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明日の風に・中世追憶編  作者: 風城国子智
第一章 遺されたもの
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 爽やかで優しい香りに、ゆっくりと目蓋を上げる。花弁の縁が僅かに青い、白くほっそりとした花が、玄理げんりの鼻先で揺れているのが、見えた。この花は。記憶を探る。確か、この花の話をしてくれたのも、禎理ていりだった。セオレの花。冥界と他の世界とを隔てる庭に咲く、生きている時に被った全ての痛みを忘れさせてくれる、優しい花。


〈そうか〉


 ぽろぽろと、涙が頬を伝って落ちていくのが分かる。玄理は、死んだのだ。禎理の無慈悲な刃から、同じ禎理の名付け子であるかさねを庇って。禎理に刺された傷の痛みは、無い。だが、刺された直後に抱き締めた、禎理の身体の固さと冷たさが、玄理にはただただ悲しかった。身体を少し捩った所為か、玄理の背中で押し潰していたセオレの花の、茎や葉の匂いが、強く玄理の周りを漂う。地上の草とは違う、宥めるようなその甘い匂いが、玄理の心に蟠っていた全ての感情を鎮めていくのが分かった。涙が、止まる。ここに来る直前に感じていた、怒りにも似た戸惑いの感情も。だが。……確かめなければ。強い意志と共に上半身を起こす。エクサが言っていたように、禎理は本当に死に、彼の身体だけが最低な陰謀に使われているだけなのか、それとも、仮死のまま葬られてしまった禎理が、冷たい土の下で死の恐怖に狂い、その狂気が命じるままに天楚てんその人々に刃を向けているのかどうかを。この二つの違いは、大きい。そして、幸いと言って良いのだろうか、今の玄理は、このことを確かめることができる状態にある。禎理が凶行を繰り返す理由を確かめても、累やエクサに伝える方法は無い。それでも、確かめなければ、玄理の気持ちが治まらない。


「セオレの花でも、癒やせない想いがあるのね」


 不意に降ってきた、静かな声に、はっとして顔を上げる。


「……禎理さん!」


 目の前に立っていた小柄な影に、玄理は思わず声を上げた。灰茶色の髪、丸い女顔、敏捷を隠した柔らかく小柄な体格。目の前にいるのは、確かに。……いや、違う。思わぬ邂逅に二度見して、玄理はすぐに首を横に振った。大きく見開いて玄理を見詰めている瞳の色が、違う。黒曜石を思わせる銀に煙る黒色の瞳は、禎理のそれでは無い。


「私は、珮理はいり


 玄理の戸惑いを察したかのように、禎理に似た小柄な影はにこりと笑う。


「禎理と私は、まあ姉弟のようなものね」


 本当はもう少し複雑なのだけど。そう言って、珮理と名乗る女性は玄理に向かってその左腕を差し出した。


「あなたは禎理の名付け子だって聞いたから、もう少し話をして、禎理のこと知りたかったんだけど、時間が無いから」


 そう言いながら、珮理は玄理の右腕を優しく掴み、玄理の身体を立たせる。玄理を掴む珮理の左手は、昔、玄理の暗い幼年時代を救ってくれた禎理の腕と同じように柔らかく、強い。その感覚に導かれるまま、玄理は珮理の後ろを歩き始めた。


 セオレの花が咲き乱れる花畑は、緩やかに少し荒れた草地に変わる。この道は、知っている。エルミの丘の、神殿や学寮の間にある、適当に手入れされた道。禎理に救われ、預けられた、ボルツァーノ師匠の学寮から修行の為に様々な神殿に向かう時に歩いた、目を瞑っていても迷うことなく目的地に辿り着くことができるくらいに慣れ親しんだ道と、同じ風景だ。何処か余所余所しい草の匂いも、毛織りの神官見習い服では汗をかいてしまう陽気も。


「冥界はね、生前慣れ親しんだ雰囲気で傷付いた魂を迎えるの」


 斜め前を歩いていた珮理の言葉に、頷く。確か禎理も、そんな話をしていたと覚えている。珮理には、どんな風景が見えているのだろう? 聞きたい気持ちを、玄理はぎゅっと堪えた。……禎理さん、だったら? 大陸のあちこちを旅していた禎理だから、きっと、様々に移り変わる光景を目にしたことだろう。あるいは、大切な場所だといつも言っていた、天楚とその周りの風景が、禎理の目には映るのだろうか?


「もう少し、歩ける?」


 感じていた暑さの所為か、少し息が荒くなっていたらしい。心配そうに玄理を見詰める珮理の黒色の瞳に、玄理は息を整える為に深呼吸した。


「あの木の下まで、行くから」


 玄理を掴んでいない方の手で、珮理が道の先を示す。禎理と同じ太さの指の先にあったのは、太い幹の上にこんもりとした樹冠を乗せた、どっしりと構えた感じの大木。冥界を支え、この世界を生きて傷付いた魂を癒やす大樹だと、珮理は玄理に告げた。


「少し遠いけど、頑張って」


 珮理の言葉に、こくんと頷く。珮理が玄理をその大樹の下に案内する理由は、おそらく。……禎理に、会う為。禎理は、狂気に支配されているわけではない。エクサの言う通り、本当に、……死んでしまったのだ。歩きながら、珮理の言葉でそこまで類推した玄理の頬を、再び涙が流れた。その涙を、珮理に掴まれていない方の腕で乱暴に拭いながら、ひたすら、珮理に引っ張られるように歩き続ける。もしも、禎理がエルミの丘を去らず、玄理とずっと一緒に居てくれたなら、どうなっていただろうか? ふと、そんなことを考える。ボルツァーノ師匠は禎理を気に入っていたから、禎理が望めばずっと、エルミの丘に居ることはできたはずだ。そうすれば、禎理も玄理も、あの場所で、今でも静かに笑っていることが、できたのかも、しれない。いや。玄理は少しだけ微笑み、そして首を横に振った。一カ所に留まることは、できない。旅をすることが自分の性だ。エルミの丘を去る時にそう、禎理は玄理に言った。だから、禎理が玄理の許を去ることも、玄理に再び会うこと無く死んでしまったのも、……おそらく運命。玄理はもう一度、左腕で頬の涙を拭った。


「着いたわ」


 どのくらい、物思いにふけりながら歩いていたのだろうか? 珮理の声で我に返り、顔を上げる。玄理の足下に広がっていたのは、地面の上をうねうねと不規則に伸びて地面の下に潜っている太い木の根。そして玄理の目の前にあったのは、壁かと見紛うほどに視界を覆う濃い茶色をした木の幹。木の肌は不規則に捩れた模様を描き、所々に人や動物の顔や身体のような陰影が見える。冥界を支え、魂を癒やす大樹の根元に辿り着いたのだ。そして。


「禎理さん!」


 大樹の根元に、探していた人物を見つけ、思わず駆け寄る。だが一歩前に足を踏み出しただけで、玄理の身体は強く後ろに引っ張られた。


「ダメ」


 俯いた珮理が首を横に振るのが、見える。


「禎理に触ってはダメ。これ以上近づいても、私の手を離してもダメ」


 珮理の言葉よりも、声に内包された強靱な命令に、足が動かなくなる。玄理はゆっくりと振り向いて、固い大樹の幹にぐったりと凭れ掛かっている、大樹と殆ど一体化しているように見える禎理をただ静かに見詰めた。大樹の根元に足を投げ出して座り、木の根を抱きかかえるようにして眠っているように見える禎理の姿は、見たことも無いほど無防備で、そして儚く見える。その瞳から落ちる涙が、抱きかかえている大樹の根に暗い染みを作っていた。


「禎理さん」


 思わず、呟く。玄理のその声が聞こえたかのように、禎理はゆっくりと顔を上げ、濡れた茶色の瞳を玄理の方へ向けた。その瞳から、新たな涙がぼろぼろと零れる。


「玄理」


 済まない。悔恨の言葉が、玄理の耳を打つ。玄理が冥界に来たのは、禎理の所為では無い。禎理の亡骸を邪悪な方法で利用した奴らが悪いのだ。禎理が謝ったり悔いたりする必要は、全く無い。


「大丈夫」


 玄理が首を横に振るより先に、珮理が禎理に笑いかける。


「彼の『運命の糸』は、まだ切れていない」


 そして珮理は、玄理を掴んだまま禎理の方へ近付くと、大樹の幹に半ば同化している禎理の胸から白い綿のようなものを取り出した。


「あなたの残りの糸を、玄理にあげても良いわね」


 珮理の言葉に、首を縦に動かす禎理が見える。『運命の糸』。その単語も、禎理から聞いて知っている。この世界に生きとし生けるものが産まれるときに、生物の運命を司る神、運命神プロバビルより受け取る糸。生物の寿命はその糸の長さによって決まるという。その糸を、冥界に居る禎理が持っているということは。禎理はまだ、生きるべき人だった。震えが、玄理の全身を支配する。生きている禎理と逢うことも、できたかもしれないのだ。それなのに、何故。


「禎理の死の理由、誰にも訊ねないでね」


 震えから玄理の思考を読み取ったのか、唇を引き結んだ珮理が玄理を見て、静かに首を横に振る。


「知ってしまったら、今度は本当に、あなたもこの木の下に横たわることになる。あなただけではなく、事実を知った全ての人々も」


 禎理から取り出した糸を玄理の胸に押しつけた、珮理の声は、どことなく悲しげで、そして少し悔しそうに玄理には聞こえた。だから。珮理に向かって、少しだけ頷く。


 そして。


「玄理」


 小さいがしっかりした声が、耳を打つ。顔を上げると、禎理が涙に濡れた瞳を玄理の方へ向けていた。


「戻るのなら、お願いがあるんだ」


 少しだけ微笑んだ禎理が、右手の人差し指で木の根の間の地面に嶺家文字を二つ書く。


七生ななおの、双子の名前。イチとレイ」


 そういえば。禎理の言葉に、思い出す。「禎理に、子供の名前を付けて欲しかった」。七生は確かにそう、言っていた。その願いが、叶うのだ。


 『いち』と『れい』。禎理が書いた二つの文字の形を、頭に刻みつける。次の瞬間。禎理も、珮理も、壁のような大樹でさえも、玄理の視界から、消えた。

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