4.かわいそうな王子様
私には、記憶がない。
そんな顔するなよ。ああ、誤解させたのか。悪かった。名前も育ちももちろん覚えているし、理解しているさ。そうでなければこんな書類仕事なんかとっくに投げ出してる。無茶苦茶な予算案だ。これが未来の大臣候補のやることか? まったく頭が痛い。
記憶? ああ、なくしたのはごく一部だよ。時間にすると、そうだな。ざっと八年分くらいだな。幼い頃の私は、病弱だったらしい。君も聞いたことくらいあるだろう。私は長いこと病に臥せっていて、王妃殿下は看病のために離宮から出てこなかったのだとか。でも不思議な話でね。私は当時の記憶がまったくないのさ。薄情な子どもだろう。
ある朝、目を覚ました私を抱きすくめて、王妃殿下はおっしゃったんだ。
「怖い夢を見ていたの。いたましい、おぞましい夢を。でももう平気よ。あなたはわたくしのかわいい子だわ」
とね。
私の記憶はそこからはじまっている。
「それは、病の後遺症でしょうか?」
「さあ、わからないな」
私は肩をすくめた。
これについて同情されるのは慣れている。馬鹿げた予算ばかり持ってくる子息の後釜として内々に紹介されたこの青年は、宰相の秘蔵っ子だという。その才気溢れる幼少期の逸話に興味を持って質問攻めにしてしまったのが運の尽き。私も一つくらい思い出を語ってくれなければ不公平だというから(主従なんて不公平な関係で対等な立場など求められても困るのだが)、「ない」と正直に答えた。
この類の視線は、好きになれない。
「私はそんなにかわいそうかい?」
「あ、いえ、そんなつもりでは……」
「まあいいさ。ともかく、これで私の話は終わりだ。これからよろしく頼むよ」
「よ、よろしくお願いいたします!」
好青年だと思うより先に本当に「使える」人間なのかを疑ってしまう。
「君も知っての通り、ここしばらく貴族たちは落ち着きがない。社交場だけではなく実務に影響が出てくるくらいにね」
「……はい」
「君はどのあたりまで事情を把握している?」
「発端は、侯爵家での茶会だったと聞き及んでおります」
件の侯爵は古い家柄だけれどもここ三代は目立つ功績もなく、堅実な領地運営くらいしか褒めるところがない。強いて言えば、愛妻家として知られている。令息が三人、令嬢が四人。いずれも正妻の子だというのだ。この国では一夫一妻が原則とはいえ、絶対ではない。婚外子は養子に迎えるのが一般的であるから、ほんとうに「妻一筋」というのは珍しいのだ。
この真面目な侯爵が養子を迎えたという。
身体が弱く、今まで外に出されることなく療養していた。いつ亡くなるかも知れぬので、この歳まで社交などさせてこなかったとの触れ込みである。社交場では義理の兄姉や夫人がこの哀れな青年を守るように位置取り、物見遊山の輩を牽制しているとか……そこまで大切ならいっそ隠したままにしておけばよかったものを。とはいえ、身体がよくなったのであれば少なくとも一年くらいは積極的に顔をつなぐ必要がある。
「目的は十分達成しているものと思われますが……いつまで表に出しておくのでしょう」
苦くつぶやく補佐官は、なるほど見た目に違わず純朴で、オトナの話にはやや潔癖らしい。頭の回転は速くとも、正直すぎる彼があの狸の息子とは、世の中不思議なことばかりだ。
偉大なる国王陛下にほぼ生き写しの私だから、この差異が目についてしまうのだろうか。父狸の美辞麗句によると、目鼻立ちも目や髪の色も、私には王妃殿下の要素がまるで見当たらない。かわりに国王陛下の若い頃そのものらしい。
こうして同年代の別の親子を見るようになって、私は己のような者が少数派であることを知った。なにしろ記憶がずいぶん遅く始まっているもので、私はかなりの世間知らずなのだ。
「ここしばらくの浮ついた空気は……正直、あまり気分のいいものではありません。彼の美貌を称える台詞をいくつ聞いたものか」
まあこういう青年だからこそ、この異常事態の中宰相が引っ張り出してきたのだろう。
「ふうん、そんなに凄いのかい? 彼は。私はまだ会ったことがないのだけれど」
補佐官は顔をしかめた。
「眠れぬ王子を気取るくらいですから」
それはおそらく世界で一番有名な悲劇。そして喜劇だ。
哀れな王子の放浪譚。
「真実の愛、だったかな」
「本人が引用したりするからですよ。たちが悪い」
昔々、ある国に、悪い魔女がやってきた。魔女は王様を虜にして、たくさんの街を焼き、人々を苦しめた。
優しい王子は皆のために王様と魔女をやっつけて、悪者はいなくなった。
皆はとても喜んだけれど、魔女は最期の力で王子様を呪った。真実の愛の口づけをもらわなければ、王子様に安らかな眠りは訪れないというのだ。
老いることなく、時の流れから置きざりにされる。それはどんなに残酷なことだろう。
哀れな王子様は親しい人々に永遠の別れを告げなければいけなかった。一人取り残され、真実の愛を求めて永遠にさまよう運命を背負ったのだった……。
「永遠にさまよう羽目になるのは、王子に真っ当な心がないからではありませんか?」
「そうかな? 軽薄に愛を囁く貴族たちでは、彼に眠りなんてもたらせないと思うよ」
直接見たわけではないけれど伝え聞く限り、家族に守られながらお決まりの台詞を口ずさむ青年の有様は、補佐官の揶揄する「やたらに愛を求めて人を惑わす、無節操ではしたない喜劇的な」王子とはかけ離れている。むしろ、まるで逆の気がしていた。
見た目に惑わされる人々を疎み、連中を引き寄せる己の美貌を嫌い、皮肉を込めて愛なんてものを語ってみる。悲劇の主役。
「どちらにせよ、そんな劇中の台詞を諳んじただけでここまで騒ぎになるなんて凄いことだけれどね」
国一番の人気役者でもこうはなるまい。
「それです! 国政を乱すような者が、優しい王子の台詞を口ずさむなんて! むしろ魔女ではありませんか。皆、悪い魔女に騙されているようにしか見えませんよ。己の職務も忘れて夢中になるなんて!」
私は目を細めてつぶやく。
「『君は恋を知らないんだね』」
補佐官はうぐ、と息を呑んで黙った。
この気障な台詞もまた、同じ劇に頻繁に登場するものだ。真実の愛を巡る旅の途中、王子様はたくさんの人に哀れまれる。あなたは愛を知らないから、恋を知らないから。そうやって王子様はゆく先々で拒絶されるのだ。いつまでも、何度でも。
「我が国の「真実の愛」至上主義は元々じゃないか。別にあのご子息がはじめた流行り事ではないだろう?」
「それはそうかもしれませんが……」
執務室の窓を見やる。もうそろそろ燭台を準備しなければ。じきに日が暮れる。哀れな「王子様」へ愛を囁く道化たちの宴がはじまる時間だ。
「……彼と話してみようか」
「え! いや、それは」
「私も魔女の虜になると思うかい?」
それはそれで面白い展開だな、なんて笑いながら、顔色が悪い補佐官を手振りで下がらせる。あんな馬鹿話の間にもきちんと書類をさばいてくれたのはありがたい。が、どうにも直情的すぎる。
お役に立ちます自慢の息子ですと宰相は言うけれど、私にはあまり……そう、貴族的ではないように思えた。彼も養子だったはずだ。境遇が似ているのが、かえって怒りを煽るのだろうか。窓を開けると風が控えめに肌をさする。
「愛、か」
それを振りかざして婚約破棄など考え出す若者たちがいる。あるいは離婚する夫婦まで出ている。真実の愛。馬鹿らしい。あの青年のため、真実の愛のためと叫ぶ当人たちも、青年のせいだと批判する傍観者も、私にはまったく同じ生き物に見える。
ありがとうございました。次回は21日です。