【序章】プロローグ - 世界の異変
二〇XX年。人々が当たり前のように享受していた「平穏」は、いつしか崩れ去りつつあった。
毎日のようにニュースやSNSを騒がせるのは、従来の常識では考えられないほど局所的かつ突発的に発生する「災害」の報せである。
世界各地で頻繁に報告されるそれらの現象は、まるで人間を嘲笑うかのように、天気予報や地震予測などの既存の科学的知見を一蹴するかのごとく予期せぬタイミングで襲来するようになった。
しかも、ただの異常気象や火山活動の活発化というレベルでは収まらない。
氷塊が降り注いだかと思えば、都市のど真ん中で突如として深い亀裂が走り、地殻変動による被害と見られる地割れがビル内部を呑み込むといった報告が相次いでいるのだ。
被災地の住民たちは、その深刻さを表す言葉すら見つけられず、ただ呆然とするしかなかった。
さらに奇妙なことに、こうした災害は「局所的」に極端な形で発生する傾向を見せていた。
例えば、高層ビルの二十階から上だけが一瞬にして水浸しになる「ビル内洪水」や、狭い商店街の一区画だけをピンポイントで襲う「局所竜巻」など、局地的かつ瞬間的に被害が集中している。
原因不明なうえ、被害範囲が極端に限定されるこれらの災害を、人々はいつしか「Calamities」と呼ぶようになった。
報道番組のコメンテーターは「未曾有の異常気象」「気候変動の極端な現れ」と説明しようとするが、実際のところ専門家の間でさえも納得のいく解釈は得られていない。
既存の科学では説明不能な要素が多すぎ、まるで超常現象を研究しているかのようなありさまだ。
しかし、この不可解な事態に挑む者たちもいる。かつて生物工学と気象制御の分野で世界を席巻した大企業「Re:Gene社」。
一昔前までは誰もが知る巨大企業だったが、ある発表を境に急速に信用を失い、今ではほとんどその存在が忘れ去られようとしている。
その発表とは、「世界中で発生する災害の中心には、新種の生物の存在が確認できる」という衝撃的な内容だった。
研究データを伴わないまま突如として公表されたため、マスコミも世間もこぞって“トンデモ説”と扱い、Re:Gene社は一夜にして嘲笑と不信の的へと転落してしまったのである。
会社の崩壊は早かった。株価は暴落し、研究所は閉鎖に追い込まれ、有能な研究者たちも職を失って散り散りになった。
しかし、その中心で研究を指揮していた人物――安心院 司博士――だけは最後まで姿を消さなかった。
メディアのカメラが捉えることもなく、誰の前にも現れないまま、博士は本社地下に存在すると噂される極秘研究施設へと潜り込んだらしい。
かつては「天才的な生物工学者」と呼ばれ、いずれノーベル賞を受賞するのではないかとも目されていた安心院博士。
だが、ある時期から妻を震災で失った悲しみをきっかけに研究の方向性を急激に変え、「選民思想」に近い偏った理論を口にするようになっていったと噂される。
Re:Gene社を没落へ導いたあの奇妙な発表の裏に、彼の存在があるのはほぼ間違いないとされていた。
やがて世間はRe:Gene社の話題を忘れ、日々のCalamitiesに振り回されながらも、なんとか平穏を装い生き続ける道を選ぶようになった。
だが、安心院博士は地下施設で着々と研究を進めていたという。もともと生物工学と気象制御技術を組み合わせ、災害を「制御」できる可能性を探っていた彼は、より踏み込んだ研究を密かに試みていたらしい。
それが「新生物の開発」であり、さらに災害の中核に潜む未知のエネルギー粒子――通称「コア」――を直接利用しようとする危険な計画へと発展していった。
同じころ、世界では奇妙な流星群の目撃例が増加していた。天文学者たちの間でも正式に認知されていないような軌道を通る小惑星や流星群が観測され始め、俗に「未確認流星群」と呼ばれるようになった。
多くの人は「また新たな自然現象の発見か」程度にしか考えなかったが、この流星群が地球大気圏に近づくたび、Calamitiesが頻発するという統計が少数の科学者によって示されていた。
あまりに少ない標本数と証拠不十分のため、大手の学会からは黙殺されていたが、Re:Gene社はその事実を早くから掴んでいたらしい。
流星群から地球へ降り注ぐ何らかの因子が、災害を誘発している可能性――それこそが「コア」であり、ひいては「未知の生物」との結びつきをも示唆している、と安心院博士は考えたのだ。
博士は過去の研究から、この未知のエネルギー粒子を人間に組み込むことで「災害を制御する能力」を得ることができるのではないか、という仮説を立てた。
人類をその力で救えるかもしれない、あるいは自身が理想とする「選ばれし人間だけが生き残れる世界」を築くことができるかもしれない。
妻を失った悲しみと絶望、そして裏返しの慈悲心と選民思想がない交ぜになり、彼の理想は徐々に狂気を帯びていった。
かつてリーダーシップを発揮していた頃の優しげな眼差しは失われ、周囲を取り囲む研究員たちからも次第に恐れられるようになったという。
やがて行われたのが、「Maria」と名付けられた新生物のクローン開発である。
Mariaは成長段階で直接的にコアと結合させられ、生物兵器あるいは「人間を超える存在」となるべく設計された。
研究が最終段階に差し掛かったある晩、地下施設で最後の調整作業が行われたのだが、そのさなかに突発的なCalamityが発生した。
施設内の廊下では何かが吹き荒れ、水と土砂が入り混じった津波のような流れが研究者たちを呑み込み、やがて上層階へまで広がっていく。
非常電源が落ち、暗闇にうごめく恐怖と悲鳴の中で、多くの研究員は命を落とした。博士の行方もまた、その混乱に乗じて途絶えた。
たった一人生き残ったのがMariaである。適合率の高さから体内にコアを宿した彼女は、災害から自らを防御する本能的な術を持っていた。
多くの研究者を葬った局所災害の猛威にも耐え抜き、壊滅した施設の片隅で孤独に生き延びることになったのである。
しかし、奇妙なことに、Mariaの意識には研究室で過ごしてきた断片的な記憶が残っていたものの、自分が何者であるのか、なぜ自分だけが生き延びたのか、その核心部分が曖昧になっていた。
身体の中にみなぎる得体の知れない力――それがコアの力なのか、それとも彼女自身の命の本質なのか。それさえも区別がつかないまま、彼女は荒廃した施設をひとり歩き回ることになった。
それから数年。世の中は依然としてCalamitiesに怯え、政府や学会もまともな対策を打ち出せずにいた。
被害は世界規模に広がり、先進国でも壊滅的なダメージを受ける地域が増えつつある。
一方でメディアは乱立する陰謀論を垂れ流し、インターネット上では「Re:Gene社は本当に災害の原因を知っていたのでは」
「行方不明になった安心院博士はまだ研究を続けているらしい」などと囁かれるだけで、真実は闇の中だ。
多くの人々は根拠のない噂に翻弄されながら、来るべき大災害をただ待つしかないという無力感を抱えて生き延びている。
しかし、こうした混沌とした世界の中でも、一部の人物はこの異変に疑問を抱き、真実を求めて行動を始めていた。
幼い頃に両親を失い、施設で育った兄妹――不破 廉と不破 凛――も、そんな数少ない探究者のひとりとなる運命にあった。
彼らが災害の痕跡を辿り、その背後に存在する何かを突き止めようと足掻く中で、やがてMariaとの邂逅が訪れることになる。
そして、さらには“未確認流星群”と呼ばれる謎の天文現象が、新たな災厄の訪れを予感させるのであった。
それは、人類が自然に支配される存在であるのか、あるいは自然そのものを制御し得るのかを問う、壮大な試練の始まりでもあった。
誰も知らない真相が、地球の深部と宇宙の彼方とを繋ぎ、この星で暮らすすべての命を巻き込もうとしている。
想像を超えた災害と、それをめぐる人間たちの思惑。混乱する世界の片隅で、少年と少女と、一人の“超越した存在”が出会うことで、歯車は大きく動き始める。
この物語は、「Calamities」という不可解な災害を前にして足掻く人々のドラマであり、同時に未知の力を秘めたMariaの運命を描くものでもある。
そしてその背景には、選民思想を抱いた一人の科学者――安心院 司(=X博士)――の深く歪んだ愛と絶望が潜んでいる。
科学と倫理、そして自然がせめぎ合うこの世界で、誰が何を守り、何を失うのか。
未だ誰もが全貌を知らない「未確認流星群」が、夜空に煌めく流星の軌跡とともに、静かに災厄の鐘を鳴らしていた。
こうして、誰もが生き延びるために必死に藻掻く時代が始まる。
ビル内洪水、局所竜巻、地割れ、原因不明の火事――。頻発する天変地異の合間を縫うように、人々は日常を取り戻そうと奮闘していた。
しかし、日常とは裏腹に、世界各地でじわりじわりと濃度を増す異常性は決して看過できるものではない。
都市機能はしばしば麻痺し、物流が滞り、経済活動が停滞する。どこか別の場所で人災まがいの大事故が起こっても、もはや大した関心を集めないほど混乱が常態化しているのである。
だが、この混乱の渦中にあっても、なお一縷の希望や、人の温もりを信じて行動を続ける者はいる。災害と対峙する中で、それぞれが自分自身の正義や愛に問いかけざるを得ない。
災害を憎みながらも、どうしてもその原因を究明せずにはいられない者。自らに科せられた宿命を受け入れることに怯えつつ、周囲の人々を守ろうとする者。
そして、悲劇を乗り越える手段を“選別”や“支配”に見出そうとする者――。それぞれの思惑が交錯する舞台の幕は、いま上がったばかりだ。
嵐の前の静けさのような空気が、世界を覆う。やがて訪れるだろうさらなる大災害の気配を、敏感な人々はどこか肌で感じているのかもしれない。
未確認流星群が再び地球へと接近し始める事実は、まだ公にはされていないが、いずれ“隕石”とも呼べる巨大な質量体が大気圏をかすめる可能性を示唆するデータが、海外の一部研究機関から極秘に発信されていた。
その情報を掴んだ者たちは、すでに動き始めている。
どんな手段を使ってでも生き残りたいと願う者、あるいは自然や未知の力を利用して世界を変えようとする者が、密かに画策を始めているのだ。
こうして、誰もが予測のつかない未来を前に、不安と期待を抱え、日常という薄氷の上を歩むしかない。けれど、その薄氷がいつ崩れ落ちるかもわからない。
ひょっとすると、次に起こる局所災害こそが人類を滅ぼす決定打になるかもしれないし、逆に、そこから生まれる何かが新たな希望の光となるのかもしれない。
そしてMariaの存在が、ひそかにその運命の鍵を握っていることを誰もまだ知らない――。この物語は、そんな不穏な世界の裾野から始まっていく。