砂漠の国の夜
ラシード神聖国は、昼間は真夏のように暑い。
暑いのだけれど、この暑さというのは乾いた暑さで、不愉快な感じはしないものだ。
そして、夜は寒い。
この寒い、というのも、冬の寒さとは違う。昼間に比べて寒いというだけで、開かれた窓からは涼しい風が室内に優しくふきこんでいる。
昼間薄着をし過ぎていると寒い、という程度の寒さだ。室内にいればむしろ過ごしやすいぐらいの。
「……これは、なんでしょうか。羊の干し肉かな。あとは、チーズと、これは、オリーブ? スパイスのせいかな、ちょっと辛いですね」
私はジュリアスさんの頼んだルームサービスのお食事をしげしげ眺めながら、お料理の確認をした。
高級宿泊施設のルームサービスは、昼間屋台で食べたご飯とはまた違った趣だ。
一品一品、手が込んでいて、量が少ない。
高いご飯は量が少ない。これもまた、世界の真理の一つである。
「ファイサルの計らいで、酒や食事も好きなだけ頼んで良いらしい。無料だそうだ。お前の好きな」
「まさか……そんな……! なんて豪気な。恋に落ちそうです」
「クロエ」
「冗談ですよ、ちょ、いたい、痛いですって、抓らないでくださいよ。ちょっとした小粋な冗談なのに、怒らなくても」
ジュリアスさんがわざわざ身を乗り出して、正面に座っている私の頬を引っ張ってくるので、私は文句を言った。良い大人の行動じゃないと思うのよ。まさか、酔っているのかしら。
「さてはジュリアスさん、嫉妬ですね。私のこと大好きですね」
ジュリアスさんの魔の手から逃れて、私はつねられた頬をさすりながら得意気に言った。
ふふん、と、ちょっと偉そうに胸をそらせると、ジュリアスさんはじっと私を見つめる。
「何度も繰り返すが、そうだと言っている。以前から」
「……ものすごい酔っ払ってます?」
「この程度の酒で酔わない」
「うう……」
「お前は、墓穴を掘るのが上手いな。感心する」
ジュリアスさんは不機嫌そうだった表情を、愉快そうなものへと変化させた。
それから、洗練された所作で、新しい酒瓶のコルクを、コルク抜きを使って抜いた。
私は何故かジュリアスさんはコルク抜きなんて使わなさそうなイメージを持っていたけれど、ちゃんと使っていた。それはそうだ、ジュリアスさんは元貴族なので。蛮族じゃないので。
手刀で酒瓶の飲み口をスパッと切るジュリアスさんを想像してごめんなさい。でも、できそう。
「それにしても、……また、お前がどこにいるのか見失いそうになる服を着ているな、クロエ」
新しくあけた酒瓶に直接口をつけながら、ジュリアスさんが私の姿を眺める。
私は自分の着ている服を引っ張った。
それはもう艶やかな花柄の、ネグリジェである。
上質な生地はさらさらふんわりしていて着心地が良くて、何枚か重ねられたフリルがひらひらしていて可愛らしく、かつ、妖艶さも兼ね備えている。
妖艶さのかけらもない私が着てはいけない類の衣服ではあるのだけれど、準備されていたのだから、それは着るわよ。せっかく無料で泊まれるのだから、とことん満喫するのが宿やファイサル様に対する礼儀というものだ。
「大輪の花柄に負けている自信はありますね。なんせ美少女なので、大輪の花よりも清楚な小花柄が似合うんです。それが美少女というものなので」
ジュリアスさんは何も聴こえていないかのように、無言でお酒を飲み干して、新しい空き瓶を作った。
すでに足元には数本の空き瓶が並んでいる。
そして、昼間一緒に買ったお酒以外の新しいお酒も、テーブルの下に順番待ちしているように整列していた。
「……何か言ってくださいよ」
「そうだな。お前は、……自分で美少女というだけあって、可愛いなクロエ」
「うわぁ……」
あからさまにわざとらしく作りあげた甘ったるい声音でジュリアスさんが言うので、私は間抜けな声をあげた。
私をわざとらしく褒めたあとに、おそらくルームサービスで思う存分頼んだのだろう、ワインボトルを開けて、これも瓶に口をつけてそのまま飲み始めるジュリアスさん。
今のは冗談だったのかしら。ジュリアスさんが、冗談を。やっぱり酔っているのかしら。
それとも元々のジュリアスさんは、実は結構、言葉遊びに付き合ってくれるタイプだったのかしら。
よくわからないけれど、なんだか面白くなってしまった。
私は口を押さえて、堪えきれない笑い声を上げた。
「ジュリアスさん、楽しいですね」
「そうか。それは、良かったな」
「でも、どれだけ飲むんですか。聖王宮での祝賀会って、明日の夕方からとか、ファイサル様が言ってませんでしたっけ? もう準備が整ったから、私たちを迎えに来てくれたんですよね、確か。明日は飲み比べですよ。戦いです。二日酔いはいけません」
「……言っていなかったか。俺は、酔わない」
「お酒、強いのは知っていましたけれど」
「酒もだが、毒物全般に耐性がある。父の方針でな。クラフト公爵家の一人息子だった俺が毒殺されないようにと、幼い頃から毒を少量づつ与えられて、耐性をつけた。おかげで、酒にも酔わなくなった」
「ディスティアナ皇国の治安、悪過ぎじゃないですか……」
ジュリアスさんがなんでもないことのようにさらりと言ったので、私は青ざめた。
この世の中に、息子に毒を与える父親なんて、本当にいるのね。
私も公爵家の一人娘だったけれど、毒は与えられなかったわよ。
「王族は皆そうだろう。シリル・アストリアも、同じような経験をしているんじゃないか? 俺は皇族ではないが、……俺の父親は、少し変わっていたからな」
ジュリアスさんに変わっていると言われるお父さんとか、どんな人なのかしら。
今はもう亡くなってしまったジュリアスさんのお父様に、私は想いを馳せた。
やっぱり、ジュリアスさんに似ていたのかしらね。
「ジーニアスさん、でしたね」
「あぁ。よく覚えているな」
「ジュリアスさんが、昔のこと話してくれるの、珍しいですから。覚えていますよ」
「ジーニアス・クラフトと、シトリン・クラフト。父と母だ。……ずっと思い出すことも、なかったが。……名前を呼ぶのも久しぶりだ。……懐かしいものだな」
「優しいご両親だったんですね。……ジュリアスさんの声が穏やかなので、なんとなく、わかります」
「……父は変わり者だったが、多分、俺にとっては良い父親だった。飛竜の卵を俺にくれたのも、父だった。父がいなければ、ヘリオスと会うこともなかっただろうな」
ジュリアスさんのお父様は、多分、皇帝オズワルドに命を奪われている。
何があったかまで、詳しいことはわからないけれど、オズワルドの傍には、きっとーー悪魔がいる。
ジュリアスさんのお父様も、私のお父様と、多分、同じ。
けれどジュリアスさんは何も言わなかった。
私も、それについては触れることはなかった。
今はまだ、触れないでいたい。
きっと、話をしなければいけない時が来ると思うから。
ディスティアナ皇国に、行かなければいけない日が必ず来る。そこには、オズワルドと、ミンネ様の姿をしたサマエルがいる。
私は、ジュリアスさんと一緒にいよう。何があっても、離れたりしない。
だってそうしないとジュリアスさんはーー。
「クロエ。飲みすぎた。少し、風にあたる」
「そうですね、飲み過ぎです。ジュリアスさん、酔わないって言ったばかりじゃないですか。大丈夫ですか、ふらふらしますか?」
不意に立ち上がって、大きな窓の外に続く広いバルコニーに出ていこうとするジュリアスさんを、私は追いかける。
足取りが、ふらついている気がする。珍しいこともあるわよね。
床に散らばっている酒瓶の量を思えば無理もない気がするけれど、だとしたら、毒に耐性があるという過去の話はまさかの冗談だったのかしら。
ジュリアスさん、本気と冗談の境目がよくわからないから、私は基本的に全部信じてしまうのよね。
いえ、明らかに嘘くさい褒め言葉は、嘘ってわかるんだけど。
ジュリアスさんの背中を支えながらバルコニーに出る。
吹き抜ける風が、薄手のネグリジェを揺らした。
ラシードの夜は、空気が澄んでいるせいか、星がよく見える。
宝石をこぼしたような星空に向かって、眼下に広がる街から、蛍火のような光が、あちらこちらからふわり、ふわりと浮かんでは消えていく。
「……すごく、綺麗ですね。綺麗なのに、少し悲しいですね」
蛍火は、魔道具で出来ている魔灯籠の灯り。
球体の中に魔法の炎が灯っていて、空に向かって浮かび上がって、空の先で燃え尽きて、消えていくもの。
アストリアにも同じものがある。
アストリアの場合はお祝いやお祭りの時に、派手に空に浮かべるものだけれど、ラシードではそれは鎮魂の灯りだと、レイラさんが教えてくれた。
夜になると、戦死者を悼み、街の人々が炎を空へと舞い上がらせるのだという。
「クロエ。……俺は、必ずお前を守る。何を、してでも」
ふらついていたように見えたのだけれど、それは演技だったのかもしれない。
ジュリアスさんは星空を見上げていた視線を私にうつすと、私の体をすっぽりと腕の中に抱き込んだ。
苦しいぐらいに抱きしめられて、私はジュリアスさんの服をぎゅっと掴んで引っ張る。
今の言葉は、あんまり良くない。
「やめてくださいよ、縁起でもない。私はジュリアスさんと一緒にいます。私がジュリアスさんを守ってあげます。結構強いんですよ、私」
「……そうだな。お前は、強い」
「ええ。なんたって、天才……っ」
いつもの台詞を言い終える前に、噛み付くように唇が重なった。
強いお酒の香りがして、頭がくらくらした。




