・転落は新たな出会いの始まり
でたらめに馬車を乗り継ぐと、二日目の昼過ぎには西も東もわからない辺境にいた。
森林に包まれた豊かな小麦畑と、木造の小さな家々がわたしの目の前にある。
なんて穏やかで、平凡な幸せが詰まった光景だろう。
……そうしていると急にお腹が鳴った。
思い返せばこの二日間、水以外に何も口にしていない。今すぐ何かを入れろと、お腹がわたしに叫んでいた。
「ぅ……。お腹、空いた……」
駅を離れると旅行者向けのダイニングが二軒あったので、比較的綺麗な方に入って食事をした。
粉末状にしたジャガイモと、豆のスープだけの質素な食事だ。
「辛気くさいねぇ、お客さん。なんかあったのかい?」
「振られたの」
「ああわかる。俺もよく振られるからわかるぜ、お客さん。まあ、かみさんいるんだけどな、わははははは……は、はは……。あー、今のつまんなかったか?」
「ごめんなさい。わたし、笑えないから振られたの」
「……え。あっ、もしかしてアンタッ、笑わない聖女ソニア様かっ!?」
わたしは小さくだけうなづいて、豆のスープをまた口に運んだ。
いずれこの名声も薄れ、聖女モイラの名前で上書きされてゆくのだろう。
ところがスープが半分ほどなくなった頃、子供が二人わたしの前にやってきた。
「あの……聖女様、僕たち、聖女様にお願いがあるんです……」
「ごめんなさい、わたしはもう聖女ではないの。……だけど、どうかしたの?」
兄妹だろうか。彼らはすがり付くようにわたしを見つめた。
わたしが力を失ったと、辺境にはまだ伝わっていないようだった。
「お願い、お父さんを助けて……!」
「これ、僕たちが森で拾った綺麗な石です。父さんが言うには、それなりに価値があるって……」
兄の方がテーブルに蒼い石を置いた。それはちっぽけなラピスラズリだ。
宝石のように透けたり、輝いたりすることはないけれど、つい欲しくなるような深い蒼色を持っていた。
「ごめんなさい。お金になる物を貰っても、わたしには使い道がない」
「で、でも……」
「お父さんを助けて、お願い……聖女様……」
店の人は子供たちを止めなかった。
聖女ならば、どんな奇跡も起こせると彼らは思っているから……。
子供たちは笑わないわたしに、緊張しっぱなしだった。
「具体的な話を聞かせて」
「お父さん、助けてくれるの……っ!?」
「やれることはやってみる。だけどね、二人とも覚えておいて。宝物は人に渡しちゃいけない。宝物はその人の一部だから、渡したら貴方は、貴方ではいられなくなる……。忘れないで」
わたしは二人から詳しい話を聞いて、西の森へと分け入った。
彼らの父親は娘の誕生会のために、二日前に一攫千金を求めて狩りに向かったまま、森から帰ってこなかった。
危険なモンスターが棲む西の森に、町の人間は捜索隊を出すこともできないそうだ。
もう生きてなどいない。町の人間は誰もがそう言うけど、わたしは可能性を信じて森に入った。
・
「わたし……もしかして迷った……?」
道を進んでいると、いつの間にか道が消えていた。
周囲を見回してもどこもかしこも樹林ばかりで、自分がどっちからきたのかすらわからない。
「えっと、わたしは西の森に入ったのだから、帰りは太陽が昇る方向に進めば……きっと出れるはず……」
そう信じて、わたしは森をもうしばらくさまよった。
父親は見つからなかったと、あの子たちに報告するのは気がとがめた。
だけどなんでわたし、見ず知らずの子供にこんなお節介をしているのだろう。わたしはもう、みんなが敬愛してくれる聖女ではないというのに……。
それからさらに森をさまようと、刃こぼれした剣を持ったスケルトンと出会った。
「ふぅ……っ」
対魔の力ターンアンデッドの光で焼き払うと、骨は灰となって動きを止めた。
その次は生ける黒い影と出会った。
「はぁ……っ」
それも同じように焼き払うと、幻のように世界から消えた。
聖女の残りかすであるわたしには、ターンアンデッドは発動させるだけで体力と魔力を大きく奪った。
「もうっ、現れるならまとめて現れてよっ! 疲れるんだからこれ……っ!」
ゴブリン、ジャイアントビー、気持ち悪い触手のローパー……。
全てやっつけた頃には、わたしは地に両手両膝を突いてバテてしまっていた……。
「ぅ……。昔は当たり前にできたことが、全くできないなんて……なんで情けないの、わたし……」
聖女の力は20歳を迎えると急激に衰える。
そして引き替えに誰かが、普通に暮らしていた13歳前後の女の子が聖女として覚醒する。わたしは聖女の出涸らしだった。
「ぁ……これ、弓矢……?」
悔しい気持ちを乗り越えて顔を上げると、目の前に木の矢が転がっていた。
詳しくはないけれど、理由がない限り、狩人ならば商売道具を回収すると思う。だったらこれは……。
さらに辺りを探ってみた。
ああ、なんてこと……。わたしは古い血痕を見つけてしまった……。
望みはもう薄い。せめて形見だけでも持ち帰ろうと、わたしは警戒しながら続く血痕を追った。
「ッッ……!?」
ところがその先にあった光景に、わたしはとっさに身を隠した。
傷を負った狩人が、一匹の狼に狙われていた。
さらによく見れば狩人は気絶しているようで、もはや絶対絶命の状況だった。
わたしは焦った。わたしたち聖女にとって狼とモンスターは違った。
わたしたちの力は対モンスターに特化している。
悪の存在ではないただの獣は、ハッキリ言えばとても苦手な相手だった。
動きの鈍い生き物ならまだしも、狼のような俊敏な生き物が相手だと、力の衰えたわたしの手に余る……。
どうしよう、どうしよう……。
見ず知らずの子供たちの、言葉を交わしたこともない父親のために、わたしが命を捧げる必要があるのだろうか……。
それにわたしはもう聖女ではない。空っぽの抜け殻だ。助ける義理なんて――
「でも……わたし、もしここで逃げたら……」
もし逃げたらますますわたしは、シグムント王子が蔑んだ空っぽの女そのものになってしまう。
わたしは自分のためにも、この場から逃げられない。
あの子たちの笑顔のためにも、宝物を差し出そうとしてくれた気持ちに応えるためにも、わたしは戦わなければならない。
わたしはもう聖女ではないけど、わたし自身の意思で彼を助けよう。
わたしは狼に向かって飛び込んだ。
苦手な炎の魔法を精一杯発動させて、笑わない元聖女は狼を威圧した。ところが――
「待ってくれ」
どこからともなく、低く落ち着きのある声が響いてわたしを止めた。
だけど狩人は気絶しているし、人影らしい人影はどこにもない。
わたしは狼を注視しながら声の出所を探したけど、ついに見つからなかった。
「まさか……今喋ったの、貴方なの……?」
「いかにも」
「嘘ッ……!?」
もしかして、モンスターが狼に化けているのかもしれない……!
わたしは喋る狼に炎魔法の狙いを定めた。
「狼のローストにされるのは困る。私の話を聞いてくれ、聖女ソニア」
「ぇ……。なんで、狼がわたしの名前を……」
「私が貴女を知っているからだ。私たちは王宮で、何度も顔を合わせている」
「嘘言わないで下さいっ、わたしに狼の知り合いなんていないです……!」
あれ、わたしなんで狼に丁寧な言葉を使っているのだろう……。
「フ……それはそうと、彼を捜しにきたのだろう? だったら悪いが、夜まで待ってはもらえないだろうか?」
「……えっ?」
喋る狼に夜まで待ってくれと言われても、素直に応じる人間なんていないと思う……。
だけどあまりに意外な言葉の連続に、わたしは目の前の生き物をただ見つめるばかりだ。
「しかし、まさかこのような場所で再会するとはな……」
「わたしは王宮で狼なんて、見たことありませんっ!」
「それは当然だろう。私もまさか、自分がこんな姿になるとは思ってもいなかった」
そう言われてわたしは今さら気づいた。
この気品ある奇妙な狼から、何か強大な呪いの気配を感じた。
「そう言われても信じられません。貴方は危険な狼かもしれないではないですか……」
「信じてくれ。でないと私は悲しい気持ちになってしまう……」
わたしはさらに迷った。もし戦えば、どちらかが死ぬような結果にもなりかねない。
だけど、この狼が信頼できる味方とは限らなかった。わたしを信じさせるだけの確証がどこにもなかった。
「元は狼ではなかったと言うなら、貴方はどこの誰……?」
「私たちには面識がある。だが今それを言っても、貴女は信じてはくれないだろう」
「そんなの、無理な注文ばかりです……」
「わかっている。だがどうかもう少しだけ、あの群青色の夕日が夜に飲み込まれるまで、ほんの少しだけ待ってはくれないか? 聖女ソニア」
わたしが彼の要求に応じて、炎の魔法をキャンセルしたのは、狩人に応急手当の跡を見つけたのがきっかけだった。
狩人は森で足を折ったのか、添え木が充てられている。
それに気絶しているのではなく、ただ眠っているだけのようだった。
「待ちます」
「ありがとう、ソニア。信じてもらえて嬉しい。やはり貴方は私が思った通りの女性だ」
どうせわたしの人生は終わっている。
つまらないわたしが消えても、誰も悲しむ人はいない。
わたしは今日までのわたしが絶対にしない選択肢を選んで、ちっぽけな自分にあらがった。
次の更新は00時過ぎを予定しています。
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