恋人の最後の教えその⑥ 料理を作りたくなるわけは
ミリアは今、真剣に悩んでいた。
それは揚げたてのトンカツを、なんとかダン所長に届ける事が出来ないか、という悩みだった。
チェスターと市場で偶然出会い、思いがけなく唐突に二人の6年の関係に終わりを告げられる事になったが、それはいい。
ここ数年、ずっと心の片隅で不安に思っていた事が、現実になっただけだ。
チェスターとティナが仲良く腕を組んで歩いているのを見ても、不思議なくらいに心が波立つことはなかった。
色々な事があって、自分の心の整理はすでについていたのだろう。
それでも、二人と別れた後どこか動揺していたのだろうか。それとも、ティナに言われた「そんな材料を使った料理」という言葉が引っかかっていたのだろうか。
ロールキャベツを作る予定で買い物も終えていたのに、更にトンカツを作る材料まで追加で買ってしまった。
――それも二人分。たくさん食べるダン所長とミリアの分だ。
ロールキャベツは帰ってすぐに作ったし、後は冷めたら容器に詰めて明日の夜渡したらいい。
問題はトンカツだ。
ステーキ肉には及ばないが、上等のロース肉とヒレ肉なんだから、一番美味しい揚げたてを渡したい。
だけどミリアの住むアパートの目の前がダン所長のマンションだとしても、届ける事は出来なかった。
たとえダン所長の部屋番号を知っていても、ただの部下にすぎないミリアが、いきなり手料理を持って訪れるなんて非常識すぎる。そんなのは怖がられる案件だ。
とても近くに住んでいるが、ミリアとダン所長の関係では、とても遠い距離だった。
偶然の出会いに期待するしかない。
『もしかしたら偶然に私の家の前の道を通るかも』と、窓の外を気にしながらトンカツ用のお肉に下味をつける。
それからもう一度窓の外を確認して、ガッカリしてサラダを作る。
今度は窓を開けて顔を覗かせて、ガッカリしてからスープを作った。
もうあとトンカツを揚げるだけだというのに、奇跡の偶然は訪れない。
少し外に出てみる事にした。
『確認するのはこれで最後にしよう。こんな事はよくない。さすがに自分が怖くなるわ』
こんな風に相手の都合も考えないで勝手に料理を作るから、チェスターにも疎まれたのだ。
それに今日は休日だ。ダン所長だって仕事を思い出させる者に会うよりも、他に誰か会いたい人がいるかもしれない。
『……誰か?』
思い至った自分の考えに、ミリアはショックを受ける。
そうだ。どうして気づかなかったのだろう。
「彼女を作ったら?」とステラはダン所長に軽口を叩くが、ダン所長は「いない」とは答えていない。
『もしかしたらチェスターのように、所長の恋人が夕食を作りに来てくれてるのかも』
そんな想像をしたら悲しくなって涙が滲んだ。
「ミリア!」
名前を呼ぶ聞き慣れた声に顔を上げると、チェスターが立っていた。
「チェスター?ティナさんはどうしたの?」
「ティナは関係ない。ミリア、それよりどういう事だ?別れるなんて嘘だろう?
……ああ、泣かないでくれ。ティナとは本当に何でもないんだ。ただ同じ会社の同僚っていうだけだ」
涙目になっていたミリアの目元にチェスターが手を伸ばすと、ミリアは咄嗟にすっと後ろに下がってしまった。
涙目なのはチェスターのせいではない。
急いで目元の涙を手で拭って、チェスターに言葉をかける。
「違うのよ。別にチェスターの事で悲しくなったわけじゃないの。それより一人なの?ティナさんは料理中?あまり待たせない方がいいわ。料理は出来立てが美味しいのよ」
「ティナの事は本当に誤解なんだよ。ただの浮気相手で、本気じゃない。僕が結婚したいと思ってるのはミリアだけだ。
……ごめん。いつも料理を作って待っていてくれたのに遊んでいたりして。ミリアが料理を作ってくれていたのは、僕の身体を心配してくれていたからだろう?僕を愛していたから、栄養バランスを考えた食事を考えてくれていたんだろう?」
「……あ」
チェスターの言葉でミリアが気がつく。
そうだ。以前どれだけチェスターに冷たく当たられても、彼を愛していたから色々な料理を作らずにはいられなかった。仕事が忙しそうなチェスターの身体が心配だったからだ。
今ミリアがダン所長の事を考えて料理を作らずにいられないのは、仕事が忙しすぎるダン所長の身体が心配だからだ。
朝は食べないようだし、昼は毎日買い置きのパンにジャムを挟んだものだし、夜は外食が多いようだ。
そんな生活はどう見ても身体に悪い。
どうしてもダン所長に料理を作りたくなるのは―――
「……私、所長が好きなんだわ。所長の身体が心配だから、料理を届けたくなっちゃうのね……」
「所長って誰だよ!」
「あ」
どうやら声に出して呟いてしまったようだ。
慌ててミリアは口を押さえる。
誰にも聞かれたくない、恥ずかしすぎるひとりごとだった。
気づいたばかりの自分の気持ちをチェスターに説明する気にはなれなくて、すっと視線を逸らすとダン所長が驚いた顔で立っていた。ミリアの呟きが聞こえていたのかもしれない。
「…………」
カーッと顔に血が上り、何も言えないままにダン所長を見つめるしかなかったミリアに、ダン所長が気まずげに言い訳を始めた。
「いや、立ち聞きしてたわけじゃない。ちょっと外に出てみたらミリアくんが見えたから。知らない者といたから、何かあったのかと気になって……」
涙目になってミリアが尋ねる。
「あの……聞こえてました?」
「すまん。聞こえてた」
――終わった。最悪だ。
ミリアは恥ずかしさを通り越して、絶望感に襲われる。
ダン所長は仕事に影響が出ることもあるから、社内恋愛反対派だと聞いたことがある。
最初から始まるはずのない恋だった。
「……あの、所長。私が勝手に想っているだけなので、気にしないでください。もし迷惑だったらもう料理は決して作りませんから―」
「迷惑じゃない。迷惑であるはずないだろう?」
ダンが急いで否定をした。本当に迷惑であるはずがない。
休日の今だって、ミリアの事が気になって「少し歩くか」と自分に言い訳しながら外に出て、ミリアのアパート側に立ったところだったのだ。
偶然にも外にいたミリアに、知らない男が近づいて行っているのを見かけた。
男に気がついたミリアが驚かなかったので、「この人が……」とミリアとの関係に気づいて絶望するしかなかったが――自分の手で涙を拭く仕草を見せたミリアの様子が気になって、足が勝手に近づいてしまっていた。
今まで自分に渡されていた料理には、お礼の意味以上の意味があった。
ダンの耳に届いたミリアの呟きは、ダンが心から望んでいた言葉だ。「迷惑だ」と諦めて欲しくなんかない。
「……浮かれてもいいだろうか?僕もミリアくんを想っているのだが。休みの今日も、少しでも顔を見れたらと思ったんだ。……ああ。俺も重症だな。
ミリアくんの料理は本当に美味しい。こんなに食事が楽しみに思えたのは初めてだし、毎日だって食べたいくらいだ」
「……!!毎日作ります!……作りたいです。これからは揚げ物をしても、揚げたての一番美味しい時に食べてもらえますね。……本当に嬉しい」
嬉しくてミリアがふふふと笑う。
「毎日所長の料理を作るなんて、付き合っているみたいですね」
「―――付き合って欲しいと思っている。僕はいい加減な付き合いはできないから、出来れば将来を見据えた付き合いで考えてもらえないだろうか?」
恥ずかしくて軽口を叩くと、ダンから真面目に言葉を返された。
その答えはもう出ている。ミリアだっていい加減な付き合いなどしたくない。
「―――はい」
胸がいっぱいで、返事だけで精一杯だった。
「暗くなってきたな。そろそろ動こうか」
ダン所長が差し出してくれた手をドキドキしながらそっと握ると、とても大きな手に安心が出来た。
自分の事に精一杯でいつの間にかチェスターの姿が消えていた事に気づかなかったが、なんだかんだ言っても今頃チェスターはティナとの時間を楽しんでいるだろう。
チェスターと過ごした時間の中にはもちろん楽しい時間もあったが、苦しい事も多かった。
だけど6年ごしの恋人の言葉は正しかった。
恋人の教えがあったから今のミリアがあるのだし、ミリアが所長を想う気持ちも気づかせてくれた。
6年という時間は決してミリアにとって無駄なものではなかったのだ。
「所長、」
「出来ればダンと名前で呼んでくれないか?」
「――ダン、さん。あの、もうサラダもスープも出来ていて、あとはトンカツを揚げるだけなんです。実は今日は……」
今日色々葛藤しながら買い物に行った話や、偶然を願って今日の夕食準備をしていた話や、どうして今ミリアが外に出ているのかという話をしながら二人で歩き出す。
いつもの会社帰りのおしゃべりとは違って、手を繋いで歩けるのが、とても恥ずかしくてとても嬉しい。
それは6年越しの恋人の言葉の先にあった幸せだった。




