角質のような刃に変形しているかのように見える。
少女はそのまま床を蹴り、水を跳ね上げながら廊下を疾走する。
廉は唖然として彼女の背中を目で追う。
「なんだ、あれ……人間……?」
混乱する頭で、かろうじて“Calamitiesの中心に生物がいる”というRe:Gene社の情報を思い出した。
まさかあの少女が、災害の中枢に関わる存在だというのか。
それとも災害から逃れてきた被害者なのか。判断がつかない。
さらに視線を向けた先で、水の流れを操るように蠢く、巨大なクラゲのような生命体が見えた気がした。
水中に浮かぶ半透明の傘のような形状、細長い触手が何本も動き回り、建物の構造物に絡みついている。
下水道から湧き出た怪生物などというレベルではない。
明らかに人間の理解を超えた“何か”だ。
少女はその触手の一撃をひらりと避け、逆手に変形した腕の刃を振りかざそうとしている。
だが、床に散乱した瓦礫を踏み、足を取られてバランスを崩す。
その一瞬の隙を逃さず、クラゲの触手が少女の足首を捉え、ビリビリと電撃のようなものが走った。
少女の体が硬直し、水中へ倒れ込む。
「まずい……!」
廉はわけも分からず反射的に体を動かし、瓦礫を踏み越えて少女のもとへ駆け寄ろうとする。
足場は悪く、水流でふらつくが、何とか踏ん張ってたどり着いたとき、クラゲの怪生物が大きく水を巻き上げた。
まるで水鉄砲を巨大化したような圧力ある衝撃波が少女に襲いかかる直前だった。
「あぶないっ……!」
とっさに廉は少女の背中を抱きかかえるように体を当て、側方へ転倒する。
強烈な水の圧が二人をかすめ、後方の壁を吹き飛ばした。
天井の鉄板が剥がれ、爆音とともに水が溢れ出す。
廉は全身で衝撃を受け、肺が圧迫されて息が苦しい。
しかし、少女は何とか致命傷を避けられたようだ。
「大丈夫か……!」
声を張り上げるが、少女はまだ痺れているのか、うまく体が動かない様子だ。
顔だけこちらに向け、驚いたような瞳で廉を見つめている。
その瞳は震えているが、恐怖というよりも「なぜ人間がいるの」という疑問が滲んでいるようだった。
しかし、そんな暇はない。
クラゲの怪生物が再度触手をうねらせ、今度はより正確に二人を狙おうとしている。
ここに留まれば、瓦礫に押し潰されるか、水流で吹き飛ばされるかだ。
廉は歯を食いしばり、少女を抱き上げる形で何とか立ち上がると、廊下の奥へ走り出す。
廊下の先には非常階段らしき扉が見えた。
あそこまで行ければ上階か下階へ逃げられるかもしれない。
床下から水が噴き出し、激しい圧力で足場を奪われる中、廉はほとんど強引に少女を引きずるようにして進む。
彼女はまだ脚に痺れが残っているのか、思うように動けていない。
「……くっ、こんな超常現象が、本当に生物の仕業なのか……」
水音と轟音にかき消されそうになりながら、廉は息を切らし、朽ちた鉄扉を力任せに開ける。
階段室は水の流入がややマシなようだ。
だが、床下から少しずつ浸水してきている様子が分かる。
このまま下へ行けば水流に呑まれる可能性が高い。
上階へ逃げても、崩落の危険がある。
どちらを選んでも安全とは言いがたい。
僅かに迷ったが、廉は上へと続く階段を一段飛ばしで駆け上がる。
扉を閉めても水はじわじわと侵入してくるだろう。
少女の足の痺れがいつ解けるか分からない状況で、クラゲの怪生物が追ってきたらもう逃げ場はない。
絶体絶命かもしれない──そんな不安が脳裏をよぎる。
しかし、なんという幸運か、五階付近まで上がったところで、悲鳴のような水音が下のフロアから響いた。
クラゲの怪生物がどうやら建物の一部と共に崩落し、足場を失ったような音がする。
轟音とともに階段が激しく揺れ、天井のコンクリート片がパラパラと落ちてくるが、今のところ崩壊は免れているようだ。
「くそ……いつ崩れるかわからない。上階の屋上へ出られればいいんだけど……」
少女を抱きかかえたまま、更に一階分を上がり、扉を押し開ける。
そこは屋上へ通じる短い通路のようで、かろうじて浸水していない。
扉の向こうにうらぶれた屋上が見えた。
外の空気が少しひんやりと肺を満たすが、ビルの構造が破損しており、脱出には厳しい高さだ。
「……もうだめか……」
床に腰を下ろし、少女をそっと横たえる。
水浸しの身体が冷たくて震えるし、気を張っていたせいで疲労が一気に押し寄せてくる。
クラゲの追撃が来るとしたら、もう逃げ場はない。
完全に行き詰まったとき、少女がうわ言のように何かを呟いた。
「……どうして、人が……こんなところ……」
「そりゃこっちの台詞だ。君こそ何者なんだよ……」
呟く廉に、少女は潤んだ瞳でチラリと顔を向ける。
だが、答えを返す前に意識が遠のいたように見えた。
その瞬間、先ほどまで感じていた屋内洪水の音が次第に小さくなっていく気がする。
クラゲの怪生物は、完全に崩落に巻き込まれたのかもしれない。
あるいは沈黙しただけか。
安堵とも言えぬ奇妙な沈黙が屋上を包む中、廉は少女の顔を覗き込む。
呼吸はあるが、痺れか衰弱か、すっかり力が抜けている。
ここに放置すれば危険なのは明白だ。
救急車を呼びたくても、こんな廃ビルの屋上まで来られるかどうか怪しい。
そもそも、この現象を説明できるかどうか……。
「……仕方ないな。俺が連れて帰るか」
それはあまりにも突発的な決断だった。
しかし、放っておく選択肢は彼の中にはなかった。
この少女こそがCalamitiesの核心を知るかもしれない存在だと、廉は確信に近い直感を抱いていたのだ。
苦労して階段を降りる途中、二人は何度も瓦礫に躓いた。
だが、不思議と激しい水流は姿を消し、まるで洪水自体が跡形もなく退いたかのように、建物は静寂を取り戻しつつあった。
先ほどの凶暴なクラゲが残した生臭い気配だけが、まだ建物内に充満している。
時折少女はうっすらと目を開け、何かを呟こうとする。
だが、声にならず、つぶらな瞳がこちらを見つめるだけだ。
まるで「どうしてあなたはここにいるの?」と問うような、そんな表情。
「大丈夫、すぐ外へ出るから。そしたら俺のうちで……少し休ませるよ」
その言葉が届いているのかどうかも分からないが、少女はかすかにまぶたを震わせた。
そして廉は、崩壊しそうなビルをなんとか脱出し、夜闇が迫る街へと足を踏み出した。
まさかこんな形で“未知の生物”に遭遇し、しかも正体不明の少女を伴って帰ることになるとは思いもしなかった。
それが決定的な運命の分かれ道になることを、まだ誰も知らない。