ディスティアナ皇家とジュリアスさんの過去
ジュリアスさんは何かを考えるようにして握ったり開いたりしていた私の手から、手を離した。
ずっと手を握られていた私は、少しだけ恥ずかしさを感じたけれど、今は浮ついている場合じゃないと気を引き締める。
「……ジュリアスさんがアストリアに引き渡されたのは、停戦協定を結ぶためだったんですよね……?」
「あの時は、……私の父はまだ生きていた。いや、生きていたといっても……すでに、父は亡く、メフィストにその亡骸を傀儡のように操られていただけだが。ディスティアナとの交渉は父が行っていた」
シリル様が銀色の義手の指先を顎にあてて、目を伏せて言った。
「三年前のあの時は、お前はアリザに騙されて、セイグリット公爵やクロエちゃんを断罪するのに躍起になってただろ、確か。ジュリアスのことまでは関われなかった……っていうよりも、それどころじゃなかったはずだ」
ロジュさんがどことなく呆れたように言う。
そうね。
ジュリアスさんがアストリアで奴隷剣士になったのと、私が王都に捨てられたのは同じ時期。
ただ偶然同じ時期だった。それだけだと思っていたのだけれど。
そのどちらにもメフィストが関わっていたとすると、偶然でも、ないのかもしれない。
――わからないわね。
メフィストはもういない。サマエルと同化するようにして、消滅してしまった。
その真意はわからない。
ただ『退屈だから遊んでいる』だけだと、言っていたけれど。
「そうだな。あぁ、その通りだ。……だが、あの時の父がメフィストの傀儡であり、停戦協定を結んだディスティアナのオズワルドも悪魔と契約をしていたとすれば……メフィストと、オズワルドが契約をしている悪魔が、通じていたと考えるのが妥当だろう」
「でも、それもよくわからないよな。だって、悪魔の力ってのはそれはもう、強大なんだろ。実際見たしな。アストリアの国のそこらじゅうに異界の門が現れて、城は半壊どころか、ほぼ全壊した」
シリル様の言葉に、ロジュさんは肩を竦める。
つい最近のことなのだけれど、どこか懐かしむように目を細めて、「ジュリアスとクロエちゃんがいなければ、王都の被害はもっと甚大になってただろうな」と言った。
「あんな力が簡単に使えるんなら、他国を支配下に置くのも簡単だろ。だが、どこかの国が墜ちたという話は、聞かない」
「力を手に入れたら、侵略の魔手が激しくなるのが普通でしょうね。でも、ディスティアナの場合はそうはならなかった。停戦協定から三年は、大きく動きがなさそうだものね。……そのかわり、国内で何か起こっているってことよね」
ナタリアさんがお水のように赤葡萄酒を飲み干すと、グラスをテーブルに置いた。
すかさずロジュさんが新しいお酒をグラスにそそいだ。
「……俺がディスティアナでヘリオスと共に戦場を飛び回っていたころ、ディスティアナの首都、皇都ハルモニアは静かな物だった。国境に近づくにつれて、民は圧政に苦しみ貧困に喘ぎ、……治安は悪化の一途を辿っていたが、中央の貴族たちは何も見えていないように、肥えるばかりだった」
「つまり、ジュリアスがアストリアに売られる前は、戦争を起こしているだけのごく普通の国……といったところだったのかしら。ディスティアナの皇子様は、そのころはどうだったの?」
ナタリアさんに問われて、ジュリアスさんは目を伏せる。
それから、記憶を辿るようにして言った。
「オズワルド・ディスティアナには正妃の子供が二人いる。一人はヴァイラス。俺の一つ年下で、……ハルモニアの城で顔を合わせたときには、言葉を交わすこともあった。……友好な関係ではない。ヴァイラスは俺を嫌っていたようだ」
「ジュリアスさん、ヴァイラスさんと何かあったんですか?」
確かに、ジュリアスさんの置かれていた状況的には、ヴァイラスさんと仲良し――とは考え難いのだけれど。
でも、ジュリアスさんがオズワルドの息子のヴァイラスさんを嫌っていたのなら分かるけれど、その逆というのは、どうしてなのかしら。
「俺が戦場で功績をあげるのが気にいらなかったのだろうな。ヴァイラスは戦いに出ることなどはなかった。オズワルドも、同様に。戦場に出るのは、名もなき兵や、民たちだ。貴族たちはただ命じるだけで、天幕から出ることはない。皇家のものたちは、余計にな」
「戦わない癖に、ジュリアスの戦果に嫉妬するなんてなぁ。器の小さい男だな」
呆れたようにロジュさんが言った。
「あの当時は……そんな連中ばかりだった。ヴァイラスは次期皇帝として育てられていた。……オズワルドのもう一人の息子の名は、アズール。王位をヴァイラスと競うにはまだ幼く、三年前で十歳。今は十三歳だろう」
「ヴァイラスと、アズールは仲が悪かったのか?」
「いや。……ヴァイラスは、アズールを可愛がっていたはずだ。オズワルドも、二人の息子に危害を加えるようなことはなかった。何かが起こったのだとしたら、この三年の間だろう」
「……オズワルドの傍にいる悪魔が、何かしらの目的で、国にとって不利益なことを行っているのかもしれないわね。それこそ、ヴァイラスの目にもあまるほどの」
そう言って、ナタリアさんは新しい赤葡萄酒を飲み干した。
「ヴァイラスは悪魔の憑いているオズワルドに反旗を翻した、とかかしら。それこそ、ラシードのファイサルみたいに」
「それで負けてしまって、ジュリアスさんのところに……? 確かにジュリアスさんは強いですけど、ジュリアスさん一人をディスティアナに連れて帰っても……」
「ヴァイラスは俺を嫌っていた。その上、俺はディスティアナ皇国にとっては、国を戦乱の渦中に落とし込んだ戦争犯罪人だ。……その上で俺の元に来たのは、……ディスティアナ皇国の中にはもう、頼れるものがいない、ということだろう。それぐらい、国が荒れている。おそらく、だが」
「……オズワルドは、ラシードであなたに、なんと言っていたんだっけ、ジュリアス」
「ディスティアナは、世界の支配者になると」
「侵略の手はとまった。けれど、オズワルドは周辺諸国を支配下に置いて、大陸の覇者になることを諦めていない。……この三年間。国が荒れるほどに、軍事力をため込んでいた可能性が高いということね」
「軍事力をためると、国が荒れるんでしょうか……」
「悪魔の力を頼って蓄えた軍事力なんて、ろくなものじゃないわよ。フォレース探求所が何をしていたか、クロエは知っているでしょ? ……でも、良くないわね。ディスティアナの準備が整ったら、侵略戦争がもう一度はじまるでしょうね。こんどは、侵略戦争なんてなまやさしい言葉じゃ呼べないぐらいの、ひどい侵略がはじまるわよ」
ナタリアさんがそこまで言うと、シリル様は静かに椅子から立ち上がった。
「急ぎ、城に戻り状況をジークに伝えよう。ラシードに伝令を出し、それから……早々に、軍をまとめなければいけない。……ただ待っているだけでは、前回と同じ悲劇を繰り返すことになる」
「シリル様……でも、まだ、ヴァイラスさんから話を聞けていないですけれど……」
「ヴァイラスの事情がどうであれ、今わかっている事実をつなぎ合わせると、状況がひっ迫していることがわかる。ファイサル殿は周辺諸国と同盟軍を結成すると言っているのだろう? 不可能なことではないだろうが……時間が足りないかもしれない。……急ぐ必要がある」
「……俺も一緒に行くぞ、シリル。お前は、悪魔に遺恨がある。また周りが見えなくなるかもしれないからな」
ロジュさんもシリル様と一緒に立ち上がる。
「そうだな。……助かる」
「……クロエちゃん、ジュリアス。今度は俺や、傭兵団の連中も一緒に戦う。これ以上、アストリアの地を好き勝手されたくない」
「ロジュさん……はい。すごく、心強いです」
「だろ? ……だから、さ。二人とも、……色々あったかもしれないが、今は、二人きりじゃない。それだけは覚えておいて欲しい」
「……ありがとうございます」
ロジュさんの優しさや気遣いが、有難い。
鼻の奥がつんと痛んだ。
どうしてだか、泣きそうになってしまう。
――多分それは、ロジュさんが、私のことだけじゃなくてジュリアスさんのことも心配してくれるのが、嬉しいからだ。
私は、一人じゃない。
それに、私たちは、二人きりじゃない。
それが、嬉しい。
「ジュリアス。クロエを連れて、そろそろ帰りなさい。ヴァイラスが起きたら、連絡してあげるわ。……それまで、ゆっくりなさい。……戦いがはじまれば、休む暇なんてないだろうし、何が起こるかわからない。後悔のないようにね」
ナタリアさんはそういって、ひらひらと手を振った。
「いつ死んでも後悔なんてしないように、私は生きてる。やりたいことはやるし、言いたいことは全部言ってるわよ。……私のようになれとは言わないけど、この戦いが終わったら――なんて、いまどき流行らないわよ」
「余計な世話だ」
「図星ね」
「帰るぞ、クロエ」
ナタリアさんとジュリアスさんは理解しあっているみたいだけど、私にはなんのことなのかよくわからなかった。
ジュリアスさんは私の手を引っ張って、引きずるようにして部屋から出て行く。
私はナタリアさんにあわててお辞儀をした。
「ありがとうございます、ナタリアさん……ナタリアさんがいると、安心します」
「そうでしょ。それはそうよ。だって私、あなたの師匠だもの」
「はい……!」
途中の廊下ですれ違ったアンリ君が、「ヴァイラスさんの容体は安定しています。今のところは」と、教えてくれた。
心配だから顔を見てから帰ろうと思ったのだけれど、ジュリアスさんがぐいぐい私の手をひっぱるので、それもできなかった。




