断章-10
二十年ぶりに訪れた『蛇神の森』は、二十年前と同じ静謐さに包まれていた。
「わざわざ帰って来ることもなかろうに」
相変わらずの、皮肉に満ちた声を開理に投げかけるエクサの切り揃えられた髪は真っ白に変わっている。そして、口元に歪んだ笑みを浮かべながら開理に薬湯を淹れてくれるエクサの手は、枯れ木のように乾いて節くれ立っていた。二十年、エクサは一人、人里離れた森の奥深くのこの場所で厳しい生活を続けている。それを証明するようなエクサの手に、開理は微笑みを浮かべた。
「知らせてくれたのはエクサでしょ」
しかし開理の口から出たのは、鋭い指摘。開理が、危険を冒して天楚に戻った理由は、エクサからの手紙で父の死を知ったから。天楚では死人である開理は、この国を堂々と歩くことはできない。しかし、せめて父の墓に手を合わせたい。憶都の傍に居ることを選択することによって、後継者であることの義務を放棄し、結果として父に迷惑を掛けた。少しでも、その償いをする為に、開理は一人この場所まで来た。それだけの、こと。
「ま、開理が生きていたとしても、六角公は継げなかっただろうけど」
エクサの指摘に、苦笑する。六角公家に連なる者の内で一番優秀な者が、六角公を継ぐ。それが、六角公家の掟。開理の父、須臾も、先の六角公真に見出された六角公家の傍系だった。女性でも継ぐことは可能なので、開理がいなくても開理の妹が六角公を継げば良いだけの話。それに。憶都が『亡くなった』後に念願の王位を継いだ華琿公、厳真六世は、即位後すぐに活破七世や憶都二世に近かった父、六角公須臾を王宮から遠ざけた。父は蛇神の森の南にある自身の領地六角郷に引き籠もり、不遇の内に人生を終えた。その父の息子である開理が六角公を継ぐには、たとえ開理が『生きていた』としても、障碍が多過ぎる。六角公の称号は、おそらく、叔父である五次の子供達の誰かが引き継ぐだろう。それで良いのだ。開理は淋しく微笑んだ。
「皆、いなくなってしまったし」
らしくなく沈んだエクサの声に、はっと顔を上げる。硬い木の椅子に腰を下ろしたエクサの視線は、開け放たれた扉の向こうに見える苔むした石塊に向けられていた。小さな丘の周りには、エクサが見つけて植え替えた、禎理が摘んでいた薬草が揺れている。そう、禎理は、この世界を守る為にその命を使った。禎理と親しかった人々も、殆どが天楚から去っている。父、須臾は、病気でこの世を去った。禎理が愛した女性、七生も。天楚市でも一、二を争う冒険者宿三叉亭の主人だった六徳は、七生が産んだ禎理の遺児の行く末を見守ってから、自らの出身地である魔界へと戻った。三叉亭も、三叉亭に集っていた冒険者達の殆ども、既に天楚市にはいない。厳真六世は即位後幾許もせずに亡くなったが、その後を継いだ息子の厳真七世は、若さ故の短慮からか貴族寄りの政治を行っており、足許の王都である天楚市にも王令と税金とで過大な負担を強いているという。束縛を嫌う冒険者が天楚を見捨てたのは、ある意味当たり前の行動。それでも。ここに来る前に少しだけ立ち寄った天楚市の、どことなく寂れた光景を思い出し、開理は唇を噛んだ。あの天楚市は、禎理が心から大切にし、そして命を掛けて守ろうとした天楚市では無い。そのことが、開理には悲しかった。
「ま、なんだかんだ言っても、無言王活破七世は賢王だったわけだ」
微かに鼻を鳴らして笑うエクサに、そっと頷く。
「禎理も、居た、し」
呟かれたエクサの、僅かな声に涙を覚え、開理は俯いた。
と。床に目を落とした開理の視線が、ベッドの下に散らばった羊皮紙の色を捉える。少し足を動かし、その羊皮紙の一枚を拾い上げる。羊皮紙に刻まれた文字は、……嶺家文字だ。禎理が、使っていたものと同じ文字。
「最近、模糊がスレート板に多量の文字を書くんだ」
テーブルの上の木の実を囓る丸い魔物、常に禎理と共に居たダルマウサギの方を見やり、エクサが軽く笑う。
「それを羊皮紙に写したんだが。……俺じゃ読めない」
おそらく模糊が記した文字を正確に写したのだろう、きちんと文章になっている羊皮紙上の文字を読んで、微笑む。模糊は、禎理から教わった嶺家文字を使って、禎理のことを書き記している。禎理と共に過ごした日々のことを、模糊自身の言葉で。
「読めるのか?」
ベッドの下から羊皮紙を全て引っ張り出した開理の上から、エクサの疑問符が降ってくる。
「ある人から、教わったから」
開理はエクサに向かって曖昧に笑うと、びっしりと文字が書かれた羊皮紙に目を向けた。
〈これは〉
冷たい床に座り込み、羊皮紙の嶺家文字を追いながら、思わず息が詰まる。禎理が、開理がお世話になっているフビニの丘で起こした事件のことは、師匠であるボルツァーノから聞いて知っている。その事件のことも、開理が父や母、そして三叉亭の冒険者達から聞いた、禎理が『やらかした』冒険譚も、羊皮紙には全て書かれていた。この冒険を、全て、禎理が。驚きを、隠せない。禎理は、開理が知っている以上に向こう見ずで、トラブルメーカーで、そして優しさと強さを併せ持つ人物だった。
「模糊」
いつの間にか開理の膝の上に乗っていた模糊の、白っぽくなった黄色の毛を撫でる。
「禎理の冒険譚を、共通語で纏めたいんだけど、良いかな?」
開理の言葉に、模糊は開理の手の中の羊皮紙を見、そして開理を見詰め、その小さな首でこくんと頷いたように、見えた。
夏から秋へ、そして冬から春へと季節が移り変わる間、開理はエクサの庵に留まり、禎理の冒険譚を纏めた。模糊が嶺家文字で書き記した冒険譚は勿論、エクサが自身の自慢半分で話す物語も、父が残した日記の中に有る禎理についての言動も、ボルツァーノから聞いた禎理の無謀さも、書き加える。九十九個の冒険譚を書き終える頃には、季節は既に次の夏を迎えていた。
この物語を、幼い頃の憶都に聞かせたら、きっと喜んでくれたと思う。書き終わった九十九個の物語をもう一度読み直して、少しだけ俯く。しかし開理の胸に去来したのは、悲しさだけではなかった。懐かしさと、達成感。
禎理のことと、禎理が心から大切にしていたもの達のこと。それを、後世に伝えることができれば、これ以上の幸せはない。文字がびっしり書かれた羊皮紙を纏めながら、開理は静かに、微笑んだ。




