表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虹の記憶  作者: 湯浅 裕
2/20

青色の再会 後編

 5



 冬の全国大会の予選が始まった。ここ最近ずっと不調の慎一は、スターティングメンバーから外されていた。強豪と注目される常翔学園のサッカー部は、学年に関係なく、実力重視でスタンディングメンバーを選ぶ。たとえ3年であろうとも、大きな大会は特に、実力がなければ容赦なくレギュラーから外される。ベンチすら入れない可能性だってある厳しさ。反対に実力のある者は、1年でもどんどん試合に出させてもらえる。後輩のくせにとか、くだらない妬みややっかみをしている暇があれば、技術の一つでも向上すべく練習あるのみ。と昔からそう徹底して指導、教育されている。だからこそ、常翔学園のサッカー部は、何度も全国優勝を果たし、全国強豪6校の一つと全国に名を馳せる。

 スタンディングメンバーに選ばれている藤木は、午後からの試合の戦略などの打ち合わせで、先輩たちと話しが続いていた。そんな友人を傍目に、離れた木の影に置いたクーラーボックスの番をかねて慎一は休憩をとっていた。爽快な青い空が広がる。

「お疲れさまー」の声で振り返ると母さんが、大きな業務用のトレーとクーラーバックを持って現れた。

 他にも杉本のお母さんと、内田のお母さん、先輩たちのお母さんやお父さん達がぞろぞろと、常翔学園サッカー部保護者会の人達だ。近くで試合がある時は、こうして差し入れを持ってきてくれる。家庭と学園のサポートが強力なのもサッカー部が強くなる一因。

 今日を皮切りに、ひと月あまり、ブロック別のリーグ戦方式で市代表校が決まり、その後、県内大会のトーナメントで、県代表を決めて、全国大会へ。

 今日は、学園から近い、市内のサッカー場が試合会場だったため、保護者会のサポート人数も多い。

 慎一の家からの差し入れは、サンドイッチが定番。父さんが、店で雇の料理人と一緒に作るので、味は本格的だ。先輩や先生に大好評で、毎日こんなうまいもの食っているのかと羨ましがられるけれど、店のフランス料理なんて、まともに食へたことがない。そもそも子供は店に出入り禁止のルールは中学生になっても健在で、まともに店に入った事すら無い慎一だった。毎日の食事は、母さんの作り置きする普通の家庭料理で、定休日に気まぐれに作る父さんの料理もいい加減な手抜き料理だ。料理人が内向けに作る料理なんて、そんなものだ。

 母さんは取りやすいようにトレーを下げながら、今日は暇そうねと笑う。慎一はムスッと、サンドイッチを奪い取り頬張る。すぐに喉が詰まりそうになった。ニコが母さんの後ろから現れる。

「なっなんで、ここに、ニ」危ない、またニコって呼びそうになった。

「昨日、明日は何してるって聞いたら、家に一人で居るって言うからね。私が誘ったの。」

 熱を出して家庭教師をお休みしたニコは、律儀に土曜日の昨日に変更して慎一の家に来ていたらしい。慎一が部活を終えて帰宅した頃には、ニコは家に帰った後で、要らぬ報告だけがあって、送迎はなかった。母さんが先輩たちの所へと差し入れを持っていく。

「きょ今日・・・で出ない?」ニコが無表情に聞いてくる。

「うん。」

「・・・・・わ、私のせい。」

「違う。」

 少なからずも当たっている、だけど、そうだとは言えない。直にニコが悪いんじゃなく自分の器の小ささが原因だと慎一はわかっていた。

「単なるスランプ」

「そ。」

 食べかけのサンドイッチを一気に頬張る。横で立ったまま座ろうとしないニコを見上げた。

 幾何学模様のワンピースにグレイのスパッツを合わせて、白いフード付きのパーカーを羽織っている。私服を見るのは久しぶりだ。ショートにした髪によく似あっていた。

「わ、忘れて。こ、この間の。」

いつの事の何なのか、慎一にはわからなかった。

「と特待は・・・・わ、私が決めた」

 あぁ、あの時のことかと、やっと思い出す。母さんの話が凄すぎて、そっちの事はすっかり忘れていた

「わ、私が、勝手に、や八つ、あ当た」

「いいよ。もう、無理して言わなくて。」 

 とても、苦しそうだから、笑えなくなった理由も知ったから、もう無理しなくていい。本当にそう思った。 向かい風拭いて、二人は目を細める。ニコの手に小さなタッパーを持っているのを見つけて、それは何かと聞く 

「つ、作った、さ差し入れ。」

「へえー何を?」

「は、はちみつレモン」

「定番だな。頂戴。」

 ニコはしゃがみ込んでタッパーの蓋を開ける。

「つ、疲れと、じ滋養強壮に効く。」なんだよ、滋養強壮って、と心で笑った。

 母さんの、『東京に戻って 日本語の発音がおかしいと笑われたのがきっかけだったらしいわ』の言葉がよみがええる。発音がおかしいというよりは、吃音がひどい。

 《てにはや》が少なくて、名詞と動詞の前後が逆の時があって、単語単発の言葉だ。

「ベンチ組だから疲れてないけど、いただきます。」

 添えてあった爪楊枝でレモンを取りだし口に入れた。蜂蜜の甘さとレモンさが口に広がると思っていた慎一は、予期せぬ味に、思わず吐き出しそうになった。

「なっ、なに?薬の味する。」しかも、漢方系の。

 かろうじて吐き出す事は防ぐ。せっかく作ってくれた物を吐いては失礼。

「ぉ、おいしい、い言ってない。」

「何を入れたの?これ。」 聞かない方がいいかもしれないけど、聞かずにはいられない。

「こ高麗人参と、しょ、生薬赤生姜を、ちょ調合。」

「調合って・・・・どこでそんなもん手に入れられるんだ。」

「は、母の病院、裏の、か漢方店。」

「はぁ?」

「す、捨てる物、も貰って来た」

 どう調べて、はちみつレモンに漢方を調合する発想になるんだ。しかも捨てる部分とは・・・何かの復讐か?嫌がらせか

 苦労して、まだ口に残っていたレモンを頑張って飲み込む。慎一は昔から薬が大嫌いだった。

 そんなニコは、無表情で首をかしげている。悪意がなさそうなのが、怖い。

 ニコがひょいと一切れ口に入れた。

「き、昨日より味、する。」納得顔でうなづいているニコ。どんな味覚してんだ?と訝しがる。

 ニコはどうぞと言わんばかりにタッパーを慎一に押し付ける。

「いや、これ以上は、ありがとう十分に、疲れ取れました。」

「そ。」




 無意識にため息が出ていた。すかさず藤木がそれを指摘する

「なんだよ、その溜息。」

「あぁごめん。」

「さっきのパスミスを気にしてんのか、と思ったら、違う事を抱え込んでんなぁ」

「え?まぁ・・・・。」     

 本来なら、スランプに陥っているサッカーの方を悩むべきだ、わかっている。だけど慎一は心も頭もいっぱいいっぱいで、何を優先すべきかもわからない。第3試合の後半の途中、怪我をした先輩の代わりに出るチャンスが巡って来た。だけどニコのとんでもない味の差し入れ効果むなしく慎一は大した活躍もできずに即ベンチに戻された。藤木の指摘通り、ん?

「パスミス?俺、今日はパス、ミスってないぞ。」     

「はぁー」 今度は藤木が大きなため息をつく。「お前さぁ、代わりに入ってすぐ、青木先輩にパスしたの覚えてる?」

「うん、相手の7番からカットして、ドリブルで上がって、」

 ニコと母さんは、慎一が出場したところまでは、見学していたようだけど、いつか帰っていたのかは知らない。試合終了時にはもう居なかったからベンチに戻ると同時に帰ったんだのだと思う。

 部員は学園に戻ってからの解散となった。寮の門限までにはまだ1時間半ほどある。こういう時しか藤木とゆっくり話せない。校舎玄関前の花壇のへりに座り、残っている水筒のお茶を飲みながら話をする。

 向うのベンチでも先輩たちが集まって、にぎやかしい。    

「そう、青木先輩がセンター前に突っ込む、何度も練習した定番の攻めフォーメーション。だけど先輩はあの時、がちにマークされてた。それよりもサイド後方に居た白井先輩の方がフリーだった。お前、気づいてなかったろ。」

「・・・・・。」

 後方の白井先輩は、ドリブルで上がる時に確認してる。気づかなかったわけではなかったけど。後方へ戻すほど、センターの青木先輩がガチのマークだとは思えなかった。あれぐらいのマークなら先輩はかわせるだろうと。だから、慎一は、あの場所へとパスを出した。ちゃんと思い通りの場所にボールが行ったと自分では満足だった。

「先輩はあの時点で、パスを欲しいとは思ってなかっただろうな。だけどお前はお手本通りのパスをした。悪くないさ。だけど結果は相手にボールを取られ、さらにその先で失点となった。スコアには、青木先輩のミスとして記されている。お前が良かれと思って行動した事は、青木先輩にとって良くなかったって事だ。」

「・・・・・。」

「その様子からするとお前は、あの失点が、自分のミスから始まったとは思ってないな。俺は、あの失点、お前のミスが招いたと思っている。」

 藤木の指摘に、慎一はムっとした。なんだよ偉そうに、自分は練習通りの完璧なパスを出してる、何だって自分が責められなきゃいけないんだと慎一は心の中で不貞腐れる。

「確かにな、良いパスだったよ。ドリブルで上がったお前に前後で二人もブロックがついた、あれをかわしてからのパス。しかもお前は、相手に後ろから押されて姿勢を崩しながらにもかかわらず、正確に狙った位置にボールを届けた。中学生であんなボールコントロールできるの、そういない。天才だよお前。」

 褒められると言うより、貶されている風に聞こえた。

「青木先輩は、一歩出遅れた事をコーチに指摘されていた。コーチのベテランの目から見れば、お前より青木先輩の方がもどかしいと思ったんだろうな。プロのサッカー選手なら、お前からのあのパス、ちゃんと物にしただろうよ。だけど、俺たちは、まだ、そこまで到達できていない中学生の集まりだ。全員が、お前のような才を持ちあわせているわけじゃない。」

「それは、言い訳なんじゃないのか?俺は練習なしに、上手くなったわけじゃない。努力なしで天から授かったわけじゃない。」

 そう慎一は必死に練習した。いい加減にやっている少年サッカーの奴らに辟易していた。だから慎一は常翔学園に入ると決めた。この学校なら全国から、本気のやつらが集まってくる。先輩も後輩も関係なしでスターティングメンバーを決めるという部の伝承も聞いて、絶対に推薦枠に合格してやると練習に力を入れた。

「まだ中学生とか言っていたら、いつまでも上手くならないじゃないか。」 

「言い方を間違えたか・・・・」 と藤木が二度目のため息交じりにつぶやく。 「青木先輩、2週間前、ひざ痛めて10メートルダッシュも辛そうにしていたの、知っているか?」

「えっ?」

「やっぱり知らなかったか。ケガ前だったら、いつも通り、あれぐらいかわしてパスも受け取れていた。だけど第二試合の後の休憩で、膝に痛みが出てきたとマッサージしてたんだ。」

 傾いた太陽が赤くあたりを照らし始めた。藤木の顔がちょうど夕日に逆光していて、まぶしい。

「お前の、その志は立派だよ。俺たち全国を目指す者には当たり前の努力だ。だけど、それだけでは、全国には行けないんじゃないかと俺は思う。努力なんて他の強豪校もやってるだろ。それこそ死にもの狂いで。どこの学校も、同じ努力をやってるのに勝敗は決まる。あの優勝旗を手にする奴らは、俺たちと、どこが違うのだろうかと考えたことある?」と藤木は慎一を伺うように首を少し傾けた

「ない。ただ、練習して上手くなれば結果は出ると。」

「じゃぁ、あのミスをした青木先輩を、お前は努力が足りないと責めるか?もっと努力しろよ、結果が出ていないじゃないかと。」

「そんなこと、するわけないだろ。」

「俺たちは学生だ。プロじゃない。出来ない事は、まだまだ沢山ある。仲間で補なわなければ、優勝旗に手は届かない。勝敗を決めるのは、その差なんだと俺は思う。」立派な志、仲間意識を持つ藤木が、少し疎ましく感じた。

「仲間に目を向ける努力を、お前はしてるか?」

 藤木の言葉が突き刺さる。いつも石田先生に言われている事と同じ。「周りをよく見ろ」と

 見ている、見ているのに、いつもいつも言われる。練習中も試合中も頻繁に、これ以上どこを見ればいいんだと、反発もする。チーム内の誰が何をできて、今、何ができないのかなんて、考えたこともなかった。慎一は自分が練習して上手くなれば他の連中もそうして、個々で技術を上げ高い位置で合わせたら、優勝旗に近づくんだと思っていた。

「真辺さんの事もそうだ。」

「なっなんで、ここで、その名前が出るんだよ。」

 突然ニコの名前が出てきて、慎一は素っ頓狂に慌てる。

「はぁー。」 藤木がまたまた長い溜息をついた。「お前は、真辺さんしか見ていない、まぁ、恋は盲目というからな。仕方ないけどよ。」

「なっなんだよ。恋って、俺は別に好きとか言ってないだろう。ニコとは、赤ん坊のころからの」

「幼馴染だろう。もう聞き飽きたよ。」

「お前こそ、好きなんだろうが!」

「あぁ、好きだよ。ずっと言ってんじゃん俺。入学した時から。」

「・・・・・・。」何も言えない。

「俺たち、ライバルだな。」

 藤木は本気か嘘かわからないニヤついた顔で慎一の肩を組んできた。

「ばっ馬鹿、違うわ!」





 いよいよ、学園祭1週間前となった。ショートカットにしたニコは、垢抜けた感もあり、少しずつ、クラスの女子と話をする事も増えた。実行委員だから、嫌でも人と関わらなければならない。昔みたいなダンマリをしていたら仕事は務まらない。そして、弓道部も頑張っている様子。約半年のブランクもすぐに埋まり、皆と同じレベルにまで追いついたらしい。もともと、身体を動かす事が好きな上に、気になる事を見つけた時の集中力は昔から半端ない。

 4歳の頃、団地の前の草むらで蟻の巣を見つけた。慎一とニコは蟻が餌を運ぶ面白さに夢中になり、蟻ブームがしばらく続いた。図鑑で蟻の巣の絵を見たり、実物を観察したり、慎一が先に飽きてもニコはずっと観察を続けて、雨の日に泥んこになって帰ってきた時は、親たちを驚かせた。

『雨の日は蟻さん達、どうしてるのかなと思って』と。

 あの看板作りの有志の中に、弓道部の女子がいることもあって、色々と作業をしているうちに、仲良くなったらしい。

 他の女子よりは無口だか、時折、微笑みも出るようになった。ただ、慎一たち1組の中には残念ながら弓道部はいない為、クラスでは相変わらず固い表情のまま。あの、きつい二人、鈴木と谷口は今の所、ショートカット姿に負いを感じているのか、ニコに対しておとなしくしている。

 慎一は、まだスターティングメンバーには入れてもらえない。ただ、少しずつ色んなことに目を向けるように意識して、何かしら発見することが出来てきた。

 相変わらず、あちこちから声をかけられ、かけつつしている藤木が、いつもの通りに食堂でニコを見つけて、そっちに座りに行くのかと思ったら、ニコの隣にいる滝沢さんに何やら話しかけて、滝沢さんを含むその周辺女子と笑って、おどけながら慎一の前に座った。

「あれ?滝沢さんって、お前と同じ2組?」

「なんだよ今更、二学期で気づくってお前、相当の無周到ぶりだな。」

「あっ、いや・・・・」なんだか最近、迂闊に藤木に聞くと説教じみた話に発展する。

「んで何?滝沢さんが、どうかした?」

「いや、最近あの二人一緒のところ、よく見かけるなと思って。」

「あぁ、滝沢さんも弓道部なんだ、中学に入るまで市内の民間同好会に祖母と一緒に通ってたらしい。1年で唯一の弓道経験者。1年の中では姉さんと慕われ、すでに部長確定と言われている。」

 聞きたい事以上の情報量、どっから仕入れてくるんだよと慎一は感心して、はたと気づいた。

「もしかして、お前が仲を取り持った?」

「仲取り持つなんて幼稚園児じゃあるまいし、そんなんで、はいそうですかって仲良くなるか、この年で。1週間前、真辺さんと廊下で話していた時、弓道の作法としきたりがいまいちよくわからないって、言ったから、ちょうどそばを通りかかった滝沢さんに、なんか本か、ビデオとかない?って聞いただけ、そのあと、自然にあぁなった。真辺さんの魅力だよ。」

 藤木は、おそらくニコが弓道部に入った時に、1年の部員の中で誰をマークすればニコがうまく溶け込めるだろうかと調べていたんだ。で、その調べたデーターを即時に使う事はせず、ここぞと言う場面で使う。滝沢さんとニコが気負うことのない見事なパスだ。

「お前、ほんとすごいな。その諜報力と分析力があって、なんで、ゴール決められないんだ。」

「うっせー!お前みたいに俺は、天性の才はないんだよ!」

 藤木の口に入っていた米が飛んできた。  

「うわっ!汚ったな。]

 そして、もう一つ気づいた。

 食べ終わった食器トレーを返却口に返しに行くとき、歩いてきた同じクラスの杉本に声をかけられる。

「新田、文化祭の衣装が集まり過ぎて。後ろの棚、大変なことになってるぞ。あれ何とかしないと。」

「そうそう、その前の机にも置いてあるの。あのままにしておいていいの?」

 と、杉本の隣にいた、同じクラスの松田さんも話に加わった。

「あぁ、駄目、駄目。うちの隣の空き教室を使っていいって事になってるから、そこに置かせてもらうよ。後で鍵を借りてくるから運ぶの手伝ってくれる?。」

「了解。」

「わかったわ。じゃぁね。」

 と食堂を後にする。最近あの二人、よく一緒にいる所を見かける。昨日も一緒に下校するところを見た。 そのことを、その日の部活終了後、部室の清掃の時に藤木に話した。部室の清掃は毎週土曜日に、部活動が終わってから1年生が当番制でやる。こういうのだけは、実力主義じゃなくて年功序列。名簿順で慎一と藤木は同じC班。部屋内の土を掃き出し、道具をすべて定位置に直し、椅子などの備品を磨く、そしてごみを集積場に持っていって終了。鍵をかけてやっと帰れる。当番じゃない杉本はもう校門を出るところだった。またもや松田さんと一緒に。

「なぁ、あいつ、最近よく松田さんと一緒に居るよな。」

「あぁ、あいつら付き合っているからな。」

「うっそっ!」

「やっと気づいたか。もう2週間になるぜ、杉本から告ったんだ。」

「マジかよ。」

「まぁ、2週間で気づいたんなら、ちょっとは進歩したと褒めてやるべきかな。努力はしてるようだしな。」 上から目線の態度に慎一はムカッとする「真辺さんの事も気づいたしな。偉い偉い。」

 と頭をなでてきたから。むかつき払いに手を叩き払った。

 藤木は他にも誰と、誰が付き合っているとか、誰が告って断られたとか、呆れるぐらいに沢山の情報を持っている。 だけど何故そんな急に、皆、付き合い始めたんだ?と慎一が聞くと、

「常翔祭が近いからに決まってるだろう。」

「何故に常翔祭?」

「お前、青春の本質をわかってないなぁ」

「青春って・・・お前、そんな木端恥ずかしいこと平気で言えるなぁ」

「学園祭と言えば、文化祭、文化祭と言えば、縁日みたいなもんだろ、各クラスの出し物。縁日と言えば?」

「縁日と言えば?」

「こうやって、(ねぇ。どこのお店行く?)(私、あっちの喫茶でクレープ食べたーい。)」

 と腕に手を回してきて、女役の声色を出す。

「やめろ。キモイ。」

「お化け屋敷で、(きゃー助けて。新田くーん。)」

 とさらに抱き付いてきたもんだから鳥肌立つ。

「マジ、やめろー、俺はそんな趣味はない。」と蹴散らした。

 鍵を職員室に返すべく、学園北西の部室からグランドを迂回して下駄箱へ、藤木のうんちくは続く。

「この時期はさ、通常の生活では知る事の出来ない、他人の長所に気づきやすくなるんだよ。誰が絵がうまいとか、誰々がリーダー素質だとか、誰々は、重い物を運ぶのに、いち早く気づいて手伝ってくれた、優しいとか。そういう、ちょっとした事に非日常の行事が重なって、恋が芽生えやすくなるんだよ。」

「ふーん。」

 9月の初めの頃、田中が体育祭の競技を決める際、うまく男どもの意見を聞いて采配してくれたことを思い出した。 他にパネル作成の時も、野球部の委員会メンバーが、午後の授業に間に合うよう、しっかり指示していたし。

「自分は、何もできていないなぁ」と慎一は気が沈む。 次々に課せられる課題に期限に遅れないようにするのが精いっぱい。 1組は他のクラスより、まとまれていないと慎一は、焦りだけが募っていた。石田先生は適任だと言っていたけど、絶対に見誤ってると慎一は思う。

「お前も、真辺さんに告る?」

「しねぇーよ。」

 幼馴染の関係すら確率されていない慎一の中では、好きとか告白するとかは、はるか彼方の事で、理解できていなかった。

「じゃぁ俺、告ちゃおうかなぁ」

「ぁぁいいんじゃないか。」

「えらく自信あるねぇー新田君。いいの?真辺さん盗っちゃうよ?」

 藤木ならニコが困っている事に、すぐに気づいて助けるだろう。弓道部を紹介したのも、滝沢さんとの橋渡しをしたのも藤木だ。藤木とだったらニコは笑えるようになる。そう思いながら、玄関ホールに入り、慎一はロッカーの扉を開ける。

「俺、自信あるもんねー。いいのかー?」藤木は向こうの棚から叫んでいる

 上履きの上に、入れた覚えのない白い小さな封筒が入っていた。なんだろうと開けたら、周囲に四葉のクローバーをデザインした柄のカードが出てきた。

「なぁ、聞いてる?」

  手早く上靴の履き替えた藤木が、立ち尽くしている慎一に近寄き、持っていたカードを覗く

【部活動が終わったら、北棟、技術室南側の中庭に来てください。待っています】

 と書かれてあった。丸っこい女の字で。

「おっ、これは、これは、新田君おめでとう。お前もとうとう来たね。告白カード。」

「はぃ?」

「これは、真辺さんの字じゃないな。残念だったね。」

「ニコが告るかっ!」

「おっ、呼び捨てっ、ししし」

 ムッとして、また学校でニコって言ってしまったと反省する。

「だいたいっ、お前はどっちなんだよ。好きと言ったり、やたら俺にけしかけたり。」

「何事もライバルはいた方が向上するだろ」

 何がライバルだよと、掴みどころのない友人の言葉を無視して、慎一は改めてカードと封筒を見る。

「名前がないなぁ。誰だ?何で俺に?」

「おいおいっ、お前、もしかて自分がモテるのも気が付いてないわけ?」

「はい?」

「これが届くの、意外に遅かったなと思うぐらいだよ。」

 藤木の頭は一体どうなっているんだろう。毎日どんな事を考えて生活しているんだと思うと、慎一はあきれ半分、不思議さ半分。

「俺のクラスの女子は、お前のファンクラブを作りはじめたぞ。先週の試合の時、3人ほど見学に来てただろ。」

「あぁ、来てたな」

「あの3人、お前目当てで来てたんだよ。」

「嘘だぁ。お前と楽しそうに話していたじゃないか。」

「俺は出汁に使われてんだよ!たくっ!お前のクラスにも要るだろ、お前の事、好きなやつが二人ほど。」

「はぁ?そんな女子いるか?」

「あ~お前は、ドン感過ぎる。」天を仰ぐ藤木。

 職員室に鍵を戻し、顧問である石田先生に掃除の終わりの報告をし、失礼しますと。頭を下げたまま、職員室の扉から出た。 礼儀作法は、きっちり叩き込まれている。職員室を出て、下駄箱に戻ろうとした時、「どこに行くんだ」と藤木に呼び止められた。

「どこって、家に帰るんだろ?」

「その女子からのアプローチはどうするんだ。」

「えー、俺、興味ないし。そもそも、女子と付き合う暇ねえーし。」

「だからって、このまま無視して帰っちゃいかんだろ。さぁーこっちだ。来い。」

 と下駄箱とは反対の技術教室の方へ腕を引っ張られた。北棟技術室南側の中庭は、ニコに好きで特待生してるわけじゃないと泣きそうな声で言われた場所だ。あの時の出来事とニコの生い立ちは藤木には言ってない。さすがにプライバシー厳守。

 仕方ないと腹をくくる溜息を一つしたとき、視力の良い藤木が、窓ガラス越しに、女子の姿を確認するや否や、壁に引き戻された。

「なんだよ。」

「しっ。お前、断るんだな?」 小声で聞いてくる。

「当たり前だろう、俺は興味ないって、さっき言った」

「断る言葉に気を付けろよ。」 さっきの、ニヤついた顔はどこにもなく。真顔を慎一に近づけて言う。

「なんだよ。めんどくせぇなぁ。」

「絶対に、真辺さんの名前も、存在も微塵に出すなよ。わかったな。」

「へいへい。」

 慎一は、何故、あんなめんどくさい奴とダチしてるんだろうと、心の中でぼやきながら扉をあけた。

 技術室外壁に背もたれた女子が一人、その子と向き合って立つ女子が一人、慎一の姿を見つけて、二人は服と髪を正した。 そこで、その女子二人が誰だか判明する。同じクラスの鈴木と谷口。ずっとニコに対して風当たりがきつく、あのパネルを倒した二人。

 藤木が、絶対にニコの名前を出すなと言った意味が、やっと分かった。

「あっ、ごめんね。クラブで疲れている所。」

「いや、大丈夫。何?」今までの事を思い出したら、慎一はそっけなくなる。

「新田君って今、好きな子とか居るの?」

「いや。別に。」二人が顔合わせる。

「あっ、あのね・・・・」

「私達・・・・・」

 藤木の言う通り、告白の呼び出し。ドキドキなのはわかる。言い出しにくいのだろう、ニコに対する時とは違う、しおらしい振る舞い。それが逆に慎一の神経を逆撫でする。イライラを我慢して次の言葉を待つ。どっちだ?どっちに断ればいいのかと慎一は二人を見比べる。

「私達、新田君の事が好きなの!」

 達?私達って二人!?嘘だろ?と頭の中が真っ白になる。

「ふたり・・・とも?」

「そう、私達ね。一緒に告白して、新田君に選んでもらおうって決めたの。」

「どっちが選ばれても恨みっこなしで。」

「いや・・・そんな選ぶとか、俺・・・・」

「いいの、私達、新田君の事、本気だから、新田君の答えがどっちでも、ちゃんと受け止める。」

「うん、私達二人、そう覚悟して決めたの。」

「ごめん。俺は今、いっぱい、いっぱいで、何も考えられない。どっちを選ぶとか。とてもじゃないけど。そんな失礼な事できない。」

 ほんと、勘弁してくれと慎一は神を呪う。

「失礼じゃないよ。私達、選んで欲しいから、こうして告白してるんだから。」

「ほんと、ほんと、」

「あっいや、でも俺・・・・誰かと付き合うなんて考えたこともないし・・・・ごめん」 





「まぁ、あれが限界だよな。」

「疲れた。」

「お疲れ。」

 彼女たちを残したまま、校舎に戻った。藤木は北校舎と南校舎を繋ぐ廊下の角で慎一を待っていた。どうやら、北校舎の技術教室の廊下側から、聞き耳を立てていたようだ。普通なら、悪趣味と言うべきところだが、今の慎一にとってはありがたい助っ人。

 女子二人で攻めてきただけあって、結構しつこい告白になった。普通なら、ご定番の『他に好きな子がいる』の常套手段の嘘が使えるのだけれど、それは絶対に使えなかった。それを言えば、それ誰?となる事は簡単に想像できる。そこで内緒と言ったら、慎一への注目度は高くなり、ただでさえ実行委員をやって何かとニコと一緒に居ることが多くなっているこの時期、変な誤解を招く事になりかねない。

 慎一の軽率な行動や言葉が、ニコをまた辛い風当たりにさせてしまうかもしれないと思うと、適当なあしらいは出来なかった。

 最終的に、文化祭の時に、二人に付き合って店を回る事を強引に約束させられた。

 通用門を出る。明日も試合で朝が早い、今日は早く帰れるはずだったのに、今では、すっかり日が落ちて夕焼け空になっている

「いつから、知ってたんだよ。あいつらが俺の事が好きだと。」

「そんなの、一学期からに決まってんじゃん。」

「そんな早くから?何で教えてくれないんだよ。」

「教えたら、お前、どうにかした?」

「うーん、しないな」

「だろ。逆にお前、意識しておかしな行動になりそうだったからよ。まぁ、俺も今回は、ちょっと驚いたけどな。」 と、藤木は遠くの空を見つめながら、何やら考えてる。「彼女たちが本気で告って来るとは思ってなかった、2組のやつらと同じくファン止まりだと決め込んでいた。」

「ファン。」

「あぁ、鈴木さんと谷口さんの仲良しグループは、あの二人がメインで、騒いでいた。そのうち、別のやつに移行するか、ファン止まりで終わるかと。読みミスったな、あのパネルの時に気づくべきだった。」

「パネル?」

「彼女達、有志でもないのに、お前の所に突然、手伝いに来ただろ。手伝いは口実、お前と一緒に居たかったんだよ。」

 彼女たちはロクに手伝いもせず、おしゃべりばかりで、慎一は正直、邪魔だなと思っていた。  

「結果、あぁなっちゃったけどな。お前の役に立とうとはしていた。」

「でも、あいつら、あの後ニコに謝りもせず。」

「真辺さんに風当たりきつくなったの。お前ら二人が委員会に選ばれてからだろ。」     

 慎一は一学期からの事と9月に入ってからの事を思い返したが、わからなかった。でもまた周りを見てないと溜息つかれそうだから、黙っておく。

「嫉妬だよ。頭脳明晰、文武両道、容姿端麗。そんな子が好きな新田君のそばに居る事が多くなったら焦るだろ。誰だって。」

「でも、あいつらがニコに投票したんだぞ。」 もう、呼び名を気にするのにも疲れてきた慎一は、藤木のまえだからいいかと、ニコのままで通す。

「まさか、男子の委員がお前になるとは思ってなかったんだよ。推薦投票になったんだろう一組は」

「うん、ほとんどが無記名で、ニコの名前を書いたのが5人で、あいつらのグループの人数とほぼ同じだったから、絶対、示し合わせして、いやがらせ投票だよ。」

 不意に黙り込んだ藤木を見れば、握った手を顎に持っていき何やら考えている様子。

「彼女たちじゃ、なかったかもしれない。」

「えっ?」

「真辺さんの才と立場を見極めて入れた別の人がいる。」

「なんでそう思う。誰だよそれ。」

「誰かはわからないさ。俺一組じゃないしな。ただ、なんとなくそうかもって思っただけ。まぁ、いいよ、そこは。どっにしろ二人は実行委員になってしまった。焦った彼女たちが真辺さんに指摘できる所って言ったら特待生しかない。頻繁に言ってただろ。私達より優遇されてるって。」

「ああ、そればっかりだよ。」

「学園が認めて彼女を特別扱いしている。 私達がそれを指摘することは、学校公認の事で悪い事じゃない、むしろ私達の方が贔屓の被害者。という感じ。」

「そんなっ」

「真辺さんとお前との関係を知らない彼女たちは、真辺さんの事を贔屓されている特待生と言い続けることで、お前に真辺さんの悪い印象を植えつけようとした」

「だからってニコにあんなきつい事、言って良い訳がない。」

「優等生の正論だな。真辺さんしか見えてないお前には、彼女たちの心は、わからないかぁ。」

 わからない、わかりたくもないと反論したかったけれど、もう黙っていた。 これ以上、二人のことで考えるのはうんざりだし、憂鬱だった。

「あぁ俺、月曜日からどうすればいいんだぁ。学校が嫌になりそう」

「贅沢な悩みだなぁ。女子にモテて、学校が嫌になるなんて。」

 藤木は、呆れ気味に、水筒のお茶を飲み干した。







 6


 いつの間にか空が遠くなった秋晴れ、慎一は腕を伸ばし、柔軟を始めた。ようやく体育祭が始まる。この後、文化祭を無事終わる事が出来たら、とりあえず慎一たち委員会の仕事は終わる。この一週間はあまりにも忙しくて、せまりつつある文化祭の「彼女らと一緒に店を周る」は頭の隅においやる事ができた。本部で貰って来た腕章をニコから受け取り、体操服の袖に着ける。実行委員は体育祭の間、この腕章をつけて、どこにいるか目立つようにしておく。

 一年生は黄色い帯に各クラスのナンバーが記されている。

 生徒は全員、自分の出場する競技が2種目、もしくはプラス、ブロック別リレーとクラブ対抗リレーに当たっている者は3種目の出場。そして必ず何かしらの審判と生徒会本部の全体準備係をする役割がある。広い学園内のあちこちで競技をするので、移動だけでも大変。各自が、何の種目に出るか、何の審判で何時にどこの場所に行かなければならないのか、ちゃんと把握しておかなければならない。そう、前もって説明してあるのに、絶対に忘れる者が出て来て、そんなクラスメートに指示をするのが実行委員で、目立つように腕章が必要となる。

「頑張ろうな。今日さえ終われば、少しはゆっくりできる。」 やっと腕章つけ終えたニコが無言でうなづく。「バレーと200メートル、ブロックリレーだっけ?」

「か、開会式、直後と、へ、閉会式間際。」手に持っているバインダーをめくりながら、ニコはつぶやく。

 今日のクラス全員のタイムスケジュールをリスト化したのはニコ。実働的な仕事を慎一が、事務的な物はニコがと、分担してここまで来た。無関心だったクラスメートも、いっさいの愚痴をこぼさず黙々と準備するニコに、一人、二人と手伝いはじめて、ニコの緊張は次第にとれつつある。ニコがクラスの誰よりも仕事をしているのは、もう誰もが認める事だった。

「バレーは応援に行けないけど、200メートルは応援するよ。」

 慎一はバスケと100メートル走に、ブロック別リレーに出る。結局クラスで一番足の速い慎一とニコがブロック別リレーに出る事になって、忙しい合間に先輩達との練習もこなした。

「よく、競った。」

「えっ?」

 自分もバインダーに挟んだ書類をめくり自身のスケジュールを再確認していた慎一は、ニコの言葉に顔を上げた。

 ニコは少し先の「常翔学園 体育競技大会」と書かれた大きなパネルに目を細めて見つめている。



『僕、いっちばん!』

『わたしも一番だよっ。ほらっ』 と手作りのメダルを見せてくる幼き頃のニコは満面の笑みだった。

『僕も持ってるもん、ほらっ。きんぴかの」

『えー私、ピンクのぉーいいな慎ちゃんの、きんぴかで』

 幼稚園の運動会で徒競走でもらうメダルは先生の手作り、色はバラバラで、走れば全員の首にかけてくれる。 男女別で走る徒競走、慎一もニコも断トツで1位だった。別々で1位だったから、そのあと、どっちか早いかという話になって、家族みんなで帰宅途中、団地前の道路で、競争することになった。

 慎一の両親と、就園前のえり、さつきおばさんと栄治おじさん。大人たちが、「元気ねぇ、あなたたち」と呆れかえっていた。

 徒競走やるんだと聞かない慎一達二人に、スタートとゴールを親たちが取り仕切ってくれた。

『ゴール!少しの差でニコちゃんが一番ね。』

『くっそーっ』

『やったー!』 飛び跳ねて喜ぶニコに本気で悔しかった。

『もう一度っ!』

 2度目の競争は、ニコがスタートで、後ろ足が滑って出遅れた。

『もうっ、ニコ、よーいドンのとこで滑ったから、やり直しっ』

『いいよ、負けないから。』

『えりもやる~』

『えーまだやるの?あなたたち?』

 そのあと何度も走って、親たちを困らせた、それでも両家族、みんなが笑っていた。

 勝敗はどちらかというと、慎一の方が負けていた。



「ニコの方が早かったな。あの頃は。」 とつぶやいて、慎一は、はたと焦る。しまった。また学校でニコって呼んでしまった。ごめんと言おうとしたら。

 ショートカットのニコは青い空へと溶け込むように、小走りでかけて行ってしまった。


 1組は、学年総合優勝も狙えるのではないかと他クラスから言われていた。その理由に男子の8割の生徒が運動部であること、他のクラスは7割程度にとどまる。 野球部の田中を筆頭にサッカー部の杉本やその他、陸上部やバレー部、体育会系が集まって精鋭ぞろい。こうして開会式の校長の長い話を聞いている間も、足や手首を回して柔軟をしやる気満々、テンションも高い。その反面、女子は、準備の時からあまり関心はない感じ。どちらかというと、この後の文化祭の方を楽しみにしている子が多かった。女子が、どれだけやる気を出すかでクラス優勝の行方が決まりそうだ。こういうのは、クラスが一丸となってやる気を出せるか、盛り上がる事が出来るかに勝負は決まる。と慎一は思っていた。そして、ふと思う。藤木の説教で聞いた事と重なるなぁと妙な気分になった。サッカーもクラスも同じ。慎一はこの実行委員の仕事をこなしているうちに、自分が何を見てどう動けば良いか、わかってきた気がしていた。

「おーい新田、この後、俺どこに行ったらいい?」

「新田ぁ、ミニサッカーは何時からだった?」

 バインダーの資料をめくり、慎一は指示を出す。

「えーと、橋本は、この後2年バレーの審判な、体育館に行ってくれ。サッカーは11時からだから少し時間あるけど、あっお前、その前に本部前で、救護に当たってるだろ、うわっ、もう時間じゃないか行ってくれ。」

「了~解~。」

「新田ぁ。田中がお前の事、探してたぞ」

「わかった。」

「新田ー俺は?」

 はじめての体育祭で慣れない状況とはいえ、クラスメイトはあまりにも慎一に聞きに来すぎていた。

 こんなことを防ぐために、個々のタイムスケジュールを書き出した資料をニコが作り、全員に配っているのに、見る気がないのか、その用紙すら持ってきていない者もいる。審判や準備に遅れていけば、同級生のみならず、先輩たちにも迷惑がかかる。だから聞いてくるクラスメートを無視するわけにもいかず、慎一は逐一対応して指示を出していた。1年は、どこのクラスも同じ状況らしく、腕章をつけた実行委員は皆、忙しく走り回っている。すれ違いざまに敵ながら同情すべく、お疲れと声を掛け合って何とかこなす。ニコも同じ、朝いちばんで、バレーボールの試合に出た後は、バインダーを見ながら個々の対応をしている。固まって何もできないんじゃないかと心配したけど、短い言葉でも聞いてくるクラスメートと話すことが出来ている。慎一は、よかったと安堵し、ニコの姿を目で追っていた。すると同じクラスの福島さんにニコは呼び止められて、その後、当たりを見まわし、校舎南の方へかけていった。あわてた風の様子に、慎一は何かあったのだろうかと心配するも、またクラスメートの男子に呼び止められて、それどころではなくなった。慎一自身もそろそろ、自分の出る100メート走の集合場所へ行かなければならない。

 その福島さんが、慎一の所に来たのは、午後2時頃、自分の出る種目と割あてられた本部の仕事を終えて、あとは、クラスメートが個々に聞きにくるのを対応するだけ。それも体育祭が終わりに近づくにつれ、少なくなって来ていた。

 校舎の2階窓下に掲げられているクラス別の点数を見ながら、同じクラスの田中と今は敵である藤木と勝敗の行方を話していた時の事。遠慮気味に福島さんは慎一に眉をひそめる。

「新田君」

「あぁ、お疲れ」

「あのね、真辺さん、お昼ご飯を食べてないの。」

「へ?」

 今日は早い時間から食堂が空いている、自分の競技や役割分担の合間に、何時でもいいから食事をとれるようになっている。 ニコは、その食事時間も考慮して、クラスメート全員のタイムスケジュールを組み、念入りにチェックしていた。自分の分も抜かりなくやっていたはずと慎一は記憶を辿る

「それが、朝は、鈴木さんのミニサッカーの審判をやって、今はバスケに出てる。」

「なんで、バスケに出てんだ!朝1のバレーと、200m、あと最後のブロック別リレーだけだろ。それになんだよ、サッカーの審判って。」

 思わず声を荒げた慎一に「私に言われても・・・」と福島さんはたじろいで、藤木が宥める。

 福島さんの話では、バレーのあと、本部からミニサッカーの審判が一人来ていないと連絡があったらしい。 方々を探して、中庭で審判担当の鈴木を見つけ、行くように言ったが、お腹が痛くてできないと言い出し、ニコがやる事になった。

 鈴木のそれが嘘だと慎一はすぐにわかった。慎一の出たバスケとサッカーの時には元気な姿で応援していたから。 そして今も、トーナメント1回戦を勝ち進んだバスケにニコが出ているという。これも本来、谷口の出場する競技、1回戦を終えた後、隣のコートの決勝戦出場クラスの競技待ちをしている間に、谷口がいなくなったという。ニコと福島さんら他5人で探したら、食堂にいて、しんどいからやらないとダダをこねたらしい。

「また、特待だからとか言い出して、真辺さんに押し付けたの。そしたら真辺さん、わかった私が出ると言って。」

「ったくあいつら~。」

 昼ご飯も食べられないのは当たり前だった。慎一でも、ゆっくりは昼休憩はとれなかった。空いた時間を見計らって、急いで飯をかけこむように食べていた。昼食後の、本部の実行委員召集時に、ニコと顔を合わせたが、そんなこと一言もなかった。

「結構しんどいと思うの。この後ブロックリレーもあるし。」

「俺、食堂に行ってあいつら連れてくる。田中、これ頼むわ」

 と同じく話を聞いていた、野球部の田中に腕章と、バインダーを渡した。

「おいっ、いいのかよ。こんなもん俺に渡されても。」という声を無視して駆け出した。田中ならできるだろう、ニコが作ったリストはわかりやすく、誰が見ても理解できる。

 食堂に、鈴木と谷口の姿はなかった、中庭も見たが、いない。もしかして体育館に戻っているかもと期待もあり、ニコの事も心配で、あちこちを探すのはやめ、慎一は体育館に駈け込んだ。ちょうど決勝の前半が終わる笛が鳴ったところ、見渡しても谷口はやっぱりいない。点数は58対56、いい勝負で負けている。慎一はコートチェンジをして座り込むニコに駆け寄った。

「大丈夫か?」

 肩で息を整えているニコが、怪訝に慎一を見上げた。

「福島さんから事情は聞いた。もう、無理すんなよ。このあとブロックリレーもあるんだから棄権したら」

 ニコはタオルで顔うずめるようにして、横に首をふる。

 決められた人数が揃わなければ棄権となる、だか、何らかの理由で予定していた出場者が出られなくなった時は、他の人が代わりに出る事は可能だ、一定のルールに添っていれば。

「け決勝、なのに」

「私達の事はいいわよ。気にしないで、真辺さんが無理なら棄権しても。」

 バスケの出場していた村田さんたちが、気遣ってくれる。もニコは激しく首を振り、「出る」と言う。

「なぜだよ。」

「や約束、した、た谷口さんと」

「約束って!それ単なる押しつけだろう!」

「そうよ、そこまでして、あの人達の言いなりになることないわ。」福島さんも慎一に加勢する

「そうだ、だれか変わりに」

 前半戦と後半戦の出場メンバーを交代できるのかどうか、そこまでルールを把握していなかったけれど、ニコを休ませられる口実になればいいと、慎一はクラスメートの女子を見渡した。

 すぐに、「私がでるわ。」と福島さんが言うも、ニコから否定される

「だ駄目、ふ福島さん、ほ本部の集計が。」

 何度も何度もチェックし、全員のリストを作り上げたニコは、流石に全員の行動予定が頭に入っている。 他にと慎一は目があった有田さんに声をかけたが、有田さんはバスケ部。出場できない。と本人から拒否された。

 出場エントリーは、自分が所属するクラブの種目には出場できないルール。慎一はミニサッカーには出られず、陸上部もフィールド競技には出られずに、球技や、遊び心のある種目、玉入れや騎馬戦などに振り分けられる。

「棄権しろよ。もう無理だろ。」

「む無理じゃない。ひ、疲労は皆、お同じ。」

「同じじゃないだろ。朝から何も食べずに、実行委員の仕事もやって、」

「わ、私のせい、か、彼女たちが、で、出たいと思う、え、エントリー作れなかった。」

 皆が無言でニコを見つめた。9月の当初、競技エントリーを決めるのに、1時間以上もかけたことを皆が思い出していたはずだ。 あの時、ニコは、皆を取りまとめる事も出来ずに、ただ立ち尽くしていた。

 もう、誰も言えなかった。そこで休憩終了のホイッスルが鳴る。

「ばバスケは、と得意。」

 そう言って、ニコはタオルと水筒を慎一に預けて、コートの中へとスタンばる。


「こんな事になるなら、私達、真辺さんに投票するんじゃなかった。」福島さんが慎一の隣でそう呟く、  心配して駆けつけた藤木も交え、慎一たちは、コートサイドで試合を見守るしかできない。

「私達5人は話し合って、真辺さんに投票したの。押し付けたんじゃなくて・・・真辺さんなら、あの人たちに対抗できるかもって。谷口さんたちグルーブ、結構きついでしょう。 私達、うんざりしてたの。何でも仕切りたがりがるのに、文句ばっかり言って、最後までやらずに飽きたら人に押し付けたり。でも私達たちじゃ勝てなくて、それであの時、私達、話し合って、頭もいいし、いつも冷静で、どこのグループにも入っていなかった真辺さんを推薦しようって。私達、鈴木さんと谷口さんグループから実行委員が出るのを、どうしても阻止したかったの。謝らなきゃ、こんなに大変な事ばかり起きると思わなかった。」

 藤木の考えは当たっていた。ニコを、ちゃんと見て才を買った人間がいた。クラスの女子達は、ニコの事なんて居ないのが如くスルーしていると思っていた。ちゃんと見ている人は居る。石田先生の、「最終的に引っ張っていけるのは、お前しかいないと俺は思う。」の言葉を慎一は思い出していた。

 いい加減なようで、ちゃんと見ている。自分は先生のいう適任だっただろうか?と自問しながら慎一はコートを走り回るニコを追う。

「謝らなくて、いいんじゃないかな。」

「?」

「楽しそうだよ。」

 ニコの顔は教室にいるときの無表情ではなく、真剣に、得意だと言っただけあって動きも本格的だった。ほどなくして、福島さんは、あとは頼むね。と本部集計にかけていった。

 また、デットヒートを繰り広げている、男子は1組が強豪と言われているが、女子は今対戦している4組が運動部の精鋭ぞろいで、一年のクラス点数1位だった。

 決勝戦、残り少ないプログラムとなって、応援の人数も増えてきた。ゴールが入る度、歓声が沸き上がる。 もう、勝ち負けなんてどうでもいい、早く終われと慎一はカウンターばかりを見ていた。

 あと一分を切ったところで、ニコが相手選手とぶつかり、倒れこんだ。

 シュートをしようとジャンプした時、相手の行き過ぎたブロックで、足が絡まったようだ。ニコがフリースローをすることになる。 時間的にこれが勝敗を決める。点数も2点差の接戦、体育館が静まりかえった。ニコがきれいなフォームでシュートする。だけどそれは、ゴールのふちで半周しポストには入らなかった。4組の歓声がどっと沸きあがる。

「ご、ごめん。」

「そんなの、気にしないで」

「そうだよ、良くやったよ」

 試合を終えて戻って来たニコ達に、クラスメイトが口々にねぎらう。ニコは、その言葉に固まった表情を、タオルで隠した。

 ニコの出場競技の3つ目、ブロック別リレーは全プログラムの最後。全競技が終わるまで、ブロック別リレーは始まらない。本部の集計が遅れているのか、男女混合ブロック別リレーのスタートは、15時20分からとの放送があった。少し時間が空いた。

 体育館を出て、グラウンド前の階段に腰かけ、夕暮れにさしかかり出て来た風に当たっていた。クラスメイトは競技の終えた体育館のモップがけや、各役割の仕事に行っている。

 慎一は、委員の仕事を田中に預けたまま、ニコのそばに付き添っていた。ニコもバスケ終了後、体育館の掃除をしようと動こうとしたが、皆に止められ、腕章とバインダーも、有田さんに引き取られていた。

「やっぱり出るのか?」

「と当然」

「ほかの奴に変わってもらえよ。」

「ブ、ブロックは、わ、私が出ると、言った。」

「だけどよ。」

「しつこい。」

 怒られた。藤木が、気を利かせて、食堂でパンを買ってきた。それを少しかじって、全部を食べようとしない。その藤木もパンをニコに渡すと、クラスメートに呼ばれて救護テント横で話し込んでいる。

「食べないのか?」

「あ、朝から、水分ばかり、た食べて、は走ったら吐く。それより・・・・テーピングを、と取ってきて」

「えっ!」

 どうやら、さっきのバスケで足を痛めたらしい、さっきから左足ばかり触っているなと慎一が気にかけていた矢先だった。

「やっぱり棄権しろ」と説得するも、テーピングで固めたら大丈夫だと言って、会話は堂々巡り。

 急いで、救護から、テーピングを借りてニコに渡す。藤木がどうしたと聞いてきたが、後でとかわした。

「・・・・ほんと、昔と変わらず頑固だな。」

 手際よくテーピングをまいていくニコの手つきを見れば、本格的にバスケをやっていたのだろうと慎一は納得する。フリースローの姿もきれいだった。

「もう・・・・に逃げたくない。」

「?」 

 何に、と慎一は聞いたが答えは帰ってこなかった。


 プログラム最終、男女混合ブロック別リレーの開始時刻間近になり、運動場トラック周辺に建てられたテントに生徒が集まりだした。

「さっきのバスケでか?大丈夫なのか?」

 後でとかわした藤木が、慎一に寄ってきて心配げにささやく。視力のいい藤木はニコが足にテーピングを巻くのが見えていたらしい。    

「そんなにひどいくないと、出るって聞かないんだ。腫れてる風でもなかったけど。」

「頑張り屋さんだな。」

「ああ。力み過ぎだよ。」

 流れていたBGMが流行りの激しいダンスミュージックに変わった。トラック整備を担当している生徒が、白線を引き直している。そんな状況を眺めながら出番を待っていると慎一の所に鈴木と谷口が駆け寄ってくる。

「新田くーん。点数見た?」

「3位よ、それも2組と僅差!」

「このブロックで入賞出来たら、賞もらえるんじゃない?」

 学年表彰は2位までしかない。女子の競技でほとんど優勝している4組は、それに続けと、男子もそこそこの成績を出して、午後からずっと1位をキープして優勝確定だった。2位は藤木のクラスの2組、クラス全体が良い雰囲気でまとまっていて、応援も楽しそうで和気あいあいとしている。その点数に追いつこうとしているのが、慎一のクラスの1組だった。4組とは正反対の男子が断トツで強い、前評判通りに各競技の優勝を取ってきているが、その好成績を歯止めているのが女子の成績。ニコが出たバスケ以外は獲得点数の少ない、4位、5位、6位ばかり。どんなに男子が頑張っても総合点はずっと3位から脱しない状態だった。 だからと、女子を責めても仕方がない。慎一を筆頭に、女子の士気を上げる努力をして来なかったのが悪いと、一組の男子全員が感じていて、女子を責める者は一人もいなかった。それに、今では女子もそれに気がつきはじめていた。二人をのぞいては。

「真辺さん、1位で新田君にバトン渡さないと承知しないわよー」

「きゃははは」

 二人のはしゃいだ態度に、慎一は本当に頭に来た。

「やめろよっ。あいつは朝から昼飯も食べずに、お前らの代わりをやってたんだぞ。何が、承知しないだ!」  また止められるかと一瞬だけ躊躇した慎一に、藤木は横で静観している。どっちにしろ、止められても止められる状況ではなかった。

「何故バスケに出なかった。何故サッカーの審判しなかった!」

 思いのほか、大きな声になった。クラスごとに割り当てられたテント内のクラスメイトが、慎一の声に振り返る。でも、慎一は周囲に配慮する余裕はなかった。したくもない。 

「えーだって、真辺さんが出るって言ったんだもの。ねえ。」

「そうそう、私達、身体しんどかったしぃ」

「しんどいのは、みんな同じだ、皆、ちゃんと自分たちの仕事をやってる!言い訳だ!それは。」

 二人がしゅんとなった。皆に注目されて、恥ずかしかったのか、拗ねたのかは、慎一にはわからなかったけれど、下を向いてうつむいた二人に相手するのも嫌になった。

 放送がかかる。

【最後のプログラム、男女混合ブロック対抗リレーの出場者は入場門へお集まりください。】

「ちゃんと、応援してやれ。」    

 慎一の怒りで、しーんとなったクラスのテンションをあげるべく、杉本が、「2組に負けない声出せよ。」と皆に声掛けた。

「新田、頑張れよ。」

「真辺さん、頑張ってね。」

 クラス全員の期待が、慎一とニコ、あと二人の選手、田中と井上さんにかかる。

「本当に大丈夫か?」 入場門で並んだニコに慎一は声を掛けた。ニコはテーピングで固めている左足の具合を気にしながら、念入りに柔軟している。

「へ平気。は走るのも、と得意、し知ってるだろ。」

 ニコと慎一はいつも山を駆け回って遊んでいた。おもちゃなんか無くても、空き地や、山を走り回っているだけで楽しかった。

 慎一はニコからバトンを受け取る9番目の走者。走者順はブロックチームで自由に決められるが、先輩に花を持たすためアンカーは三年生、2年がスタート、1年は間を取り持つ形に、どのブロックも同じ走者順となっていた。

 ニコと同じ8走者目に藤木がいて、慎一は陸上部の森山と対戦となる。

「く~っ、真辺さんの事を思ったら、手を抜いてあげたいけど・・・・こればっかりは~。苦渋の悩み」

 藤木が頭を抱えて苦悶する。

「馬鹿だ。勝手に悩んでろ。」

「・・・・て、手を抜いたら、に2度と口きかない。」とニコ

「あー抜かない、抜かない。ガチ全力!」藤木がニコの言葉に慌てて、ガッツポーズの意思表示。

「お前も。」

「え?俺?」

「リードを、ゆ、緩めたりしたら、お怒る。」

 バレた。ニコの足を心配して、いつもより、リードのスピード遅くした方が良いかなとか考えていた。

 トラックの反対側へと別れて待機。

 派手なBGMの中、男女混合ブロック対抗リレーはスタートした。すぐに一年生の番が回ってくる

 慎一の心配は必要なく、ニコは練習通りの速さで、カーブを走り向かってくる。全体練習の時と同じ展開、4位でバトンを受け取ったニコは、3組の女子を中盤で抜かして、後ろから追い上げてくる藤木と距離を詰められるも抜かされはしないで、接戦で向かってくる。

「あれで足を痛めてるって・・嘘だろ。」

 英「前を向け、緩めるな!行け!」

 慎一は英語が苦手だ。何言っているかわからない焦りが、練習よりも早め、2位の4組の森山より、リードスタートが早まった。

 隣で森山が嘘だろって驚いた声を上げる。

 2位の4組は近藤さんから森山へ、3位の1組はニコから慎一へ、4位の2組は藤木から前田さんへの混戦のバトン渡し。

 左手にバトンの衝撃が伝わると慎一はしっかり握りしめて、力いっぱい駆け出す。混戦から抜けた。観客席から、「あぁ」と声高に完成とどよめきが聞こえてきた。森山がすぐあとを追って来る。流石、陸上部。走り方が違う。いくら慎一の方が100メートル走のタイムが早かったとは言え、コンマの秒数の差。トラックのカーブを走るのは向うの方が慣れている。

 カーブで、バトンを受け取ったスタート位置を視界にとらえた時、ニコが倒れているのが見えた。ちょうど、藤木に手を添えられて、立ち上がろうとしている所だった。観客のどよめきはニコが転んだ時のものだったと知る。 慎一は心で叫んだ。

 動けっ!俺の足!小さいころから山を駆け回って鍛えた足、それだけは誰にも負けない自信!

 スタートからリードをしている1位の6組に追いつきは出来なかったけど、距離を縮めて、2位で3年の先輩にバトンを繋いだ。

「ぐぁぁ・・・追いつけんかった。」走り終えた森山が慎一の背中を叩く。

「お、俺だって・・・・」喋れない、肺が酸素をくれと悲鳴の要求をする。

 そうだ。ニコはどうなった?と慎一は反対のトラックにいるニコへと視線を向ける。藤木がニコのそばに付き添っているのが遠目で見えた。

(藤木がそばに居るから大丈夫か)

 もたげたモヤモヤは、3年のアンカー同士の接戦の歓声にかき消された。

 結果、1位はスタートから独走していた6組、慎一達1組は、また抜かされて3位。2位は4組、4位が2組の順となった。




 閉会式後、残りの後片付けや掃除を終えて、食堂へと向かった。クラスの皆が、手分けしてニコの分の役割仕事を引き受けてくれた。教室で行われる担任の先生の終わりの会が始まるまで、何時間ぶりかの昼食をとる為にニコは食堂で休憩をしている。ニコに投票したという福島さんらの女子グループ5人と慎一は、食堂へと向かい1年用の長テーブルにいるニコの姿をみつけて近寄る。

 ニコはおでこをテーブルにつけて、膝に置いた両手には、藤木が買ったパンが手に握られたままだった。よっぽど疲れたのだろう、パンは、半分しか減ってなかった。膝には転んで擦りむいたか所に、ガーゼが貼られている。慎一にバドンを渡した後、後ろから来ていた3組の走者が前を見ていなくて、ニコを吹き飛ばす勢いで、ぶつかり転んだのだと聞いた。

「寝てる・・・・・パン持ったまま。」

「初めて見た、真辺さんのこういう姿。」

「ほんと、いつも、ちゃんとして、何でもできるから。さすが特待生って、思ってた。」

「うん、私達とは、人種が違うんだって。」

「でも、この姿みたら、親しみわく。」

「ほんとホント」

 福島さん達の話す声に、びっくりしたのか、おでこが机からずり落ち、パンも手から離れて膝から転げ落ちる。

「痛っ!」

「あっ!」

 福島さんらは顔を見合わせ、吹き出して笑う。ニコはおでこに手を当てて、慎一たちの存在に驚いて体を硬くする。          

「真辺さん、かわいい。」

「大丈夫?起こしちゃったね。ごめんね。」

「わーおでこ赤くなっちゃってる。」

 状況が飲み込めないニコは、たじろいだ目を慎一に向けてきたが、何も言わずに笑いかけた。

「真辺さん、終わりの会、始まるよ。行こう!」

 5人の女子たちがニコを 取り囲み手を添えて立たせて、キャッキャと騒いで食堂を後にする。

 ニコがクラスメートに囲まれている光景を見ながら、慎一は昔を思い出す。皆の人気者だったニコを。

『慎ちゃん、こっち。』そう言って、輪に入れない慎一を入れてくれるのは、いつもニコニコのニコだった。







「絶対、見にこいよーっ」

「わかったから、さっさと、どっかに行ってくれ、子供が怖がっている。」

 時代劇ヒーローアクションを体育館ステージでやるという2組は、藤木を筆頭に、変な衣装と変な被り物をした5人組が宣伝用のブラカートを持って校舎内をうろついていた。あの恰好で慎一のクラスに入り込んできたのは。朝から二度目。

 慎一たちのクラスの文化祭の出し物は、スタジオと称した写真館をやっている。

 観光地でよく見かける顔の部分だけを切り抜いたパネルや、写真スタジオみたいに、ドレスなど衣装を数多く用意して、写真撮影ができるようにしている。昔、ピアノの発表会で着たとか、誰がどういう理由で買ったのかわからないイブニングドレスやら、ウエディングドレスまである。みんな、家で眠っている物を持ち寄った。あるところにはあるもんで、結構な数の衣装が集まっている。最初は、顔出しパネルだけの計画だったのが女子の提案で規模が大きくなった。撮影したら、即その場でプリントアウトして、お客さんに写真を渡す手筈になっている。

 文化祭の方は地域の人も観覧できるとあって、小さい子たちがパネルから顔をだしたりで、店は繁盛していた。 多くの女の子はドレス。男の子はヒーロー物の衣装が人気で、慎一は小さな子供たちが、怪我しないように、注意して見守っていた。

 教室の隅、一応邪魔にならない場所で、鈴木と谷口が手鏡を手に、自分の髪をいじっている。慎一が、体育祭のブロック対抗リレーの始まる前に怒って以来、あの二人は大人しくなった。あの二人が作っていたグループも分裂して、今は二人だけ、クラスから浮いた感じになっている。

 慎一は昨日、二人に、ニコは小さい頃からの幼馴染で、今までの事を考えるととてもじゃないけど二人と店めぐりはできないと、そして、付き合う事も出来ないと正直に話した。クラスのほとんども、慎一とニコが幼馴染である事を知った風で、ニコが言うはずがないから、藤木の根回しだろうと予測できた。幼馴染の関係がが知れ渡って、今の所、嫌な感じはなかった。

 ニコは最近、福島さん達と一緒に居る。福島さん達が積極的にニコに声掛けして、文化祭の準備も手伝ってくれていた。

「す、すごい、あれ。」ニコが廊下の方を気にしながら教室に入ってきた。

「うん、今ここに来てたんだ。子供が泣きそうになって焦ったよ。」

「あ、あれ、てテレビのキャラクター?」

「ないよ。あんなの、藤木たちのオリジナル。」

 もう昔のだんまりや、硬い表情は、随分となくなってきている。それでも普通の女子よりはまだ口数も少なく、笑顔も足りないけれど。

「何、それ?」ニコは小さな箱を持っていた。 「何するの?」開いて見せてくれる箱をのぞき込むと、色とりどりのリボンが入っている。

「こ子供たちに、つつけて、ああげたらと」

 早速、子供たちの方へ行くかと思いきや、ニコはあの二人に近づいて行った。

 慎一は驚いて身構える。 あの二人は、結局、ちゃんとニコに謝っていない。体育祭の後は、ニコを避けるようにしているほどだ。 そのことはクラス全員が知っていて、だから、何が起きるんだと。クラスメイトは息をのむように注視する。 近寄ったニコが何か言う前に、鈴木と谷口は怪訝に睨む。

「ヘアーアレンジ、ゃやってほしい。こ、子供たちに」

ニコがリボンの入った箱を二人に見せる。

「でも、私達・・・・」

「ふ二人は、い、いつも、き、きれいなヘアアレンジだから、と得意かと」

 鈴木と谷口は顔を見合わせる。    

「わ、私は、で、出来ない。ぶ不器用で」






【2週間前にフランスのルールド美術館から盗まれた、世界的名作、ミューズ・ハリスの絵画、「受胎告知」は以前、発見されず、犯人の手掛かりもわかっていません。フランス当局は、国内のみならず、周辺諸国にも協力の要請をかけ、全力で取り戻す事を・・・・・・・】


 テレビの朝のニュースをBGM代わりに、慎一は店の残り物のパンをかじっていた。昨日で常翔祭は終了、今日から朝練も始まる。

 明日までは午前授業で、3者懇談が待っている。慎一の母親も今日、学校に来る予定となっていた。

 中間テストの英語の成績は惨憺足るものだった。赤点こそ免れたものの、補習を受けていて、課題も課せられていた。それもやっと終えたのだけど、今日の三者懇談では、絶対にそれを指摘されると思うと、げんなりする。三者懇談の時間は何時だったかなと、リビングの壁に掛けてあるカレンダーを見ると、今日の日付の枠には、懇談の文字より大きく、赤丸で囲ったパーティの文字に気づいた。

「母さん、この、パーティって何?」

「ニコちゃんの誕生日パーティよ。」

「へ?」

「言ったでしょ前に、今日、店でニコちゃんの誕生日パーティするって。」

「えー。聞いてないよ。」

「1週間前に、ちゃんと言ったわよ。そこでゴロゴロしてた時に、あんたも、わかったって返事してたじゃないの。」

「・・・・・・・。」全く覚えがない、1週間前と言えば、慎一は究極にいっぱい、いっぱいだった時期だった。

「また、いい加減に人の話を聞いて、生返事したわね!。」

 そのあと、部屋が汚いとか、関係のない事まで小言が発展。朝の時点で疲労度マックスに、3者面談まで精神が持つだろうかと慎一は肩を落とす。

 ニコの誕生日って今日だったんだ。とつぶやくと、本当は明日らしい。

 明日は、さつきおばさんも仕事が休みだから、親子水入らずという配慮で、今日、新田家でやると決まったらしい。そして、今日は店の定休日でもあるから父さんが張り切って、プロの腕前を披露するという事にしたそうだ。慎一たち兄妹の誕生日に父、秀晴がプロの腕を振るったことなんかない。いつもより少しだけ豪華になった母さんの手料理と市販で買ってきたホールケーキでお祝いするぐらいの対応の差に、慎一は腑に落ちないも、両親の何かしてあげたいという気持ちには理解ができた。

 しかし、ニコの誕生日なんて知らなかった。えりを含む3人の誕生日には必ずお祝いをしていた記憶はあるけれど、それが何月何日だったかななんて、5歳の慎一には必要じゃなかった。ケーキを予約する時になって、近いうちに誰かの誕生日会をするとわかって、喜んでいただけ。毎朝、今日は何して遊ぶ。雨は降ってないか?ぐらいしか考えてなかった幼き頃。ニコが遠い海外に行ってしまう事も、随分早い時期から知らされていたけど、それが何時なのか、どんな事なのか、ニコと遊ばない日がどんな毎日なのか、良くわからなかった。ニコも同じだっただろう。慎一達は笑顔で、いつもと同じバイバイをして別れたのだから。そのあとニコと遊ばない日々が沢山続いてから、慎一は泣いたんだった。ニコが居ないと。


 本気で腕を振るった父さんの料理は最高においしかった。 テザートは本業じゃないから、あまり出来栄えは良くないと言いながらも、ホールケーキは普通にケーキ屋さんで見る出来栄え。定休日にはテレビの前でお腹の出た身体を転がして、母さんに邪魔とか言われているのに、コック帽をかぶった父さんを素直に恰好いいなぁと慎一は思った。でも、父さんのおやじギャクは恰好悪い。ニコも父さんのつまらないギャグに少し困惑気味。

 6時にニコが店に来て始まったパーティは、9時頃まで続き、店を出たのが9時半を過ぎていた。

 自転車で来たから送らなくても良いと、ニコは言ったけれど、いつもの習性で一緒に店を出て歩きはじめた。最近買ったという新しい白い自転車をニコは手で押して、県道168号線を渡れば、ニコの家である賃貸マンション。渡らず左に道沿いを行けば学園の方向の交差点で、赤信号に足を止める。

 慎一はジーパンのポケットに手をいれ、そこにあるものの存在を確かめて、意を決意する。

「あのさ」

「い今、な何時?」ほぼ同時に、慎一とニコの声が重なった。

「えーと、店を出ようとしてた時9時半を過ぎてたから、9時45分ぐらいかな」

「・・・・・・」ニコは県道168号線の学園方向を見つめている。

「何かあるの?」

 見たいテレビでもあるのかと聞いたが、ニコは道の先を見つめたまま何も答えない。慎一は辛抱強くまっていると、ニコは急に歩き出した。268号線の交差点を左へ学園の方へ。

「ちょっと!どこへ行くの。」

 自転車に乗って走り出そうとするのを慌てて、後ろの荷台をつかみ止めた。

「どこ行くんだよ!こんな時間から。」

「学校。」

「学校!? 何しに?」

 ニコは慎一から顔を背けて、「忘れ物」とつぶやく。

「忘れ物って。何を?」慎一はニコが嘘を言っているとわかって、わざと聞く。

「だ大事な・・・こと。」

 そこまで言われたら、慎一は付き合うしかないと。仕方なく自転車の運転を変わった。後ろにニコを乗せて走りだす。 学園まではバスで10分足らず。自転車なら、県道から外れて住宅街をつっきれば、ほぼ同じ時間で到着する。通学に自転車を使用する事は禁止されていた。アップダウンを繰り返し、学園の中等側の通り挟んだ正面に着いて、慎一は不審に驚く。

 深見山の麓を切り開いて作られた学園の、中等部側正面のこの道は、正門向かって左へ登っていけば深見山を越える山道へと入って行く。住宅地から次第に軒数も少なるその道は、先細りの山道になっていくため、トラックなどは通らず、近隣住民が使用するぐらいの往来しかない。こんな夜遅い時間に、次々と慎一の前を横切って行く乗用車が多数。それらは学園の西側、裏門のある細道へと入っていく。

「なに?あの車の列」

 ニコも目を見張って、車の列を見つめていた。

「今日、何か予定、合ったかな?」

「さ3者しか、知らない」

 学園の正面ロビーには1か月の予定が書かれた大きなホワイドボードが設置されている。学園内の行事と、生徒の予定以外にも、休日に行われたりする、大人向けの講習会、講演会などの予定も書きこまれる。常翔学園は施設も整っている為、有名講師による講演会やディスカッションなど生徒に直接関係のないイベントも開催されたりする。そのホワイトボードには、学園で行われる全イベントが、どの施設でいつ開催されるか書き込まれていて、そのポスターなんかも隣に掲示板されている。

 学園の西側は山が迫る。山と切り離すように細いアスファルト舗装の道が通る。その道のは登記上の境界として作られていて、学園の東側、高等部のある方へ抜けられる。中ほどに学園の裏門があるが、教職員の自動車用の出入り用の使用で、生徒は一切使わない。外套少なく、対向できる道幅もない上に、東に抜けるメリットは何もない道だから、一般の人も自動車も、昼間も通る人は皆無の道だった。夜は特に寂しい裏の細道に、車幅にふさわしくない黒っぽい外車が次々と入っていく。時にタクシーも道に入っていく。

「すごいな。高級車ばかりだ。何があるんだろう。」

 自転車の後ろから降りたニコは、西へ、その裏門のある道へと歩き始めた。

「ニコ!。」

 露「4日のオークション、ハリス」

 呪文のような言葉をつぶやくニコを、慎一は自転車を押して追いかけた。

「ニコっ、忘れ物を取りに来たんじゃなかったのか?」

 慎一の問いには答えず、ニコはどんどん足を速めて、ちょうど裏山の道に横断できる四辻で、ニコは車の往来を確認するために足を止めた。

「ニコってば」ニコの腕を引っ張る。

「帰ろう。忘れ物なんて嘘だろう」

 ニコはやっと慎一に向いて、当たり前のように答える「そう、嘘」と。

「確認する為」

「え?」

 ニコは道を渡る。慎一は四辻の角にある小さな公園のフェンスに投げるように自転車を置いて、ニコを追った。次々と入っていた高級車の列は、突然にぴたりとおさまった。

 道を渡ったニコは、裏山の小道の奥を少し伺うように覗いてから歩き出す。

「ニコ・・・何を確認するって?」ニコは慎一を無視して暗い細道を歩いていく。すぐ脇は木々が鬱蒼と生い茂って、風にざわざわと揺れている。外套は暗闇の威力に負けて、狭い周囲しか照らさない。慎一は心細く怖くなってきた。

「ニコ、帰ろう」

「先、か帰っていい」

「そんなことできないだろう!」

 ニコは学園のフェンスに手をかけた。

 露「こんな夜遅くに・・・オークション、『ハリスの受胎告知』を生で見られる・・・・盗品?」

 またニコが呪文を唱えて、慎一はますます怖くなる。

「ニコってば」

「入れないかな。」

「ええ!入るって、何をそんなに。」

「き聞いた、ハリスのじゅ受胎告知。」

「は?」

 慎一はニコが頭がおかしくなったのかと思った。

 ニコが指さす学園内は、テニスコートを取り巻く植木の向こうに、視聴覚教室のある講堂施設の廊下がほんのり明るく照らされているのが見えた。ロビーのホワイトボードには書かれていない、もしくは慎一達が記憶していない何か、講演会か何かがあるのだろう。と結論づけるも、えらく遅い時間だと慎一も気にはなった。だけど、それを忍び込んで確認しようなんて事まで思わない。

 ニコの話によると、あのパネル事故の日、保健室に行くと涙声で慎一の元を去った後、ニコは北棟の屋上で、時間をつぶしていたそう。中央棟の屋上は、弓道部の練習場がある。屋上は直線距離を必要とする弓道に最適かつ合理的な練習場所である。 しばらくしてニコは目的なく階段を降りた。3階の校長室の前を通ったその時、中からロシア語で話す声が聞こえたという。

「に日本で、ろロシア語を聞くのは、め珍しい。な懐かしくて。足を止めて、き聞いた。」

  露『それでは、11月2日に届くのですね。

  こっちは大丈夫です。その時期は文化祭で。大きな荷物が届いてもおかしくはない。

  それに理事長は留守で。ここを自由に使えます。

  あぁ、楽しみです『ハリスの受胎告知』を生で見られるなんて。

  えっ、あぁ、大丈夫です。この学園にロシア語が分かる人なんていませんから。

  聞かれたとしても何を話しているかわからないでしょう。

  はい、はい。ええ、はい4日のオークションで会いましょう。』


「ハリスの受胎告知って、今ニュースで騒がれている?」

 ニコはうなずく。

「それって・・・校長が話していたのか?」

「わ、わからない、ロシア語の、こ校長の声を聴いたことない。こ校長室から聞こえて、り理事はいないと言ったら、こ校長だと。」

「聞き間違いじゃないのか?」

「に日本語より英語、ロシア語の方が、と得意。」 と自信満々にニコは慎一を見つめてくる。

「オークションって。」

「盗品売買。」

「こんな場所で?」

 ニコの後をついて歩く慎一、ほどなく裏門が見えてくる。慎一は、フェンスにへばりつくように立ち止まった。誰か門の所に人が居る。何も悪い事はしていないけど、やっぱり、まずいような気がして、そもそも、中学生が意味なく夜を徘徊している事が良くない。

 慎一はニコの腕を引っ張り、来た道を戻った。見つからないように黙って。

 裏門から十分に離れてからニコはまた、フェンスに手をかけてつぶやく。

「入れないかな」

 慎一はため息をついた。ニコを家に連れて帰るのは骨が折れそうだと。




「降りれるか?」

 どうしても中に入りたいというニコを慎一は、しかたなく部室裏まで道を戻し、フェンスをよじ登り、コンクリートでできた背の低い建物の屋根に登った。先に敷地内へと入った慎一は下から手を差し伸べたが、ニコは身軽に難なくストンとジャンプして降りてきた。今日の私服はパンツスタイルだった。これでスカートなら目のやり場に困っただろう。

 学園敷地の西側は運動部の部室が並ぶ。その裏に、学園敷地を囲うフェンスの一部が途切れてコンクリートの小さい建物がある。おそらく学園内の電力系の配線施設か何かだろう。学園側と外の二つに扉があり、網入りのガラスには黄色と黒の危険のマークが貼られている。建物はフェンスよりも低く、フェンスをよじ登るより、その屋根を足場にすれば、楽に乗り越えることが出来る。もちろん、学園内では違反の行為だけれど。どうして、慎一がこんなことを知っているのかというと、藤木からの伝授。常翔学園の寮は、慎一がさっき自転車を置いてきた公園を右手に5分ほど進んだ場所にある。寮への帰宅に一番近い抜け道で、昔はよく寮生が使っていた手段なのだそうだ。だけど学園がIDカードでの登下校を管理するようになって、この手段は使えなくなった。IDを通さずに帰れば、学園から家庭もしくは寮へ問い合わせが行くからだ。

 裏の山から、虫の声が聞こえる。真夜中の学園内は真っ暗で、足元も良く見えない。校舎は昼間とは様子が全く違っていて、非常口を示す緑色のライトが寒々しく怖い。慎一は入ってしまってから後悔した。見つかったらどうしよう、怒られる恐怖と、暗闇に対する恐怖。ひそめる息に苦しくなってくる。もう引き返そう。もう一度屋根によじ登って、と慎一の心体は後退をしたがっているのに、ニコはお構いなく、どんどん先へと進んでいく。一人になる恐怖だけは避けたい。慎一は仕方なくニコを追いかける。

 テニスコートの植木で、隠れるように先の様子を窺うニコに追い付き、一緒にしゃがんだ。テニスコートの先には職員たちが利用する駐車スペースがあり、そこに、さっき入っていったであろう高級車が多数、止まっている。

「ロシア語が出来るやつがいないって・・・でも、校長はニコがロシア語できるの、知ってるんじゃないのか?特待入試で面接してるだろう?」

 ニコは首を振る。

「ロシア語は、しょ書類に、か書かなかった。め面接の時も、い、言わなかった。」

「どうして?」

「め面倒だから。」

「面倒って・・・・」

 普通なら、あれもできる、これもできると、自身を売り込むために沢山の長所を書いた方がよさそうだと思うのだけど、面倒だと省いても余りあるニコの才能に慎一は、呆れた嫉妬をする。そんな慎一の心を読み取ったのか、ニコは面倒の意味をたどたどしく説明する。

「フィンランドに居て、な何故、ロシア語なのか、せ説明するの、難しかった。」

「じゃぁ、校長は」

「せ生徒の中に、ロシア語がわかる私が居る事を、し知らない。だ、だから、ゆ油断して、お大きな声で。」

 慎一とニコは学園の校舎へ、音を出さないようにゆっくりと近づいた。校舎は運動場と並行し3棟あるうちの一番北側を、中央棟の影に隠れて見上げた。ガラス張りの廊下窓に、視聴覚教室のドア前に黒いスーツの男が立っていた。遅れて入っていく人に頭を下げて中へと案内している様子も見えた。しばらく経って、黒いスーツの男は腕時計を見やって、視聴覚教室の中へ消えていく。

「ニコ、もう帰ろう」

「まだ」

 ニコは、慎一の言う事も聞かずに、視聴覚室のある北棟のそばまで行き、あろうことか、するりと中へと入っていってしまった。戸惑う慎一は、泣きたくなるのを我慢して、ニコを追った。もう見つかった時の言い訳を考える余裕はない。この場で一人の方が、見つかって最悪は退学とかになるとかより、ずっと怖かったから。ニコは忍び足で、階段の上部へと様子を窺っている。慎一へと振り返ると当たり前のように頷いて上へと上がっていく。幸いなことに人の気配が全くない。ニコは二階に上がった直ぐの視聴覚室教室の扉の前でしゃがんで、扉に耳を当てている。当然ながら何も聞こえないと、首を振る。慎一はドキドキした。ニコがその扉を開けてしまうのではないかと。その予測は的中して、ニコはしゃがんだまま扉を開けようとして、また首を振る。カギが中からかけられていて、慎一はほっとする。声を出さずに口の動きだけで「帰ろう」をニコに伝えて腕を引っ張った。

 ニコは残念そうにしながらも、素直に階段を降りる。

 潜水でもしていたのかと思うほど、校舎を出るなり息を吐いた。そんな慎一をよそにニコは校舎を見上げてつぶやいている

 露「絶対、怪しいんだけどなぁ。荷物が届くって言ってたし・・・」

 ぶつぶつと異国の言葉を発するニコが一番怖い。早くここから出ないと、とんでもない事をしそうだったから、慎一は力強く説得する。

「もう、帰ろう、これ以上は、やばいよ」

 そう、これ以上は無理、ハリスの受胎告知について怪しい会話を聞いた、夜に学校へ高級車に乗る人々が入って行き、視聴覚室に集まっている。そんなことを警察に言ったところで捜査してくれるとは思えない。何をふざけたことを言っているのだ、早く家に帰りなさいと怒られるだけ。それもニコが聞いたという事実は証拠もなく、盗品売買は単なる推理。その怪しい会話も日本語ではなくロシア語だなんて、誰が信じてくれるだろうか

「さぁ、ニコ行こう」

「く車を」

 ニコは慎一の腕をするりとかわして、高級車がずらりと停まっている駐車場へと行ってしまった。慎一はため息をつく。もう後をついていかず、慎一はニコが車をのぞき込んだりしているのを遠巻きに眺めているだけにした。

 駐車場は、裏門を照らす外套の光が届いて、足元は辛うじて見える程度の明るさ。ニコは外車の間を歩いて、時に中を覗いたりしている。だけど、ほとんどの車が外から中が見られないように黒いフィルターが施されている。ニコがいい加減に諦めてくれるのを慎一は祈るような気持ちで待っていた。

 ニコが黒い車をぐるっと一周して立ち止まった。助手席側から中をのぞいて、もう一度、車の正面に戻り、下の方を覗いている。慎一はささやくようにニコの名を呼んだ。慎一の声に誘われて後ずさりして見えた車のナンバープレートが、他と違う事に慎一は気づいた。日本のものとは全く違うナンバー配列、プレートの縁が赤く縁どられている。慎一はそういうのに詳しくはないけれど、たしか、外国の大使館用の車につけられるプレートじゃなかっただろうかと知識の記憶を探った時だった。

「誰だっ!」声が頭上から降ってくる。慎一は防御的に肩をすくめて振りむく。視聴覚室の廊下の窓から逆光で黒く影になった人が叫んでいる。

 やばい!見つかった。慎一はニコへ「逃げよう!」とニコを促した。

 頷いたニコも慌てて車の間を出てくる。

「どうした」

「子供がいる。」

「子供?こんな時間に?」

「あそこ」

 そんな声を聞きながら、慎一はやっと車の合間から出できたニコの手を取って、外套の光が届かない暗闇に背を低くしながら走った。

「どこに?」

 駐車場のすぐ横のテニスコートへと入って一心不乱に走った。追ってくるのかもしれないと思うと振り返るのも怖い。そのままテニスコートを抜けて、部室の部屋が並ぶ場所へと戻った。部室の壁にへばりつくようにして、二人はしゃがんだ。

 大きな息は吐けない、息をひそめて、肩で息を整える。そうして、しばらく周囲の気配に耳を澄ませて、気配を探った。追ってくる感じはなかった。でも、いつまでもここに居るわけにはいかない。怖いけれど、目の前にある電気施設のコンクリートの屋根にまた、登らなくてはならない。きっとそれが一番の難関、あの男たちが慎一達を探してこっちの方に来ていたら、すぐに見つかってしまう。見つかったら、どうなるんだろう。退学? そもそも、あの男たちは誰だ?先生とか、聞き覚えのある声ではなかったけれど、もし、校長先生だったとしたら、夜に学校に忍び込んだ生徒を見逃すはずもなく、ニコなんて特待を外される。どころか、やっぱり退学ものだろう。慎一は、泣きたくなった。ニコはそんな慎一をよそに、地面にニコちゃんマークを指で描いていた。それを見て慎一は怒りが沸騰した。誰のせいで、こんなことになっているのだと。

 慎一は黙って、ニコより先にフェンスと電気施設のコンクリートの壁を足場にして屋根に登った。怒りが恐怖を消し、ニコが屋根に登ってくるのを待たずに、さっさと学園の外へと降りた。フェンス越しにニコと目が合う。忍び込む時も慎一の手助け無しにニコは登り降り出来た。勝手にすればいいさと。慎一は腹いせのようにニコから背を向けた。そしてすぐさま落ち込む。なんて自分はちっぽけなんだ。と。

 ニコはやっぱり慎一の手助けは必要なく軽々と電気施設の屋根に登り、そして飛び降りた。

 学園の外に出られて、とりあえずはほっとした。だけと、明日、明後日、その先で、忍び込んだ事がバレたらどうなるだろうかと不安だけが募り、歩く。慎一の後をついてくるはずのニコの足音がなくて振り返った。

 ニコは、降りた場所で左足を握って蹲っていた。

「どうした?」完全に安心できる場所ではないので、傍まで近寄ってから小声で話す。

「な、何か、ふ踏んで、ひ捻った」

「また左?」

 返事の代わりにうなずくニコ。バスケで痛めた左足を今度は捻るという、不運は重なるものだ。

 慎一は一刻も早くここから離れたかった。ニコの怪我を心配するよりも移動を急かしてニコを立たせた。でもニコは苦痛に顔をゆがませ、慎一の腕にすがるように崩れる。掴まれた腕に指が食い込んで痛い。

「ニコ!」

「だ大丈夫。」

「何を踏んだ?」

 慎一が降りた時には、足首をひねらせるものなんて何もなかった。

 ニコの足元、落とした視線に、きらりと光るものが地面に落ちている。

 慎一はそれを見て「あっ」と声を上げた。

 そして慌ててズボンのポケットをまさぐる。無い。

 それはニコに返そうとしていた虹玉。

 奇跡の力なんてない、 虹色のビー玉。







 8


 痛めた足を引きずって、やっとのことで公園まで戻って来た。捻った左足はズキズキと音が聞こえるんじゃないかと思うほど痛い。

 慎ちゃんは、私に向き合うと、無言で私の手に虹玉をのせてきた。

 怒っている。目が厳しい。

 当たり前だ。私が無茶を言って夜の学園に忍び込み、見つかった。バレたら、私は特待を外されるかもしれない。ううん、違う。私の事なんてどうでもいい。特待を外されたら公立の学校へ転校するだけ。

 だけど慎ちゃんは将来有望とされるサッカー人生に傷がついてしまう。

 それは絶対にダメ。謝らなければ・・・・

「ごっごめん。」 二人同時の言葉だった。

驚いて慎ちゃんの顔を見る。慎ちゃんの黒々とした目が私を責めているようだった。

 ごめんだけではダメ、他に何か言わなければ、でもこういう時、すぐに日本語は出ない。

 焦れば焦るほど言葉は詰まる。

「おれさ、誕生日のプレゼント、用意してなくてさ。」

 なぜ誕生日の話を慎ちゃんがするのかわからない。

「変わりと言っちゃおかしいけど、それを渡そうとポケットに入れてたんだ。飛び降りた時に落ちたみたい。ごめん。俺のせいだ。」

 そうだった。慎ちゃんは、いつも私を心配していた。 変わらない優しい慎ちゃん。懐かしさと共に、巻き込んだ後悔で泣けて来た。

「うわー痛いのか?どうしよ。」慌てる慎ちゃん。

「ち、違う。」

 違う、痛いのは足ではなく、心。 ずっと、ずっと楽しみに、会いたかった。

 やっと会えたのに、私は酷い事をしてしまった。





   皆の視線が怖い、先生が仲良くするようにと声をかける。このあと「皆に一言」となるはずだ。

  手が震える。怖くて。足は固まった。

  だけど先生は、空いている奥の席にすわるよう促した。良かった、話さなくていいんだ。とホッとす  る。それでも固まった足をやっと動かし、皆の視線の中、言われた席まで吐き気を抑えながら歩く。

   入学の手続きの時に、母が東京であったことを話していた。だから配慮してくれたのだろう。だけ  ど休み時間にクラスメートに取りかこまれ質問攻めにされた。あの一年前の事がよみがえる。


  『あははは。変な言い方!〇〇だって!発音おかしいぞ。』『ねぇ芹沢さんのあの話し方イラッと来  ない?』『そうそう、私は外国にいたのよってひけらしているみたいでさ。わざとらしいのよね。』  『頭は良いくせに、そこはできないっておかしいよね。』『何言っているかわかりませーん。ちゃん  と日本語を話してくださーい。』『きゃはは』

   怖い。またあんなふうに言われるかと思っただけで、吐き気が込みあげてくる。吐いたら駄目。込  み上げてくる吐き気を無理に押し込む。震える手を取り囲むクラスメートに知られないように、太も  もの下に隠す。

   誰が何を聞いているのかわからない。誰がどんな顔をしているのか見れない。

   早く鳴って、チャイム。

  やっとチャイムが鳴る。取り囲むクラスメートが周りから居なくなって、息がやっと吸えた。担任の  先生が扉を開けて入ってくる。隣のクラスの生徒がまだ廊下に居て、先生が入りなさいよと声をかけ  ている。隣のクラスに、慎ちゃんがいると思ったら、これぐらいの事、耐えられる。耐えなければと  息苦しく詰まった息を吐く。

   休み時間ごとにトイレに駆け込んだ。吐くために。給食も喉を通らなかった。食べ物がお腹にない  のに吐き気だけは続く。

   廊下で、向うから歩いてくる男の子と目が合った。懐かしさで涙が出そうになった。

  黒目が大きく、啓子おばさんに似た顔は間違いない慎ちゃん。だけど目が合っても、興味なさそう   に、そらされた。覚えてない? 6年の歳月がとんでもなく長い事だったと実感した。都合がよすぎ  る自分が情けなくなった。自分がフィンランド、フランスと楽しく過ごしていた時は会いたいと思う  事すらなくて、毎日が楽しくて仕方がなかった。それなのに自分が辛いからと、慎ちゃんに助けを求  めるように会いたいと願ったことを、してはいけない事だったのだと自分を責めた。トイレに駆け込  み泣いた。泣き声を外に漏れないように袖をかみしめて。

   慎ちゃんの家に挨拶に行くと言う母に、行かないと言ってマンションを飛び出した。

  今更、行っても仕方がない。慎ちゃんは覚えていない。どんな顔して、合えばいいのかわからない。  まして私は、ちゃんと喋る事が出来ない。そんな私を見て欲しくはない。

   約6年ぶりに帰ってきたこの町は、随分と様変わりしていた。慎ちゃんと駆け回っていた田んぼや  空き地は、今ではすっかり閑静な住宅街となっている。おしゃれなお店があちこちにできていて、知  らない土地に来た感じがした。気が付いたら、あの展望公園に来ていた。慎ちゃんとこれを探しに来  た場所。ここだけは、昔と今も変わっていなかった。虹玉を競争のように探した。でも虹玉はなく   て、暗くなって道がわからなくなって、おまわりさんに捕まって、長い時間を二人で待った。迎えに  来た母たちに、こっぴどく怒られた。

   慎ちゃんがくれたこの虹玉、私たちが大好きな絵本から飛び出してきたように、きらきらと輝い   て、これは本物の虹玉ではなくてビー玉と知っていても、これには奇跡の力があると信じた。慎ちゃ  んがくれた物だから。でも奇跡は起きなかった。どんなに助けてと願っても。どんなに父と母を笑顔  にしてと願っても、何も変わらなかった。ううん。むしろ願ったことが罪であるかのように、状況は  悪化した。

   慎ちゃんは、私を忘れている。会いたいと願ったのは自分勝手な罪。

  ふいに、馬鹿馬鹿しくなった。こんなおもちゃのビー玉を握りしめて、私は何をしてたんだろうと。

  何もかも嫌になった。こんな物は要らない。握った虹玉を投げ捨てるために振り上げた。

  『ニコ!』

  呼び声に、心臓が止まるかと思った。久しぶりに呼ばれた名前、ニコニコのニコと慎ちゃんがつけて  くれた、お気に入りのあだ名。

   見られた。私がこれを捨てようとしているのを。慎ちゃんがくれた宝物だったのに。

  『戻って来てたんだ。 あの、ごめん、学校で気が付かなくて。氏名が変わっていたから、わからな  かった。』

   やっぱり。慎ちゃんは私をわからなかった。取り残された孤独。

  『・・・・・ごめん。それ偽物なんだ、駄菓子屋で見つけたビー玉。あの後、探したんだけどな見つ  からなくて。それで・・・』

   わかっている。そんなこと、これには奇跡の力なんて無いことぐらい。

  『し知ってる...。ば馬鹿だ、私。』

   本当に馬鹿だ。ビー玉だとわざわざ指摘された。笑える、偽物にすがった自分が恥ずかしかった。

   慎ちゃんとの再会は、どんな感じだろう。もしかしたら、慎ちゃんの前なら普通にしゃべる事が出  来るかもしれないとも思っていた。だけど、やっぱり無様な言葉しか出ない。惨めだった。何も考え  らなくなった。

  『か返す』

   違う、違う、何もかも。こんな言葉じゃない。私が話したい言葉は。

   耐えられなくなって、その場から逃げた。


 そう、違う。今、謝らなければならないのは、無茶をした事じゃない。あの時に言えなかった事。

 もう、逃げてはいけない。

「に、虹玉、す捨てようとしたの。 ずっと、あ謝ろうと。」

 何から話せばいいか、文章を組み立てられない。溢れ出てくる感情に任せた。だけどやっぱり声は出にくい。

「ひ、酷い事を、しした。が頑張った、んだ。ご、合格したと聞いて。 と、特待しかないと。

 こ声、だ出す、れ練習を、 い一緒にい居たいと。もももう、い一度。あ、あの頃の、」

 こんなに泣いたのは何年振りだろう。父の葬式でも涙一つ出なかった私は、やっぱり悪い人間だと思ったんだ。

 なのに何故、今、私は泣いている?

 慎ちゃんがそっと私の頭をなでる。

 懐かしい慎ちゃんの優しさに、止めようとしても涙は止まらなかった。

「あ、ありがとう、し慎ちゃん。も持っていてくれて。」





 涙声で言ったニコの言葉はくぐもって「持っていてくれて」と言ったのか、「待っていてくれて」と言ったのか、慎一には聞き取れなかった。

 待っていた。

 ずっと。ニコが帰ってくるのを。

 こうしてまた同じ町で生活をし、走り回って、笑い合う日が来る時を信じて。

「おかえり、ニコ。」

 あの冬の空、展望公園での再会時に言えなかった言葉を、

 やっと慎一は言えた。 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ