1-7
結局。
「あの部屋に禎理以外が寝泊まりするのは危険だ」
六徳と七生、そしてエクサの意見が一致した為に、累は七生の部屋に、そして玄理はエクサの下宿先に宿泊することになった。
「ま、あの部屋に泊まれるもんなら泊まってみろって」
濃い金色の夕日が照らす天楚市街を、半ばむくれながら歩く玄理の前で、先導するエクサの細い背が揺れる。
「激怒した魔物に魔界に引きずり込まれるがオチだな」
禎理が天楚市で下宿していた部屋と、その部屋に描かれた魔法陣に囚われていた魔物の話は、禎理自身から聞いて知っている。どうすればその魔物を、部屋の床に描かれた魔法陣から解放することができるのか、師匠であるボルツァーノに相談していたことも。そしておそらく、禎理はボルツァーノ師匠に教わった通りの方法で魔法陣を解除したのだろう。エクサの下宿に行く前に累と共に案内してもらった小さな部屋には、魔力の気配も法力の気配も全く無かった。火事の延焼を防ぐ為に白く漆喰が塗られた部屋は主が居ない所為か少し埃っぽく、それでもさっぱりとして清潔な感じのする部屋だった。禎理らしい。それが、実際の禎理の部屋を見た玄理の感想。
そして。三叉亭に向かう時には余裕が無くて気付かなかった、天楚の街の喧噪に、今更ながら驚く。禎理が何度も話してくれたように、天楚は、玄理が暮らしていた神官国家フビニの首都であるエルミの丘の下に広がる街や、玄理がここへ来るまでに見てきた他の大小の街とは異なり、人々が溢れているにも拘わらず禎理の部屋と同じようにさっぱりと清潔な印象をしていた。
「天楚の市民は、天楚の市街を大切にしているんだ」
禎理の言葉が、耳に響く。本当に、禎理の言う通りだ。夏至に近い所為か少し蒸し暑く感じる街路を歩きながら、玄理は感嘆の息を吐いた。
「今日も賑やかだな」
その息づかいが聞こえていたらしい。前を歩いていたエクサの肩が呆れたように上がるのが見える。
「半年前は誰も居なかったのに」
半年ほど前、冬の頃、突然、天楚に疫病が蔓延した。急に発熱し、十日ほど苦しんだあげくに情け容赦無く命を奪っていくその疫病に恐れを為した人々は争うように天楚市を離れ、離れることができない人々は病に怯え家の中に閉じ籠もった。その中で、禎理は、三叉亭や三叉亭のある天楚の歓楽街一柳町に暮らす、病に苦しむ人々の為に、遠くの街へ熱冷ましの薬草を買い出しに行ったり、病に苦しむ人々の世話をしたりしていた。だが何故か突然、天楚の王、無言王活破七世を暗殺しようとしたという濡れ衣を着せられ、天楚の高位の貴族であり、禎理のような低身分の者が活躍するのを嫌っている華琿公によって禎理は捕らえられ鞭打たれた。エクサも協力した六徳と大円の作戦により、禎理は天楚第二の都市華琿に逃れることができたが、そこで出会った、エクサに重傷を負わせた禎理に似た女性を禎理は刺し殺し、そしてその女性の遺体と共に、禎理はエクサ達の前から姿を消した。独り言のようにぽつりぽつりと話すエクサの投げやりに似た暗い声に、玄理は唇を噛み締めた。
「後で六徳から聞いたんだけど、禎理に似たその女性、禎理の姉さんだったらしい」
そして。思いがけないエクサの言葉に、はっと顔を上げる。幼い頃に、疫病で家族の全てを亡くしたと、禎理は話していた。その禎理に、姉が居たとは?
「禎理の家族を襲った疫病も、天楚を襲った疫病も、禎理の姉だというその女性が放った『疫病に似た呪い』だったらしい」
玄理の疑問に答えるように、歩きながらエクサが言葉を紡ぐ。いつの間にか、玄理とエクサは天楚市の真ん中にある大きな広場に辿り着いていた。
「王を暗殺しようとしたのも、その女性だ」
これまで歩いていた通りよりも更に激しい喧噪に、エクサの声が紛れる。王を暗殺しようとした罪は重い。だから禎理の姉の亡骸は華琿の広場の絞首台に晒された。
「あんな感じで」
天楚の広場の片隅、市の政を司る市参事会の建物らしい地味な建物の横に設えられた処刑台に吊り下げられた既に原形を留めていない塊をエクサが指差す。天楚で行われる刑は、絞首刑と、絞首台の横にある晒し台の上に一昼夜ほど立たされて辱めを受ける晒し刑が殆どであるらしい。フビニと違ってシンプルだな。エクサの嘲笑に玄理はこっそり頷いた。食物や生活用品が売り買いされる市が開かれる広場に処刑台がある光景は、エルミの丘の下に広がる街でも同じ。玄理も何度か、エルミの丘に点在する、神官を育てる様々な学舎の師匠に連れられて、罪人の処刑を見学したことがあった。フビニでは火刑に処せられる罪人が多い。そして、その凄惨で残酷な処刑は見ていて胸が悪くなるものだった。
「禎理も何度か、あの晒し台に立ったことがあるらしい」
天楚市街で弱き者を守る為の喧嘩や騒動を起こしたことが、その原因。不意に付け加わったエクサの、禎理に関する台詞に、玄理は心の中でさもありなんと頷いた。エルミの丘でも、禎理は玄理や玄理の先輩達を守る為に高位の神官や文官達とぶつかり、大怪我までしていた。天楚でも同じことをやってたんだ。呆れと、半ばほっとした思いと共に、玄理は息を吐いた。
そして。
「まあ、今となっては、全てが懐かしいのかな」
再び沈んだエクサの声に、玄理の心に寂寥が走る。晒された姉の遺体を、その姉に酷い怪我を負わされたにも拘わらず盗み出し、そしてそのまま行方不明となった禎理はその後、天楚市の西側に広がる広大な蛇神の森の奥深く、普通の人々は足を踏み入れることさえ嫌う、禎理が幼い頃に家族と共に暮らしていた森の中の小さな空間で、遺体となって発見された。そしてその遺体を、エクサは共に禎理を探していた、禎理の古い友人である千早や須臾と共に、疫病で命を落としたという禎理の家族が眠っているその場所に埋めた。吐き出すようなエクサの声に、玄理は再び唇を噛み締める。そして。
「禎理さんは何故、死んだのですか?」
ずっと蟠っていた疑問を、口にする。もしかしたら、禎理は、血の繋がった姉を自分の手に掛けたことに絶望し、誰も居ない、懐かしい場所で自ら死を選んだのではないだろうか? 悲しみと共に浮かんできた玄理の思考を、エクサはいとも簡単に打ち砕いた。
「少なくとも、自殺ではないな」
禎理は、他人の為に自らの命を差し出すような奴だが、自分の為に自分の命を捨てるような奴じゃない。エクサの言葉に、玄理は思わず頷いた。確かに、そうだ。
「俺が禎理を見つけたとき、禎理の身体はまだ温かかった」
禎理の身体には傷一つ無く、首を絞められた痕も、毒を飲まされた匂いも無かった。エクサが抱き上げたときに口から零れ落ちた赤黒い血が、禎理の身体の中が破壊されていることを示していただけ。それ以外のことは、分からない。その赤黒い血を、エクサはフビニの神官であることを示す灰色の肩布で拭った。そして須臾のマントを着せて、エクサ達は禎理を埋葬した。
「その場所が、荒らされていたんだ」
不意に変わった、エクサの激しい口調に、はっと顔を上げる。
「森の奥までは、みんな怖がって足を踏み入れないから、禎理も安らかに眠れると、思ってたのに」
青白くなったエクサの唇が震えているのが、黄昏の光の中でもはっきりと見えた。
「だから俺は、禎理は誰かに操られているんだと思っている」
決然としたエクサの言葉に、釣られるように頷く。しかしながら。この世界の生きとし生けるものは皆、『魂』があるからこそ生きて動くことができる。エルミの丘で、玄理はそう、習った。魂の入っていない身体を動かす術など、あるのだろうか?
「呪術を用いて、死体を動かす方法は、有るんだ」
玄理の思考を見抜いたかのように、エクサが言葉を紡ぐ。エクサがエルミの丘を追われる原因となった、友人であるフレネーの命を復活させる術を、天楚に来てからもエクサは探し続けていた。その過程で、エクサは天楚の大学の図書館の本棚の中から、死体から『動く人形』を作る方法が書かれた本を発見した。そして禎理の言によると、本に書かれた方法を試し、実際に『動く人形』を作ってしまった学生が居るらしい。
エクサが、自分の実験の失敗から命を奪ってしまったフレネーの復活を、エルミの丘を追われてからも企んでいたことには、玄理は正直驚かなかった。このエクサなら、禁じられればますますやる気を出す。そのことで、周りの人間を、禎理を、怒らせたり悲しませたりすることを、エクサは厭わないだろう。
「安心しろ。今は、そんな実験はしていない」
エクサを睨んだ玄理の視線を見返して、エクサが口の端を上げる。
「そんなことをしても無駄だと分かったからな」
エクサの言葉に、嘘は無い。根拠は無いが、はっきりとそう、感じる。だから玄理は、エクサから視線を外した。
そのまま黙って、広場を横切る。市参事会の建物の向かいには、神を祭る威厳に満ちた大聖堂が建っている。その大聖堂の壁を飾っている台座の数に、玄理は思わず足を止めた。台座は、十三。神官国家フビニで信奉されている、この世界を支配する十二神を祭る十二神派でも、フビニでも最近多数派になりつつある、空と天候を支配する天空神のみを崇める一神派の神殿でも無い。それは、フビニでは異端とされる神の数。
「天楚には信教の自由があるからな」
驚いた顔をエクサに見られたらしい。玄理の視線の先に有るものに気付いたエクサが笑う声が聞こえてくる。天楚は基本、何事に対しても鷹揚である。そして天楚は、古代にこのマース大陸を統治していた嶺家一族の後継者を自認している。だから、嶺家一族が信奉していた、この世界を見捨てたとされる『風神』を含む十三の神を祭る大聖堂が、天楚の首都であるこの街にあってもおかしくはない。笑いながら、エクサは玄理にそう言った。この大聖堂が、二百年ほど前の夏至の日に起こった、天楚を一夜にして灰燼に帰した『天楚大火』の犠牲となった人々と、その後の復興に尽くした人々を祭る為に建てられたものであること、そして、一神派を強制した天楚の王、狂信王厳真四世が、他の神派を信仰する者達を裁こうと大規模な火刑を行ったことが原因となって『天楚大火』が起こった為、天楚では火刑が禁忌であることも。
「ま、天楚でも多数派は、天空神を祭る一神派なんだけどな」
エクサの言葉に、不意に小馬鹿にしたような調子が混じる。まさか。玄理ははっとしてエクサを見た。神官の試験を軽々とパスし、神官となってからはエルミの丘の片隅に自力で建てた粗末な実験小屋に籠もって怪しげな実験に明け暮れていたエクサだが、小屋の外に出れば出たで、早々に神官の地位を得たエクサを厭う人々に対して論理的な暴言を吐くことで有名だった。この天楚でも、エルミの丘と同じようなことをやっているのだろうか? それで禎理に迷惑を掛けたということは? 浮かんできた玄理の疑問を見抜いたのか、エクサは軽い調子で答えた。
「勿論、揉め事は起こさないように気をつけているさ」
神派の違いについて変な言いがかりを付けてきた僧侶らしき若者達を公衆の面前で論破してやったことはあるけどな。エクサの笑いに玄理は呆れた。やはり、エクサはエクサだ。だが。
「あいつは、もういないからな」
小さく呟かれた、エクサの声が、玄理の耳に入る。エルミの丘では、魔法力と知識とを傘に着て自分勝手に振る舞う、我が儘な人間に見えたエクサが、禎理のことを、他人のことを考えている。意外だ。玄理は正直にそう、思った。
その時。エクサの向こうに居た人々の間に、明らかに人々より大きい影を見つけ、玄理は無意識に戦いた。あれは。
「玄理にも、見えるのか?」
驚いたようなエクサの声に、はっと我に返る。エクサも、玄理と同じ方向を見ている。エクサの視線に、どこか忌々しさを感じるのは、気の所為だろうか?
「でも、『天の輩』は、普通は不可視のはずだぜ」
『天の輩』。幼い頃、時折目の前を横切る翼を持つ影の正体を知ったのは、禎理に連れられてエルミの丘に来てからのこと。この世界に、自分以外に崇める神の存在を許さない天空神の眷属であり、天空神の代理としてこの世界のあらゆる場所を見張る存在。丘では見ることの無かった存在だが、下の街では時折見えるその存在についてボルツァーノ師匠に尋ねたとき、師匠は明確にそう答えた。不可視の存在である『天の輩』を視ることができるということを、誰にも話さないように。同時に、ボルツァーノはそう、玄理を諭した。エクサが天の輩を視ることができるのはおそらく、何か魔法の力を使っているのだろう。玄理はそう、推測した。しかし、玄理が不可視の存在を視ることができる理由は、何?
「行こう」
靄のようにふわふわと動く天の輩の影を目で追う玄理の服の袖を、エクサが強く引く。エクサに促されるまま、玄理は静かに広場を離れた。