清明前夜
家族が寝静まるのを待って家を出た。何かやましいことがあるわけではない、毎週の習慣となっているだけだ。
外は月が出ていなかったが、目的地はそこまで遠くない。足元は街灯で十分だった。
4月になったとはいえ、夜更けに出歩くにはかなり肌寒い、マウンテンパーカーを着てきて正解だった。富士山麓であるこの地域は先日も雪が降ったばかりだ。
歩いて15分ほどで目的地の鮎三沢公園に着いた。昼間は児童や老人でにぎわっているこの場所も、夜更けにはほとんどだれもいない。
併設のテニスコートを越えて、噴水の横のベンチを目指す。近くで猫が鳴いた、彼女が近くにいる。
「こっちだよ。」
先ほど鳴いたと思しき猫が足元にいて、頭をこすりつけてきた。
これでは猫がしゃべったみたいだな。知らない人がこの状況に遭遇したら、心霊現象のたぐいと間違えるかもしれない。
猫を撫でようと屈んだが、僕の手を避けて暗闇の向こうに走っていった。自分からすり寄ってきて、こっちが心を許すと離れていく。声の主にそっくりだ。
猫の消えた先を追いかけると、ブランコに制服を着た少女が座っていた。先ほどの猫は少女の膝の上で彼女に愛でられている。
「遅かったね、呼んでいたのに。」
彼女は僕に咎めるようなことを言っているが、その表情は不思議と満足気だ。
彼女は少し伸びてきた黒髪を揺らしてから「ねぇ」と猫を覗き込み、彼もしくは彼女の頭を撫でつける。猫は嬉しそうに喉を鳴らして返事をした。
「君がいつもの場所にいないから、いなくなったのかと思ったよ。」
前みたいにね、と声には出さずに抗議する。もちろん表情は微笑みを浮かべたままだ。
彼女は僕の言葉を気にする様子もなく猫に夢中だ。
「いつもと制服が違うね。」
僕は彼女のとなりに腰を下ろす。彼女とは少し前にこの公園で会って以来だが、先週までと着ている制服が変わっている。同じセーラー服を着ているが、その色味が異なっている。
「そうなの、かわいいでしょ。」
彼女は僕の言葉に嬉しそうに反応する。いつも僕の話を聞いているのか、いないのか分からないが、興味があることへの食いつきを見るに、いつもは聞こえていないのだろうな。
「あなたに見せたくて、わざわざ着替えてきたのよ。」
彼女は後ろを向いて、背中を覆う襟を見せる。「星がかわいいでしょ」襟には何やら図形が描かれていたが、僕には星のようには見えなかった。
聞いてる?
と彼女が僕の方に向き直ったので、慌てて何度か頷く。
「よかったね。三矢高校受かったんだ。」
三矢高校は彼女の志望していた高校だった。
僕の言葉に彼女はニコリと微笑み直し、僕の目を覗き込んだ。目を覗き込むのは彼女の癖のようだが、僕は未だにこれに慣れない。それにしても、彼女がこれほど表情豊かなのも珍しい。
「前も言ったじゃない。忘れちゃったの?」
彼女はブランコを揺らしながら嘯く。膝に乗っていた猫は慌てて飛びのき、僕の膝に移ってきた。
「前に会ったときは受かるかどうか、心配って言っていたかな。」
揺らす勢いを増していく彼女に向けて言う。彼女はこっちを見ないまま「そうだっけ」と暗闇に向けて叫んだ。膝の上の猫が声に反応して髭をピクピクと動かす。不機嫌なのだろうか、僕は首の後ろを掻いて機嫌を取ってやる。猫のご機嫌取りだなんて情けない限りだ。
「一緒に行きたかったな。」
ブランコを止めた彼女は、前方の虚空を見つめたまま呟いた。彼女には僕の猫に対する劣等感など気づきようもないだろう。
「他に誰がいるの?」
猫を触るのに集中しながら尋ねる。彼女の動きが静かになったからか、猫も落ち着きを取り戻したようだ。気持ちよさそうに目をつぶっている。よかった、もう少し時間はありそうだ。
「みんな受かったよ。6人で結果を見に行ったんだけどね、紗弓なんて泣いていたよ。えーと、梶田と桐谷、横田君と紗弓と真理と私。あと怜司も受かったって」
「正直、誰か落ちるかと思ってたんだけどね。」彼女はそう言って悪戯っぽく笑った。
「そうか、怜司も受かったんだね。よかったよ。」
怜司は僕の弟だ。
「高校生になるんじゃ、こうして会うことはできなくなるね。」
わざとらしく空を見上げると、ついさっきまで霞に覆われていた夜空に星が点々と輝いていた。僕につられたように彼女も空を見上げる。カップルか何かみたいで少し気恥ずかしい。
「私は大丈夫。部活には入らないし、いつまでも来れるから。あなたこそ、いつまで来れるの?」
「いつまでいられるんだろうね。怜司のことが唯一の気がかりだと思っていたんだけど…。どうも違うらしい。」
さっきまで目をつぶっていた猫が目を覚まし、動きたそうにうずうずしている。僕は膝から持ち上げ、腕の中に抱きかかえた。
「すまないね。もう少し時間をおくれ。」
猫は納得してくれたようで「ニャー」と返事をした。
「やっぱり君に伝えないといけないらしい。いつまでもこのままではいられない。」
「いいじゃない。怜司も納得しているわ。」
彼女はまた僕を覗き込む。彼女が目を覗き込むのは嘘をつく時だ。本当は彼女も気が付いているはずだ。
「聞いて。」僕は猫の背を撫でながら彼女の方に向き直る。いきなり僕が視線を合わせたことに驚いたのか、彼女は俯いた。
「君のことが好きだ。これまで君の隣にいれたことが嬉しかった、これからも一緒にいたかった。だけどもう行かなきゃ。怜司をよろしく頼むよ。」
彼女は俯いたまま何も言わなかった。かわりに腕の中の猫が返事をしてくれた。こいつもそろそろ自由になりたい頃だろう。抱えていた腕から放してやると、足元で少しこちらを見上げていた。名残惜しい気持ちでもあるのだろうか。ひとつ伸びをする。暗闇に包まれたままのストレッチはこれまでにない自由を感じた。時間も時間だ、夜も更けて瞼が重い。足元の猫は姿を消した。空は再び霧に包まれ、僕も急激な眠気に襲われる。
「ごめんなさい。」
薄れゆく記憶の中で、確かに彼女がそう言った気がした。どうせなら謝るんじゃなくて感謝がよかったな。
目を覚ますと、僕はブランコに座っていた。隣で春霞がブランコを揺らしている。
「起きた?」
こちらを向かずに春霞が言った。
「よくもまあ、こんな不安定な場所で寝れたな。あいつは何か言っていたか?」
春霞がこちらを覗き込む。
「特に何も言わずに行ってしまったわ。」
「自分勝手に満足して…。そう、あなたのことを頼まれた。」
今度は少し俯きながら彼女は言った。
「そうか、あいつが満足なら良かったよ。明日は入学式だ。そろそろ帰ろう。」
家まで送るという申し出を断って、彼女は消えていった。
兄が死んでから半年が経とうとしていた。