月白色の幻聴 後編
声が聞こえる・・・・夢?
夢じゃない現実。
だって、あの声はパパとママの声。
リビングから聞こえる。
『どうして、りのに行くって約束したでしょう。』
『仕方ないだろう!仕事なんだ。』
『貴方がりのに言ってくださいよ!』
『俺は疲れてるんだ。それぐらい母親のお前がやれ。』
『あなた!向うではそんな事、言わなかったでしょう!』
『うるさい!』
『大きな声、出さないでください・・・・りのが・・・」
パパは今度の運動会に来ないんだ。別にいい。
どうせ私は学校では嫌われ者だから、パパにその事がバレなくて済む。
私は、布団を頭からかぶり、パパとママの声を耳から遠ざける。
『じゃ芹沢さん、皆の見本で、テキスト25ベージの上か発音してみてくれる?』
『本場の発音ですから皆さんよく聞いておくように。』
『apple、banna、orenge lemeon・・・・・』
『流石ですね。先生でも、ここまできれいな発音はできません。皆さん芹沢さんが、うちのクラ スに来てくれてよかったですね。』
『・・・・・・』
『何あれ、得意げにアポーとか言っちゃって、』
『ほんと、先生に取り入って贔屓されたいだけじゃない。』
『ここは日本だっつうの、英語なんてきれいに発音できなくても、生活できるしね~。』
『そうよ。それに今は翻訳機もあるよねぇ。』
『そうよ、そうよ。気取ってるわ。』
『晩御飯要らないなら、連絡くださいよ。』
『忙しいんだ、そんな暇はない』
『忙しい、忙しいってあなた、本当に仕事なんですか?』
『何が言いたい。』
『毎晩お酒くさい匂いをして帰ってきて、ワイシャツに』
『遠回しに言わず、はっきり言えばいいだろう。』
『私の口から言わすんですか?あなた自身が一番わかっている事でしょう。』
『お前の、その言い方が!どれだけ・・・・』
また、始まった、パパとママの喧嘩、最近、毎晩、繰り返される。
虹玉、お願いパパとママが喧嘩をしないように仲良くさせて。
『頭良いくせに、そこは、できないっておかしいよね。』
『何、言っているかわかりませーん。ちゃんと日本語を話してくださーい 』
『パパ、今度・・・』
『りの、疲れているんだ。あとでな。』
虹玉、パパの疲れを取ってあげて。
『来た来た、外国かぶれ~。』
『ちゃんと日本語しゃべれよ。ここは日本だぜ!』
『・・・・・』
『芹沢さん大丈夫?酷いよね。あそこまで言うことないよね。』
『あ、ありがとう。大丈夫。本当の事・・・・・だから、わ私、頑張って、治すから。』
『ねぇ聞いて~、吉田達がいつもの通り、海外かぶれーって芹沢をイジメてるの、私、助けて やったのに。なんて言ったと思う?』
『何、何?』
『大丈夫、本当の事だから、私、頑張って治すから~。だって、むかつかない?せっかく同情し てやった私、馬鹿みたいじゃん。』
『えーホント馬鹿にしてる。山田かわいそー』
『治す気あるなら、日本に来る前に治してから来いっつうのよ。』
『ホントだわ。ははははは。』
山田さん、そんなふうに思ってたんだ・・・・
何しても、私は嫌われる。どうしてだろう。フィンランドやフランスではこんな事なかったの に。
『仕事、仕事って日本に帰って来てから、いつもいつも・・・』
『うるさい! 俺に指図するな!』
虹玉、パパとママのイライラを取ってあげて・・・・。
『お前の声、聞きたくないんだよ、だから、ここに入って静かにしてろよ。』
『や、や、めて、だっ出し、て!』
『あぁ、何言ってか、わかんないなぁ。』
『ちゃんと日本語が出来たら、出してやるよ。』
『お、おお、ねがいい。だっだして。』
『えー?わかんないなぁ?』
『何してるんです!』
《うわ、やべっ》
『芹沢さんが掃除道具入れに閉じこもって日本語の練習してるみたいなんです。』
『俺ら、掃除したくても出来なくて、困ってるんですよ。』
『芹沢さん、何をしているのです。出て来なさい。皆が困っているでしょう。』
虹玉、奇跡の力があるなら、私の・・・・ううん、パパとママを仲良くさせて。
『ダメだ・・・・俺は・・・・。』
『あなた。』
『すまない、さつき・・・・』
虹玉、願いをかなえて・・・・。
『りの、先に食べる?ケーキ』
『・・・・・要らない。もう寝る』
『あなた!今日は、早く帰って来てって言ったでしょう。今日ぐらい・・・・今日は、りのの誕 生日なんですよ。』
『・・・・・・。』
虹玉、パパとママが喧嘩するなら、ケーキは要らない、誕生日も要らない
『あなたは、りのの事が可愛くないんですか!りのは、貴方をずっと待って』
『わかってる!、仕方ないだろう!帰れるならとっくに帰ってきている!』
『たった1日だけですよ。今まで欠かしたことなかったじゃないですか』
『うるさい!』
『あなた!どうして、日本に戻ってきてから』
突然の大きな音に身体がこわばった。食器が壊れる音。ママの悲鳴。ママの鳴き声。
虹玉、お願い、パパの怒りを、ママの涙を取ってあげて。
私の願いが足りないのかな。
もっと強く、長く願ったら叶うのかな。朝まで、願ってみよう。
大好きなパパとママ、喧嘩しないで仲良くなるように。
『りの、入るよ。おはよう、りの。昨日はごめん。パパ・・・・・。』、
誰?この怖い顔の人・・・・・・パパはもっと優しい顔してて、いつも笑て・・・・・。
『仕事が忙しくて・・・・・誕生日会、できなくてごめんな。』
誕生日会?りのは要らないって・・・・
『これ、誕生日のプレゼント・・・・・遅れたけど。』
プレゼント?それも要らない。パパとママが喧嘩するなら要らないって、
虹玉にお願いしたもの。
だから・・・。
『・・らない。要らない!出てって!』
こんな怖い顔の人は、パパなんかじゃない。プレゼントなんて置いていかないで!
『これも要らない!』
『りの・・・。』
『いや!触らないで・・・。』
邪魔しないで、虹玉の願いが叶わなくなる。
私は、ずっと願ったんだ。パパとママが仲良くなれますようにと、
そのためなら何も要らないからって。
『学校行かないの?』
『行きたくない・・・・。』
『そう・・・・・ママも疲れた。』。
電話が鳴っている。
『ママ、電話・・・』
『・・・・・・』
ママが出ようとしないから、私が電話を取る
『はい』
『芹沢栄治さんのお宅でしょうか?』
『・・・・・・・』
『警視庁鉄道警備課です。芹沢栄治さんが事故に合われて、お亡くなりになりました。
免許証で確認してお電話を差し上げています。ご家族の身元確認が必要でして、今から言う、 場所に来られますか?』
電話がおかしい。いたずら電話?何言ってるかわからない。
『ママ、おかしいよ電話。』
『こちらです。遺体確認をお願いします。お子様はご覧にならない方が』
『こっちで待っていようね。』
ママが冷たいドアの向こうに行ってしまった。ここは何処だろう?寂しい場所。
『ママ?』
2度と会えないような不安が襲ってくる。
『芹沢りのちゃん?』
警察のおねぇさん?私、また迷子になっちゃったんだ。昔も警察のおねぇさんに「大丈夫、お 母さんすぐ来るからね」って言われて、飴玉をもらった。だから、また、今も大丈夫だって言っ てくれて、飴玉をくれる。そして、すぐにママが迎えに来てくれるんだ。ほら・・・・
『これ、お父さんが握っていたの。誕生日プレゼントかな?』
『・・・・・・』
飴じゃない・・・・何?誕生日プレゼントって?
私は要らないって、お願いした。
『いや・・・い、要らない・・・要らない。』
それはあの怖い人が持っていたプレゼントと同じ。
私の願いを邪魔する物。
『自殺らしいわよ・・・・・・うつ病だったって。』
『奥さんと娘さん、涙一つ出てないわよ。』
景色が、遠いのに。皆の声だけが、はっきり聞こえる。
『あいつの父さん、電車に飛び込んだだって。』
『マジ?』
『本当、俺の父さん、朝、会社行く時、電車止まって、会社に遅れたって怒ってたもん。』
『えー。あいつん家、最低だな。』
黒い服を着た人が、頭を下げて通っていく
蟻の行列みたい・・・・巣に餌を運んでいるのかな。
雨の日はどうしてるんだろう、蟻さん達・・・・
働きものの蟻さんだから、家の中でもお仕事してるんだよねきっと。
どんなお仕事かなぁ?見てみたいなぁ・・・・。
『りの、最後よ。パパの顔、見てあげて。』
『・・・・・』
パパ・・・・・そう、パパはいつも優しい顔してた。こんな風に。寝てるの?起きて
パパ、お仕事行かなくちゃ。蟻さん達は、もう働いているよ。
この花、邪魔・・・・・こんなんじゃお仕事に行けない。取ってあげよう。
パパの顔半分を隠している白い花をむしり取って捨てた。
『りの!ダメよ!』
『!!」
汚く黒く濁った赤い物がパパの頭に、顔が半分・・・・怖い顔が現れた。
手のひらに白い花びらと一緒に赤い絵の具?
もう一度パパの顔を見る。右の半分はいつもの優しいパパ。左は、あの怖い顔、あの怖い顔の 人はパパ・・・・。
『りの!』
身体に力が入らない。・・・・沢山の足・・・・お尻に床の冷たい感触。
『りの!』
ママ、泣いてるの?泣いちゃだめだよ。
りのが・・・・りのが虹玉にお願いしたんだから。
ママの涙を取って・・・て。
今、何時だろう。部屋の時計を見る。6時17分。
えーと、学校に行かなくちゃいけないんだっけ?
あれ?何、この黒い服・・・服着たまま、寝ちゃった?
リビングの扉を開けるとママが、テーブルの前でうずくまっている。
窓から入ってくる夕焼け色に部屋が染まっている。
夕方の6時か・・・・
テーブルの上には、白い花と黒い額縁・・・・ママも黒い服、お葬式だった?誰の?
『・・・・起きたの・・・・』
『・・・・・・』
『りの・・・・あの朝、パパと何を話してたの?』
あの朝?
『最後に、パパはなんて言ってた?』
最後?
黒い額縁には、パパが笑っている。
あの朝は・・・・怖い顔のパパが入ってきて、私、要らない、出でいってって
触らないでって、私、手を振り払った。
ママが私を見つめる。
私が、手をふりはらったから・・・・パパは死んだ?
『りの?』
ママは怒っている・・・・私が、パパを殺したから。
声が出ない!どうして?ママに謝らなくちゃいけないのに・・・・。
『りの?』
ほら、早く謝れってママが怒っている・・・・早く言わなきゃ。ママの目が怒っている。
『・・・・・・』
どんなに叫んでも声は出ない。怖くなって、部屋のベッドへ逃げた。
神様が罰を与えた。
私はパパを殺した悪い子だから、一生しゃべるなと。
ほら、聞こえるパパの声が、
リノ ドウシテ ニゲタ リノ ドウシテパパカラ ニゲタ リノガニケダカラ パパ・・・ハ シンダンダヨ。。。
リノ ドウシテ ソノテヲフリハラウ パパと イッシヨニ シノウ
パパも怒っている
怖い顔、血の付いた顔で
悪い子はオイデと。
「ニコ!」
慎一は校長室に飛び込んだ。部屋には教頭先生ともう一人、知らない男の人が、応接セットのソファーに座っている。教頭先生は驚いて立ち上がり叫んだ。
「な、なんだね君は。」
「ニコはどこだ!」
「ニコ?」
部屋の隅々を探す。ソファーの後ろ、大きなデスクの下も、ニコはどこにもいない。
「何している!」
凱さんが駆けこんで来て、教頭先生に問い詰める。藤木、柴崎も順に到着した。
「谷村教頭、こんな夜遅くに学園で何をしているんです。しかも、校長室で。」
「し、柴崎凱斗君・・・・らっ来客中だ、失礼だぞ。君たちは一体。」
教頭先生は見回して、そこに柴崎理事長の娘がいる事に、はじめて気が付く。
「柴崎麗香さんまで!」
「特待生の真辺りのが、まだ帰宅しないと親御さんから連絡がありました。方々探し回って、鞄が生徒会室に残されているのを発見したのですが、本人は見当たらない。この学園にまだ居る事は、間違いはなさそうですが。知りませんか?」
「さ、さぁ、知らないなぁ」明らかに白々しい。
「慌てないのですね、生徒が行方不明になっているのですよ。」
「あ、いや、それは大変だ。警察には連絡したのかね。いや、待て、警察に連絡するのはまだ早いな。ちゃんと探して・・・・」
凱さんは、教頭先生から、もう一人の男に顔を向けて、突然、わからない言語で話し始めた。前に聞いたことがあるロシア語。
露「貴方の身元は、車のナンバーから調べさせてもらいました。」
「き、君も、ロシア語が・・・・」 教頭先生が目を見開いて慌てる。ニコが一年前に校長室で聞いたのは教頭先生が話すロシア語だったって事が確定した。
露「ここで何をしていたか、隠しても、私には調べられるルートがあります。ですが、あなたに対抗はできません。そんな愚かな事をするつもりはありません。私の仕事は、この学園と生徒を守る事です。レニーグランド佐竹さん、ご理解ください。」
当たり前に、全く何を言っているかわからない。ただ、慎一達は、今、口出ししてはいけない空気だけは、ヒシヒシと感じていた。知らない男は教頭先生よりも落ち着いて居て、まるで人ごとのように、この状況の中、微笑んでいる。
「何を言っている。客に対して失礼だぞ!」
「黙れ!ただの客じゃない事ぐらい、わかっているんだ。」 凱さんの怒鳴りに、慎一達はびくついた。いつものチャラい大学生とは違う、怖いぐらいに目に凄みがある。
突然、知らない男は、声を出して笑い出した。男もロシア語で話し始める。
露「それで、私を脅しているつもりか。」
露「脅しではありません。お願いです。」
露「ただの愚か者か、それとも頭が切れるのか」
露「美術倉庫に乾いていない血が落ちていた。生徒に何をした!」
ロシア語で怒鳴る凱さん。慎一達は、所在なく、ハラハラしながら待つしかない。
知らない男は、凱さんの睨みに一切の動揺もなく、ずっと変わらない笑みを崩さない。そんな男を脅しても無駄だと思ったのか、凱さんは怒りの顔を教頭先生に向けた。教頭先生は男の態度とは正反対におどおどとして、後ずさる。
「わ、私は・・・」
知らない男が、微笑みながら急に立ち上がった。
露「騒がしいのは嫌いでね。帰るとしよう。」
「待て!」
前を平然と通り過ぎようとする男を、凱さんは肩を掴んで止めた。
男が乱れたスーツを正したように見えた瞬間、凱さんは急に掴んだ手を放し、両手を上げる。
まるで手を上げろと銃で脅されているように、顔も強張っていた。
「ほぉ、心得があるとは珍しいな。その若さ、日本人で」
知らない男は微笑みをやめた。二人は顔を突き合せたまま動かない。
露「私にも調べられるルートがある。面白いものが拾えそうだな。」
器用に日本語とロシア語を切り替える二人。知らない男は、凱さんの肩をポンと置くと、また笑った。
「柴崎凱斗、覚えておこう」
男は、堂々と部屋を出て行った。
凱さんは、強張った顔のまま、何故か出て行く男を止めようとはしない。
二人の間で何が交わされて、どうなったのか、慎一達にはわからない。男の正体も。だけど男が何者かより、ニコの行方を知ることが先決、凱さんは強張ったまま動かない。
「凱さん!」慎一の叫びで、我に返ったように、凱さんは再び教頭に詰め寄る。
「谷村教頭!真辺りのは!」
「し、知らない」
「谷村!」 凱さんの凄みに、教頭先生はたじろぐ。
「・・・・屋上へ、自殺に見せかけて、落とそうと。」
「なっ!」
慎一は校長室を飛び出した。
「新田!待って!場所を聞き出してからじゃないと!」
柴崎の言う通り、だけど、慎一は待ってなんかいられなかった。校長室からそのまま近くの階段から上へ駆け上がる。校長室は北棟にある。屋上への鉄製の扉は、鍵が閉められていて開かなかった。身体を体当たりしても開かない。上を見上げたら、弓道場と書かれたプレートを見る。弓道部が使う屋上には安全対策の為に金網が高く設置されてある。教頭先生は、自殺に見せかけて落とすと言った。金網のあるここでは完全に不可能。北棟じゃない。くそっ!
階段を三段飛ばしで駆け下りて、校長室の前で、藤木と柴崎にぶつかる。
「中棟か南、どっちだ?」
「教頭もわからないって、男が連れて来た手下に任せたと。闇くもに行っても時間のロスだわ。」
「中棟と南棟の屋上は2つに仕切られているから横移動できない。」
「それでも、行かないと!くそ!」
慎一は窓ガラスに額をつけて、向う、中棟の屋上を覗く。何か黒い物が見えた気がした。
「藤木!、あれ見えるか!」
藤木も、窓ガラスに顔を張り付けてみる。
「人だ!急げ!中棟端の屋上!」
「もったいないなぁ。こんなかわいい子、捨てるの。」
もったいない?何が?
いいの、私は悪い子だから、もう何も要らない。
パパ・・・ハ シンダンダヨ・・・・・パパと、イッシヨニ・・・シノウ
わかった。パパと一緒に行く。
「もったいないなぁ。こんなかわいい子、捨てるの。」
そうかな?もう十分だよ・・・・
りのは、もう捨てて、要らないから。
パパ・・・ハ シンダンダヨ・・・・・パパと、イッシヨニ・・・シノウ
ほら、パパが呼んでる。パパの手がそこに。もう今度は逃げないから。
パパと、イッシヨニ・・・シノウ
もう、その手を振り払わないから。一緒に行くから待っていて。
『 ・・・コ。・・・ニコ。』
誰?ニコ?って誰?
『ニコ!雨あがった!行くぞ!』
違う・・・・・私は、りの・・・・・芹沢りの。
ニコ死ぬな!
慎一はそれを呪文のように繰り返し念じながら走る
俺達は双子のように育った兄妹。ニコを失ったら。俺は生きていけない。もう嫌だ、離れるのは。
慎一は、全力で走る。
もっと早く走れ!もっと早く駆けろ、俺の脚!
『虹玉あげたくて・・・・』
パパと、イッシヨニ・・・
虹玉?そうだ、願ったんだ。虹玉に。
でも、もういらない。叶ったから。ほら、パパが呼んでる。
「捨てないと怒られるんだな。だから、もったいないけど捨てる。」
そう、捨てて・・・・虹玉はもういらない。
リノ、パパト。
『ニコ・・・・俺は心配で。』
誰?心配って・・・・・私はニコじゃない、りの。
リノ・・・・
『ニコ!死ぬな!ニコ!』
さっきから、うるさい!パパの声が聞こえない
『ニコ死ぬな!ニコ、俺たちは双子だろ』
ニコって呼ぶな。私は、りの・・・・真辺りの。
「ニコ!」
屋上の扉を体当たりで開けた。坊主頭の大男が、ニコをまるで米の袋でも持つように肩に背負って、今まさに、下に落とそうとしている。慎一の声で大男は、ニコを肩にかけたまま振り返る。ニコの頭は男の背中にだらんと下がり、腕が力なく揺れている。
「おっおっおっ、おで・・・・・捨てる。もったいないけど・・・・捨てる。捨てないと怒られる。」
なんだ、この男?言っている事がおかしい。
男が、ニコの身体を肩にかけたまま、塀の向こうへと身体を向けた。
「やめろ!」
慎一の叫びにびくつく男。男の身体は大きくて、慎一たちには胸の高さまであるコンクリート製の塀は、あの大男にとっては腰までしかない。下手に男を刺激させたら、ニコの身体を軽く塀の向こう側に落としてしまう。
「やめてくれ・・・」
藤木と柴崎が駈け込んで来た。
「ニコちゃん!」
「ひっ!」柴崎が声にならない悲鳴を上げる。
男が、藤木と柴崎に驚き、後ろに下がった。ニコの体は完全に塀の向こう側。
慎一は男に向かって走り、男の肩からニコの身体をつかむ。男が、バランスを崩してニコの体を放す。二コの身体は、コンクリート塀の上に渡るように落ち、向うへずり落ちそうになるのを無理やり押さえつけた。男は壁を背に尻もちをついている。
「ニコちゃん!」
藤木と柴崎が、駆け寄り、ニコの身体を掴む。だけど人間の体は上半身の方が重い、干していた布団がベランダからずり落ちていくように、ニコの体も徐々に落ちていく。藤木と柴崎もニコの体を掴んで抑え、下に落ちていくことは止めだ。だけど上に引き上げられない。
「ニコ!起きろ! 起きて、手をつかめ!」
うるさい。ニコって呼ぶな!パパの声が聞こえないだろう!
「ニコちゃん」
パパが行ってしまう。私はイッシヨニ行くんだ。
「ニコ、起きて。」
あぁパパが行ってしまう
「ニコ!起きろ!」
冷たい風が顔に当たる。起きてる。いや寝ているのか
さっきまでのが現実だから、これは夢。私は寝ているんだ
でも何?痛い。
誰かが背中やわき腹をつかんで、痛い
「手をつかめ!」
つかむ? さっきは捨てるって。
「ニコお願い、手をつかんで」
「ニコちゃん、お願いだ。力を入れて。」
この声、誰?日本語?
私、日本人の友達、いたっけ?
凱さんが駆け付けてくれて、やっとニコを塀の内側へ引きずり込む事が出来た。
慎一達は、はぁーはぁーと息を切らし、へたり込む。
「ニコ!大丈夫か!」
慎一は倒れ込んでいるニコを覗き込む。ニコは、ゆっくりと四つん這いから身体を起こそうとするので、手を貸してやる。
ニコは立てなくて、力が抜けたようにへたり座った。
よく見ると左の頭に血がべっとりと張り付いて髪が固まってしまっている。血はこめかみあたりま流れ、きれいな顔を汚している。慎一は、その血をどうにか拭こうと、手を添えて気が付いた。
ニコの目はうつろで焦点が合っていない。明らかに不自然な、どこを見ているのかわからない表情。
「ニコ?」
柴崎と藤木も膝をついてニコの顔を覗く。ニコは、ゆっくりと首を傾げ、そして辺りを見回す。
凱さん含む俺たち4人、いや大男も、そのニコの異様な様子に、黙りこんでしまった。
今日は満月、雲が移動して白い月明かりに照らされたニコの顔は、陰影を明確にし、まるで美術彫刻のよう。ぞっとするほど美しい。藤木も柴崎も、同じ感覚を覚えたんだろう、目を見開いて息をのむ。
「行かなくちゃ・・・・」
そう呟いて、ニコは立ち上がった。男の方へ。男はひぃっと悲鳴を上げて、屋上から逃げて行った。ニコは歩みを止めず、塀に手をかけた。乗り越えようとするニコ。
「おいっ、何して、やめ!」
慎一は塀に身体を乗り出すニコを再び掴み引き戻す。その拍子にニコは足を絡ませてしまい、すとんと、尻もちをついた。
「パパ・・・ごめんなさい。もうイッショニ そう・・・もう、捨てて・・・要らない」
うつむいたまま、ぶつぶつと言うニコに、慎一は恐怖を感じる。
「ニコ!しっかりしろ!ニコ!」ニコの肩を揺さぶった。
「新田、やめろっ!頭の怪我に響く。」
藤木の指摘で、肩に置いた手を慌てて放した。ニコは力なくつぶやく。
英「誰?私、日本人の友達なんかいない」
「ニコ!」
柴崎が叫ぶ。俺にもわかった簡単な英語、それはものすごく残酷なフレーズ。
慎一は震える手を伸ばし、ニコの顔を胸に抱きしめた。
「ニコ、頼む。帰ってこい。」
空には白い月が大きく光はなっていた
暖かい・・・・
ずっと冷たくて固い感触が身体を冷やしていた。冷たい風が顔に当たって、これから行くところは、フィンランドの冬のように寒い所に行くんだと思っていた。寒いのは嫌いじゃない。冷たい空気を吸うと、身体がしゃんとする。はぁと息を吐くと白い綿飴が出来たみたいで楽しい。寒いのは嫌いじゃないのに、暖かい場所にずっと居ると寒い事が辛くなる。
今は顔と胸が暖かい。
あったかいのも、いいな。
遠くで子供の声がする。
『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』
『だって好きだもんニコちゃん。えへへ、簡単だし。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』
『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』
『?』
『りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』
『あら、可愛いあだ名ね。』
『うん、ニコニコのニコ! 慎ちゃんがつけてくれたぁ』
「慎ちゃん・・・・」
口が勝手に動いた。すると、また顔に冷たい風が当たった。
目の前に、ぼんやりと子供の顔。
そう、慎ちゃんがつけてくれた名前、みんなが気に入って、ニコと呼ぶ。
「そうだっ。慎一だ。双子のように育った。ずっと一緒だっただろう。」
「双子・・・・・慎ちゃん、ずっと・・・一緒?」
「そうだよ。ずっと一緒。」
すっと、子供の顔が消えて、目の前の靄が、冷たい風にさらわれていく。
私はニコ?
ニコニコのニコ?
ニコの目の焦点がやっとあう。
「慎一?」
「ニコ!」
凱さんが大きく息を吐き、一安心みたいだなと言うと藤木と柴崎もやっと息を吐いた。
凱さんはすぐに携帯で、救急車を呼ぶ。
「大丈夫?」
「よかった ニコちゃん」
ニコは、そこに藤木と柴崎が居るのをはじめて気が付いたように驚いて、周りを見渡す。頭を傾げたり目を細めたりして、今の状況に把握できないでいるよう。
「立てるか?」
立ち上がるのを俺と柴崎で手伝った。ゆっくり、ようやく立ち上がったと思たったら、すぐにしゃがみ込んで、
ニコは吐いた。
「ニコ!」
立ち上がると、急に頭がずきずきと痛み、ものすごい吐き気が襲ってきた。何も考えられなかった。
トイレに駆け込むとか慎一や藤木の前で恥ずかしいとか、そう言う理性が働かない。
今までに経験した事のない胸の気持ち悪さと頭痛だった。柴崎が叫ぶ。
凱さんが、りのちゃんと叫び駆け寄る。
なぜ?凱さんがここに?
それに、ここは一体どこ?
暗いし、冷たい。
「りのちゃん、我慢せず、全部、吐いた方がいいよ。」
りの?その名前を聞いたら、またあの声が聞こえてきた。
リノ パパと イッシヨニ シノウ
今、私は起きている。
寝てるのか
「どっち?」
また、どうしようもない吐き気が襲う。吐き気があるという事は、私は起きている。
なのに夢の声が追いかけてくる。逃げられない。
誰かが背中をさすってくれるけど、それも気持ち悪い。
リノ イッシヨニ シノウ
『ニコ、死ぬな。』
二つの言葉が頭の中で繰り返しこだまする。
寝ているのか?起きているのか?
夢か?現実か?
りのか?ニコか?
死か?生か?
私はどっち?
ニコが肩で息をしながら吐く姿を、慎一は呆然と見つめた。頭に怪我して吐くって、これって良くない事なのでは、
自分がニコを揺さぶったから、そう思うともうニコに手が出せない。
ニコが、大きく頭を振る。
「ニコちゃん頭、振ったら駄目だ。じっとして。」
と言う藤木の声も届いていないみたいに、また込み上げてきた胸を抑えながら口をふさいだ。
「ニコ・・・」
「慎一・・・」
声も、手も震える。ニコがすがるように俺の腕をつかんできた。でもその手の力は、ほとんどなくて、ずり落ちていく。
「私は、どっち?」
今までに見たこともない不安げな表情のニコに、
慎一は、どうすることも出来ないで、佇んだ。
凱さんを学園に残し、慎一はニコの付き添いで救急車に乗り込む。柴崎と藤木はタクシーで追ってくる。ニコは屋上から下の階へ降りる時、何度もふらつき、途中でうずくまる事を繰り返した。凱さんがおんぶをしてあげようと言うのを、頑なに拒んだ。慎一が自分がと言ったけれど、藤木に階段が危ないからやめとけと言われて断念する。そうするうちに、救急車が到着して隊員が、ストレッチゃーを階段踊り場まで持ってきてくれたけれど、これもニコは物凄く嫌がった。何かにおびえて、うずくまって嫌だと首を振る。仕方なく、ふらつくニコを支えながら、一階まで自力で降ろして、救急車に乗り込んだ。
さつきおばさんの勤務先の大学付属病院の救命救急センターに着き、ニコはすぐに処置室へと運ばれた。
柴崎と藤木もすぐに到着し。そのすぐ後に、学園を出る前に携帯から知らせていた、さつきおばさんと母さんが到着。
「慎一!怪我してるってどういう事?」
「それが・・・・殴られて。」
「なっ殴られたって!何!何があったの!」
おばさんが悲鳴に近い息をのむ。
「えっと・・・・」
慎一は、柴崎の顔を見る。すべてをどう話していいかわからない。柴崎はうなづいて、私がと慎一の前に出る。
「私、常翔学園理事の柴崎信夫の娘、柴崎麗香と申します。」
「貴方が、柴崎さん。」と母さん。何度か家で柴崎の話はしている。
「はい。真辺りのさんの怪我は、学園の不祥事に巻き込まれて負った傷です。本当に、申し訳ございません。」柴崎が深々と頭を下げる。
「不祥事?って何?」
「りのさんのお母様、詳細を話しますと、すごく長くなります。私、りのさんとは一学期の研修旅行で同じ部屋になり、それからずっと仲良くさせてもらっています。詳細を隠したり、逃げたりは絶対に致しません。」
柴崎が、泣きそうになるのをぐっとこらえ、しっかりした丁寧な言葉で話す。
「りのさんを、親友だと宣言する私が誓って保証します。だから今はどうか、りのさんの為に時間を使ってください。詳細は後日、ちゃんと話せる者から致しますので。」
「・・・・わかりました。柴崎さん、りのと、友達になってくれてありがとう。」
「いえ、私の方が、ニコに感謝しなくちゃいけないんです。本当にすみません。怪我をさせてしまって。」
しっかりしていた柴崎が崩れてポロポロと泣き始めた。藤木が肩を寄せて慰める。
ニコの処置は、長くかかった。頭を強打し、おまけに吐いたとなれば、脳の精密検査に時間がかかっているのだろう。
途中で一人の医師が処置室から出て来て、さつきおばさんと話をしだした。医師の名札を見ると、精神科医と書いてある。
おばさんが俺たちに、もう少し時間がかかるみたいと振り返った時、俺たちは、よっぽど辛辣な顔をしていたのだろう。おばさんは、その理由をポツポツと話し始めた。
「どうも、気を失っている間、東京に居た頃の辛い時期の経験を、もう一度体験したみたいなの、夢の中で。さっきの先生は、りのの主治医でね。今、一つ一つ聞きだしている状態で、それをしないと。酷くなるからって・・・・だから時間がかかるの。もう遅いから、柴崎さん達は帰った方が良いわ。」
「お気遣いありがとうございます。ですが、私達、帰れません。ニコの顔を見るまでは。」
「柴崎さん。」
そうつぶやいて、さつきおばさんは泣き崩れた。母さんがおばさんをベンチに座らせる。俺も、もらい泣きしてしまいそうで目頭が熱い。
「ねぇ、さつき、この子たち、ニコちゃんを本当に心から心配している。ニコちゃんは、これからも助けがいる。話してみない?ニコちゃんのためにも、そして、さつき、あなたのためにも。」
さつきおばさんは顔を上げて、母さんの顔を見てから俺たちの顔を見わたす。
「慎一は大きくなった。もう子供じゃない。一人の男として、頼ってあげてもらえないかしら。」
「慎ちゃん・・・・。」
「おばさん、俺、ニコに何もしてあげられないといつも思ってた、頭も悪いし、ニコが英語しか話せなくて苦労しているのに、俺は英語が、からっきし駄目で・・・・ニコのストレスを取り除いてやることが出来ない。でも藤木と柴崎は違う。英語も話せるし俺よりもいつも助けてあげて・・・」
何が言いたいのか自分でも良くわからなくなった。俺よりも藤木や柴崎を信頼して頼って欲しいと言いたいのに。
「何言ってんだよ。ニコちゃんの、具合の悪さに気が付くのは、いつもお前だろう。」
「そうよ。ニコが本当にそばに居てほしいと思ってるのは、新田あんたよ。」
「俺は・・・・。それだけだ。ニコの具合が悪い事だけに気が付くだけで、取り除いてやる事は出来ない。」
俺は、グッと手に力入れた。
「ありがとう、慎ちゃん、藤木君も柴崎さんも、本当にありがとう。そうね。大きくなったのね・・・・・重い話になるけど聞いてもらえるかしら?」
「もちろんです。」
帰国後の話は、ある程度、母さんから聞いて知っていたけど、さつきおばさんから聞くのとはあまりにも重みが違って聞こえた。慎一の知らない帰国後の東京での生活、おじさんが死んだ日の事。藤木は目を見開いたまま一点を見つめて動かない。柴崎は、途中から嗚咽を漏らして泣いている。
「私は、母親失格、あの子を追い込んでしまった。」
「りのは、私に怒っている、恨んでいる。あれから、ママと呼ばないし。目を合わそうとしない。私はもう一生、りのの笑顔を見る事はないのかもしれない。」
そう言っておばさんは、涙で泣きはらした目をまたタオルで覆う。
栄治おじさんが死ぬ前に、最後に言葉を交わしたのがニコだった。
さつきおばさんは、二人がどんな会話をしていたのか、栄治おじさんの最後の様子がどうであったか、単純に知りたかっただけだった。そんなさつきおばさんの言葉にニコは責められていると感じ取り、声を失った。
「おばさん。ニコは、俺たちが大好きだった絵本の虹玉の奇跡を信じていた。ニコが海外に行く前に俺があげた虹色のビー玉をニコはずっと持っていて、彩都市に帰って来た時に捨てようとしていた。ニコはきっと願いが叶わなくて、絶望したんだ。おばさんを恨んでいたら、虹玉に願ったりはしない。」
虹の駆け行く先に虹玉が生まれて、虹玉の持つ奇跡の力は願い事をかなえてくれる。ニコと頭をくっつけて眺めた、とてもきれいな絵本が大好きだった事を、二人の母さん達は、もちろん知っている。
さつきおばさんは、あぁーと大きな声で泣き始めた。母さんも、横で鼻をすすり、もらい泣く。
ほどなくして、救命救急外科の先生が、処置室から出て来る 。
「真辺さん、脳波もMRIも見ましたが脳に異常はありませんでした 。頭の傷は、縫いましたよ。」
「ありがとうございます。」
さつきおばさんは看護師、どういう処置が一番いいのか心得ている。
「嘔吐は、精神的なものからだと。今、村西医師が、りのちゃんのケアをやっているんで、もう少し。待ってください。」
「は、はい。」
「じゃ、私はこれで、」
「すみません、お世話をおかけしました。」
さつきおばさんが深々と頭をさげて、医師を見送る。
「おばさん、頭、縫ったって、傷が残るんじゃ」
「仕方ないわね。でも塗った方が治りが早いし、髪の毛で隠れるから大丈夫よ。」
そう言って慎一に説明するさつきおばさんは、看護師の顔になっていた。もう涙を流していない。
一人の看護師さんが、さつきおばさんを呼ぶ。
この看護師さんも同僚なのだろう。患者の家族に話す感じではなくて、慣れ親しんだ感じで声をかけて、さつきおばさんも、うんうん、とうなづいている。振り返り慎一達に声をかける。
「裏から、病室に移動されているから、そちらに行きましょう。」
病室は2階、上半身を起こしたベッドの上でニコは、うつろな目をしている。そばには、さっき処置室で見た精神科医の先生が立っていた。
「りの!」
さつきおばさんが、ニコの傍に駆け寄り、頭から顔をなでるように触って、身体の状態を確認した後、ニコの身体を抱きしめる。
「よかった。無事で、りのがいなくなったらママは。」
ニコはいつも以上に無表情で
「りの。ママの顔を見て。」
「ママ?」
「そうよ。ママよ。」
うつろな目のニコが、少し驚いて一筋の涙をこぼした。
「ママ。」
それをきっかけに、ニコの目から次々と涙がこぼれていく。
「ママ!・・・・ごめん、なさい。」
「どうして謝るの?りのは何も悪い事してないのよ。ママこそあなたに、ごめんね。抱きしめてあげられなくて。」
さつきおばさんは、ニコを抱きしめたまま放さなかった。
「やっと、親子で泣くことが出来たのね。二人は、栄治さんの葬式でも泣かずに今まで来てしまった。すれ違いの気持ちのまま。」
母さんが鼻をぐすっと鳴らしながら言う。
ニコは、顔をくしゃくしゃにして泣いている。その顔は幼き頃の顔と同じだった。
ニコに今、必要なのは、母親の手が包む暖かい安心。
慎一は藤木らと柴崎を伴って、そっと病室から外に出た。
11月4日(木曜日)
「ニコはおそらく、パネルの収納場所を間違ったんだわ。で、美術倉庫で地図パネルを探しているうちに教頭の私物を見つけてしまった。ニコとあんたは、去年、学園では盗品売買が行われているんじゃないかと気になり、学園に侵入した。でも何も得る物は無くて、疑問だけが残った。ニコ、あの後、自分で調べていたんじゃないかしら。ニコが図書館で新しく入った美術史や美術図鑑を見ているのを、私、美術に興味あるの?って聞いたことがあるもの。」
「あぁ、ニコならやりかねない。気になることは解決するまで止めないから。」
慎一と柴崎は、朝の通勤ラッシュよりも早い時間にタクシーに乗って、ニコがいる病院へと向かっていた。朝、柴崎がタクシーで慎一の家まで迎えに来てくれていた。柴崎は、昨日、教頭を取り調べて、わかった事実を、運転手に聞こえないように声を落として話す。
昨日、病院を出た後、柴崎は学園に戻り、凱さんと一緒に後処理に追われて寝ていないらしい。柴崎理事長が海外出張で居ないため、凱さんが率先して後始末をしている。
「そうして調べているうちに、美術の事も詳しくなって、美術倉庫にあったものが、学生の作品ではなく、行方不明になっている物である事に気が付いた。教頭は、美術倉庫にニコが居ることに気が付いて、様子を見ていたらしいの。そのまま何事もなく出ていくようなら、殴らなかったって。だけど、ニコは、教頭の私物に手をかけて、(これは、行方不明の「ベンミストへ続く道」、やっぱり。盗品売買)とロシア語でつぶやいた事に驚いて、倉庫に入り、部屋にあった額縁でニコを殴ってしまったと。気を失って倒れたニコを、そのまま放置して美術倉庫の鍵をかけた、夜まで。」
「あのやろう!」
俺は、膝横の後部座席のシートを殴る。運転手がバックミラー越しに眉をひそめるのを、すみませんと謝って、柴崎との話を聞く。
「校長室に居たロシア語の男に相談した教頭は、ニコを自殺に見せかけて、屋上から落せと命令されたと。ニコを運んでいた大男は、そのロシア語の男が連れて来た人で、教頭は名前も知らないと。」
「あいつ何者なんだ?」
「凱兄さんが、好奇心で知る事ではないと、教えてくれないの。ごめん、隠し事はしないと言ったのに。」
「まぁ、あの凱さんが、そう言うなら仕方ないよ。」
子供にはわからない裏の事情ってもんがあるんだろう。と慎一は納得する。ニコは偶然にも裏の世界に少し足を踏み込んでしまった。だから命の危険にさらされた。凱さんが、好奇心で知ることじゃないと言うなら、それはヤバイ事なんだろう。
「ニコが推測した通り、うちの学園で盗品売買が行われていた。教頭が言うには、6年前と去年の二回、視聴覚教室で行ったそうよ。学園祭で大きな荷物が搬入されたりするのに、不審がられないからちょうどいいと言う理由でね。」
「じゃ、去年、俺達が見たのは。」
「まさしく、そのオークション会場になっていた現場だったって事。」
「教頭は社会科教師から教頭になった人で、美術史を研究していた人なの。その趣味が高じて、盗品売買のオークションに出入りするようになって、主催者の裏の事にまで関わるようになった。今年は、ロシア語の男の所有物を、オークション開催日まで預かる予定だったらしい。今日、教頭自身がオークション会場に移送するつもりで、その打ち合わせに二人は夜遅くに密会をしていた。凱兄さんが教えてくれたのは、ここまで。あなた達は既に首を突っ込んだ形だから話すけど、他には絶対に口外するなって。」
「うん、分かっている。」
「ニコのお母様には、凱兄さんと母が、今日にでも伺って説明すると言っている。」
「柴崎のお母さん?」
「ええ、母は翔柴会の会長だから。」柴崎のお母さんは学園の事には関わっていない、専業主婦だと、慎一は思っていた
「翔柴会?」
「常翔学園幼稚舎から大学まですべてを称して翔柴会っていうの。学園のパンフレットにも載っているでしょう。学校法人翔柴会って。」
「え~知らん。」
「はぁ~。自分の通っている学校の正式名称ぐらい知っておきなさいよね。まぁいいけど。」
「という事は、柴崎のお母さんって、常翔学園全部を取り仕切っているって事?」
「んー取り仕切るって言うほど、何もかもやっているわけじゃなくて、基本は学部ごと独立しているから、各学部に母が口出す事はあまりないんだけどね、常翔学園の代表となれば、すべて翔柴会を通す事になるから。まぁ、母がすべての代表って事になるわね。今、父が出張中で居ないから母が頭を下げに行くって。」
「ふーん。」
教頭は昨日づけで解雇されて、凱さんの知り合いの刑事に取り調べを受けたが、立件するのは難しいという。
「なぜ?あいつはニコを酷い目にあわせたのだから」
「立件するには、ニコの被害届がいる。あの状態のニコに昨日の事を話させること、出来る?」
「あぁ、無理だな。」
「学園を擁護するわけじゃないのだけど・・・ここで、事を公にしたら、学園は混乱に陥る。マスコミも騒ぐわ。そうすると私達は、あそこで普通の生活が出来なくなる。ニコもきっと、ただじゃすまなくなる。藤木の時が、そうであったように。」
藤木が退学届を出したのは、マスコミが良く調べもしない、いい加減な記事を掲載した三流雑誌が追い込んだせいだ。藤木は、すぐに何事もなく学園に戻ってこられた。だがニコの今の状態は普通以下だ。そんな状態で マスコミの軽易な攻撃にあったら、壊れてしまう。
「悔しい気持ちはわかる、だけど、ニコの事を一番に考えたら、このまま何事も無かったように、また4人で笑って、馬鹿言って、普通の生活をしていく方がいいと。母も、真辺親子には、柴崎家が責任もってサポートするからって。」
「そうだよな。ニコもそれを望んでいる。この学園に入って良かったって、言っていたんだ。」
タクシーを降りた慎一は、さつきおばさんが病院の外に出て来るのを待った。病院の診察時間開始までは2時間あまりある。
本来なら面会なんて許されない時間だけど、ニコを学校に連れ行くのに、手伝って欲しいとおばさんから頼まれていた。それと、ニコの主治医の精神科医の先生が慎一に話があると、学校に行く前に来てほしいと呼ばれてもいた。
「慎ちゃん、柴崎さん、ごめんなさいね、朝早くに。」
「おはようございます。おば様。」
「おはよう。昨日は遅くまでごめんなさいね。」
「いえ、こちらこそ、申し訳ありませんでした。」柴崎が丁寧にまた頭を深々と下げる。
「おばさん、ニコは?」
「大丈夫、昨日はぐっすり眠れたみたい。今は起きて朝食を食べているわ。」
慎一は心からほっとした。やっと、さつきおばさんをママと呼べるようになったとは言え、栄治おじさんの命日まで、まだ2日ある。
おばさんは、正面玄関ではなくて、従業員通用口へと慎一たちを案内する。おばさんは昨日の服のままだったけど、胸には看護師のidカードをぶら下げていて、それをカードリーダーに通し、扉を開けて俺たちを中へ入れてくれた。そばにあったバインダーに現在の時刻と俺たちの名前を記入しサインをして、行きましょうかと声をかけた。
「おばさん、ニコを学校に連れて行ってもいいの?」
「ええ、先生が、頭の傷は全く問題ないから、逆に行った方がいいって。休むと行きにくくなるからって、」
「わかります。」
柴崎は、自分がハワイで命の危険にさらされた時、何もする気が起きなくて、1週間休んだ。休めば休むほど、行きづらくなった経験をしている。
「今、文化際でしょう。楽しんだ方が良いって。」
昨日、柴崎と藤木が言ったのと同じ事を、精神科医の先生が言っている。
おばさんは、ニコがいる個室の部屋の扉を開ける前に、俺たちにささやく。
「りの、昨日の事、何も覚えていないみたいなの。何故、頭に傷を負って病院にいるのかがわからないらしくて、薬のせいもあると先生が。どの記憶がなくなっているのか、私には、わからなくて。」としかめた。慎一は何も覚えていない方がいいと思った。辛い記憶なんてなくていい。
扉を開けると、ベッドに身体起こしたニコが無表情に小鉢のヨーグルトを食べていた。と言うより、ただ手に持っているだけで幾分も減ってない。慎一達の訪問に不思議そうな表情をする。柴崎がつとめて明るくふるまう。
「ニコっおはよっ」
「おは、よう。?」
「迎えに来たのよ。一緒に学校に行こうと思って」
「学校?」
「そう、今日は文化祭の最終日、ダンスパーティがあるでしょう。ニコが教えてくれたのだから、楽しまなくちゃ。」
「ダンス、パーティ・・・・・あぁ。」
また無表情に感情の動きが薄くなっている。柴崎と友達になってから、随分と笑顔も見せるようになってきていたのに、慎一は心で残念に思いながら、見つめていたら、ニコは、やっぱり無表情のまま「なんだ」と聞いてくる。
「ほら、ちゃんと食べないと、ご飯とおかずに手を付けてないよ。」
ニコは、病院食のトレーを見つめ、溜息をついてから、すっと慎一の方へトレーを動かす
「あげる。」
「はぁ?」
「お腹は空いてない。慎一が食べろ。」
「俺が食べて、どうすんだ。これはニコの朝ごはんだろう。」
「点滴したから、大丈夫。」
「ばか!そういう問題じゃない」
「新田、やめなさい。」と柴崎
さつきおばさんが、フフフと笑って、慎ちゃんの言う通りよ、ちゃんと食べないと、点滴は栄養なんて無いのよ、という。
「ほらーさつきおばさんが言うだから、ちゃんと食べろ。」
ぷいと顔を背けるニコの頭には包帯が巻かれていて、痛々しそうだった。
「ニコ、ヨーグルトは食べるんでしょう。ほら、これだけは全部食べよう。教室にホットケーキもあるし、他のお店も行くって言っていたじゃない。高等部のクレープがおいしいって評判だから、食べに行こう!ね。」
「まったく・・・・全部おやつじゃないか。」慎一はため息を吐く。
ニコが着替えて学校に行く準備をしている間、慎一は精神科の診察室を伺う。
「君が、慎ちゃん、だね。悪いね。朝早く。」
「あっいえ。」
「りのちゃんの精神科担当医、村西だ、よろしく。」と握手を求められた
「新田慎一です。」
精神科医のイメージは、色が白くてひょろっとした感じで、銀色縁のめがねをかけていて、髪の毛がぽさっと寝癖なんかついていて・・・ってな、ものすごく勝手なイメージ作りをしていた慎一だったけど、慎一の手を取り笑顔で椅子を勧められた医師は、色が黒くて、健康的で、白衣じゃなかったらサーファーかと言うような雰囲気で、本当に、この人が精神科医?と疑ってしまう雰囲気だった。進められるがまま、椅子に座るとデスクの上の壁に掛けられた経歴書が目につく。帝都医科大学、精神科博士課程卒業プラス海外での経歴や勤務地の経歴が並んでいた。慎一は、人は見かけによらない、を実感する。
「あの~ニコ、じゃなくてりのは?」
「あぁ、君とりのちゃんの関係は、真辺さんから、すべてを聞いている。ニコニコのニコちゃんの事もね。いつも通りの呼び名で構わないよ。さて、りのちゃんの様態を説明するその前に、昨日の状況を教えて欲しいんだ。いいかな。」
「えーと。殴られた原因は、俺からは言えなくて」
「違う、違う、事件の事を聞きたいんじゃなくて、りのちゃんが、どんな様子だったかを知りたいんだ。事件の詳細を知ったところで、警察に言うとか、どうこうしようなんて全く思ってないから安心して。」
「あぁ、それなら・・・」
俺は、屋上で見たニコの様子を詳しく説明した。
「・・・・・って、やっと救急車に乗って。」
「なるほど・・・・。」
そう言って、慎一の言ったことを、ノートに書き記していた手を止めて、村西先生はしばらく黙ってしまう。ノートは、英語?ドイツ語?で書かれてあって慎一には何を書いてあるのか、わからない。そのノートの前のページをめくり、村西先生は一つ溜息をつく。ニコの状態は、ため息が出るほど悪いんだろうかと慎一は不安になる。
そんな慎一の顔を見てから、ノートを閉じた先生は、体を慎一の方に向き直り話し始めた。
「りのちゃんは、東京の病院の紹介状を持って、この病院にやってきた。日本語を話せるようにしてくださいと。中学受験をしたいから、面接で受け答え出来るようにしてくださいとね。紹介状と、取り寄せた診察カルテと訓練内容を見た時は、驚いたね。その内容に。」
「驚く内容って・・」
「うん、かなりの無茶な、言ってみれば荒療治的で、向うの担当医にも会って聞いたのだけど、どうしてもって聞かないと、もしここで断れば、逆に生きる希望を奪ってしまうからと。その医師に、転院してもらって正直ほっとしている、とまで言われたねぇ。」
「ニコ・・・。」
「頑固だからね、りのちゃん。その頑固さが精神的に追い詰めてしまう原因でもあるのだけど、そういう性格みたいなのは、はい、そうですかって変われるもんじゃないからねぇ。まっ、そんなに簡単に変われるなら僕たち精神科医なんて必要ない職業だけどねぇ。」と、はははと軽く笑う先生に、同調して笑うべきなのかどうか、迷う。
「僕も説得したんだよ。やっぱり聞かなくてね。頑張るから、何とか面接に受かるようにしてください。ってね。こういうのは、頑張ってどうにかなるもんじゃない、しかも、1か月後に面接をするって言うのだから、無理はダメだよって反対したんだけど、りのちゃんは、合格さえすれば、後はどうなってもいいってね。どうして、そこまで合格にこだわるのかって聞いたら、慎ちゃんともう一度一緒に居たいからってボソッと答えた。彼女から慎ちゃんという名前が出たのは、その時一度だけだった。彼女は英語でも自分の事を話そうとはしないからね。僕たち精神科医は言いたくない事を無理やり聞き出すことはしない。患者が言いたいことを言いやすく誘導し、言えるまで待つ、ぐらいでね、精神科医ができる事っていうのは少ない。だけど、昨日の彼女は危険な状態だった。そのセオリーを破って、彼女から半ば無理やり吐き出させた。」
「危険って・・・」
「うん、彼女がこの時期、眠れない事は知っているかな。」
「あっはい。薬を飲んでいる事も、知っています。」
「じゃ、りのちゃんのお父さんの事は?」
「知っています。ニコの誕生日の翌日に自殺して、昨日さつきおばさんから詳しくを聞きました。」
「うん。眠ると父親の夢を見て起きてしまう。彼女の言う父親の夢は、りのちゃんにとって思い出したくない記憶。だけど、夢っていうのは、見ないといけない物でね。まだ医学的に解明されていないけど、夢というのは、起きていた時に得た、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、すべての器官の情報を、脳が一旦保管して、その情報整理を眠っている間にしている、それが夢だと考えられている。りのちゃんは、お父さんの命日が近づくと、どうしても過去を思い出してしまう。彼女に取って辛い情報である過去の記憶は夢で処理しなければ、通常の生活に支障が出る。そうやって、脳が人の精神を守るために脳の中で整理整頓を行うわけだ。見たくない過去を何度も見るのは脳と心が、起きている時の自分を守るため。夢を見させて、情報整理をして、同時に見せないように拒否もする。それを繰り返していたのが、少し前のりのちゃんだった。」
慎一は黙ってうなずく。
「父親の命日が来るたびに見る夢は、悪い事じゃないんだよ。夢で見ることによって嫌な過去を掃き出し、少しづづ薄れさせていく。現に、去年は良くなってきていた。常翔に合格した直後から、夢がなくなりつつあって、去年の命日はそれほど辛くはないと言っていたからね。だけど最近、薬を取りに来る回数が急に多くなった。」
「もしかして・・・・スピーチ大会?」
「そう、本当なら、ドクターストップなのだけど。彼女は逃げられないと。逃げようとしたら、起きているのに、夢の幻聴が聞こえると。それに絶対に学園には、ここに通っている事は言わないでくれってね。知られたら特待を外されて転校しなくちゃいけなくなるからって。」
「ニコ・・・・」
「僕はね、一度、会いたかったんだよ、そうまでして、りのちゃんが一緒に居たいと言った慎ちゃんって、どんな子なのかと思ってね。」
そう言って、にっこりとほほ笑む村西先生、誰かに似ていると慎一は思ったけれど、誰に似ているかは思い出せなかった。
村西先生が言うには、昨日殴られて長い眠りに強制的に入ってしまったニコは、帰国後のイジメられた時から、栄治おじさんが死んで声が出なくなった辛い時までの過去をもう一度、夢の中で体験してしまったという。それは、せっかく雪解け間近だった野原に雪崩が押し寄せてきたようなもの。「君は、雪崩に埋まっている彼女を見つけ、引きあげたんだよ。」
「俺が?」
「そう、危なかったんだ、そのまま雪崩に埋まったままだったら、彼女の心は氷ついたままだったかもしれない。そういう患者さんは沢山いるからね。奇跡だったよ。」
慎一は、昨日の、ぞっとするニコの姿を思い出した。あの焦点の合わない目をしたニコのまま治らないって思うと、慎一の胸はぎゅっと掴まれたように苦るしくなった。
「ただ、まだ予断は許さない。りのちゃんに覆いかぶさっていた雪崩の雪を、無理やり除けただけ。あまり、こういう事もしないのだけどね。本当なら、雪解けをじっくり待つのが、処置的にはいいのだけど。りのちゃんが頭に怪我をして運ばれたと聞いてね。仕方なく、応急処置的に、催眠術でりのちゃんに夢を語らせた。正直、十代の子に昨日のような強制的排除をするのは初めてでね。それが良かったのかどうか、わからない。一応、今は落ち着いているが、今後どんな症状が出るか予想がつかないんだ。まだお父さんの命日まで2日あるしね。」
「俺は、これからどうしたらいいんですか。」
「何も。特別な事は何もしなくていい。今まで通り、君と同じ学校に通い、同じ空間に居ると言う安心が、りのちゃんには必要。」
何もしなくていいけど、昨日ストレッチャーに乗る事におびえたように、どこで何にニコが反応して、発作を起こすかわからないという。その時に、誰もニコの事を知らないよりは、理解している人間が傍にいる方がいいと。
「本当なら、患者さんの病状を家族以外の人に話すことは厳禁だ。だか、君たちは生まれた頃から双子のように育った特別な関係。それまで一度しか聞かなかった慎ちゃんの名前を、昨日、りのちゃんから何度も聞いたよ。彼女に今必要なのは、君の存在そのものかなと僕は思う。」
『慎ちゃん、ずっと一緒。』
そう呟いたニコの声が慎一の頭に呼び起きた。
「じゃ、よろしくお願いね、柴崎さん、慎ちゃん、りの、行ってらっしゃい。」
「はい。」
「行って、きます。」
慎一たちは、タクシーに乗り込み学園へ。普段と違う登校スタイルに金持ちになったみたいだと、変な優越感に浸る。
今日は、さつきおばさんが夜勤の日なので、ニコは家に泊まる事になっている。精神科の先生も母子二人でいるよりは、昔の双子のように育った楽しい生活をするも良い事だと、了解を得ていた。
学園の正門前にタクシーを乗り付ける。学園ではもう文化祭が始まっていて、一般のお客さんも入っていく。柴崎は、タクシーの運転手に、病院に着いた時と同じく柴崎でつけといてくださいと言い、書類にサインした。
「慣れてんなぁー。」こういう時に、格の違いに慎一は驚く。
「まぁね。お嬢様ですから」
慎一たちが学校に遅れて行く事は、すでに連絡済みで、ニコは昨日の夜、マンションの階段から落ちたという事になっていて、記憶のないニコ自身にもそう言って誤魔化しているけれど、どこまで信じているのかわからない。どの部分の記憶が抜け落ちているか、わからないから。
校舎の下駄箱前で藤木が待っていた。今日は昨日のメイドさんの恰好ではなく、黒いベストに蝶ネクタイと執事のような格好。
「ニコお嬢様、おはようございます。」
言葉使いも、振る舞いも、すっかり執事になりきっている。
「どこから探してきたんだ、その衣装」
「おっ、は、・・・・よう。」
「お嬢様、お体の調子はいかがですか?」ニコは、引き気味で言葉が出ない様子。
「わたくしが上靴の準備を、」
そう言って、藤木はニコの下駄箱を開けて上靴を取り出し、足元に揃えた。
慎一は、なるほど、うまい事を考える。と感心した。執事の格好してたら、周りの目を気にすることなく、ニコの世話ができる。
ニコにあまり頭を下げさせない為に、上靴をそろえてあげることも。
「藤木・・・・気持ち悪い。」そんな気配りも、ニコの毒舌で台無しにされる藤木に同情する。
「お嬢様、鞄をお持ちしましょう。」負けずに執事を続ける藤木。
「お嬢様は、柴崎だ。」
「あははは、そうよ。私よ藤木。」
「はい?」
さっきのタクシーでの会話から、うまいオチがついた。慎一は、ほっとする。そうだ、普通に、いつも通りの生活を楽しめばいい。
だけど、頭に包帯を巻いたニコの姿を、通りがかりに生徒達がひそひそと話し始める。ニコは相変わらずの無表情で、一見何事もない素振りだが、やっぱり心では傷ついているはず。感情ない無表情はニコの防護服だ。
藤木が柴崎に、「クラスは大丈夫だから。」と耳打ちする。慎一は何のことかわからなかったけれど、ニコを教室に届けた時に、それが何を意味するのか分かった。
「真辺さん!大丈夫?」
「階段から落ちたって?」
二年五組のクラスメイトが、口々にニコを心配して寄ってくる。
なるほど、藤木は事前に、ニコが階段から落ちたことを振れまわっていた。もし誰も知らないまま、ニコがクラスに入って行ってたら、さっきの様にヒソヒソ話と奇異の目がニコを襲うだろう。こいつらは、そういう根回しを自然とやってのける。慎一は溜息をついて感服した。
「ほらほら、りのお嬢様は、お怪我されてお疲れです。座らせておあげ下さい。それに、お客さまが、もうすぐおいでですから、メイドの皆さま、配置におつきください。」
慎一は二人に頼んだぞと言い安心して、自分のクラスに行く。今日は11時からの当番になっている。
体育館には、喫茶の衣装のままの者や、劇で使った衣装のままの者、客寄せの為に着た着ぐるみのままの者など、ちょっとした仮装大会になっていた。表彰式の後のダンスパーティをその恰好で参加しようと考えた生徒が大半。わざわざ、ダンスパーティの為にコスプレまでしている奴までいる。
体育祭の表彰式は、絶対参加ではなく、例年、入賞したクラスしか集まらない寂しい感じだったのが、今年は、多数の生徒が体育祭の表彰式に揃っていて、全生徒が、この後のダンスパーティを楽しみにしている雰囲気が会場を包んでいた。クラスごとに並ばないといけない事もなく、各々自由な場所で体育館に居るので、慎一は藤木とニコのそばに居た。
柴崎は、ダンスパーティの司会として、生徒会長と舞台にいる。
「レディ&ジェントルマン。ウエルカム・・・・」
柴崎のノリのいい司会と同時に照明が薄暗く落とされ、ポップな音楽が流れる。劇で使う三色照明がくるくると回る。
ニコは、今日はフリフリのメイド服は着ていない。にわか真辺りのファンが、今日も見たさに喫茶に来ていたが、事情を知り。残念がって帰っていった。ニコのメイド姿は、一日限りの伝説と化し、喫茶の売り上げが、中等部の中で一位だったと柴崎が喜んでいた。
ニコは、慎一が当番の間に、藤木と柴崎とで学園内の店を回り、高等部のクレープも食べたと聞く。朝は、表情も硬く口数の少なかったニコだけど、少しずつ戻って来ていた。体育館の端、周囲に並べられている椅子に慎一たち三人は座り、皆が踊るのを眺めていた。ダンスを踊らないやつらは椅子に座るか、真ん中を避けて周りに立ち雑談しているかだ。
「藤木、踊らないのか?誰かと踊るって言ってなかった?」と慎一はニコの向こうに座る藤木に言う
「あぁ。断った。俺は今日一日、ニコちゃんの執事だから。」
「頼んでない。」
「お嬢様、そんな冷たい事おっしゃらないで、私を執事とお認め、何でもご命令ください。」
懲りずに、まだ執事の服を着たままの藤木は、さっとニコの座っている前で片膝つく。どっちかと言うと、それは執事ではなく、女王様に仕える家臣のような・・・
「何でもいいの?」
「はい。喜んでお受けいたします。」目じりの皺を作って満面の笑み。
「慎一と二人で踊れ。」
「はい?」
「へ!」
「何でもと言った。」と言ったニコは、無表情のまま顔を向ける。本気か嘘か、わからないから怖い。
「なんでお前と踊らなくちゃいけないんだ!」
「仕方ないだろう、お嬢様の命令は絶対だ。」
「おれは、執事やってねー。」
「お前は、生まれた時からニコちゃんの執事だろうが。」
「そんな運命あるか!」
「命令だ、行って来い」と、背中を押され、椅子から立ち上がらされた。曲が更に、乗りの良いディスコ調の曲に代わる。
渋々前に出た慎一は、ファンクラブの女子とサッカー部につかまって、藤木も、クラスメートに捕まり、もみくちゃに踊らされる。慎一は踊りながらニコの様子を見やる。一人になったニコに英会話クラブの人と、弓道部の人たちがニコの側に寄って何かを話している。ニコは、表情を緩ませて笑った。慎一は気づく。自分が、がっちりそばについていたら、ニコに声を掛けたい奴が近寄りにくいのだと。ニコにはニコの友達付き合いがある。
そう、ニコには河村先輩との付き合いも・・・ってそれは近寄らなくていい!
川村先輩がニコの隣に座って話しかけている。多分あれは英会話、ニコの口が沢山動いている。慎一は、悔しい気持ちを踊りに込めた。
「嫉妬?」いつの間にか舞台から降りて来た柴崎が、慎一の耳元でささやいた
「わっ!突然、現れんな。」
「ふふふ。」
「なんだよ~。」
「昨日の夜、河村先輩に電話したでしょう。河村先輩に聞かれてね、昨日の夜の電話と頭の怪我、何か関係があるんじゃないのかって。ニコの怪我は、家のマンションの階段から落ちたとクラスメートには言ってあるけど、河村先輩には、パネル取りに行った時に貧血起こして、パネルの角にぶつけて気を失って、そのまま学校に閉じ込められてたって事にしといたの。だけど、それじゃ、学園の管理が問われるから、マンションでこけたって事にして貰っているって。」
慎一の隣で踊りながら話す柴崎。音がうるさいので、周りの生徒には内容は聞こえない。
「大丈夫なのかよ。そんなんで。」
「苦しいけどね。仕方ないじゃない。」
「今、ニコにそのこと聞いてるんじゃないのか?」
慎一は、慌ててニコのそばに行こうとした。のを腕をつかまれ止められる。
「大丈夫、ニコは記憶がないから。」そうだった。
「だけど、思い出すようなきっかけを与えるんじゃぁ」
「思い出したところでしゃべんないでしょう。いくら英語でも、自分の事を言わない子だもの。」
「まぁ、そうだな。」
「あれは、単なる雑談。まぁ、あの英会話に入れるなら止めないけど。」
柴崎が嫌な笑みの顔を向けられた。
「あ~。俺のニコちゃんが・・・・。」
藤木がどんよりして肩を落とす。
「さぁ、誰がニコとチークを踊るのかしら。」
思わず、藤木と目が合った。完全に柴崎の手のひらで遊ばれている慎一達。
体育館の会場は、真っ暗闇になり、ほの暗い明かりが灯り、静かな音楽に代わった。チークタイム。ペアになった生徒が、周囲の冷やかしの中、踊り始めた。見えないけれど柴崎はきっとしたり顔だろう。演出がにくい。企画は大成功。
この薄暗さを利用して、私は立ち上がり、そっと体育館の外に出た。
太陽の陰り始めた空、風が茶色くなった葉を散らして飛ばす。
まだ秋・・・・冬が待ち遠しい。
鉄製の手すりを触るとひんやりして気持ちがいい。
額を手すりにくっつけた。
疲れたな。包帯が手に触れる。どうしてこんな怪我を?みんなはマンションの階段を踏み外して落ちて怪我をしたというけれど、何も思い出せない。それに何だが、嘘くさい。
急に体育館の中の喧騒が漏れる。慎一が外に出てきた。
「大丈夫か?疲れたんじゃないか?」また心配だ。首を振りながら顔を上げた。
「火照った顔を冷やしてただけ」
「ほんとだ、冷たくて気持ちいいな。」
「声が・・・聞こえていた。」
「ん?」慎一は優しい表情で私を覗き込む。
「ずっと、りのと呼ぶ声と、ニコと呼ぶ声。」
『ニコ、死ぬな』は慎一の声だった。
『リノ、イッショニシノウ』の声はパパ。
「私は、どっちなのだろう。」
「どっち?」
「りのか、ニコか」
慎一は困った顔をして首をかしげる。
「嫌か?ずっとニコって呼ぶなって言ってもんな。嫌ならもう呼ばない。」
「嫌じゃない。だけどもう、名前のように私は笑えない。」
「いいよ。それでもニコはニコだから。」
慎一は遠く、風の吹いてくる方へ顔を向け、目を細めた。
「俺、ニコの帰国をずっと心待ちにしていた。ニコって呼べる今って、うれしいことなんだよな。」
何故か、寂しさと嬉しさが同時に沸き起こる。
これは、悲しみの涙?それともうれし涙?
「えっ、なっ何!?どうして、俺、何か泣かすような事言った?」
「ううん」首を振ると、濡れた頬が風にさらされて冷たい。慎一は焦って、自分の身体を漁る。
「えっと、えっと、ごめん、ハンカチ持ってない。」
名前を呼ぶことをうれしいと言ってくれるほどに、私の帰国を待ってくれていた慎ちゃん。それに対して私は自分のことしか考えてなかった。私が、パパの声に耳を傾け、死を選んでいたら、慎一は私と同じ苦しみを味わう。そのことに全く気が付かなかった。自分の愚かさに改めて後悔する。
「私は、最低だ。自分勝手にまた道を間違えて・・・」
「じゃ、また手をつないで歩こう。」そう言って、慎一は手を差し出す。山に虹を探しに行こうと言ったのは私。帰り路がわからなくなった時も、慎一は私を責めないで、手を差し伸べてきた。
「うん。」握った慎一の手は暖かくて、力強い。
冷たい風が、もうすぐ冬が来るのを知らせる。あの日を超えて。
暖かさを知ると冷たい冬が辛くなる。
だから暖かさを求めてはいけない。
わかっているのに、
私は、慎ちゃんの暖かい手を振り払う事が出来ない。
最低だ。
11月5日(金曜日)
「遅かったわね。」
「うん、ちよっと。」
「えー慎にぃ、なんでケーキあるのにまたケーキ買ってくるの!ばっかじゃないの」
「じゃーえりは食うなよ。」
結局、慎一は、ニコの誕生日プレゼントを買いに行く暇がなかった。と言うより、何を買っていいかも思いつかなくて、クラブを終えて家に帰る前に家とは反対の方向の一つ駅向うのケーキ屋さんに向かった。柴崎からここの店がおいしいと聞いていたから。
慎一は、ニコが座っているテーブルの前に、白いケーキ箱を置き開いて見せた。
「プリンアラモード。」ニコの顔が、ふぁっとほころんだ。
「昨日、約束しただろう。」
「何を?」
「え?ほら、河村先輩から、逃げて、俺の椅子の後ろに隠れた時に・・・・」
「???」ニコは、不思議そうな顔で首をかしげる。
「柴崎が河村先輩の相手をさせようとするのをニコは嫌がって、助けてって言うから、プリン買ってやるから我慢しろって」
「ん・・・・ん?」
「あっいい、いい、無理に思い出さなくて。」
これが、記憶が剥がれ落ちているかもしれないという症状?つい二日前の事なのに覚えていない?
「プレゼント用意できなかったから、これで。」
聞いているのか聞いてないのか、ニコは、ずっとプリンを見つめている。
「じゃー始めましょうか?」
ローソク消しは、晩御飯の後で、父さんが店が落ち着いて家に来てからという事になっている。
さつきおばさんと母さんとえりとニコも手伝ったというパーティ料理は、新田家の誰の誕生日よりも豪勢な料理が並んでいた。
「ニコちゃん、14才の誕生日おめでとう!」
クラッカーを鳴らして始まった。
「あ、ありが、とう。」
周りの明るい笑顔とは対照的なニコ、主役のニコが無表情。やっぱり元の笑顔に戻るのは、時間が、かかりそうだった。
さつきおばさんが、夜勤の為に、りのをよろしくと言って新田家を後にする。明日のスピーチ大会の観覧の為に休みを取ったから、今日はどうしても勤務しなければならないらしい。だからニコは、この後、新田家に泊まる事になっている。
ふと、ニコを見たら、どの料理よりも先にプリンに手を付けようとしていたから、思わず口が出た。
「あっ!こら!プリンは後。」
「何故?」
「先に、ちゃんと、ご飯を食べてから。」
スプーンを口に入れたまま、少しムッとして、プリンを見つめている。
「プリンは卵で作るから、おかず・・・・。」
「馬鹿か!プリンはおやつだ」
「あははははは、そうだった。ニコちゃん、プリン大好きだったのよね。」
母さんが、お腹を抱えて笑い出した。
「私も昔、よく、叱ったわ。三時のおやつにと買っておいたプリンを朝ごはんに食べちゃって。(それは、三時のおやつでしょう!)って、それでね、三時には、もうないよって言っても、ちゃっかり、慎一の分を取って食べてたのよねぇ。思い出した~。あははは。」
慎一は思い出す。母さんがニコに怒っている情景。二人を本当に自分の子供のように育てていた。
慎一も家の中で、サッカーボール蹴って、さつきおばさんに、ものすごく怒られた。
でも、ニコは、首をかしげて、覚えていないようだった。それよりも、ずっとスプーンを持ったままプリンを見つめている。
プリン買ってきたの、失敗だったな。と慎一は反省する
「いいんじゃない、今日ぐらいは、ニコちゃんの誕生日なんだし。」とえり
「プリンのあと、ちゃんとご飯も食べるんだぞ。」
「うん。」
ニコは少し表情を緩めてプリンを食べ始めた。けれど、結局、プリンの後は、から揚げひとつとサラダとピザを一切れ食べただけで、食事を終えてしまった。食に興味がないのは昔から。何かに夢中になっていたら、いくら母さんたちが、ご飯よと呼んでも来なかった。プリンなら飛んでくるのに。
自分の誕生日でもないのに、はしゃぐえりに、少し顔がほころんだニコ。昔からニコは、えりの事を溺愛していた。
ニコを笑顔にするのは、いつも自分じゃない、自分は無能に何もできないと溜息がでる。
コック服のまま父さんがリビングに顔を出して。ケーキのローソク消しと写真を撮って、誕生日会は終えた。
また、夢を見た。今日のは短くて静かな夢。
パパは立っていた。
ただ、それだけ、何も言わない。
何も聞こえない。
11月6日(土曜日)
慎一は、先輩たちの今日の試合の反省点や注意点を、時計ばかり気にして真面に聞いていなかった。早く終われ。そればかり心の中で叫んで。藤木も同じらしく、ちらちらと時計を気にして、足踏みしている。
今日はニコのスピーチ大会、慎一たちサッカー部は来月から始まる、地区予選大会の市内予選が市内スポーツ施設であり、土曜の授業を免除で来ていた。1時に終わる予定が、30分を過ぎてしまっていた。この後、スピーチ大会の会場へと向かう事にしているのだけれど、間に合うかどうか、慎一は頭の中で、ここから、スピーチ大会までの道順をシュミレーションしていた。バスで20分、東浜駅について、そこから特急で40分、乗り換えてさらに15分、ロスタイムを含んで、3時にはつく予定だけれど・・・・常翔学園が一番最後の順番とはいえ、進行が早まっていたら、間に合わないかもしれない。それにバスがうまく来ればいいけど、この間みたいに、満杯で乗れないって事にでもなれば・・・・
「じゃ、今日はこれで解散!」
「お疲れっした!」
の号令で、慎一と藤木は鞄をわしづかみにして、スポーツ施設のサッカー場の出口へと猛ダッシュした。
走りながら、駅までタクシー使うか?と藤木が叫ぶ。
「おう!」
出口を出た正面のタクシー乗り場で、新田君、藤木君!と手を振っている人がいた。凱さんだった。
「助かりました。」
「いいよ。いいよ。麗香に頼まれていたからね。」
慎一達は、凱さんの運転する高級車の後部座席で息を整える。
「凱さんは、朝から行ってなくて良かったんですか?」
「理事長が朝から行ってるからね。僕はあくまでも助手だから。それに、この間の後始末もまだ、いっぱいあったしね。」
理事長が出張から帰って来たとはいえ、裏の仕事はあくまでも凱さんの担当らしい。常翔学園の経営者一族の柴崎の父、柴崎信夫の助手として、頻繁に学園に顔を出し、教師陣も一目置いているのは確かだった。でもまだ若くて、帝都大の学生。いつも緩い感じで、細身の黒のパンツを着ていたら、本当にちゃらい大学生にしか見えないのだけど、今日はスーツ姿だ。
「次の教頭先生は決まったんですか?」と藤木。
「めぼしい人に打診はしているのだけどね。あまりにも急だからね~。もしかしたら4月まで決まらないかもなぁ。まっ、教頭ぐらい、いなくっても、君たち困んないっしょ?」
「えっ、あっ、まぁ、そうですけど。」
凱さんの軽いノリについつい、慎一達自身も調子に乗って、そうですなんて問題発言をしてヤバイ、と口をすぼめること遅し。
「しかし、りのちゃんが通院してるってわかっていたら、りのちゃんに頼まなかったのに、悪い事しちゃったよ。」
あの後、事情も事情だから、スピーチ大会は欠場してもいい。学園の面子とか、特待を外されるとかは考えなくていいとニコを説得したんだけど、ニコは、せっかく英会話クラブの人と仲良くなったし、母も楽しみにしているから。と出ると言って聞かなかった。
「大丈夫かなぁ?今日は、命日なんだよね」
「朝は、普通でした。特にそれを意識している風には見えなかったですけど。あれ以来、感情の動きが薄いから、ますます何を
考えているかわからなくて・・・・。」
「うーん、申し訳ないねぇ」
凱さんは学園の不祥事が原因で、ニコを心身共に傷つけた事を、自分責任だと言って、慎一にまで頭を下げていた。
「藤木君なら、わかるんじゃないの?りのちゃんの感情」
「え?俺?いや・・・・あの・・・」
藤木は、自分の能力を他人には悟られないようにしている。突然、凱さんから、それを言われたから、たじろぎ、そして慎一を睨んでくる。週刊誌事件が解決した後、慎一達は藤木の人を見る能力について聞き出していた。藤木は、その事を慎一達にも知られる事をとても渋ったけれど、柴崎の強引な聞き出しに、誰にも言わない事を約束に、「人の本心や嘘が読み取れる」と告白してくれた。
(なんで、知ってるんだよ凱さんが)
口パクで慎一を責める藤木。
(知らないよ、俺は言わない)
と慎一も口パクで弁解。
「ん?どうしたの?」
凱さんがバックミラー越しに慎一達を覗く。
「いや、どうして、俺のその・・・」
「あぁ、麗香から聞いたよ。」
「あいつ・・・べらべらとぉ」藤木がしかめる。
「君たちと仲良くなった時から、麗香は、藤木君の人を見る観察眼はすごいって、ずっと言ってたからね。もしかしてって僕から聞いたんだよ。許してやって。で、りのちゃんは、どんな感じなの?」
「こういうのは、他人に、言う事じゃありませんから」藤木は憮然として顔をそむけた。
「そうだよね、悪かったねぇ、聞いちゃって。」
凱さんは、苦笑いをして首の後ろを掻いた。変な沈黙になって、車に乗せてもらっている手前、慎一は気を遣う。
「凱さんって、帝都大学の何学部ですか?」
凱さんは、常翔学園の経営者一族なのに常翔大学に入学していない。自分の親が経営している大学に入らないって、どういう事なんだろうと思っていた。確かに、帝都大学は日本を代表する国立大学で、常翔大学の方が格下だけど、だけど常翔大学だって、全国の私立大学ランキングではトップ3に入るから、恥ずかしくないレベルの学校だ。
「法学部だよ。」
やっぱり超、頭良いじゃんと、慎一は素直に驚く、
「やっぱり、弁護士とか目指すんですか?」
「うん?もう、なったよ。」
やっと興味を示してこっちを向いた藤木と顔を見合わせた。
「夏の試験に合格したんだ。」
「在学中に、弁護士試験合格、凄いっすね。」
「そう?帝大は、弁護士試験を受ける為に入っただけだから。やっと、これで退学して、仕事に専念できるよ。」
「えー、帝大、辞めちゃうんですか?もったいない。」
「うん。腰掛だったからね。帝大は。」
ますますハテナだ。腰かけってどういう事?
「あれ?その顔は、麗香から聞いてなかった?」バックミラー越しの凱さんは鼻をこする。「僕は帝大の前に、ハングラード大学を卒業しているからね。」
「ハングラード!?」
藤木と声を重ねる。
詳しく聞けば、凱さんは、常翔学園中等部を卒業後、高校をすっ飛ばし、世界のトップクラスと言われて有名なアメリカのハングラード大学、教育経営学部を卒業しているという。飛び級の経歴もびっくり。そりゃ、帝大を腰掛と言うはずだ。
常翔学園の経営を手伝うに当たって、弁護士免許があった方が、何かと便利だろうという事で、法律を学ぶ為だけに帝大に入ったと言う。みんな入りたくても入れなくて苦労するっていうのに、レベルが違い過ぎて、慎一には理解不能。
「はっ!まさか!凱さんって、あの神童と言われてる伝説の、大野凱斗ぉ!」
藤木が、素っ頓狂な声で叫ぶ。
「僕、伝説になってんの?」
「なにそれ。」
「常翔学園中等部に彗星のごとく現れた秀才、卒業までのテストは、一つも取りこぼすことなく、すべて1000点満点で卒業し、寮にある空手部のトロフィーは全部大野凱斗の名前で、そう、アメリカのハングラード大学を飛び級で現役合格したと寮で語り継がれている伝説の人だよ。」
「空手部のトロフィーは。僕のだけじゃないはずだよ。」
慎一は、もう笑うしかない。
「柴崎一族、恐るべし・・・あれ?今、大野って言わなかった?」
「あぁ、それは僕の旧姓。僕は、柴崎敏夫の養子で、麗香とは血の繋がりは、ないからね~。」
「・・・・・・。」藤木と顔を見合わせた。
「さぁ、世間話は、これぐらいにして、飛ばすよ。」
と言って、高速道路の入り口を抜けると軽快にスピードを上げる。
スピーチ大会の会場には、電車より、やっぱり車の方が早く到着した。慎一は柴崎の手配に感謝する。その柴崎は、英会話クラブの人間でもないのに、ニコの付き添いとして柴崎一族の特権をちゃっかり利用し、午前の授業は免除で参加している。凱さんは、会場に到着するなり、観客席に座っているさつきおばさんの所へ、挨拶に行き、そして、主催者席にいる柴崎理事長の方へ向かう。慎一たちは、ニコに会いたいのだけど見つけられなくて、観客席の入り口で佇み、きょろきょろしていた。
「新田ぁ、藤木ぃ、こっちこっち。」
柴崎が会場入り口から横の奥、控室の部屋の入り口から俺たちを見つけて手を振った。
会場横のロビースペースの隣に並ぶ、いくつかの控室は、参加学校の生徒が、直前練習の為にあふれかえっていた。
飛び交う言葉が英語だらけで、慎一は、めまいに襲われる。
ニコ達、英会話クラブのメンバー一年生も含む13名が、部屋の一角に陣取り、練習していた。
「柴崎、ありがとうな。凱さんに頼んでくれて。」
「どういたしましてぇ。電車だったら間に合わなかったでしょう。」
「あぁ助かった。」
「どうなの?ニコちゃんは。」
「うん。いいわよ。午前の課題文は問題なし。ニコが一番に良かったわよ。」
課題文は心配していない。問題はこれからの自由テーマのスピーチ、ニコが夜も眠れなくなるほど嫌がった家族がテーマの。
なんてタイミングか今日は、栄治おじさんの命日。大丈夫なんだろうか。昨日は、早く眠りについたみたいで、母さんはニコの部屋の隣、えりの部屋で寝て夜中に時々様子を見に行っていたらしい。朝、慎一の方が早く家を出なくては行けなくて、ちょうどニコが起きて来た時に、慎一は家を出てきた。その時は特に変わった様子もなくて、相変わらずの無表情で『おはよ』と、つぶやかれた。
ここからじゃ、良くわからないけど、体調は崩していなさそう。まぁ今日は、看護師のさつきおばさんも会場に来ているから大丈夫だろうと胸をなでおろす。
ニコは、大会出場メンバーと最終確認のため、英語教師主任の野中先生のそばで、他の4人の前に立ち、何かしゃべっている。ニコのそばに行きたいけれど、この野中先生が、慎一は苦手だった。補習の時にこっぴどく絞られていた。今、行けば何を言われるか、想像はつくので、行けない。
「あと、どれぐらいで出番?」
「えーとね。あと40分ぐらいかな。」
「えーもうそんだけしかないのか、やっぱり電車で来ていたら間に合ってなかったな。」
ニコの頭の傷はまだ治っていない。流石に包帯のままで出るのは見栄えが悪いから目立たない絆創膏のみにしていて、うまく髪の毛で隠している。慎一に気が付いたニコが、英会話クラブから離れて、こっちに来た。
「大丈夫か?顔色悪いよ。」
そう言って、すまし顔のニコ。こいつー、人の気も知らないで。大丈夫かと言いたいのはこっちだっつうの。と慎一は心の中で苦笑する。ニコの顔色は良さそうだった。
「あははは、いつもと逆だな。」
「うっせー。」
「ニコちゃん、どう?この後のテーマ文は。」
「んー、あと何分ぐらいあるかな?」
「出番まで?40分あるか、ないかぐらい。」
「そろそろ、しなくちゃ。」
ニコは、そういうと、軽く握った手を口元に当てて、何やら考え事をする。
「えーと、二分だから・・・・4つに分けて一つ60フレーズ程度・・・・」
と俺にはわからない事を、ぶつぶつ言っている。
「だれか、二分を計って。」とニコ
「練習するのね。いいわよ。携帯のストップウォッチでやってあげる。」
と柴崎がごそごそと鞄から携帯を取り出し、準備する。
「いい?」
「うん。」
「じゃースタート!」
他の生徒たちが皆やっているように、手に持っている原稿を見ながら、本番さながらの練習をするのだと思っていた。
だけど、ニコは、壁の方、1点を見つめたまま、何も話さない
「えっ?何?」
壁の方に何かあるのかとニコの視線の先を見たが、何もない。この顔って、まさか・・・・・あの屋上での月明かりで見た奇異な顔のニコに似ていた。柴崎も、藤木も、同じ不安を感じたらしく、二人も目を見開いて顔を見合わす。
「ちょっ、ニコ?おい!」
「話しかけるな!」
えっ?しばらくして、ニコが壁から視線を外し、今、何分?と柴崎に問う。慌てた柴崎が携帯に目をやり、
「1分45秒」
「ちょっと、少ないかぁ。もう少し足して、スピードを落とす。」
とまた、ニコはぶつぶつと考えるしぐさに戻った。
「いっ、イメージトレーニングかぁ。びっくりさせないでよ、ニコちゃん。」
「ホントよ。びっくりしたじゃない。」
「何が?」
ふーと息を吐いて胸をなでおろした三人とは裏腹に当のニコは、しれっと慎一達の様子に首をかしげる。
さらに二回ほど、柴崎に2分を計ってもらって、ニコは練習をした。と言っても終始、二分の感覚を体に覚え込ますように、壁を向いたまま一度も声を発することはなく終える。本当に、こんな練習でいいのか?と慎一は不安になる
「真辺さーん、そろそろ、行くわよ。」
英会話クラブの部長、北島さんがニコを呼ぶ。嫌がっていたテーマだけに、頑張れと言っていいものか迷う。ニコにとっては今日は一番つらい日のはず。精神科医の村西先生は、雪かきのせいでどんな症状がでるかわからないという。テーマ文は家族・・・・
「なんて顔をしている。」
「どう、応援していいか・・・。」
「心配ない。スピーチは得意だ。」
「得意って、でも・・・」
「英語、頑張るんだろ。ちゃんと聞いて、勉強しろ。」
そう言って、ニコは手に持っていた、丸めた原稿用紙を慎一の胸に無理やり押しつけ、北島さん達の方へ行ってしまった。
あれだけ、いざこざのあった英会話クラブの人たちとも、今は仲良くなっているよう。英語が飛び交う場だからか、表情がいつもより柔らいでいる。飛び交う英会話に楽しそうに耳を傾けているような姿を見ると、慎一は、ほんとに英会話の勉強を頑張らないといけないなぁと思う、けれど、やっぱり無理かも、と頭痛がしてきた頭を抑える。
「あんた達の席、取ってあるわよ。」
柴崎を先頭に慎一達は観客席へと足を向ける。
取っておいてくれた席は、正面、真ん中、ステージマイクのあるテーブルから一番、目線が会いやすい位置、前には母さんとさつきおばさんが座っている。
「間に合ってよかったわね、慎一。藤木君、こんにちは。」と振り返る母さん。
「こんにちは。」
「この間は、ありがとね藤木君。」とさつきおばさん
「いえ」
舞台では、最後から3番目の出場校のスピーチが行われている。自由テーマでは、後ろのスライドに映像を映しても良いので、会場は少し薄暗くしている。慎一はニコから預かった、スピーチの原稿用紙を手に持ったまま、座る。
「原稿、要らないのかよ。」
確かに手に持たない方が、顔が前に向いたままだから、審査員に印象がよい。今やっている学校の生徒は、原稿をテーブルに置き、ちらちらと見ながらスピーチをしていた。
「覚えているんじゃない?。課題文もすぐ覚えていたし。」
どんなこと書いたのだろうと、原稿を広げてみた。
「うげー!、うそだろ。」
「しっ!変な声、出さないの、慎一。」と母さんに怒られた。でも、叫ばずにはいられない。
「だって、これ見て。何も書いてないんだ、この原稿!」
「えっ?」
「ふふふ、りのは、スピーチ得意でね、フィンランドで何回か入賞しているの。」
とさつきおばさんが振り返り、小声で話し始めた。
「フィンランドでは、年に1回、学校全体のスピーチ大会があってね。一年生は1分、二年生は1分半、上級生になればなるほど長くなるの。りのはたしか2分半の大会で優勝してたわ。」
「2分半って事は、小4の時?ニコにとっては朝飯前って事ね。」
「まさか、ニコちゃん、さっき内容を作っていたんじゃ。」
「話しかけるなって怒ったわよね」
「マジかよ。どんな頭脳しているんだ。」
「私達が移住して2か月も満たない頃にね、大会があって。りのも当然、参加しなくちゃいけなくてね、でも、まだとてもスピーチが出来るような英語力じゃなかったの。でも担任の先生がね、英語は笑って話せる言語だよって教えてくれたって。りのは笑うの得意だから、誰よりも笑って、誰よりも大きな声で話すんだって、だけど、作った文はめちゃくちゃで、だけど誰よりも笑顔で、誰よりも楽しそうに発表して、特別賞をもらって、ものすごく喜んでね。それから英語が大好きになって、家でも英語で話すぐらいでね、今、思えば、家では日本語にしておくんだったと思うわ。そしたら、帰国後に日本語が変だって苛められずに済んだかもしれない。」
「さつき、もう過去を後悔するのはやめなさい。ニコちゃんは、英語が堪能だから常翔学園に入れたのよ。それに、英語が好きになって家でも話すニコちゃんを、さつきは止められた?」
「あぁ、無理だわ。」
「ははは、そうでしょう。あのニコちゃんだもの。」
慎一も苦笑した。気になる事をやり始めたニコを、親でも止められない。二人の親は良くわかっている。
常翔学園の名前が呼ばれて、ニコ達5人が舞台に現れた。
北島さん達がそれぞれ2分の持ち分のスピーチを終える。柴崎と藤木は、誰々がうまいなぁとか、躓いた所が惜しいなぁとか話しているけれど、慎一には皆がとても上手に聞こえる。どこで躓いているのかなんてわからない。でも、それを言ったら絶対に、もっと勉強しろとかの小言に発展するはず。前の席には母さんもいるから、もう黙って静観。
いよいよ、ニコの番、グループ最後でもあり、全出場者の最後のトリでもある。
後ろのスライド写真が切り替わる。
「あっ、あの写真・・・」
「あれが、ニコのお父様?」
2つの家族写真が並べて映写された。
一つは昨日、新田家で撮った誕生日会の写真、真ん中で無表情のニコ。
もう一つは、写真集に出て来そうな山をバックに、栄治おじさんがニコの後ろから肩に手を載せて顔を寄せている。その前で満面の笑みのニコ、二人の横でさつきおばさんも笑っている。まだ芹沢姓だった頃の家族写真。
前に座るさつきおばさんは、その写真を見るなり、すすり泣き始めた。
凛とした中にも口角が上がり、目を落とさず、会場を見渡しながら手振りも加えて話すニコ。
英語の苦手な慎一でも、他の出場者とは群を抜いて上手いとわかり、内容も理解できた。
英「・・・・私の大事な2つの家族です。私を育ててくれた 二人の父と二人の母に、心を込めて感謝を述べます。ありがとう。」
そう言って、ニコは、さつきおばさんと母さんに顔を向け、にっこりと笑ってスピーチを締めくくった。
会場は拍手で包まれ、二人の母さんは、声を殺して泣いた。