・軽食と読書の店 月を追う狼《マーナガルム》2/2
そして翌朝――
「月を追う狼か。いささか皮肉が効きすぎではないか?」
わたしが軒先に看板を吊すと、今さらになってジーク様が少し困った様子でそう言った。
看板には小さな狼と可愛らしい女店主が刻まれていて、『軽食と読書の店マーナガルム』と記されていた。
月の無い夜だけ、ジーク様はマーナガルムとして月を追うことを忘れて人間に戻る。我ながら良くできた皮肉だ。
「わたしなりの経営判断です」
「なんだそれは……?」
「不敬なので言えません」
「ううむ……俺はただの狼だぞ?」
「ただの狼は喋りませんよ……。それに、誰彼構わず笑顔にしてしまう力も持っていません」
ジーク様は人を笑顔にする力を持っている。
あの木工職人のおじさんたちを夢中にさせたように、賢い獣は人を惹き付けるのだと思う。
「そうなのか? 意図してやっているつもりは全くないのだが……」
「知ってます」
わたしたち扉の前に開店中の看板を吊して、すっかり立派になった店の中に戻った。
それからジーク様に店番をお願いして、奥のキッチンでパウンドケーキを焼いていった。
保存の利く菓子類と、有り合わせで作れるサンドイッチ。それに各種紅茶と、舶来のコーヒーを取り揃えた。
道楽で始めた商売で、食材をムダにするのも傲慢なような気がして、甘味方向に偏ることになった。
準備を済ませて店に戻ると、ジーク様が背筋を伸ばしてわたしを待っていた。
「ソニア、そっちの仕事は片付いたか?」
「ええ、後は掃除くらいかしら……」
「掃除なら昨日やっただろう。それよりもお願いがある。すまんが代わりにあの本を取って、ページをめくってくれないか……?」
「ふふふ……」
「笑わないでくれ……」
「お客様がくるまでゆっくりしましょうか。この本ですか、ジーク様?」
わたしたちはカウンターのイスに腰掛けて、同じ本を一緒に読んでいった。
彼が催促するように前足を本の前に伸ばすと、わたしはページをめくる。
時折感想を交わしながら読む本は、少し不自由ではあったけれど、同じ世界を共有できてとても嬉しかった。
「すまん、私がこんな体でなかったら……」
「それは言わない約束です、ジーク様。それに貴方のおかげでわたしは、本を読む楽しみを思い出せました」
「ソニア、ありがとう……。そなたは本当にいいやつだ……」
もう少し言葉を変えれば、女性を喜ばせる意味になるというのに、ジーク様は不器用だ。
でもそんな彼だからこそ、無理をせずに一緒に過ごせた。
・
閑古鳥が鳴いても気にせずにゆっくりと過ごしてゆくと、夕方になってしまっていた。
そこまで至るとさすがのわたしたちも、趣味とはいえ何も手を打たないのはまずいと思い始めた。
「せっかく作ったのだから、店の軒先でケーキを配るというのはどうだろうか?」
「そうね、明日からそうしてみようかしら……?」
丸一日机にかじり付いてしまったせいか、目と肩がすっかり凝っている。
ジーク様とわたしはカウンターから離れて、窓から往来をしばらく眺めてから、店仕舞いの掃除を始めた。
「そう気を落とすな。ゆっくりとやろう」
「だけど、こう全く人が来ないと悔しいわ。はぁっ……」
「同感だ。だが後ろ向きになるな、前向きにこれからどうしてゆくか考えればいい」
「せっかくこんなに立派な本棚に、面白い本がこんなに詰まっているのに、もったいないわ……」
モップで床を拭き掃除して、その後ろをジーク様が狼の前足で雑巾掛けしていった。
「どうした、何か気になるのか?」
「い、いえ……」
奇妙な光景だけど、ついつい笑ってしまう。
わたしはジーク様から顔を背けて、雑巾掛けをする狼に堪えきれずに笑った。
「ソニア」
「ま、待って、今はちょっと……っ。ふ、ふふっ……」
「大変だ、ソニア。……客だ」
「え……」
ジーク様の言葉に店の入り口へと振り返ると、そこに眼鏡をかけた青年がいた。
彼は育ちの良さそうなジャケットを着込んでいて、その袖からのぞく腕は細くて白かった。
「お、狼が雑巾をかけている……」
「ワ、ワンワン……」
「犬の振りまでできるのか……っ!?」
せっかくのお客様なのに、変な物を見せてしまった……。
「あ、あの……えっと、わたし、あ……。い、いらっしゃいませっ!! 軽食と読書の店マーナガルムへようこそ!!」
こんなのわたしらしくない……。
緊張のあまり、わたしは小娘みたいに落ち着きのない接客をしていた。
ところが青年はわたしの隣を素通りして、本棚へと駆け寄っていった。
「凄い……これはっ、赤騎士物語の初版本っ!?」
「え、ええ……うちは軽食を食べながら本を読める店なの。ところでその本、凄いの……?」
ついつい彼ではなく、褐色の狼の方に目を向けると彼は誇らしげにうなづいた。
さらにはわたしの足下に駆けてきて、座れとせがむ。何かと思えばそれは耳打ちだった。
「赤騎士物語の初版本は、改訂版とは大きく内容が異なり、ファンならば非常に読み応えのある作品となっている。見つけ出すのに3年かかったと伝えてくれ、ソニア……ッ」
「ご、ごめんなさい、マニアック過ぎて言葉を脳が受け付けないわ……」
「それはないぞ、ソニア!」
「ええっと……初版版は改訂版とは大きく内容が異なるのよ。良かったらうちで読んでいかないかしら……?」
「いいんですかっ!? 僕なんかが読んでもいいんですかっ!?」
「え、ええ……そういう店だもの……。どうぞ……?」
もしかしてこの子、ジーク様の同類……?
眼鏡をかけた青年が革張りの本を抱き抱えて、小走りに机に飛びつく姿は正しく文学青年のそれだった。
ジーク様の尻尾が揺れている。理解者が現れて天にも昇るほどに嬉しいみたいだった。
「あ、注文忘れてました。コーヒーと、パウンドケーキをお願いします」
「オンッ!」
「少し待ってて」
キッチンに向かってコーヒーを煎れて、ケーキを切って皿に盛り付けた。
ジーク様は集中する同志を見つめて尻尾を振っていた。
「凄い! 誤字がありました!」
「え……ええ、そうなの……。それって、凄いの……?」
ジーク様がうなづいたので、どうやら初版本の誤字はお宝という認識らしかった。
わからない。世界が違うわ……。
「ジーク様、わたし夕飯の支度をするわ。店をお願い」
「うむ、任せておけ。……私から彼に話かけるのはダメだろうか?」
「ダメに決まっているでしょう……。魔女の使い魔扱いされても知らないわよ……」
「ははは、貴女の使い魔にならなってもいい」
どうして真顔でそういうことを言えるのよ……。
内心嬉しくてだらしなく笑ってしまそうになって、わたしはキッチンへと引っ込んだ。
始めてのお客様。少しマニアックな子だけど、いい子そうで良かった。
・
青年は日没までお気に入りの赤騎士物語を読みあさると、真っ暗になった外に気づいて驚いたようだった。
「あ、すみません、こんな時間まで。俺、帰ります」
「本を気に入ってくれてありがとう。ジーク様も喜んでいるわ」
「オンッオンッ!」
「……ところで、明日もやっていますか? 続きが読みたい……」
「またいらして下さい。……定休日はこれからジーク様と考えておくわ」
「よかった! それでは、また! ジークもまたなっ!」
「オンッ! ……気に入った。俺はあの子が気に入ったぞ、ソニア」
ジーク様は嬉しそうに彼の後ろ姿を見送って、それからやっと喋れるとわたしに思いの丈を伝えた。
そんなジーク様の首筋に触れると、嬉しそうに揺れる尻尾がかわいくて、彼を抱き締めていた。
「なんとか言え! むぅ、月の無い夜に彼と会えれば話し込めるのだが……!」
その時間はわたしのためだけに使って。そう言いたくなってもとても言えなかった。
「ジーク様みたいな立派な体格をした方に、いきなり声をかけられたら驚いてしまうのでは……」
「止めてくれ、それは俺の悩みの1つだ……」
窓辺に寄ると青い月が見えた。
空には気の早い星々がきらめき、そこには群雲1つすらない。
「共同経営者として、タイミングがあったらわたしから人間のジーク様を紹介します。明日もがんばりましょう」
「うむ、楽しみだ! がんばろう、ソニア、そなたと一緒だと私は楽しい!」
今日までの苦労の代価としてはちっぽけだ。
けれどジーク様の嬉しそうな笑顔を見ていると、やりがいと達成感を覚えた。
明日は最低でもお客様が1人来る。小さな一歩だったけど、前進は前進だった。




