2.贈りもの
この国で一番あたたかいところにある大きな森は、恐ろしい魔女の棲みかで、迷い込んだら殺されてしまうと聞いた。何度切り拓いて畑にしようとしても成功しない。あの場所ならたくさんの作物を育てられるはずなのに、たくさんの王様がやってみて、諦めるような場所なのだそうだ。でもそんなの、ぼくには関係のない話だと思っていた。
なにしろ生まれてこのかた、塔から出ることも許されない身の上だ。
母上は誰より努力して王妃になったのに、不吉な赤目を産んだせいでここへ閉じ込められてしまった。国王陛下は時々愛する妻のところへやって来るけれど、妻を貶めた赤目の子どものことは大嫌いだった。
「お前さえいなければ」
何度も言われたものだ。
「お前さえ生まれなければ、私は愛する人をこんな場所へやらずに済んだのに!」
国王陛下とぼくは顔立ちも髪の色もそっくりだ。だから母の不義密通なんて一度も疑われなかった。憎悪はすべてぼくに向かった。
それでもぼくがこの歳まで生きてこられたのは、母上がぼくを守ってくれたからだ。
「あなたは何も悪くないわ」
頭をなでてくれる白い手が好きだった。
「わたくしのかわいい子。普通の目に産んであげられなくてごめんなさい」
柔らかい声が好きだった。
「お母様は、いつまでも一緒にいますからね」
ふせたまぶた、長いまつ毛、ほんの少し寄せられた眉、国王陛下に向ける笑顔も全部、大切に思っていた。
だからもういいかな。
そうやって、ぼくが諦めてしまったときに、彼女たちは現れた。正確には、ぼくが彼女たちのところへ捨てられたのだった。
恐ろしい森の魔女。
目を開けても何一つ見えないことに動揺したぼくは、帰りたいと思った。母上のところへ、帰ろうと。
でも今はあんまりそう思わない。
何しろここは恐ろしい魔女の森で……「誰も帰っては来られない」場所なのだ。
「ねえねえ、あなた。どうしたの。そっちは別に転ぶものなんてないのよ」
「進んでみなさいよ。早く歩けるようになりたいんでしょう」
おかしな魔女だと思う。
見えないながら杖で探り探り歩くぼくを、一方は楽しげに、もう一方はやたら真剣に手助けする。
掃除、洗濯、料理、散歩。
声の位置から考えるに、二人はいつも寄り添っていて眠るときでさえ離れないらしい。
「二人いるんだから、手分けしたほうがいいのではないですか?」
こう尋ねてみても、
「ねえさまねえさま。どういうこと? 手分けってなあに?」
「……わからないわ。ねえ、あんた。それってつまりどういうこと?」
「は? だから、たとえば寝室を一人が掃除して、その間にもう一人が居間を掃除するんですよ。そうしたほうが早いし、効率的だと思って」
「できないわ」
姉の魔女はあっさり言い切る。
「え」
「そうね、そうよね! びっくりしたぁ!」
ぼくの驚きをかき消すように妹が笑う。
「何だかとても簡単なことみたいに言うんだもの! でもやっぱりね! あたしちゃんとわかってたのよ。あたしたちにはできないことだって!」
何ができないのだか、そうして何故こう得意げなのだか、さっぱりわからない。姉はしばらく黙り込んでいたけれど、おもしろいわね、とつぶやいた。
「ねえ、こんなのはどう? あたしが芋を洗う間に、いもうとが洗い終わった分を切りわけるの」
「え? そんなことできるかしら?」
「わからないけれど、別の部屋を掃除するよりはずっと簡単じゃないかしら?」
「そう、そう?」
「難しかったら、魔法でやってみましょう。それでもだめなら、この子に手伝ってもらえばいいわ」
「ええっと、待ってねえさま。考えてみる……うん。それならできるかもしれないわね?」
「……」
魔法ってそんなふうに使ってよいものだったろうか。なんだかもっと重要な時に、大きなことをするために使うものだと思っていたのだけれど。少なくとも、家事を楽にするためのものではなかったような。
けれどもここは王国ではなく魔女の棲みかだから、そんなものなのだと思うことにした。ぼくは魔女の持ち物だから、主人がしろと言うなら家事の手伝いくらいする。むしろ、今までがおかしかった。歩く練習しかさせないのが。そのくせ側に置いて、何かと話をしたがる。
「その、姉だとか妹だとかいうのは、呼びにくくはないですか?」
「いいえ別に?」
すぐ否定するくせに続きを聞きたがるので、言葉を探すのがずいぶんうまくなった気がする。
「今度はなぁに?」
「おもしろいことよ、きっとね」
「無闇に持ち上げるのはやめていただきたいんですが……ご主人様って呼んでもいいですけど、それではお二人揃って反応してしまうでしょう」
「一人だけを呼ぶことなんてあるかしら?」
「あります」
常識を知らない、という自己申告が謙遜や言い訳でないことが、こうやって話しているとよくわかる。
「たとえばぼくが、本をしまう場所を知りたいと思ったとき、尋ねたいのはご主人様です」
姉を指差す。と言っても見えないものだから、声から推測してやや右に指を向けた。
「でも洗濯物を片付けるとき、どこにしまうのかを教えてもらいたいなら、ご主人様に、呼びかけます」
と、今度は妹へ。
姉妹はいつも一緒で仲が良いけれど、性格はだいぶ違っていた。得意不得意ももちろんある。
「おもしろいわね」
姉のほうのご主人様は感心してそうこたえた。
「ねえさま、と、いもうと、ではいけないの?」
「ぼくから見たら、お二人とも姉くらいの年齢ですよ」
「まあ見たことなんてないけどね!」
「……少なくとも妹ではありません」
これが嫌味だったりしたら、ちょっとは嫌いになれるかもしれないのに。この魔女に恐ろしいところなんて、今のところ一つもない。無神経だとは思うけれど。
「あら? もしかして今少し機嫌が悪くなったの? どうして?」
「いいえ。別に」
ふうん、と魔女は言う。これは姉のほうだ。明るさはほとんど妹に預けて、賢さはほとんど姉が持っている。だからか、考え込むのはだいたい姉の魔女の役目だった。
「なまえ、名前、ね。まあ必要なのだったら、あんたが決めなさい。あたしたちにはよくわからないから」
「え、それは恐れ多い……」
「ねえねえ! それじゃ、あたし、りんごがいい! 赤くて美味しいから!」
「いもうとに決めさせるとこういうことになるから、あんたが決めて。わかりやすくしたいのに、余計ややこしくなるでしょう」
「……わかりました」
ぼくだって、恩ある方に「りんご様」と呼びかけるのは、いくらなんでも遠慮したい。
「なぁに? どうしてりんごはだめなの?」
「せめてもう少し、人の名前らしくしませんか? 花とか」
「食べ物はだめってこと?」
「いっそ、色の名前を使ってしまうのはどうかしら。いもうとを赤と呼んで、あたしのことは……そうね。どうしたらいいかしら?」
「ねえさまの色? えーっと、髪が黒いわ!」
「いもうとだって黒いじゃない」
「じゃあ目の色?」
「だから、同じでしょう? 黒よ」
「……ねえさまのいじわる」
「だって黒いものは黒いもの」
「うぅ」
「泣いたって変わらないわよ、もう。いもうとったら、こわーい魔女になるんじゃなかったの?」
「あの、ぼくが考えますから」
放っておくといつまでもこの調子だ。ぼくの声も聞こえているのかいないのかわからない。姉がなだめるようにいくつも色の名前を口ずさむけれど、意地になって「そんなのねえさまじゃないわ!」なんて言われて振り出しに戻る。
うるさいし面倒だし、母上やその侍女みたいなお淑やかさはまるでないのだけれど、今のぼくにはちょうどよかった。自分一人で何かを思うと、どうしても悲観的になってしまう。ふたりといるとそんな暇はまったくない。
丸一日かけて、ぼくは名前を考えた。
「姉のご主人様をユウヒ様、妹のご主人様をアサヒ様とお呼びしてもいいですか?」
「構わないわ」
「ねえねえ、それは花の名前?」
「いいえ、太陽の名前です」
赤が好き、とアサヒ様は言うけれど、赤くてきれいなものなんてあんまり思い浮かばなかった。何しろ赤というのは、不吉なので。どこか別の国には、なんと言っただろう、赤い花があるそうだが。
「ユウヒ様も、太陽の名前ですよ」
「ふうん?」
「それはどんな太陽なの?」
「沈んでいくのと、昇っていくのです。どちらもきれいな赤でした」
この森でも見えるだろうか。地平線の向こうへ消えてゆく、あるいは現れるあの光は。
高い場所から見るのが一番きれいだった。
塔の中に暮らしてたったひとつのよかったことだ。
きれい、と姉妹が口を揃えてくりかえした。
「……どうしました?」
「きれいなものの名前で、あたしたちを呼ぶの?」
「そうです」
ユウヒ様が笑った。恥ずかしいのをごまかして、失敗してはにかむみたいに、くすくすと。
「ねえさま?」
「なによいもうと」
「ふふ。なんだかかわいいわ!」
「……まあいいわ。あんたしか呼ばないんだし」
「そうなの? ねえさま。他の魔女には教えないの?」
「他の魔女なんているんですか」
「いるわ! ふふ。ヒトが思うよりたくさんいるの! こわくなった?」
「……アサヒ様は怖くないです」
「おやまあ、あたしは怖いみたいな言い方するのね?」
「まさかそんな」
まあいいわ、と笑うユウヒ様。
どうしてわらうの、と尋ねるアサヒ様。
ぼくはそのふたりに見つめられて、とにかくまずは一人で階段をのぼれるようになりたいと思った。
「ねえ、あんたって欲しいものとかないの?」
「なんです、急に」
あれから時間は随分すぎて、ぼくは宣言通りご主人様たちの背を追い越した。
声はいつも下から……いや、結構な頻度で木の上からも、聞こえてくる。今日は下からだ。
「贈り物をしたいの! あたしたち、この間お友だちに褒めてもらったから!」
「お友だち……」
声しか聴いていないけれど、なるほどこの双子の友だけあって、誰も彼も個性的な「魔女」だった。特に印象に残ったのは、風に愛されているという魔女だ。なにがって、魔女と名乗っているのに男性だった。
「女性願望はないんだけれど、魔法使いと魔女は別の仕組みだからね。ぼくは魔法使いじゃないんだよ」
双子のご主人様にとっては血のつながらない兄みたいなものだそうだ。
「すてきな名前をもらったんだね。それではこれからはぼくもそう呼ぶよ。アサヒ、ユウヒ。とてもいい拾い物をしたね」
甘い、気だるい、美しい声だった。
「求愛の魔女様、でしたか」
「そうよ。とっても優しいの」
「きっと魔女の中で一番物知りだわ。ヒトのことには特に詳しいの」
「ずっとじゃないけれど、目を覚ました時には大体探しに行くものね」
「どこへ、何を?」
「決まってるわ。聞いてなかったの?」
アサヒ様はいつも抽象的に話すので、意味をくみ取るのが難しい。
「ヒトの世界に、真実の愛を探しに行くのよ。愛と、それから永遠の眠りをね。だから求愛の魔女。風みたいにあっちこっち行くの」
「話が逸れてるわよ、アサヒ。ねえ、ヒトはなにかを贈られたら、お返しをするものなんでしょう?」
ようやく話が見えてきた。
世間知らず(ぼくもご主人様のことを言えないが)な二人は、呼び名を決めるというたったそれだけのことに対してお返しをくれようとしているのだ。
「いいですよ。今さらですし、ぼく自身が呼びやすいように考えただけなんですから」
「でも一日中悩んでくれたわ」
頬がすこし熱くなる。
「ほんとうに、何かくれるんですか」
「もちろんよ!」
「約束するわ」
この時のぼくは浮かれていた。二人の真剣な声色を深刻にとらえなかったし、自分の言葉が引き起こす事態について何一つ考えていやしなかった。
「それじゃあ、ぼくの目を見えるようにしてください」
ありがとうございました。