恋人の教えその⑤ 仕事を理由に会えなくなるなら、そこまでの運命
「所長〜またパンだけですか?力仕事も多いんだから、もっとちゃんと食べた方がいいですよ」
「食べてるよ。これで8個目だ」
「パンの数の話じゃないですよ。時間がないからって、手を抜きすぎじゃないですか?」
お昼休みの休憩室で、ダン所長が買い置きしている白いパンにジャムだけ挟んで食べているのを見て、ステラがダン所長に声をかけた。
確かにそれは毎日見る光景だ。
「せめて社員食堂に行くとか」
「あそこは混んでるだろう?買い置きしておいたパンなら食べてすぐ仕事に戻れるから」
「料理を作ってくれる彼女を作るとか」
「放っておいてくれ」
二人の会話に、『所長はいつもジャムを塗ったパンを食べてるから、それが好きなんだと思ってたけど、時間を惜しんでいるだけだったのね』とミリアは気がついた。
たまにダン所長にご馳走になるミリアとしては、お弁当を作ってお返しできればと思うが、手作りのお弁当というものは周りに誤解を招いてしまうものだ。
気軽に申し出ていい話ではない。
せっかく仕事が楽しくなってきた今、変な噂を立てられたくはないし、ダン所長にだって迷惑をかけるだけだろう。
「お返しのお弁当」という一瞬浮かんだ考えを、ミリアはすぐに頭から振り払った。
手作り弁当を渡すなんて、あり得ない思い付きだった。
薬草加工課にとって忙しい季節がやってきたようだ。
残業の日々が続いていた。
遅すぎる残業が毎日続くというわけではないが、それでも帰宅する頃には外は真っ暗になっている。
加工課ではお互いに作業を協力し合って、みんなで仕事を上がれるようにしているので、帰る場所がほぼ同じのミリアとダン所長は必然的に毎日一緒の帰りになっている。
ミリアの方が少し早く帰り支度を終えても、二人が家の近所だと知るステラに、「所長〜早く片付けてちゃんとミリアさんを送ってあげてくださいよ」と急かされる所長が気の毒に思うほどだった。
今日も夜道を一緒に歩きながら、ミリアはダン所長に「言おうかどうしようか」と悩んでいた。
もうずっと悩みながらも言い出せないでいる事だった。
何か物言いたげなミリアに気づいたのか、家も近くなった頃にダン所長に尋ねられた。
「ミリアくん、何か相談したい事でもあるのか?この先に食事処があるから、良かったら話を聞くぞ」
「あ!いえ!相談じゃなくて……。あの……もしご迷惑でなければ、いつも食事をご馳走になるお礼に今日の夕食をお渡ししたいのですが……」
ダン所長に声をかけられて、ミリアはかけたかった言葉を、勇気を出して伝えてみる。
残業続きでダン所長にご馳走になる機会も多く、ミリアは何らかの形でお返ししたいと思っていた。
何度もダン所長の分の夕食を用意しては言い出せずに終わって、何日も同じ物を食べ続ける事を繰り返している。
今日も残業で外食をご馳走になる可能性はあったが、それでもまた昨夜、ミリアは渡せるか分からない夕食を用意してしまっていた。
ミリアはご飯を食べに行きたいのではなく、ご飯を渡したいのだ。
できれば今日こそちゃんと言葉にして伝えたかった。
それで断られたり迷惑がられたりするなら、それはそれで納得いくし、「お返ししなくては」という自分の気持ちも落ち着くだろうと、勇気を振り絞って声をかけてみたのだ。
『やっと言えた』とそれだけで達成感を感じてしまうくらい、伝えたかった言葉だった。
「夕食?いや、今から作るのは大変だろう?お礼なんて気にしないでくれ」
「いえ、実はもう作ってるんです。煮込み時間が長いだけで、大袈裟な料理でもないんですけど……。ビーフシチュー、もしお嫌いじゃなければ食べていただけると助かります」
「ビーフシチューは好きだよ。では少しお裾分けしてもらおうかな」
ダン所長の返事にミリアの顔がぱっと明るくなる。
ミリアもビーフシチューは好きだが、今日また伝えられなければ、これから数日ビーフシチュー生活になってしまう。
食べる量の多い所長に合わせた料理は、なかなか無くならないのだ。
「たくさん作ったので助かります!すぐに渡せるように容器に入れてあるので、すぐ戻りますね!少し先に走ります!」とダン所長に声をかけて、ミリアはピュッと部屋まで駆けて行った。
渡した容器の大きさに驚かれたが、無事ダン所長に夕食を手渡せた。
部屋に帰ってミリアはふうと息をつく。
誰かに手料理を食べてもらえるのは久しぶりだった。
ビーフシチューには自信があるから、多分大丈夫だろう。『渡せて良かった』としみじみと思う。
今までダン所長に手渡すために作った料理は、結局みんなミリアが食べる事になっていた。
だけどミリア一人では食べ飽きてしまう量の料理は、チェスターの家に持って行く事はしなかった。
渡せるか分からない料理は、それほど高い食材を使ったものではない。
味にうるさいチェスターの口には合わないだろうと思ったし、彼のために作ったわけではない料理を持って行くのは、さすがに間違っているように思われたからだ。
「今日は所長に渡せるか」
「……渡せなかった。負けた」
「渡せなかったこの料理を片付けて、次の料理を作った時こそ渡せるか」と、
自分の中で謎の勝負をしているうちに、また長い時間が流れてしまった。
もうずいぶんミリアはチェスターに会っていない。
『もしかしたらチェスターは、あの可愛い女の子にお弁当だけではなくて、食事も作ってもらっているのかもしれないわね』とふと考えた。
そしてそれを寂しく思いながらも、冷静に受け入れている自分にミリアは気がついた。
ずっと昔。まだ二人が学生で卒業が近くなった頃、チェスターは言っていた。
「仕事を理由に会えなくなるなら、それはそこまでの運命だからだろうね。僕達が一緒に住むのは結婚してからになるけど、社会人になってもミリアの顔は毎日見たいな」
チェスターがそう話していたから、チェスターとの運命を感じていたミリアは、毎日チェスターに会いに行っていたのだ。
仕事を理由に会えなくなる事だけはしたくなかった。
だからずっと「仕事は定時までの間だけ」と、それだけは譲れなかったのだ。
だけど仕事で共に働く人達と向き合うようになってから、ミリアの世界は広がった。
チェスターに会えなくなったのは、仕事だけが理由ではないが、仕事がキッカケとなって会えなくなったのも事実だった。
仕事を理由に会えなくなるなら、それはそこまでの運命。
――『確かにそうかもしれない』とミリアは思う。
毎日あれだけいつでもチェスターの事で頭がいっぱいだったのに、今は仕事に忙しい日々の中で、彼の事は時折思い出すだけになっている。
心が離れていくチェスターに不安で押しつぶされそうになっていたミリアも、チェスターを繋ぎ止める事に必死になっていたミリアも、それはもう過去のミリアだ。
いつしかチェスターに会わなくても、ミリアはミリアの時間を過ごせるようになっていた。
会えなくなった、のではなく。
会わなくなった、というべきなのかもしれない。
確かに、仕事がキッカケで会わなくなった時間が、「二人の運命はここまでだ」と告げているようにミリアには感じられた。




