恋人の教えその② 仕事の残業は当たり前
夕方、何かトラブルが起きたようだった。
社内がざわめいている。
ミリアが勤める会社は薬草の卸会社だ。
ただ薬草を卸すだけではく、要望があれば薬草の加工も手がけている。
それを担う薬草加工課と、営業課との伝達に手違いがあったらしい。
明日の朝に納品する予定の薬草は「スライス加工にて出荷」だったが、その記載が抜けていた事が出荷準備段階になって発覚したようだ。
「手違いがあった薬草って、カリア商事さん納品予定の薬草らしいわよ」
「あそこに納める量、本当に多いもんね。今からの加工で間に合うのかしら?」
「薬草加工課のみんなが徹夜しても、間に合わないんじゃない?手伝い要請が入るかもね」
同僚達が不安気に噂話をする中、薬草加工課のステラがミリア達のいる部屋に入ってきて、皆に呼びかけた。
「みんな!トラブルがあって急な薬草加工が入ったの。誰か手伝える人いる?
キャベツに似たアブラナ科の珍しい薬草なんだけど、極薄にスライスしての納品指定だったのよ。包丁使いが得意な人がいたら助かるわ!」
ステラの呼びかけに、ミリアはドキリとする。
ミリアは料理が得意だ。
キャベツの千切りコンクールなんてものがあれば、余裕で優勝出来んじゃないかというくらいに、野菜を薄くスライスする腕には自信がある。
『私なんかが名乗りあげてもいいのかしら……?』
定時キッチリに会社を出るミリアに、仕事を期待する同僚はいない。こんなところで名乗り出ても、鼻で笑われるだけかもしれない。
『だけど徹夜覚悟の作業が必要なら、私でも少しは役に立てるかも……?』と、内心葛藤しながらも、ダメ元でと勇気を出してミリアは名乗り出る事にした。
「あの。私、キャベツのスライスは得意です。よかったらお手伝いさせてくれませんか……?」
「え……?」
勇気を出して声をかけたが、ステラは黙りこんでしまった。
「定時で帰る女」として認知されているミリアに仕事を任せる事などできないのだろう。
『やっぱり余計な口出しだったかも』と落ち込んだミリアだったが、すぐに気を取り直したステラに声をかけられた。
「定時まであとしばらくだけど、少しだけでも手伝ってくれるかしら?」
「!!……はい!……あの、今日は定時に帰らなくてもいいんです。終わるまでお付き合いさせてください」
ただ手伝いの申し出を許可されただけだったが、仕事仲間として認められたようでミリアは嬉しかった。
昨日あれほどチェスターに疎まれたミリアだったが、本当は今日もいつものようにチェスターの家に向かおうと思っていた。
あんな別れ方をしたままだし、顔だけでも見て安心したかった。
もしかしたら――もしかしたらチェスターだって、昨日の態度を気にかけているかもしれない。
だけどチェスターはいつも言っている。
「僕の帰りが遅いのは残業だよ。当たり前だろう?仕事を置いて帰れるミリアと僕とは違うんだ」
仕事の残業は当たり前。
チェスターの言葉に勇気づけられて、せっかく掴んだ機会を頑張ろうと、ミリアは内心張り切ってステラの後を付いて行った。
薬草加工課の部屋には、たくさんの箱が積み上げられていて、すでに加工課の者たちは薬草のスライスを始めている。
ステラが「簡単に説明するわね」と、ミリアが使うまな板や包丁を用意しながら、「これを全部スライスしなくちゃいけないの。まだ倉庫にもあるのよ」と、箱の中から薬草をひとつ取り出した。
手渡されたそれは、ミリアの知るキャベツそのものだった。
「スライスは薄ければ薄いほど、薬草の成分がよく出て効能も高くなるものなの。『なるべく薄く』を意識してスライスしてくれないかしら?キャベツを千切りする要領で、ちょっと切ってみて?」
ミリアは頷いて、早速トントンと何枚かカットして見せる。
全くキャベツと同じ手応えだった。
確認のためにスライスしたものをステラに見せると、とても驚いた顔をされて、その表情にミリアは不安になる。
「もう少し厚めにしましょうか……?」
「いいえ、出来ればこのままでお願い。このくらい薄いなら、とても濃く成分が出るはずだから、納品量も少なくて済むはずよ。加工した薬草は、重さじゃなくて成分抽出可能量で判断されるから」
どうやら極薄スライスは合格だったようだ。
ホッとして、早速本格的に薬草をスライスし始めた。
トントントンとリズムよくカットしていくうちに調子が出てきて、スピードが上がっていく。
カカカカカ……と切ることだけに集中し出すと、目の前の薬草しか見えなくなる。
いつでも頭の片隅にあったチェスターの事は、頭から抜けていた。
忙しく動く手に反して、心の中は無の境地に入って穏やかなものとなり、それはとても心地よい時間に感じられた。
どのくらい手を動かしていただろうか。
「もう十分よ。ありがとう!」とステラに声をかけられて、ミリアが意識を目の前に戻し、時計を見るとまだ3時間も経っていなかった。
「あの。時間ならまだ大丈夫ですよ」
定時で帰るミリアを気遣ったのだろうと言葉を返すと、ミリアの前に大きな男が立った。
「ありがとう。僕は薬草加工課所長のダンだ。君は総務課のミリアくんだね。ミリアくんの加工の腕は一流だね。早いし正確だ。
普段は力仕事の加工が多いんでね。ここではこういう手先の器用さが問われる作業は苦手な者が多いんだ。
ミリアくんの腕のおかげで加工量も少なくて済んだし、早く仕事も終える事ができた。
もし良ければミリアくんをこの加工課に異動してもらえるよう上に相談したいと思うのだが、一度考えてみてくれないか?」
それは思いがけない提案だった。
チェスターだけを見てきた6年間の中で、誰かに感謝された事も頼られた事もなかった。
そしてチェスターの言葉を思い出す。
「仕事の誘いだったんだ。断れるわけがないだろう?」
最近のチェスターは、約束のドタキャンも多かった。そんな時に必ず聞く言葉が、「仕事の誘い」だ。
仕事の誘いは断ってはいけない。
――それはチェスターの考えだ。
今ミリアは、薬草加工課のダン所長に仕事の誘いを受けている。
しかも嬉しい。泣きそうなくらいにダン所長の言葉を嬉しく感じている。
「ありがとうございます。スライス加工作業、とても楽しく感じました。もし出来れば、これからもお手伝いさせていただけませんか?」
「頼もしい言葉だね。早速ミリアくんの総務課の方に相談してみるよ」
ぺこりと頭を下げたミリアに、ダン所長は楽しそうに笑ってくれた。
仕事の帰りは遅くなってしまったが、ミリアの足取りは軽かった。
高揚した気分で歩いていたら、チェスターの家に寄ることも忘れて家の近所まで帰っていた。
こんな事は初めてだったが、今はこのドキドキする気持ちに浸っていたい。
服装に気をつけた事で良い一日が始まった。
『明日の服を考えなくっちゃ』と少ない手持ちの服のコーディネートを考え出すと、またチェスターの事は意識から抜けていく。
長く付き合ってきたチェスターの言葉は、確実にミリアを変化させている。