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ゴンベエ ―勇者の居場所―  作者: 日本酒亭
9/13

第7話:百姓男爵


 王宮の中を、服を着た熊が歩いて…いや、正確には『熊が服を着ているように見える男』が歩いていた。

 彼を見る周囲の視線は様々だ。 奇異の目で見る貴夫人、侮蔑の色を浮かべる貴族、好意的な視線を送る騎士、用心深く距離を置いて注目する官僚…

 男はそれらの視線全てを特に気にした様子も見せず、王宮の奥へと進み、王の執務室の前に立つ。


「アビー男爵、お召しにより参上致しました。 陛下にお取次ぎを」

 

 部屋の前に控える近習にそう告げると、間もなく中へ通された。

 

 

 

「よく参ったアビー男爵、大義である」

「ははあっ! 国王陛下におかれましてはご機嫌麗しく」


 大仰にそう言って畏まる男爵に対し、王は気楽にせよと手を振って伝える。


「さて男爵、そなたをここに呼んだのは他でもない、昨年よりそなたの農地で行っている『試み』に関してだ」

「はっ、大賢者様より賜った知識によって行っている『連作農法』と『土壌改良』のことでありましょうか?」

 

 男爵の返答に「うむ」と頷いてから国王は話を始める。


「其方が彼の大賢者より学んだ知識に従い、農地からの作物の収穫量を大幅に増大させる試みを行っていることは、其方よりの上申書により知っておる。 その上で聞くが、その試みはどの程度上手く行く見込みがあるのだ?」

「はい、今のところ大変順調であります。 賢者様のお知恵を試した畑の収穫は、近年見たことがないほどまでなるかと」

「そうか、では来年から国中でそれを行うことも可能か?」

 

 それを聞いたアビー男爵の顔は険しく獰猛なものに変わった。

 知らぬ者がそれを見れば、まるで熊が王に襲い掛かろうと牙を剥きかけたかのように見えるだろうが、この男爵の場合は単に困り顔がそう見えるだけだと国王も知っていた。


「畏れながら陛下、それはいささか早すぎるかと愚考致します」

「ほう、何故だ?」

「は、私めが大賢者様より賜った農法とは、およそ四年を一つの周期として回ることを基本としており、それらを少なくとも一周するまで試してから、他の場所でやるべきと…大賢者様からもそのように言われております」

「ふむ…」


 そう唸って、国王は沈思する。

 傍に控えた宰相は無言で佇み、口を差し挟もうとはしない。

 一方、アビー男爵の顔はより一層、獰猛になっている(実は不安で困惑した表情なのだが、誰の目にもそうは見えないのがこの男爵の不幸だった)

 

「よかろう、では後二年は其方に任せるとして、その後は速やかに他の領主にも広められるように意見書をまとめておくようにせよ」

「ははっ! 御意のままに‼」

「アビーよ」

「はっ⁉」

「…其方自身はどう目算をつけておる? この新たな農法がもたらす収穫のほどを」

 

 自分と男爵、そして傍に控える宰相以外は誰も聞いていないと知りながら、それを聞く国王の声は低かった。

 聞かれた男爵もまた、声をひそめて返答する。

 

「…十年後には国内で飢える者がいなくなり、それどころか他国に売らねば余ってしまうやも知れませぬ」

「…!」

「…そうか」

 

 世の中の常識がひっくり返るような男爵の返答に、宰相は押し殺した悲鳴を発し、国王も驚きを抑えるように小さく呟く。

 本来であれば歓喜に輝いてもおかしくない国王の表情は厳しく引き締まり、傍にいる宰相の表情も同様だった。

 それに気付いた男爵だが、あえて知らぬ素振りで国王の言葉を待つ。


「ご苦労であったなアビー男爵、下がってよいぞ」

「ははっ! では失礼いたします」


 そのまま男爵が退出しようとしたとき、初めて宰相が口を開いた。


「男爵、この場での話の内容はくれぐれも…」

「はい、承知しております。 決して漏らしたりは致しませんが、しかし…」

「彼の大賢者と勇者殿にはお見通し、か?」

「はい、元々あの方々より賜った知恵に基づいております上に、初めから収穫量の予測についても分かっていた様子で…」

「それはいい、他には漏らさぬよう細心の注意をな」

「はい」

 

 その場にいた三人が同時に心の中で溜息をつき、謁見は終わった。

 

 

 

 謁見の場から退出した男爵は、ようやく一安心といった顔になる。

(他人には熊が獲物を咀嚼する時の顔にしか見えないが彼の不幸なのだが)

 周囲は相変わらず奇異の視線で見る者が多い。 だがアビー男爵にとっては慣れたものだった。


 アビー男爵家は先々代までは大地主とはいえ、ただの農民でしかなかった。

 だがある年に突如襲った嵐と冷害によって、食糧難に陥りかけた王都に大量の麦と豆を提供したことで、当時の王から男爵の爵位と新たな領地を賜り、貴族の一員となったのだ。

 当然のことだが『百姓上がり』であるアビー家に対する貴族社会の目は冷たかった。

 騎士ですらなく、剣より鍬を振るう一族を貴族にするなど以ての外だという声すら出た。

 もし当時のアビー家の当主、初代アビー男爵が、爵位に浮かれて貴族の立場を振りかざすような人間であれば、アビー家は他の貴族たちによって潰されていた可能性もある。


 しかし男爵は愚かではなく、むしろ他の貴族たちよりも遥かに賢い人物であった。

 貴族のように社交の場に出ることは必用最低限に抑え、また男爵の地位もそれを無理に誇示せず、商売で多少有利になるための札にとどめるよう心がけた。

 同時に、貴族の中でもあまり自分たちに偏見を持たない相手に対しては、それなりの繋がりを作り、良好な関係を構築して自家の安全を築いても来た。


 彼はそのアビー男爵家の三代目として、祖父以来の方針を守る堅実なやり方を貫いて来た人物だ。

 しかしごく最近、彼と彼の一族は王宮内で少しずつ注目を浴びる立場に立ち始めている。


(思えば二年半前、あの勇者と大賢者様に逢ってしまったことが始まりだったなあ…)


 物思いに沈むアビー男爵に、背後から声をかける者がいた。

 

「アビー男爵殿」

「あ、これはアリーネ様、お久しぶりでございます」

 

 相手は懇意にしているアリーネ騎士団長だった。

 

「王宮に参られるとはお珍しい…陛下の御下問かな?」

「は、今年の作物の出来に関しまして色々と…」

「ふむ…ああ、そうか」


 言葉を濁す男爵に少し不可解な表情をしたアリーネだが、すぐに何かに気付いた顔になった。

 つい最近も似たようなことがあったのを思い出したのだろう。


「貴殿の農園で収穫された果物は私も大好物でな、今年も楽しみにさせて頂きたい」

「これは光栄な、是非今年の収穫もご賞味下さい」

 

 相手が察して、話題を変えてくれたことに思わずホッとしたアビー男爵だが、次のアリーネの言葉で凍り付いた。


「そういえば噂に聞いたのだが、貴殿の奥方が書かれた小説が王都の御婦人方の間で評判だそうだな?」

「は…はい、いえその…素人の妻が書いたつまらない話なのですが…HAHAHA」

 

 突然言葉の発音がおかしくなったアビー男爵の反応を、単なる謙遜と受け止めたのかアリーネは気にせず話を続ける。


「私の妹や部下のマリナなども奥方の熱烈なファンでな、早く続きを読みたいそうだ」

「そ、それは大変光栄でアリマス、妻に話せばきっと励みになってくれるだろうと…HUHeHeHeHe」

 

 完全に語尾が怪しくなった男爵の様子に不審を感じたアリーネだが、深く追求しようとは思わなかった。

 

「ではな、引き止めて申し訳なかった」

「は、それでは失礼イタシマス…」


 そそくさとその場を離れて行く男爵を見送りながら、アリーネは首を捻る。


「はて? 何かまずい話でもしてしまったのか…?」







 しばらく後、男爵の姿は『ゴンベエ』にあった。


「いらっしゃいアビーさん」

「こんにちわ、今日も精が出るねマコトちゃんは」

「あはは、ボクはもう子供じゃないんだから『ちゃん』はやめてってばー」

 

 苦笑いして文句を言うマコトだったが、アビーからすれば自分の子供たちと同じくらいの年齢にしか見えないため、ついついそう言ってしまうのだった。


「まあまあ、それは置いといて…ほら、これを店で使ってみてくれんかね?」

「うわあ、すごい量の野菜…いつもありがとねアビーさん」

「なあに、お前さんや大賢者様から受けた恩を思えばこれくらい当たり前だよ」

「うん、キャベツも茄子もあると…じゃあちょっと待ってて、ちょうど試したいものがあったんだ」


 そう言ってマコトは厨房に入っていく。

 しばらく待っていると、何かを煮ているような香りが漂ってきた。


(はて、何だろうなこの臭いは…?)


 今まで嗅いだことのない不思議な臭いだった。

 

「お待たせ~♪、これを呑んでみてよアビーさん」

「ふうむ…これはまた変わったスープだねえ?」


 マコトが差し出した器の中に入っているのは、見たことのない緑色のスープだった。

 おそるおそる口をつけてスープを啜ってみたアビーだったが、やがてその顔が綻んだ。


「こりゃあ…なんというか、不思議な美味さのスープだね?」

「どう? 美味しい…かな?」

「ああ、美味い! 風変りな味だが実に美味いスープだな」

「よかったー、この国にはない味だから正直不安だったんだよね」

「なるほど…ところでこれは一体なんというスープなのかね?」

「味噌汁って言うんだよ」 

「ミソシル?」


 聞いたことのない料理の名前に、男爵は首を捻る。

 見たところスープの具に使われているのは、今さっき自分が持ち込んだ野菜だけだ。

 しかしそれだけでこの美味さは成り立たないと思った。


(おそらく魚の類でダシを取り、そこに刻んだ野菜を入れて煮込むのだろうな…分からないのはこの味付けに使われているソースだが、それがさっぱりわからん)

「これを使ったんだよ」


 そういってマコトが見せたのは、壺に入った緑色のペーストだった。


「これは?」

「これが味噌っていう、今のスープの調味料だよ」

「これがそうなのか? 一体何で作ったのかね?」

「ただのレンズ(豆)だよ」

「レンズ? あれで一体どうすれば・・・?」

「レンズを煮て、それから潰して練ったものに塩と麹を混ぜて寝かせるんだ。 半年から一年熟成させれば出来上がりかな」

「ほほう、これはお前さんや大賢者様が住んでいた国の味付けなのかね?」

「うん、もっともボクたちの国ではダイズ(大豆)を使ってたけど…そういえば今年からアビーさんの農園でも栽培してるんだっけ?」

「うむ! あの玉のような豆なら順調に育っておるよ。 あとひと月もすれば収穫だと賢者様に言われたがな」

「アレが大量に出来るようになれば、食べ物も調味料も今より幅広く作れるんだけどね……ただボクたちがいた世界の料理が、こっちの人たちの口に合うとは限らないと思うけど」

「そんな心配はいらんだろう? 今までマコトちゃんが作ってくれた料理が、口に合わんかったことなんぞ一度だってなかったからのお」

「まあそりゃ…出来るだけ口に合うような料理を選んできたからね」

  

 少し苦笑いしながらそう言ったマコトだが、ふいに表情を変える。


「アビーさん、お城で何かあったの?」

「…分かったかね?」

「ちょっと何か気になることがあるみたいに感じたから」


 覗き込むように自分の顔を見ながらそう聞いてくるマコトの様子に、熊が弱ったような顔を男爵は見せる。

 目の前の少女がただの子供ではない…それを理解はしていても、外見と中身の違いに未だ慣れないでいるのだった。


「いやねえ…大賢者様より賜った新しい農法の件で、陛下に見通しを聞かれたんだがね」

「そういえば、はかせが言ってたね『いい収穫が期待出来そうだ』って」

「ええ、ですが陛下はあまり喜んではおられないご様子でね」

「ふうん…? 何でかなあ?」

「大賢者様もおそらく今後の収穫予想を聞けば、喜ぶ以上に頭を抱えるだろうと言っておられたがねえ?」

「…ああ、そういうことか」

「え? そういうこととは?」


 どういう意味なのかと頭を傾げる男爵に、少し難しい顔をしてマコトは説明する。


「豊作っていうのはね、それ自体はいい事ではあるんだけど、それが当たり前になると他から嫉妬されたり狙われたりする原因になるからだね」

「いやまあ確かにそうだが、ウチで試してる農法はいずれは国中の領主たちに広めることを前提に陛下も考えておられるのだが?」

「この国の中は、でしょ? それじゃあ他の国にもはかせの教えた知識を与えてあげるの?」

「いやまさかそんな馬鹿な真似は…あ 」


 するはずがないだろう…と言いかけて、熊の口があんぐりと開いた。

 そう、他国に対してそんな『施し』をする理由などないし、同時にそれはこの国だけが豊穣の神に愛され、他国が飢饉の年でもこの国だけは餓死者が出ないようになるかも知れないということだ。

 …それは他国の王や領主にとって『あってはならない』ことであり、同時にそんな豊穣が約束された国を指を咥えて見ているはずがないのだった。


「戦争の原因としては十分過ぎるだろうねー…」

「なるほどねえ…」


 少女と熊男がそろって溜息をつく。

 別段他国を攻める訳でも軍備を増やす訳でもない。 ただ飢える者がいなくなる国を作ろうとしているだけの話だ。

 だが それだけ で、戦が起きる理由となるのが人の世なのだ。


「ま、その辺は王様や宰相が考えることでしょ? ボクが悩んだって意味はないし、アビーさんが責任負わなきゃいけない問題でもないと思うよ?」

「ま、そりゃそうだ(笑) なにせ私は成り上がりの『百姓男爵』なんだからな」

 

 そういってガハハと熊が笑う。(決して吠えているのではない)

 それを見たマコトは心の中でほっとため息をつき、話題を変えることにした。


「それはそうと、はかせが作ったわら半紙の使い勝手はどうだった? メモとか取るのに役に立つと思ったけど?」


 それを聞いた途端、熊の顔がギクリと固まった。


「どしたのアビーさん? 何か問題でもあった?」

「いいいいやその、大変重宝しとるよ、うん! 妻もとてもありがたいと常々ね…ははは」

「あ~…奥さんの書く『小説』の下書きに?」

「……あんなモノ書いてるとその内、教会あたりから目をつけられるんじゃないかと心配でね」

「あのお坊さんたちだってたかが『薄い本』くらいで、そこまで目くじら立てたりしない…と思うけどねえ…」

「ウス・イ本? なんだねそれは??」

「あ~、いや何でもないよ何でも…あはははは」


 乾いた笑い声を上げるマコトに首を傾げるしかない男爵だったが、ふと気がつけばすっかり陽が西に傾いていることに気付く。

 

「こりゃあすっかり長居してしまったな、済まなかったねマコトちゃん」

「そんなの気にしないで…というかマコトちゃんはやめてってばー!」

「ははは、それでは失礼」


 笑って『ゴンベエ』を後にする男爵の後姿を見送っていたマコトだったが、ふいにその目が細くなった。


「どうかしたのマコト?」

「ちょっとね…ライザ、しばらくお店の留守番してて」


 そう言うとマコトは、男爵の後を追って店を出た。





 家路を急ぐ男爵を、背後から尾行する男が二人いる。

 相手に気付かせないよう距離を取り、さりげない風を装いながら視線は男爵から離れない。


「…仕掛けるか?」

「…まだ早い、人けがなくなるのを待て」

「なぜそこまで慎重になる? 相手は百姓上がりの成り上がり貴族だろうが?」

「殺すのならな? 依頼人は攫って来いと言ったのだぞ?」

「なんであんな男をわざわざ公国まで…」

「知ったことか? 俺たちは依頼人の言う通りに、奴を攫って港まで運べばいいだけだ」

「…人がいなくなったな」

「よし、仕掛けるか!」


「そうはいかないよ」


 その声に驚いて振り返った瞬間、二人の男たちは気を失って崩れ落ちた。

 





「あら、おかえりなさいあなた」


 屋敷に戻ったアビー男爵を迎えたのは、彼の妻だった。


「ああ、ただいま。 留守中に何か変わったことはなかったかね?」

「いいえ? いつもと同じでしたわよ」

「そりゃよかった…いや、ということはまた野菜泥棒が出たのかね?」

「ええ、でも今日のはちょっと変わってましたわね?」

「というと?」

「今日の泥棒さんたちは、野菜を取らずになんだか調べものでもしてるような素振りでしたの」

「……」

「とにかく不法侵入者には違いないから、まとめて叩きのめして騎士団に連絡して引き取って頂きましたわ」

「……そうか、それなら問題ないか」


 問題ないと言いながらも、男爵の顔色はすぐれなかった。

 

「どうしましたのあなた? お体の具合でも?」

「い、いや何でもないよ。 それよりお前の方こそ大丈夫だったのかね?」

「もちろん大丈夫ですわ! 賢者様より頂いた『標準装備』が役に立ってくれましたもの!」

「ああ、あの『シャベル』のことか?」

「ええ、大賢者様は『スイスアーミーシャベル』と言っておられましたけど、本当に農作業にも外敵の撃退にも役に立ってくれますわ」

「あの御方の知恵は…何というか、我々のような俗人の想像を越えているんだろうな」

「きっとそうですわね、でもおかげで私たちの農園は驚くほどの収穫を得られますし、今年は余った作物で貧しい人たちに施しを出来る期間も広げられそうですわよ」

「そうだな、そしていずれこの国では飢える人間自体いなくなる日が来るかも知れん」


 感慨深げな顔で呟く男爵だったが、妻が続けて言った言葉で凍りつく。


「ええ!そしてこの国は豊かな食と素晴らしい文学に溢れた楽園になるのですわ!」

「あ…いやその…」

「私たち『薔薇の天地』によって書かれた小説で、王都の女性全てに夢と希望を与えて見せますわ!」

「だから…その」


 ちなみに『薔薇の天地』とは、アビー夫人や彼女と同じ執筆活動を行う友人たちによる集まりの名前であり、同時に彼女たちによって作られた「本」の名前でもある。

 大賢者から男爵家に新たな農法を伝授された時に、茶飲み話にと夫人が聞かされたいくつかの「物語」と、それらを多くの人に広める方法を聞いたことが、アビー夫人とその友人たちを『覚醒』させることとなった。


 やがて彼女たちは自ら執筆した小説で自分たちの本を作り、それを友人や知人に回し読みしてもらい、さらにそれを写本した者によってより広く読者を増やすこととなっていた。

 今ではあまり世間にその顔を出さない男爵よりも、夫人の方が有名人になっているかも知れない。


(もちろん有名なのは『氷の薔薇』という夫人のペンネームであり、彼女が作者であることを知っているのはアリーネとその妹のような、ごく親しい者だけだが)


 しかしそれは、男爵にとって頭痛と胃痛の種でしかなかった。

 夫人とその友人たちによって書かれている小説は、一種の恋愛小説だ。

 それはいい。 それは問題ないだろう。


 だがしかし、その恋愛が 男と男 の寝取り合いとか床事情が主題となると話は別だ。


(いまのところ、御婦人がたの中でのみ回し読みや写し取りされているからいいものの、果たして今後どうなるか…やはり教会あたりからふしだらな文を広めた罪とか何とか言いがかりを…いや、そもそもこの場合は言いがかりではないからなあ…)


 苦悩する男爵とは対照的に、夫人のボルテージはさらに上がっていく。


「いずれ大賢者様の仰っていた『印刷技術』というものが世に出たときは、私たちの『薔薇の天地』は大量に作られることになりますわよ!」


「…え゛?」


「そうなれば王都だけでなく、国中の全てに私たちの本は広がるでしょう!」

「………」

「素晴らしい…理想の世界が始まるんだわ」


(…神よ! どうか…どうか我々夫婦とアビー家を守り給え‼)


 アビー男爵の心の中の祈りが神に通じるのかどうかは…いずれまた語ることにしよう。






第7話 終わり





 作者からの蛇足:レンズとは本来豆の品種であり、この(中世近似値)世界では当然光学レンズなど存在せず、レンズといえば豆のことを意味します。

 

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