クロエ・セイグリット、はじめて風呂でのぼせる
私の正面で悠々と薔薇風呂につかっている煌びやかで雅びなジュリアスさんが、何故か私を手招きした。
お風呂が大きいので私とジュリアスさんの間には確かに距離があるけれど、入浴中に手招きされても困ってしまうわね。
私は気づかないふりを決め込むことにした。
膝を抱えて小さくなっていても、薔薇風呂というのは気持ちが良いものである。
「クロエ」
とうとう名前を呼ばれてしまった。
何かしら、用事かしら、離れていても声は届くわよね。
仕方なく私はジュリアスさんに視線を向けた。
何か見せたいものでもあるのかしら。いえ、ないわよね。お風呂なのよ、ここは。
「……なんですか?」
「顔を見せろ。薔薇が派手すぎて、お前がどこにいるのか見失いそうになる」
「絶対嘘ですよね! さすがの私でもそこまで地味じゃありませんよ! ……え、もしや本気ですか?」
どうしよう、ジュリアスさんが冗談を言っているのか本気なのかまるで分からない。
別に意地悪く笑っているわけでもないし、なんとなく真剣な感じもするし。
薔薇風呂で存在感が薄れてしまうのなら、薔薇の咲き乱れる庭園などに行ったら、完全に存在感がなくなってしまうのではないかしら、私。
あったわよね、薔薇園。
学園内の一角にあったわよね、薔薇の庭園。
たまに気晴らしに遊びに行ったわよね、シリル様と薔薇の庭園でお話ししたことも確か、あったわよね。
もしかしてシリル様にも私が見えていなかったのかしら。今度聞いてみよう。
私は真剣に自分の色味について悩んだ。
全体的に暖色だからぼんやりとしてしまうのかしら。
悩みながら、そこまで言うならジュリアスさんに顔を見せてあげようと、ジュリアスさんの方に少し近づいた。
「あ、え……っ」
近づくと、大きな手が頬に触れた。
ぐい、と顔を引き寄せられて、なんとも間抜けな声が出た。
視界がぼやけたと思ったら唇に、少しかさついていて、柔らかいものがあたる。
食べられるような、噛みつくような口付けは、深くて長い。
首筋を大きな手が辿るのを感じる。
真っ白になった頭の中で、触れる手の感触や唇の感触だけが全てになる。
指先が、私の首筋から肩までを、何かを確認するように丁寧に撫でた。
ジュリアスさんに噛まれた場所だ。
それに気づいた途端に、体の温度が一気にあがった気がした。
(あぁ、これは、駄目な気がする……)
体の異変に気づいた時にはもう手遅れで、私の世界がぐるぐる回り始めて、私の意識が完全に途切れるまで、そう長い時間はかからなかった。
頭が重い。
体が重い。
何か重たいものに上から押しつぶされているみたいだ。
「うぇぇ……」
喉の奥から情けない声が出た。
どうやら私はベッドの上で横になっているらしい。
なんとかぱたりと体を動かすと、なんと全裸である。全裸でシーツにくるまっているとか、昼下がりの伯爵夫人みたいな姿だ。
昼下がりの伯爵夫人が総じて昼下がりに全裸でお昼寝するわけではないと思うけれど、なんとなく勝手なイメージである。
けれど昼下がりの全裸の伯爵夫人は起きがけに「うぇぇ」とか、今にも嘔吐しそうな声をあげたりしないわよね。これが私と、セクシー伯爵夫人の差。
そういえばナタリアさんも全裸かそれに近い格好でよく寝ていた。
ナタリアさんもセクシーには違いないけれど、部屋の大惨事が全てを無に帰しているので、昼下がりの伯爵夫人とはちょっと違う。
ここでどうして私が昼下がりの伯爵夫人にこだわっているかというと、ロキシーさんの食堂に来るおじさんたちがそういった話題を話していたからなのよね。庶民の間では、高貴な身分の方を題材にした物語などが流行っているらしい。多分、下世話な類いのやつ。
「……無事か、クロエ」
私をお風呂場で湯あたりさせた元凶のジュリアスさんが、窓辺の椅子に座って優雅にラシード特産の瓶詰めにされた白いお酒を飲んでいた。
優雅にといっても、所作が優雅なだけで、瓶詰めの酒を瓶に直接口をつけて飲んでいるので、かなり大胆な姿だ。
アルコール度数はどれぐらいなのかしら。そのままがぶ飲みするような代物じゃないと思うのだけれど。
確かお酒を購入した時にお店の方が、果実水などでうすめて飲むと美味しいと言っていた。
お買い物をしていると、ファイサル様が「ラシードでは昔、水が貴重だった。今は錬金術や魔術が発展して、飲み水に困ると言うことはない。だが、昔の名残で酒はかなり嗜まれていて、安価で手に入る」と説明してくれた。その通りで、アストリアよりもラシードの方がお酒の類いは安かった。
アストリアでよく飲まれているビールや葡萄酒もあったけれど、せっかくなら珍しいものを、ということで、ラシードで伝統的に飲まれているものを買ってきた。
それなので、ジュリアスさんの飲んでいる瓶の中に入っているのは、乳酒という、家畜のミルクを発酵させて、数種類のハーブで香り付けしたものである。
「……無事じゃありません。せっかくのお風呂だったのに、ジュリアスさんのせいでのぼせたんですが……」
へろへろした声で、私は文句を言った。
「……ええと、でも、運んでくれたのは、ありがとうございます」
それからもごもごと、シーツに半分顔を隠しながらお礼を言った。
ジュリアスさんのせいだけれど、恥ずかしいし、情けない。
ベッドサイドに水差しとグラスが置かれているのを発見した私は、手を伸ばしてグラスの中の水を飲んだ。
水差しのお水には、レモンの輪切りが浮かんでいる。
グラスの水もレモンの味がする。ぷは、と飲み干すと、かなり体がすっきりした。
私はジュリアスさんが窓の外を見ながら淡々とお酒を飲んでいるのを確認して、そろりとベッドから降りると、いそいそと洋服を着た。
宿のサービスなのだろう。
ベッドサイドに体にはおって、腰紐を結わく作りになっている、艶やかな薔薇の模様の入った寝衣がおかれていた。
似合わない予感はすごくしたけれど、せっかくなので着ることにする。
袖をとおすと、さらりとしていて、肌触りが最高だ。
薄く開かれた窓から涼しい風が室内に入ってくる。そのお陰で頭がすっきりしてくる。
窓の外は完全に夜だった。
高級宿泊施設の最上階の窓からの景色は完璧で、まだ転々と輝いている街の明かりと、宝石をばらまいたような星々の瞬きが目に飛び込んでくる。
もったいないぐらいに綺麗な景色だ。
湯あたりしたせいでどれぐらいか分からないけれど、恐らくは一時間以上まるっと記憶が吹き飛んでいるのが、残念でならない。
「貧弱だな、クロエ」
「……ジュリアスさんのせいじゃないですか。私の方が先にお風呂に入っていたんですよ、だから入っていた時間も私の方が長いんです。それはのぼせますよ。あんなこと、するから」
「たいして、何もしていない」
「うぅ……」
それは、ジュリアスさん的にはそうかもしれないけれど。
私は再び口の中でもごもご言った。
もう反論がみつからないわね。
どうしようと悩みながらジュリアスさんの前に置かれている小さなテーブルに視線をむける。
なんとも美味しそうなお酒のおつまみが、テーブルに沢山並んでいる。
いつのまに、どこでそんな美味しそうな料理を手に入れてきたのかしら。
「まさか、ルームサービス……!」
「あぁ。適当に頼んだ」
「私が気絶してる間に、もの凄い満喫してるじゃないですか、ジュリアスさん……!」
私は夕ご飯をまだ食べていないのに。
元気になったとたんにお腹がすいてきたので、私はジュリアスさんの正面にある椅子に座った。
ジュリアスさんが私の分の飲み物を差し出してきたので、有り難く受け取った。
瓶の中身は果実水だった。グラスに注いで口をつけると、木苺の味がして美味しかった。
これは今日街で購入したわけではないので、ジュリアスさんが私用にルームサービスで頼んでくれていたのだろう。
ジュリアスさんなのに、気がきいている。
もしかしたら私を湯あたりさせたお詫びなのかもしれない。
うん、許してあげよう。
あと次から一緒にお風呂に入るときは適切な距離をとろうと、私は決意した。
本編で頑張った分のんびりさせてあげたくて、しばらく閑話でいちゃいちゃしています。
ラシードでの休憩もあと数話かなと思います。お付き合いくださると嬉しいです。




