恋人の立場に立ってみるという事は、恋人と同じ事をしてみるという事
『もしかしたら追いかけてきてくれるかも』
心のどこかで期待していたが、ミリアを追ってくれる足音はどこまで歩いても聞こえなかった。
昔ならば「暗くなってからの一人歩きは危ないよ」と必ず送ってくれていたのに。
コツコツと誰もいない夜道に響く自分だけの足音が惨めだった。
たくさんの料理を入れた袋はズシリと重く、袋を持つ両手が痛かった。
帽子を深く被ってボロボロと止められない涙を隠し、やっと家にたどり着いて扉を閉めると、そのまま靴も脱がずに玄関先で座り込んでしまう。
チェスターの部屋で、彼の帰りを待ち続けるミリアに向ける目が、「迷惑だ」と語っていた。
深夜に近い時間帯の中、一人で夜道を歩くミリアを心配する気持ちも無いようだった。
チェスターの気持ちはもう、明らかにミリアから離れている。
――認めたくない事実を突きつけられたようだった。
『終わりにしたい』
『諦められない』
『あんな男とは別れるべきだ』
『終わりになんて出来るはずがない』
色んな感情が押し寄せてきて、流れる涙が止まらない。
玄関先に座り込んで泣きに泣いた。
どれくらいそうしていたかは分からないが、ミリアはやっと足が痺れていることにも気づいて、よろけながらも立ち上がる。やっとの思いでベッドまで歩いて倒れ込み、布団を頭まで被って泣きながらそのまま眠りについた。
翌日。最悪な気分で目覚めたミリアは、さらに最悪な現実を見た。
靴も脱がず、化粧も落とさずに布団に潜りこんだせいで、シーツも布団も酷いことになっている。
食欲もないし何一つやる気は出ないが、洗濯はしなくてはいけない。
「ついでに着ている服も洗ってしまおう」
「ついでにお風呂にも入ろう」
「ついでにお風呂掃除もしよう」
几帳面な性格のせいで、次々とやるべき事が思い浮かんで、ミリアは動き続けてしまう。
あれやこれやと動いているうちに、ぐうとお腹が鳴る。
昨夜はチェスターの浮気を目撃してしまったせいで、たくさんの料理を作ってチェスターの帰りを待っている間、作った料理には全く手を付ける気にもならなかった。不安で胸がいっぱいだったのだ。
今も悲しみでいっぱいだけど、こんな時でもお腹は空くみたいだ。
せっかく一生懸命作った料理だ。今食べなくては、本当にゴミになってしまう。
ミリアは玄関先に置きっぱなしだった袋から、昨日の料理を取り出してきれいに皿に並べた。
急いで容器に詰め込んだせいで潰れてしまったおかずもあったが、いつもより手間をかけて丁寧に作った料理は、自分で言うのもなんだが美味しそうだった。
昨夜は「私の料理なんて、迷惑でしかない物なんだわ」という投げやりな気持ちだったが、こうして落ち着いて食べてみると、冷めていても美味しいと思えた。
チェスターのために素材は奮発しているし、いつもより豪華な食事だ。
『傷む前に食べてしまおう』と、たくさんの料理をパクパクと食べているうちに、昨夜の絶望的だった気分が少し上を向いてきた。
昨夜は「別れる」か「余計な事を言ったと謝って、許しを請うか」の二択しかない状況に思えたが、美味しい料理でお腹が満たされると、もっと他の道があるように思えてきた。
目の前の、余った料理を見ながらミリアは考えた。
ミリアの料理は自分にとっては好みの味だが、最近のチェスターの口には合わないようだった。
彼はよく「ミリアのご飯って健康系過ぎて味がしないよね。外のご飯の方が味が濃くて美味しい」と話している。
付き合ったばかりの頃はそれでも「美味しい」と言ってくれていたので、市販の料理の素を使っていた頃の味が好きだったのだろう。
『6年という長い年月の中でチェスターは変わってしまった』と思っていたが、変わったのは自分の方だったのかもしれない。
以前の市販の料理の素頼りの味付けから、全て手作りの味付けに変わっているように。
――同じように。
チェスターの生活に足を踏み入れる事のなかった付き合い始めの頃のミリアが好きだったなら、「チェスターのため」と思い込んで甲斐甲斐しく世話をする今のミリアは、チェスターにとっては鬱陶しいだけだろう。
勝手に「チェスターは喜んでくれるはず」と決めつけないで、チェスターが言うように「チェスターの身になって」考えて行動するべきだったのだ。
チェスターの身になって考えるという事。
それはチェスターをよく知る者だけが出来る事だ。
逆を言えばチェスターをよく知らない者は、それが出来ないとも言える。
6年という付き合いの中で、ミリアはチェスターの事は何でも知ってると思っていた時期もあるが、今のミリアはもうチェスターがよく見えなくなっている。
今のミリアにはチェスターの身になって考える事はできない。
だったら考えるよりも、まずは行動するべきだ。
チェスターが当然のように話してきた事を、ミリアも当然のものとして受け入れて真似していけば、自然と正解が見えてくるだろう。
『変わらなくちゃ』とミリアは考えた。
本当は。心の奥では、もうずっと終わりの予感を感じている。
帰ってくるチェスターからは、甘い香水の香りがする時があるし、何かを思い出すように口元が緩む時は、すぐ近くにいるミリアの事を考えている時ではない。
「それは誰なの?」と問い詰めて、そのまま別れを切り出されるのが怖くて、今まで何も言えていない。
チェスターとは6年も付き合ってきたのだ。
「結婚するならチェスターしかいない」とずっと思ってきたし、そんなに簡単にチェスターとの関係に終止符を打てるはずがない。
そんな事が出来るなら、とっくにそうしている。
出来ないから苦しいのだ。
このまま何もせずに終わってしまったら、未練が残って、いつまでもチェスターを諦められないままかもしれない。
『あの時こうしていれば』なんて後悔したくない。
せめて『やれるだけの事はやった』と諦められるようにしなくては。
「明日からチェスターのように振る舞ってみよう。それが今私に出来る事だわ」
ミリアはまだ、悲しい予感に向き合う事は出来ない。