恋人の教えを守る彼女の上司が思うこと
薬品加工課の所長のダンは、自分が引き抜いて部下になった女性と、この繁忙期に入ってから毎日帰りが一緒になっている。
――単にダンのマンションの裏が彼女の住むアパートだ、というだけの理由だが。
どこまでも一緒になる帰り道に『気まずいな』と思ったのは、初めての帰宅途中までだけで、意外にも彼女は気軽に話せる女性だった。
入社して3年目になる彼女とは、所属する課が違う事もあって今まで話した事はなかった。だけど残業の多いこの会社で、「定時に帰る女」として噂になっている事は知っている。
それでも彼女が周りから悪く言われなかったのは、彼女自身の仕事は定時までにキッチリと終わらせて帰っていたからだろう。
どんなに忙しくても定時に帰るために、休み時間を削ってまでも必死に仕事をこなしていた彼女は、会社の者と必要以上のコミュニケーションは取らない主義に見えたが、ダンにとっては他の課所属の関係のない者だった。
そんな彼女は、社内の伝達ミスのトラブルがキッカケでダンの部下となった。
薬草加工課は残業日が多いが、彼女の初日の薬草加工の腕を見て『彼女なら残業時間分以上を補う能力がある。定時で帰ったとしても、誰も文句は言わないだろう』と判断しての声かけだったが、噂と違って彼女はいつも最後まで手伝ってくれている。
何か心境の変化でもあったのかもしれない。
明るく楽しそうに働くようになった彼女は、男女の関係なく慕われているようだ。
加工技術もあるし、薬草加工課にとってもなくてはならない存在となっていた。
最近ダンが気になっているのは、帰宅中の彼女が深刻な顔を見せるようになった事だ。
何かを言いたげな様子で、時折り自分を見る時がある。
『もしかして結婚が決まって、辞職の相談をしたいのか?』とダンは思ったが、今は繁忙期だ。
『出来れば今は聞きたくない話だ』と、彼女が言い出すまでは深く追求しない事にした。
だけど今日はさすがに見ないふりをする事ができなかった。
あまりに思い詰めたような顔をしていたからだ。
『しょうがない。話を聞いて、なんとか時期をずらしてもらえるよう頼むしかないな』と覚悟を決めて、彼女に声をかけることにした。
そこで返ってきたのは、思ってもない言葉だった。
『とても深刻な顔をしている』と思ったら、夕食のお裾分けの話だった。
言い出せてスッキリしたのか、返事をする前から明るい顔になっていた。
本来なら断るところだが、仕事でも皆に細やかな気遣いを見せる彼女の、純粋なお返しの気持ちだと分かっていたので、料理を受け取る事にした。
それに――本当は。
彼女の作る料理に興味があった。
部下のステラが、「ミリアさんの料理、すっごく美味しいんですよ。お弁当のおかずをよく分けてくれるんですけど、もう感動ものなんですよ」と話していた通り、たまにチラリと見える彼女のお弁当はとても美味しそうだった。
後に続く言葉が、「所長もああいう料理を作ってくれる彼女を作ったらどうですか?」というのはどうかと思うが、確かに彼女のいないダンには「放っておいてくれ」と言い返すしかない。
「受け取ってくれてありがとうございます。また渡せなかったら、また何日も同じご飯になってしまうところでした。今日こそは言わなくちゃって思っていたんですよ」と、嬉しそうに笑う彼女はちょっと可愛かった。
薬品加工課の部下の男達が、「最近ますますミリアちゃん可愛いよな」と噂するのも頷けた。
だけど彼女は自分の部下だ。
部下としての好意以上を持つつもりも、プライベートな距離を近づけるつもりもない。
『また奢った料理のお返しがあっても、彼女の料理を受け取るのは今回限りにしよう』と思いながら、「ありがとう。容器はまた今度返すよ」と彼女にお礼を伝えた。
後日、ダンは料理のお礼のお菓子と一緒に容器を彼女に返すと、今度は「お菓子のお礼に」とロールキャベツの入った容器を渡された。
『今回限り』と決めていたダンだったが、前のビーフシチューがとても美味しかったのを思い出して、つい喜んで受け取ってしまった。
――『今回だけ』と思いながら。
そうしてお礼のお菓子と共に容器を返すと、またお礼の料理の容器が帰ってくる。
「美味しかったよ」と伝えると、すごく嬉しそうに笑う彼女はやっぱり、ちょっと――いやかなり可愛く見えてしまう。
とても良くない傾向だ。
おそらく彼女に、はっきりと「もう僕のために料理は作らなくていい。こういうのは特別な人だけに作ってあげた方がいいよ」と伝えたら、人に気遣いすぎる彼女の事だ。もう料理のお返しは止まるだろう。
彼女は自分の部下だし、部下以上の好意を持つつもりはない。――持ってはいけない。
プライベートな距離を近づけるつもりもないし――近づけてはいけない。
『受け取るのは今回だけ』といつも決めている。
『美味しかった料理のお返しに』とわざわざお菓子を用意するから次に繋がってしまうというのに、『今度のお返しのお菓子は何にしようか』と考えてしまう。
皆への残業へのねぎらいは、食事ではなくお返しついでに買う、お菓子の差し入れになってきている。
これでは「いつ料理を作ってくれても大丈夫」と言ってるようなものだ。
『いっそお菓子のお礼は止めて、言葉だけのお礼にするか?』と葛藤したりした。
色々葛藤した末に『お菓子ではなく、食材を買って渡した方がいいのか?』と、結局料理を期待する考えに至って、『何をやってるんだ僕は』と自分自身に苦笑してしまう時もある。
部下である彼女のプライベートに近づくつもりはないが、ダンは時折考える。
『彼女は――ミリアくんは、長年の恋人と別れたという噂は本当なんだろうか?』
そこまで考えて『いや、僕には全く関係ない事だ』と、それ以上余計な事を考えないように首を振る。
ダンは受け取ったばかりの美味しそうな煮込みハンバーグが入った容器を見ながら、『今度こそ最後にしよう』と、とても嬉しそうに笑いながら容器を渡してくれた彼女を思い出していた。