恋人の教えその① 服には金をかけるべし
「チェスターが当然のように話している事を、ミリアも当然のものとして受け入れて、それを真似をしていく日」の第一日目。
ミリアはいつもより丁寧に化粧をして、いつもより服装に気合いを入れて仕事へ向かう準備をしている。
以前チェスターは「うちの仕事先では、みんな服装にお金をかけているみたいだよ。僕も見た目で軽んじられたくはないから、服は良いものを買いたいんだ」と話していた。
続く言葉は「だから金欠で、お弁当を作ってくれないか?」というものだったが、それでチェスターが仕事先で認められるならと快く引き受けていた。
結婚したら家にいるだけのミリアに、高価な服は要らない。皆の前で食べるお弁当が恥ずかしくないように、料理の材料費も惜しまず出していた。
毎朝早朝にお弁当を作り、毎朝ミリアがチェスターの家に届けるのが日課になっている。
毎朝のミリアの身支度は、チェスターの出勤時間に間に合わせるための、ささっと済ませた簡単な化粧と、料理を作る時に後ろに一つにまとめただけの髪型にして終わっていた。
時間がなかったのだ。
――いや。
「時間がなかった」と言うのは言い訳に過ぎない。
もう少し早く起きれば当然ゆっくりと化粧はできたし、髪も綺麗にまとめる事は出来たはずだが、そこまでの余裕がミリアにはなかった。
ミリアの毎日はわりと忙しい。
仕事は定時で帰っていたが、そのまま買い物に行ってチェスターの家で夕食を作る毎日だ。
遅い帰りを待てずに帰る事もあったが、それでも待てるギリギリまでの時間までは待っていた。ミリアのアパートに帰ってからは、今度は自分の部屋を片付けて、そしてまた早い朝が来る。
チェスターのお弁当作りから始まる一日は、時間のない日々だった。
昨日チェスターに、ため息ついでに「もうお弁当も届けなくていいよ」と言われている。
チェスターのためと続けてきたお弁当作りは、いつしか迷惑なものとなっていたようだ。それならばミリアはそれを当然のものとして受け入れるべきだ。
これからはチェスターのお弁当作りのための早起きは必要ない。「お弁当を持っていかない事」を真似する事はさすがにできないが、自分のためだけのお弁当ならば、質素な「残り物を詰めただけ」のもので十分だ。
今日からはお弁当作りの早起きは必要ない。
だけど長年の早朝のお弁当作りに慣れてしまって、今日もまた早くに目覚めてしまった。
こうして念入りに身支度を整えても、まだ出勤する時間には早すぎる。
『恋人のお弁当作りがない生活は、時間に余裕がある生活なんだわ』という気づきがあった。
今日ミリアが選んだ服は、いつチェスターのご両親と挨拶する機会が訪れてもいいように用意していた服だった。
結局一度も着る機会は訪れなかったが、生地の質も良く「きちんとした上品なお嬢さん」に見えるように、慎重に選んだ特別な日のための服だった。
仕事にとっておきの服を着るなんて、昨日までミリアには考えられない事だったが、今日は「チェスターの言葉を受け入れる日」の、記念すべき初日だ。
『特別な日なんだから、私が持っている中で一番高かったこの服が正解よね』と頷いた。
鏡に映るミリアは、いつもよりちゃんとして見える。
丁寧にお手入れをした肌は化粧のノリがいいし、ナチュラルメイクだけど小技は効かせている。髪もゆるく巻いてから綺麗にまとめている。
白いブラウスにハイライト効果があるのか、顔色も明るく見えている。
「私ってちょっと可愛いんじゃない?」
誰も言ってくれなさそうな言葉を自分にかけると、おかしくて笑ってしまい、朝から楽しい気分になってきた。
いつものササッとメイクで、くたびれて汚れてもいいような服を着ているより、気持ちが上を向いている。
仕事日の朝に、いつもと違う服を着ただけなのに、いつもと違う気持ちにになれたのだ。仕事に良い服を着るという、この試みは正しかったと思うことができた。
『仕事用に良い服を買いたいってチェスターが話してた理由は、こういう事だったのね』と、チェスターの考えに今更ながら納得できて、彼の考えが少し理解できた気がした。
いつもより丁寧に化粧をして、いつもより気合いを入れた服装をしたミリアは、いつもよりちょっと積極的になれた。
いつも気後れしてしまって小さな声でしか挨拶できなかった、オシャレな同僚の女の子にも笑顔で挨拶ができた。
とっておきの服を着ていると、背筋も自然と伸びている自分に気がつく。
そんな自分の変化が嬉しくて表情が明るくなったせいか、今日はいつもより職場の人達が気軽に声をかけてくれるように感じられた。
それはとても小さな変化だったが、心が温かく感じられる喜びがあった。
午後に急なお客様があったようだ。
「誰かお茶を用意してくれないか?――ああ。ミリアくん、君に頼むよ。大事な取引様なんだ。美味しいお茶を淹れてお出ししてほしい」
お茶出しの指名に、ミリアは「はい。すぐに用意します」と明るく返事を返して、お茶の準備に入った。
いつもは「誰かお茶を――」という言葉を聞いた時は、『指名が入りませんように』と密かに祈ってしまっていた。
適当な服と適当な化粧は、慣れた会社の者の前では気にしないが、お客様の前に出るには勇気がいる。
適当な服といっても、汚れているわけでもボロボロなわけでもないが、「汚れても全く気にならない服」というものは、初対面の人に見られたい服ではないのだ。
それに定時ピッタリに上がるためには、その日の仕事の量によっては休憩時間を削ってでも必死に仕事をこなす必要がある。
お茶出しというものは今までのミリアにとって、時間的にも気持ち的にも煩わしく思っていたものだった。
気持ちに余裕があるせいか、いつもより上手くお茶を淹れる事ができた気がする。
お客様にお茶を出す時も、『見られたくない。早く部屋を出ていきたい』と焦る気持ちも今日は全く持たなかった。
お客様に「失礼します」と言って丁寧に出したお茶は、後で聞いたところによると「美味しい」と褒められていたようだし、「姿勢もいいし、所作も綺麗な子だった」とお褒めの言葉ももらったようだ。
お茶出しを褒められたからといって何かが変わるわけではないけど、ミリアにとっては自分が変われた気がする、とても嬉しい言葉だった。
丁寧に肌のお手入れをして、ナチュラルメイクの中に小技を効かせて、髪を綺麗にまとめて、ちょっと良い服を着る。
人を見た目で判断するのは良くないけれど、「仕事の上ではそれが自分を助けてくれる事もある」という事は、チェスターの言葉からの教えだ。
――確かに彼は正しかった。
「あまり高い服は無理だけど、今度服を揃えなくっちゃ」と、服を買う楽しみでさらに心が弾み、今日のミリアは仕事の時間が楽しく感じられている。