オズワルド・ディスティアナ
じたじたと、サマエルがピンに磔にされた蝶のようにもがき、羽をばたつかせている。
槍の纏う清らかな光が、サマエルの貫かれた胸部から漏れ溢れていく。
ミンネ様の姿をしたサマエルの体が、石化でもするように色を失って、からからに乾いた皮膚に、ぴしりぴしりとひび割れができていく。
ジュリアスさんはサマエルから槍を引き抜いて、その背中の翼を落とそうと、大きく振りかぶる。
ーーその時だった。
振りかぶった槍に、禍々しい黒い炎が纏わりついた。
「ジュリアスさん!」
恐ろしい気配を感じて、私はジュリアスさんを呼んだ。
駆け寄ろうとして、砂漠に倒れ込みそうになり、砂を掴む。
黒い炎はサマエルの足元から長い腕のように伸びている。
サマエルの足元に、大きな瞳の形をした、紫色に発光する魔法陣がうまれる。
そこからぬるりと、まるで水底から水面へと浮上するようにして姿を現す人影があった。
逞しい体躯に銀色に輝く鎧を身に纏い、赤色のマントが風に靡いている。
金色の髪に、眼光の鋭い鷹のような、青い瞳。
齢を重ねるごとに刻まれた深い皺と、口の周りには手入れの行き届いた髭がはえている。
三十代後半から、四十代といったところだろうか。
もしかしたらもっと年嵩なのかもしれない。
けれど、生命力に満ち溢れた堂々とした威圧的な見目のせいか、年若く見える。
「オズワルド・ディスティアナ……!」
ジュリアスさんは炎に纏わりつかれた槍をひとふりして、強引に炎を払った。
その名前には、聞き覚えがある。
オズワルド・ディスティアナ。
ディスティアナ皇国の、皇帝の名前だ。
「久しいな、ジュリアス」
オズワルドは、ぐったりとして動かないサマエルを軽々と片手に抱えた。
ーージュリアスさんのお父様は、裏切りの嫌疑によって捕縛されて、処刑になったのだという。
その後お母様も後を追うようにして自死してしまい、ジュリアスさんはオズワルドに命じられるまま、ヘリオス君と共に戦場で戦っていた。
ジュリアスさんにとっては、両親の仇のような存在だ。
けれど、どうして今。
「三年ぶりか。確か左目を抉ったはずだが、それはなんだ。紛い物の瞳か?」
「貴様、何故ここに」
「三年前のお前は、猟犬のように研ぎ澄まされていた。アストリアで奴隷剣士にまで堕ちたのだから、さぞや良い顔になっていると思っていたが、随分とまぁ、腑抜けたものよな」
「やはり、お前も悪魔を飼っているのか。父を殺した理由もーー」
「ジーニアスは、優秀だった。あれのおかげで我がディスティアナ皇国は、世界の支配者になれるだろう。サマエルやメフィストはお前に期待していたようだが、もはやお前は不必要な存在。ジーニアスやシトリンは死んだというのに、そのように腑抜けた面をして恥を晒して生きるのなら、今ここで死ね」
オズワルドが両手をかかげると、その頭上に黒い太陽のように、恐ろしく強大な熱量を持った、漆黒の火球が現れる。
私たちを全て覆い尽くしてあまりあるぐらいにおおきな火球が、空から落ちて来る。
「逃げるわよ、クロエ、ジュリアス君!」
ナタリアさんが空を見上げながら言った。
私は杖で自分の体を支えながら立ち上がる。
ジュリアスさんはオズワルドに斬り込んだ。忌まわしい炎が纏わりついたせいか、槍からは輝きが失われて、いつもの黒い槍へと戻っている。
火球を形成し終わったオズワルドは、細長い炎の竜でジュリアスさんの槍を絡め取った。
その炎が槍を伝い、ジュリアスさんの体に伸びる。
腕が焼け焦げるのも構わずに、ジュリアスさんはそのまま槍を引いて、素早く突き出した。
突き出された槍が、オズワルドの鎧の脇腹を抉り取る。
「腑抜けたお前では、私には勝てない」
鎧の下の皮膚が裂けて、血が流れ落ちたけれど、その傷はすぐに塞がってしまった。
オズワルドの足元に、先ほどと同じような大きな目の模様の魔法陣が作り上げられる。
その体が、流砂に飲まれるように、魔法陣へと沈んでいく。
「待て!」
ジュリアスさんはオズワルドを追おうとした。
けれど、魔法陣に向かう足を止めると、頭上を見上げる。
ーー巨大な火球が落ちてくる。
徐々に距離が縮まる火球に皮膚がじりじりと焼かれる。
砂が竜巻のようなうねりとなって、火球に立ち上っている。
逃げなければいけない。けれど、もう間に合いそうにない。
ヘリオス君がジュリアスさんを「キュイ!」と大きな声で呼んでいる。私の体をつついて背中に乗るように促してくれるけれど、どうにも腕に力が入らなくて、視界が濁りはじめている。
「時は、満ちた。全てを支配する理、破壊の王が再び顕現し、世界は我がものになるだろう。とはいえ、腑抜けていてもお前は強い。人柱としての可能性は捨てきれない。ジュリアス。生きていたら、また会おう」
魔法陣が消え失せて、オズワルドとサマエルの姿も見えなくなった。
ジュリアスさんが私の元へ走ってくる。
「クロエ、寝るな、阿呆!」
いつもの罵倒が聞こえる。
私の腰に腕を回して、ジュリアスさんが抱えてくれる。
そのままヘリオス君に飛び乗った。
ヘリオス君は地を這うようにして、地面のすれすれを飛んで、エライザさんとコールドマンさんを口で咥えて拾い上げる。
ナタリアさんは箒で倒れている少年を回収した。
迫り来る火球の下を、出口を求めて狭い迷宮を飛ぶようにして、ヘリオス君とナタリアさんの箒が突き進む。
砂漠に向かって、空から火柱が落ちる。
その合間を縫って進むけれど、徐々に近づいてくる火球の面積が大きすぎて、光が溢れる出口が遠い。
まるでマグマの中を泳いでいるみたいだ。
ヘリオス君の翼は炎に煽られても火傷ひとつ負っていない。オズワルドが作り出した火球は、魔力で形成されているからだろう。飛竜には魔法が効かないと、ジュリアスさんにいつか聞いたことを思い出す。
けれど、私たちはそうはいかない。
ジュリアスさんは私を庇うようにして、私に覆いかぶさってヘリオス君の手綱を握っている。
アリアドネの外套も炎には強いけれど、その背中が焼け爛れてしまうのは時間の問題だろう。
手綱を掴む両手も、黒く焼け焦げている。早く治したいけれど、今の私では回復魔法ひとつ使うことも、できそうにない。
「間に合わない……! 少しでも時間を稼がないと……!」
ナタリアさんが切羽詰まった声を上げた。
それから虚空に向けて手を伸ばす。
手のひらの中に現れたのは、銀色の笛だった。
ナタリアさんが笛を吹くと、か細く聞き取れないほどの高音が響き渡る。
笛の音に呼び寄せられたように、地鳴りが起こり始める。
ぼこぼこと、砂漠が隆起して、真っ平だった砂漠が陥没していく。
滝のように砂が落ちて、地面に大きな穴が開く。
穴が空いたお陰で、ヘリオス君は高度を下げて、火球から逃れることができた。ナタリアさんも真っ直ぐに落ちるようにして、大穴へと飛んでいく。
ちらりと後ろを振り返ると、肉も内臓もない骨の形をした鯨の大群が、砂漠を掘り起こしながら火球に向かって突き進んでいた。
「砂鯨には炎は効かない。骨しかないからね」
無事に火球の下を抜けて、青空の真下を飛ぶヘリオス君の横に並んで、ナタリアさんが片目を瞑った。
ナタリアさんの艶やかな黒髪が、ところどころ炎で炙られて焼けている。
私もジュリアスさんも、満身創痍という表現がぴったりだけれど。
ーーそれでも、生きている。
生きているのだから、私たちは多分、勝つことができたのだろう。
火球が砂漠にめり込んで、凄まじい熱量が砂漠の上を焼いていく。
炎の海の中を、砂鯨の大群が悠々と泳いでいる。
遠く、こちらに向かってくる赤い飛竜の姿がある。アレス君と、ファイサル様だ。
ファイサル様は、意識のないシェシフ様を抱えているようだった。
やっと、終わった。
私はジュリアスさんの腕の中で、安堵のため息をついた。
安心したせいか、一気に眠気が襲ってくる。もう、意識を手放してもジュリアスさんに怒られないだろう。
だって、頑張ったものね。
目を閉じると、私に向かって微笑むお母様の幻と、その傍に佇む白く美しい四枚の羽を持った女性ーーおそらく、ガブリエル様の姿が見えた気がした。




