恋人の教え 早起きしてお弁当を作れるのは、好きな人にだけ
繁忙期に入って、ますます仕事の帰りが遅くなる日が多くなっている。
残業後に食事処へ連れて行ってくれていたダン所長は、「食べに寄ると遅くなるから」と、最近はねぎらいの食事の代わりにお菓子を差し入れてくれる時がある。
お菓子を差し入れてくれた日の帰りに容器を返してくれるので、料理のお礼に付けてくれるお菓子は、差し入れと一緒に買ってくれる物なんだろう。
今日も残業中に差し入れてくれたお菓子を受け取りながら、『今日は容器が返ってくるのね』と読めてしまって、ミリアはおかしくなってしまう。
料理とお菓子のやり取りはそれほど頻繁ではないが、なんとなくリズムが出来ている。
残業との兼ね合いを見て、『そろそろかな?』と予想する事が出来るようになっていた。
休日の今日、ミリアは張り切って市場に出かけている。
以前は休みの日の朝早くに市場に行っていたが、今朝は家の片付けを優先したので、出かけた時にはお昼を過ぎていた。
だけど問題はない。
朝早い市場の目的は、早朝にしか売っていない新鮮なお魚を求めての買い物だった。チェスターに会わなくなった今では、朝早くに市場にいく必要はない。
ここ最近は、ミリアだけの予定で動けばいい休日になっている。
『前にロールキャベツのトマト煮をすごく喜んでくれたから、今度はロールキャベツのクリーム煮にしてみようかしら?チーズを入れてコクを足して……』
『エビクリームコロッケを下準備して、いつでも揚げられるように用意しておこうかしら?……クリームばかりになるわね。それにどうせなら揚げたてを食べてもらいたいから却下ね』
色々とメニューを考えながらの買い物は楽しい。
今はミリアの手料理を「美味しい」と言って食べてくれる人がいる。
渡せるのは毎日ではないし、出来立てを渡せないからメニューが絞られてしまうが、それでも料理とお菓子のやり取りには心が弾んだ。
『そうだわ!サンドイッチを冷凍して渡せば、お昼は持って行くだけのお弁当になるわ!………やっぱりダメね。会社のお弁当は良くないわ』と考えて、ミリアはパン屋の前から離れると、市場で買い物中らしいチェスターとバッタリ出会ってしまった。
チェスターの腕には、以前見かけた可愛い女の子が手を絡ませている。
「チェスター……?」
目を見開いて驚いた顔でミリアを見るチェスターに、思わず名前を呟いた。
「ミリア?なんでこんな時間に……」
どうやらいつもと違う時間帯の買い物に、チェスターを驚かせてしまったようだ。
「あ、うん。今朝は家を片付けててね。あの、その子は―」
「はじめまして。元カノさんですよね。私は今カノのティナです。さっき一緒にランチを食べに行ってきて、ここの買い物が終わったらチェスターの部屋に行く予定なの」
ミリアが「その子は今付き合っている子なの?」と尋ねようとする前に、ティナに言葉を被せられた。
ティナはミリアの買い物カゴを見て笑う。
「え、なにそれ?キャベツとひき肉?そんな安物で何作る気?そんな材料を使った料理をチェスターに食べさせる気だったの?
振られた今でも彼女ヅラするあなたも可哀想だけど、そんな料理を食べさせられるチェスターも可哀想。
私が買ったのは高級ステーキ肉よ。これからチェスターの夕食は私が作るから、あなたはもうチェスターに構わないで。迷惑よ」
ティナに一気にまくしたてられて、ミリアは呆気に取られてしてしまったが、誤解は解いておかなくてはいけない。
ミリアはチェスターのために買い物に来たわけではないし、二人の邪魔をするつもりもない。
「あの。何か誤解があるようだけど、私は―」
「ミリア、ここは外だ。悪いけど話は今度にしよう。
今、彼女がいつも僕のお弁当を作ってくれているんだ。だから―――分かるだろう?」
ただの浮気相手であって、恋人でもないティナがお弁当を毎日作ってくれているのだ。
お礼に高級レストランでのランチのお返しは当然になるし、ランチ中に「今日は夕食も作ってあげるね」と言われたら、食材の買い物に付き合うのも当然のようになってしまうだろう。
――当然のように高級ステーキ肉の支払いは、チェスター持ちになってしまったが。
6年も付き合ってきたのだ。
浮気なんていっときのものだし、言葉にしなくても、チェスターの事情も想いもミリアなら察する事は出来るはずだ。
『ティナとは後でちゃんとケジメをつけるし、ミリアにも後でちゃんと説明して謝罪するつもりだという事は、今言葉にしなくても通じるはず』
そう思ってチェスターはミリアの言葉を遮った。
『まさか今日僕の家に夕食を作りに来る予定だったなんて。あの材料ならロールキャベツのクリーム煮っていうところだろう。……僕が好きな料理だ』
――ミリアのタイミングの悪さを残念に思いながら。
ミリアはチェスターの言葉に全てを察した。
チェスターとは6年もの付き合いなのだ。
言葉にしなくても通じるものがある。
「あ……ええ。もちろん。もちろん分かるわ」と動揺を残しながらもチェスターに伝えて、ティナに向かい合う。
「ティナさん、ごめんなさい。誤解させてしまったわね。彼とちゃんとお別れの言葉を伝え合ってなかったら、ティナさんも不安になってしまうわよね。
でも安心してね。私とチェスターはずいぶん前から会ってないし、もうずっと恋人とは言えない関係だったの。
なかなかそれを自分で認める事は出来なかったけど、こうして二人を見るとハッキリと自分の気持ちが分かったわ。私はもうチェスターが誰といても気にならないみたい」
「不安にさせてしまってごめんなさいね」とミリアはティナに謝った。
そしてカバンからチェスターの部屋の鍵を取り出して、呆然と立ち尽くすチェスターに鍵を手渡す。
「チェスター、今までありがとう。実はね、チェスターが他に好きな子がいる事、ずっと知ってたの。友達と会ってくるとか、残業とか言ってた時って、服からこのティナさんの香水と同じ香りがしてたもの。ティナさんと会ってすぐわかったわ。
もう何年も前からチェスターの気持ちが離れていた事、本当は気づいてたの。でもなかなかそれを私の中で認める事ができなくて……。
でももうちゃんと吹っ切れたから大丈夫。別れが今になってごめんね。
早起きしてお弁当を作れるのは、好きな人にだけよ。私も料理を作るのが好きだから分かるわ。二人はとてもお似合いよ」
想像もしていなかったミリアの言葉に、チェスターは返された鍵を手にしたまま動けなかった。
ニコリと最後に笑ってチェスターに背を向けたミリアは、すっきりした顔をしていた。
ティナにも自分にも、悲しみや怒りの感情は持っていないようだった。
『もう僕を好きじゃないから、ずっとお弁当を届けてくれなかったという事なのか……?』
6年もミリアを見てきたチェスターは、その表情を見ただけで、ミリアの気持ちの整理がすでについている事に気づいてしまう。