クリスマス色の現実 前編
慎一は固まった体を伸ばしながら遮光カーテンを開けた。差し込んだ光が目に眩しく痛い。時計を見れば、昼の一時を過ぎている。12時間寝ていたことになる。
もう電話は来ただろうか。いや電話が来ていたら、流石に母さんも起こしに来るはず。
こんな時間まで起こされなかったという事は、やっぱり選抜には入らなかったって事。
窓を開ける。冷水のような空気が部屋に流れ込んで来て、慎一は身震いした。一気に部屋の空気は澄み渡る。
人生、そんなに甘くない。
窓を開けたまま、部屋を出る。ゴムが緩くなったジャージのズボンを手で持ち上げながら階段を降りた。この間、ジャージの裾がずれたまま階段降りたら、踏んで階段を踏み外し、危なく下まで落ちるところだった。この手すりがあったから2段落ちで助かったけど。この手擦り、昔はなかった。慎一が中一の2月の後半に鎖骨を骨折した時、ぐるぐる巻きの包帯姿に驚いたりのが、何を思ったのか、突然、慎一の屋から飛び出し階段を駆け降りた時、派手に転げ落ちた。折り返しタイプの階段だったから10段落ちで済み、身体が小さくて柔軟だったから、無傷で済んだ。そんな事があって、母さんがすぐに大工を呼んで手すりをつけてもらった。もし、この間、全国大会前に階段から落ちて骨折でもしていたら、自分は寂しく応援席で皆の歓喜を眺めていたと思うと、ぞっとした。よく、怪我なしで挑めたものだと思う。
トイレを済ませ、洗面で顔を洗う。鏡に映った自分の顔、変わりない。寝ぐせの髪を水で濡らして押さえつけた。
治らない。すぐに諦める。こういう努力はしない。洗面所は寒いし、暖かいであろうリビングへと足早に入る。
「今度は誰?ったく、あたしじゃねーっつうの!」
炬燵に潜り込んだえりが、顔だけ出してスマホの画面に文句を言っている。我が家は、冬になったら炬燵が登場する。
父さんが個人経営を始めた店が成功して、そこそこに上流階級の仲間入りをしたとはいえ、基本は団地住まいだった庶民の生活習慣は抜け出せない。母さんは店で接客をするために、毎日化粧して、髪を結って、いつ、どこに出ても恥ずかしくない恰好でいるけれど、定休日は化粧もしないで父さんと二人してジャージ姿で炬燵に潜り込んでいる。冬はやっぱり炬燵よねぇなんて言いながら。今のえりはまさしく二人のDNAを受け継いでいる。そのえりの機嫌が悪い。下手に声かけたらロクなことがない、無視してキッチンに行く。
「あー腹減ったぁ。」独り言が無意識に出る。きっとキッチンの冷蔵庫の前に来るたびに、慎一はそのフレーズを言っている。
「ちょっと慎にぃ!いい加減にして!」いきなりの喧嘩口調。
「あぁ、悪い。今から昼飯、作るから、もうちょっと待て。」
「昼ご飯じゃない!これ見てよ!」
慎一は冷蔵庫横に置かれたバケットの中の、店の残りもんのパンを頬張る。
「んあぁ?」えりは炬燵から腕を伸ばしスマホをこっちに向けている。見えるわけねーだろっという突込みは辞めておく。
「昨日から、今ので98だよ!」
「何が?」
冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。ついでに、冷蔵庫の中の食材チェック。昼飯、何にするか。と悩む前に、定番のチャーハンに半決まりで、冷ごはんの存在を確認する。
「何がってぇ、優勝おめでとうメールだよ!昨日の試合、終わった時から、ひっきりなし!あと2件で百だよ。百!。」
「良かったな。チャーハンでいいかぁ。」
「うん。チャーハンでいい。って、良くないわ!」
「えーチャーハン嫌なら何がいいんだよ?」
「え?いや、チャーハンはいいの!」
「どっちだよ。」
「その前の!良かったなが、うわぁ、また来た!99!。ノイローゼになる!」
なるわけない。えりの気質でノイローゼになってたら、世界中の人がノイローゼだ。
ったく朝から何を騒いでんだか。あっ昼かもう。もう一つパンを口に頬張る。
「慎にぃのせいだからねっ。あたしが優勝したわけでもないのにぃ。」
「はいはい、すみませんね。で、チャーハンで良いんだな。」
「だからっ、さっきからチャーハンで良いって言ってんじゃん!しつこいよ!」
人に飯を作ってもらう態度じゃないよな、どう聞いても。
いつもなら、その口調を注意するところだけど、今日はやめておく。
昨日の全国大会優勝後から、我が家の携帯と家の電話には、おめでとうのメールや電話が沢山かかって来ていて、大変な事になっていた。慎一のスマホにも家で観戦していた同級の友達からのメールが多数送られてきていたけれど、サッカー部以外で携帯番号の交換をしている友達なんて数少ないから、昨日の晩にはそのメールのやり取りも落ち着いた。しかしえりはまだ続いているらしい。その数100人近いと言うから、えりの顔の広さに驚く。
「通信料、高いって、あたしが怒られるじゃん。」とえりは口をとがらせて、手慣れた速さでスマホを操作する。
慎一は腹の虫おさえに3つ目のパンを口にくわえながら、冷蔵庫から取り出した食材を切り始める。
隣でフランス料理を営む我が家は、何かしらの食材が切らすことなく冷蔵庫に揃っている。小3の夏休みに中々店から戻ってこない母さんに、しびれを切らして慎一は自分で野菜炒めを作って食べたのがきっかけとなって、料理に目覚めた。腹を空かせたえりも、おいしいと言って。なんだ料理って簡単にできるじゃん、と思った。いつものごとく「遅くなってごめんねぇ」と帰って来た母さんは慎一が初めて作った野菜炒めを食べて、「おいしい」と顔をほころばせた。その時の母さんの「おいしい」って顔が、100点のテストを見せた時よりも嬉しそうで、とても良い気持ちになった。しかし、今から思い返えせば、よく母さんは怒らなかったと思う。小3で勝手に包丁使って、火も使って。冬はどんなに寒くても大人が帰ってくるまでストーブは禁止、炬燵だけって言われていて、火なんて使ったら怒りそうなもんだったのに。ほんと母さんの子育てっていい加減というか、筋が通っていないと言うか、慎一達は放置それてきたのだと思う。さつきおばさんは以前に、子供をほっとくのも勇気がいるものよ。っ言っていたけど、勇気?母さんのは、ただのいい加減なだけだ。あの母さんが勇気を絞りだすような繊細さを持ち合わせているわけがない。
焼豚が無いので代わりに豚肉に、みじん切りした野菜類を炒めて、一旦、皿に取り出す。中華鍋を更に熱している間に、卵を冷蔵庫から取り出し割って溶いておく、中華鍋から煙が上がっているのを確認したらレンジで温めなおした冷ご飯を投入。
したところで家の電話が鳴った。
チャーハンは、これからが忙しいってのに、タイミングの悪い。
「えり、電話、取って」
「えー。」舌打ちしてから、えりはだるそうに炬燵から這い出た。
「えり、いい加減にしろよ。その悪態。」慎一の注意も聞かず、えりは炬燵の上にあった子機電を取って出る。だけどその声は低く、不機嫌の声色。
「はい、新田です。・・・・・えっ、なんて?。じぇ?。」
慎一は中華鍋を振りながらえりの電話応対を見守る。
「日本サッカー連盟?」
「ちょっと待て!えり!変われ!」慌てて火を止めて慎一は炬燵まで駆け寄る。
「はぁ?えりにチャーハン作れってかぁ無理じゃん!」
「ちがッ!電話だ!ばかっ貸せ!」。
「日本サッカー連盟です。常翔学園三年生、新田慎一君ですね。ユース16の日本代表候補として選ばれました。つきましては冬休みの選抜合宿に参加できるかどうかの確認のお電話です。」
はぁ~、全く集中できない。もう期末テストまで3日しかないというのに。
苦手な社会は学期末範囲の半分も覚えきれていない。中間テストは5教科オール満点を取って、皆を驚かせた・・・・らしい。
おぼろげな記憶、皆が『凄い真辺さん』とか言ってくれているの、覚えているけど、ぼやけていて今一つ自分のじゃない感覚。
その中間テストの問題がどんな問題だったか、全く思い出せない。本当にテストが満点だったのかと心配になったから、凱さんにもう一度、同じ問題を用意してもらって解いてみた。総得点976点、英数理は元々得意だから200点満点だったのは普通に納得。ちょっと自信のなかった国語が満点だったのは純粋にうれしくて納得。
問題は社会、176点。それをどう考えるべきか・・・24点のマイナス。全くわからなくて記入出来ない所が3カ所もあった。あと根本的に間違って覚えている所が3か所、誤字が2か所、満点の答案と見比べて、どう理解して納得していいかわからず、唸った。
やっぱり、中間テストで満点を取ったのは私じゃなくてニコなのか?と考えたら、1年からずっと学年トツプの座をキープしてきたのはニコであると言う事に・・・ではトップの頭脳があるのになぜ、英語が全くわからなくなった?という疑問にぶち当たる。
数学と理科は先行しているフィンランドから、授業の教科書やノートを送ってもらって英語脳で勉強しているから、英数理だけはりのが担当していた。とこじつけな設定で納得すれば、そんな短時間でりのとニコが入れ替わって生活していたと思うと、つくづく都合のいい頭してるなと、もう自分がほんと嫌になる。
私が前回のテストと今回のテストを見比べて唸っていると、凱さんが「徹夜で覚えた記憶なんてすぐ忘れるよぉ~」と緩く笑う。
あんたがそれを言うか?辞書を丸ごと覚えて忘れない特殊脳のあんたが、という突込みは、ため息を吐いて捨てた。
さらに凱さんは、「学年2位の906点とは大差だから、そんなに深刻にならなくても。」と言う。それでも唸って解答用紙を見比べていたら、「何だったら3人にも、やってみてもらう?点数落ちるから。」て、付き添っていた慎一と柴崎と藤木に、凱さんは笑顔を振りまいた。3人は、声を揃えて絶対嫌だと叫んだ。
中間テストで満点を取ったのが、りのとニコどっちであれ、学園中では、真辺りのが次に取る点数に妙な注目している。
「期末テスト、楽しみね」と私の事をあまり良く思っていない教師陣のその言葉は、嫌みとしか聞こえない。
こそこそ囁かれる同級生の視線は、下世話に迷惑でしかない。
今回の社会の範囲は近代史~政治経済の仕組みまでで、歴史と比べるとまだわかりやすく憶えやすいのが救いだけど、基本嫌いな科目なので、やっていても面白くないから、集中力は続かない。気づけば頭の中は別の事を思い出していて、書き綴っている手は止まっている。
自分の中で昨日の余韻がまだ残っている。自分が優勝した時よりも興奮した喜びが胸に、思い返せば自然と顔がほころぶ。
全国中学生サッカー競技大会に優勝した慎一。2対1で、勝ち越しのゴールを決めたのはキャプテンでエースの慎一だった。前半の先制点は2年生の慎一と同じ特待でスタメンに選ばれていたFWの永井君で、勝ち越したゴールと共にアシストをしたのは藤木だった。素人の私でもわかった、藤木のアシストのうまさ、慎一はいつも、あいつのアシストは、本当に欲しい所にピンポイントでボールが来るからやりやすいと言っていた。まさしく黄金コンビ。試合終了のホイッスルで、二人駆け寄って抱き合った姿に感動して、柴崎と手を取り合って泣いた。
家に帰って、録画したおいたケーブルテレビの中継を見る。我が家は集合住宅だからネットやケーブルテレビの回線が棟内すべて開通している。その費用が家賃に入っている仕組み、貧乏だけど、そういうのはうれしい事に環境が整っていた。
観客席でずっと見ていて、すべての試合運びを覚えているというのに、同点ゴールを入れられた時はどうしようと焦って、
さらに後半の慎一のゴールで喜んで、試合終了のホイッスルで藤木と抱き合って喜ぶ慎一の笑顔のアップで、大泣きした。
ママが仕事から帰ってきてから、夕飯後に2度目の録画再生で、今度はママの涙につられて泣いた。
観客席では慎一の姿は小さいからどんな顔をしていたのかはわからない。だけど、テレビに映った慎一の凄味ある表情や、ゴールを決めた時の喜びの顔が頭にインプットされて消えない。初めて慎一をかっこいいと思った。
「はぁ~、今日は駄目。」シャーペンをノートの上に投げおいた。勉強は諦めて部屋を出る
リビングでアイロンがけをしているママに、ちょっと外に出てくると声をかけた。
「コート着て行きなさいよ。」
また部屋に取りに戻る。
「暗くなるの、早いから早めに戻ってきなさいよ。」
「うん、ちょっと気分転換に散歩するだけだから。」
「車に気を付けるのよ。」
小学生じゃないんだから、という突っ込みは言わない。ママにとっては、いつまでも心配なのは、わからなくもない、特に私は。行方不明になって心配かけたことが2度もあるから。ママの知らないところではキャンプでも行方不明者になっちゃった。人生3度・・・ん?慎ちゃんと虹玉探しに行って、おまわりさんのお世話になった。あれも含めたら4度!うわー15年の人生で4度って、すごい。私ってつくづく迷惑な奴なんだ。とため息が出た。
玄関を出て防寒でポケットに手を入れる。財布が入れっぱなしになっていた。エレベーターに乗ってから出して財布の中身を確認。1538円の残金、予想以上に残っていた。そうだっ、コンビニ行ってプリンを買おう。朝の情報番組でやっていたコンビニの新商品特集でのプリンがおいしそうだった。我が家から一番近いコンビニは駅へ向かう途中一分足らずの所にあるけれど、そこはテレビでやっていたコンビニとは違う。散歩も兼ねているのだから、もう少し長く歩きたい。マンションロビーを出る時には、通学方向の県道167号線沿いのバス停近くのコンビニへと足は向いていた。柴崎曰く殺人的寒さは、今日は幾分まし。それでも柴崎は寒いを連発するだろう。プリンが食べられると思うと寒さなんて吹っ飛ぶ。あの甘くとろける食感を思い出すだけで、体の体温は1・2度上昇している。
子供の頃から大好きなプリンは、毎日の主食替わりになってもいい。という話を、昨日のハーフタイムの時に言うと、『太るわよ。』と柴崎はそっけない返事をされた。双眼鏡でベンチの様子を観察している柴崎は、こちらに見向きもしなかった。プリンの為なら、太ってもいい、誘拐されてもいいと言ったら、『じゃ、プリンを毎食後に食べさせてあげるから、柴崎家の養子になる書類に判子を押すのね。』とやっと振り向いて、にやりと笑う。一瞬、心が揺れた。柴崎家の財だったら、シェルダンの店のプリン一体いくつ買えるだろう。いや、店ごと買収も出来るんじゃないか、と考えて、悪魔のささやきに心が折れそうになる自分の頬をビンタした。
♪露「素敵な日はプリンのある朝、素敵な日はプリンのある昼、素敵な日はプリンのある夕方、素敵な日はプリンのある夜」
ロシアのCMの曲、耳に残って、よく口ずさんでいた。本当はプリンのフレーズの所は紅茶の固有名詞だったけれど。
パパの仕事の関係で移り住んだフィンランドは、ロシアの国境近くの街で、昔はロシア領だったという経緯もあり、住民はロシア語を話す人が多く、テレビも一部ロシアの番組の電波が届いていた。
学校では英語が公用語で、フィンランド語はあまり馴染みがない。
♪露「素敵な日はプリンのある朝、素敵な日はプリンのある昼、素敵な日はプリンのある夕方、素敵な日はプリンのある夜」
すれ違った年配の女性が、私の言葉が日本語じゃないのに驚いて、驚愕に振り返られる。
ロシア語は日本では中々聞くチャンスがない。英語は映画などいくらでも聞けるけど、ロシア語は国営テレビのロシア語を学ぼうの1番組だけ。言語は使わなければ忘れてしまうから、少しでも耳馴染みをつけておこうと、その番組を見るのだけど、基礎過ぎてこれを忘れたら終わりだなってレベル。
枯葉が目の前を通り過ぎて、足元に落ちた。
フィンランドは、もうとっくに雪に閉ざされていると、友達からのメールに書いてあった。日本はコンビニの窓に偽物のスプレーで書いた雪の結晶の飾り付けと偽物のクリスマスツリー。街は銀色には輝かない。
友達は、「良いな、日本に行きたい」と言っていた。だけど私は、「帰りたい」フィンランドへ、フランスへ。
県道167を渡る信号が、青で点滅し始めた。走る。渡りきってもそのままコンビニまで走った。自動扉の前で駆け足を止める。開く。
リズミカルなクリスマスソングが流れていた。信仰のないクリスマスは滑稽で恥ずかしい。
サンタクロースが住むと言われるフィンランドのクリスマスは、もっと静かで厳粛だ。クリスマスの飾り付けももっと地味で宗教的。
プリンの棚に直行。あった、CMでやっていた【釜出し濃厚焼きプリン】新商品ってシールが貼っている。結構高い。150円ぐらいかなって勝手に想像していた。でも高いって事は、やっぱりおいしいって事だ。2個食べたい。二つで496円。うーんと悩む。そろそろ、フィンランドに続きの漫画も送ってあげたい。スターリンで稼いだバイト代は、もうほとんどなくなっていた。キャンプで使って、残ったお金は、日本の漫画を中古書店で買ってフィンランドに送ってあげるのに使った。フィンランドの友達は、簡単な漢字なら読める同級生が多くなっている。漫画は、難しい漢字はルビがついていて、日本語の学ぶには最適なテキストだ。
キャンプのあと、こっちでも人気の忍者系少年漫画を15冊ほど送ってあげた。「最高に面白いよ。」って、同級生の間で回し読みしてスクール中が忍者ブームになっているとのメールが送られてきていた。その漫画の早く続きが読みたいと催促されていた。
ふと、視線に気づき振り向く。レジのアルバイト、学生らしき男の人二人が、私の方を見てひそひそとしゃべっている。
やばいっ、変な子と思われている?
急いでプリンを一個、手に取る。もう一つ取るべきか。取らざるべきか。496円が高いか安いか。
自動扉が開いて、外の喧騒と共に、女の子たちの大きな話し声が入ってくる
「そのサッカーの試合に出てた常翔のキャプ、新田って言うんだけどさぁ、小学ん時の同級生なんだよね。」
「へぇー。」慎一の事だ。思わず聞き耳を立ててしまう。
「それがさぁ~、ものすごいカッコよくなってて、びっくりした~。」
「うそ、イケメン?」
「うんうん、イケメン、それに常翔のキャプだよ。昨日のテレビ、ずっとカメラ追っかけてて、解説でも将来有望って言っててさぁ。」
「常翔って金持ち学校じゃん。」
「だって、この先の信号左、ちょい行ったところにあるフランス料理店、知ってる?テレビも結構、取材来てたりする。」
「知ってる、知ってる。」
「あそこん家の子だもん。」
「うそー、イケメンに金持ち、常翔のキャプって・・・何で捕まえとかないの!」
「そうなんだよ!って言うか、小学ん時は、あんなに格好良くなるとは思ってなかったんだよね。」
「見る目ないなぁ・・・・」
「おとなしいタイプで、女子と、しゃべんなかったんだよね。顔はまぁ悪くはなかったけど、ほら小学生の時って顔より面白い子、しゃべりがうまい子がモテてたじゃん。」
「あぁ、そうそう、うちの小学でもそうだった。」
「新田はスポ少やってるとかって、学校終わったらさっさと帰ってさ、地域の子供会とかも不参加だったんだよね。同級とは一歩引いた感じあってさ、でも昨日のテレビ見て、ほんと惜しい事したぁって身もだえたわ!」
私の知らない、慎一の小学校時代を話す女の子たちは、店内を一周するように、近づいてくる。
「写真とかないの?」
「小3の時のクラス写真なら家にある」
「小学校時代じゃなくて、今のだよ」
「あたしは持ってないけど、ネット探したらあるんじゃない?」
「それより、そのフランス料理店、行ってみたらいいんじゃない。」
「店に居る?それにこんな格好で嫌だよ。行くなら、ちゃんと・・・。ま、真辺?」
その女の子たちと視線があった。慎一の話をしていたのは小6の三学期だけ私と同じクラスだった、平山さん。もう一人は、見知らぬ人だけれど話しの内容からして、私達が通っていた小学校とは違う出身の子だろう。二人は地元の公立中学校のジャージを着ていた。
「あっあっ、ひ、ひらっ」驚きで息が詰まる。言葉にならない。
「誰?」
「小六の三学期に転校してきた同級、その常翔を特待で入った子」
「常翔の特待ぃ!マジ?」
「ごっご、ごめ、ん」
謝らなくちゃいけない事は何もないはずなのに、二人の視線に条件反射の悲しき身体反応、手が震えてくる。
彩都市に引っ越してきて、一言もしゃべらない私に同級生たちは、私を幽霊だとささやくようになった。髪の毛も長かったからまさしくのコメント。東京でされたような、筆箱や上靴をゴミ箱に捨てられたりとか、教科書やノートに悪口を描き込まれるとか、掃除道具入れに閉じ込められたりとか物損被害は、こっちではなかったけれど。私が常翔の特待に合格したことが、どこからか知られて広まると、腰掛で転校してきた奴とささやかれ露骨に避けられた。それもあと一か月半の辛抱と思って、自分では傷ついているつもりはなかったけれど、でもこうして、手が震え、吃音が酷くなるという事は、私、傷付いていたんだ。と判明する
「・・・・サッカー部の優勝おめでとう」平山さんはそれまで、私を煙たげにしかめていた顔を変えて笑顔になった。
「あっあぁ」
平山さん隣の子が、不審な目で私を見つめる。
「新田君って元気?昨日の試合、テレビで応援してたんだけど。凄いね。同じクラス?」
「あ、の・・・・」
(ね、何こいつ、さっきから。これでほんとに特待?)隣の女の子が平山さんに囁く。
「わ、わった、い、い急い、いでる、」辛うじて絞り出すように声に出し、私は震える足を無理に動かして、レジに走った。
「なに?あれ?」
「あぁ、そういえば、転校してきた時、先生が、日本語が苦手だから、喋れなくても指摘しては駄目ですよって言ってたの思い出した。」
「はぁ?日本語が苦手って何それ?」
平山さん達の会話が背中に突き刺さる。
「248円です。」
コートのボケットから財布を出そうとしても、手が震えて中々取り出せない。
「長い間、海外に住んでたとかって」
「マジ?どこの海外よ。」
ポケット縫い口に引っかかって取り出せない財布を強引に引っ張り取り出す。
「そこまで知らないなぁ。」
「じゃ、英語ペラッぺラって事?」
「スプーンはご入り用ですか?」
店員の質問に、うなづいて答える。小銭口のチャックを震える手で空ける。
「まぁ、そう。だから特待に合格したって話。」
「君、常翔学園の生徒?」話を聞いていたのか、店員がそう話しかけてきた。それに答える余裕なんてない。500円玉をトレーに置いて、プリンの入った袋を手に持つ。
「あそこは英語教育バリバリだもんねぇ。」
「さっき、こいつときれいな子だねっどこの学校の子だろうって話してて、あの子達の声が聞こえたから。常翔の中等1年生?」
いっ1年生って、完全に身長で予想したな。
「でもさぁ海外で住んでて英語ペラペラで特待合格って、なんか・・・・」
「昨日のサッカー見たよ、君は何のクラブしてるの?あそこはクラブ必須なんだよね。」
「卑怯じゃない?」
平山さん達の会話と、店員たちの会話が同時に耳に入って来て、もう頭がパニック。
走って店内から逃げ出した。
「あっ、ちょっと、君、おつり!」
おっしゃー、と慎一はガッツポーズをとる。ユースの日本代表の強化合宿に参加できる。
しかし勝手に参加できます。って言ったけれど、良かったのだろうか。と壁に張ったカレンダーを見たが、特にこれと言って重要な世手は書かれていない。詳しくは学園を通じてお知らせしますって、言われて電話は切られた。
合宿って費用はいらなんだろうか?いや、日本の代表なんだし、要らないだろう。いや、まだ代表じゃない。合宿後に代表の正式メンバーが決定される。という事は、やっぱりタダじゃないはず、などと、変に金銭的な事を心配している自分に苦笑した。お金の心配などしなくていい階級になったのに、今年はずっとお金の心配をしていたりのに感化されちてしまった。
「うっさい!慎にぃ!ぶつくさとキモイ。」
「声、出てかぁ?」ニヤついている自分を自覚する
「ばっかじゃないの!声が出てるか出てないかもわかんないなんて。っていうかチャーハン!」
「あぁ、悪い」
中断していたチャーハンを作り上げて、2つの皿に盛り分ける。
「出来たよ。」
「はぁーい」と返事だけは素直に炬燵から這い出てくるえりは、携帯電話から目をはなさない。
二人分のチャーハンをダイニングテーブルに運び、慎一は食べようとして、スプーンを置く。やっぱり、母さんに確認を取った方がいいかもしれない。お金の事じゃなくて、違う事で駄目ということもありうる。と一度座った椅子から立ち上がり玄関に行く。えりは携帯を操作しながらスプーンを持とうとしている。一度叱らないと駄目だなと思いつつも、慎一は代表の合宿の事で頭がいっぱいだった。玄関で草履を履く。うちは店舗と家が引っ付いていない、店の方が先に建って、経営が順調に繁盛してから隣の空き地を購入して家を建てた。店の厨房側の入り口に行くには玄関に出てから、店の表側に出て、店舗正面入り口を過ぎて家の玄関から対角の場所にある店の裏戸に行く外回りか、もしくは、玄関を出て家の敷地と店の間の細ーい通路?っていえるのかどうか知らないけど、たまに蜘蛛の巣が張ってるのを手で払いのけながら、身体横気味にしてすり抜けていく内回りの2種類がある。せめて、家の裏に勝手口を作ってくれたらよかったのにと言ったら、「あら、ほんとね気づかなかったわ。」と相変わらずいい加減な母さんの返事。父さんに「何故言わなかったんだよ」って言ったら、「マイホームは母さんに任せてた、口出ししたら怖いだろ」と小声で返された。
玄関内の鏡を見て内回りと決める。寝癖が酷い。身なりに無頓着な慎一でも羞恥心はある。表回りでこのヨレヨレなジャージと寝ぐせ姿を誰かに見られるのは恥ずかしい。
扉を開けると、見慣れた我が家の玄関アプローチの向こうに人影。そして奇声
「きゃ、新田君!」
慌てて、玄関を締めた。
「マズイ!」
「不味い!」
えりの怒りと慎一の悲痛の叫びが、奇跡のハーモニー。
「最悪。何、今の、黄色い声の女子達・・・」
「最悪!何よこのチャーハン、最低の味!」
あっ、調味料を入れるの、忘れてた。
「ここよ!後半27分、相手のパスワークを止めてからの、この新田の方向転換、それから立ち上がりドリブル、二人のマーク振り切る時のぉ、これ!なんなの、この技。まるで新田の体に磁石があるみたい!それから、左、フリーになってた、あんたにパス回して更に上がって。コーナーで詰められて、あんたのフェイントの駆け引きもすごいわ。それからゴール前の誰もいない所に、センタリング、ミス?って思ったところに新田がすっと現れて、ボレーシュート!の勝ち越し点!。最高!何度見てもいいわぁ~感動!ケーブルも、よくぞこの角度から撮影していてくれたわ~。もう一回見よう。」
マジかよ。昨日から何回目だよ。自分の姿をずっと見せられる、こっちの身にもなれよ。と亮は心の中で悪態ついた。
昨日、試合が終わった後、学園は保護者会とで祝賀会を学園の講堂で開催してくれた。5時からスタートした祝賀会は歓喜の興奮が冷めずに夜の8時までかかった。寮生の亮は本来なら6時半が門限で帰らなければならないけれど、凱さんが気遣ってくれて寮には柴崎邸で預かると連絡してくれて、門限関係なしに遅くまで参加することができた。
サッカー部の同期の寮生は入学当初、亮を含めて4人いた。でも最後まで寮にいたのは亮一人。一人はきつい練習後に洗濯やら自分の身の周りをする事に疲れて、まだ一時間半の通学の方がマシと言って早々に脱落。もう一人は元々家族でこの付近に引っ越して来るはずだったのが親の仕事関係で延期になった為の期限つきだった。最後の一人は去年の冬に練習試合で骨折、元々疲労があった膝だったからその骨折が決定打となってしまって、サッカーを辞めてしまった。
2年と1年の寮生は昨日だけ特別として7時まで参加して、凱さんがまとめて送り届けていた。
亮だけが外泊を許されて遅くまで祝賀会に残れたのは、祝賀会が引退式も兼ねていたのと、ユースの日本代表選抜に優勝校である常翔学園から出るという話があったからだった。その電話が早ければ大会終了後すぐでもあることが多く、その選抜選手が、新田はもちろん、二点共のゴールアシストをしたのが亮だった事で、二人が選抜に選ばれるという憶測で昨日は盛り上がっていた。そういった事を見越しての配慮だったが、電話はまだない。
柴崎邸の住み込みのお手伝いさんである木村さんは、亮の汚れたユニフォームやジャージを洗ってくれて、朝にはホテル並みにビシッとアイロンのかかった状態で揃えてくれていたし、昼ごはんもごちそうになって、もう柴崎邸に滞在する理由はなかったのだけど、何気に選抜決定の電話が来るのではないかという期待に、帰れずにいた。
柴崎の同じシーンでの同じ悲鳴と感嘆の声にイラつきながら、携帯に届くメールの返信をする。サッカー部以外の学園の友達、寮仲間と卒寮していった先輩たち、おまけに昔付き合っていた彼女達まで、昨日の試合終了後から続々とおめでとうメールが来ていて130人を超えた。亮はただ一つ、昨晩から返信を保留にしているメールを開き、内容を読み直す。を5回以上を繰り返していた。
1年のバレンタインに告白されて付き合った同級生、2年の春には「ごめんなさい、なんとなく怖いの」と言って別れた短い交際期間だった彼女からのおめでとうのメール。
『ケーブルテレビで観戦していました。優勝おめでとう。とてもかっこよかった。
サミトリーホールのクリスマスクラッシックコンサートのチケットがあります。
お祝いがしたいです。』
初めての交際だったこともあり、亮は彼女の事を大事に扱い、彼女の話題に合わせられるように、クラッシックの知識を詰め込んだ。彼女は幼少の頃からピアノをしていて、常翔学園では吹奏楽部に入っていた。発表会があると聞けば行って鑑賞した。彼女が何を思い、何をしてほしいのか、人の本心を読み取る能力を、最大限に利用した。だけどそれが行き過ぎた。彼女は亮のピンポイント過ぎる干渉を不審に思い、気味悪がり、耐えられなくなった。興味のなかったクラッシック音楽の良さがわかり始めた頃に切り出された別れ話。そういえば、彼女が別れようと考えている事を、亮は読み取る事が出来なかった。柴崎のお母さんが言ったように、亮自身の経験の範囲でしか読み取れないという法則が、ここに当てはまる。交際している彼女から別れを切り出されるという経験が初めてだった。その法則の証明として、その後に付き合った子は、別れたい気持ちを、事前に読み取れるようになっていた。
メールの文面だけでは、彼女の真意はわからない。彼女の恋心が再燃したのか、それとも本当にお祝いだけがしたいのか。または、クリスマスコンサートに行く相手として思いついただけなのか。
誘いに応じた方がいいのか、断るべきなのかを亮は迷っていた。亮自身に彼女に対する恋心はもうない。もしかしたら初めから無かったのかもしれない。ただ告白してくれた事実がうれしくて、女の子には優しくという亮の信条ゆえの、思い込みだったかもしれない。
その信条に基づき、彼女が傷つかないように返信をしたいのだけど、本心を読み取れない現状では術がなく、ただ保留の時間を延ばすだけになっていた。メールありがとうから先の文面が続かない作成ページを閉じる。
小さく息を吐いたら、部屋が静かなのに気づいた。顔を上げると柴崎が、テーブルに肘をつき、手のひらに顎をのせて、亮をじっと見つめていた。録画鑑賞は終え、画面は黒くなっている。
「なんだよ。」
「お返し。」
「何の」イライラの感情が声に出ていることを自覚する。大多数のおめでとうメールは、ありがとうと返信をすると、さらに今どうしてるんだとか、今度、飯でもおごってやるとかで一人一往復では済まされない。結構、疲れていた。
「いっつも、私のばかり読まれているから、逆に私も読んでやろうと思って。」
「馬鹿馬鹿しい。」亮は木村さんが淹れてくれた紅茶の入ったティーカップに手を伸ばす。
「ムムム」柴崎は目頭に力を入れる。「読めました」
紅茶は完全に冷め切って冷たくなっている。
「今、見ているメールは、女子からでしょう。それも元カノ。返信をどうするか迷っている。」得意げに眉を上げる柴崎の表情すらも苛立たしい。柴崎は、何かを思い出すようにして、ななめ上の天井に視線を上げた。読み取っているのではなく、それは推理、もしくは勘。
「相手は、えーと、夏に付き合ってた2年のくるみちゃん!」亮に指をさす。
「はずれ。」
「ちよっと!当たってるのに、はずれって言ってんでしょ!」
「言うかよ。」
「じゃ、見せなさいよ!」柴崎は椅子から腰を上げ、テーブル越しに手を伸ばして携帯を取ろうとする。
「やめろよ。うぜぇなぁ。」
「うぜぇて・・・」
しまった。
柴崎とは、クラスも生徒会も一緒で、ここ最近は日曜の練習や試合にも見に来ていて、ほぼ毎日会っている。気遣いのしない関係に遠慮もなくなっていた。この屋敷に泊まるのも3度目で、いとこのような感覚だ。
そして柴崎は亮が本心を読み取る事に何故が嫌がる事がなく、注意を払う必要がない。
「ごめん。疲れてんだ。」卑怯な言い訳だなと思う。柴崎はしゅんとなって椅子に腰を下ろした。
骨董品級の豪奢な柱時計の動作音だけが部屋に響き渡る。
イライラは、柴崎のせいじゃない。
返信のできないメールのせいでもない。
全ては自分の中にある。
連絡のない、ユース16の日本代表候補の選抜。
馬鹿みたいに期待した自分が苛立たしい。
昨日の祝賀会の時は「俺なんて無理っすよ」なんて答えていた。
謙遜が下手な演技だとわかっていた。
新田と優勝旗を手に入れた。その実績が揺るがない自信となって、
亮は、らしくない夢をみてしまった。
不味いと叫ぶえりの皿を取り下げて、自分の分のチャーハンと合わせて、また炒めなおす。今度は調味料も入れて。
家の前にいる女子は一体、何が目的なんだろうか?慎一は首をかしげながら中華鍋を振る。
外に出られなくなった。
「ほい。できた。」もう一度えりの前にチャーハンを置く。ありがとうの返事もなく、えりは、まだ携帯をいじっている。
「ぎゃー!見て、これで100!ありえん。」
「わかったから、携帯置いて、ちゃんと食べろ。」
えりは大きなため息をついたら、素直に携帯をそばに置いて食べ始めた。
「ねぇ、さっきのサッカー連盟って何?」
「あぁ、ユース16の選抜に選ばれた。」
「ニュース16?」
「ユース、16才以下の日本代表チームの事。冬休みに合宿あるから参加できるか?って電話だったんだ。」
「ふーん。」
サッカーに全く興味のないえりは、それがどれだけ凄いことかわかってない。2年置きに世界大会がある。尊敬する大久保選手も高等部の時にU-18で選ばれていて、世界大会に行った。
「冬休みって、ずっと?」
「あぁ、多分、正月も関係ないかも。わからないけど。」
「えーじゃ、柴崎邸のクリスマスパーティどうするの?」
「まぁ無理だな。」
「えーそれ、酷いよ!ドタキャンじゃん!」
「まだ、先だろ!ドタキャンじゃねぇ!」
「今年はえりたちも呼んで、盛大にやる!って先輩、すっごい気合い入れてたじゃん。しぃーらない!柴崎先輩怒るよ~。こっわー。」
「柴崎も昨日、中等部からユースが出るの、楽しみにしてた。」
「あーそうなの?」
えりは昨日テニス部の練習があったから国立に応援には来ていない。当然、夕方からあった祝賀会も来てなくて、祝賀会の場で持ち切りだったユース16の選抜の噂話も知らない。藤木のところには電話があっただろうか?
携帯は上に置きっぱなし、起きてからメールチェックもしてない。
チャーハンを急いで口に駆け入れる。まだ口に入ったままごちそうさまを言って立ち上がる。
「えり、友達が遊びに来る約束なんてしてないよな。」
「してないよ。何で。」
「いや・・・何でもない。」
だよなぁ。新田くんって君だったもんなぁ。チャーハンの皿をキッチンの桶に沈め、玄関に向いているキッチンの窓をそっと開けて外をのぞいて見る。
やっぱり居る。3人。誰だろうかと考えても、わからなかった。常翔の生徒ではなさそうだ。
「なにやってんの?」
えりが不審げに同じように外を見ようとするから、慌てて閉める。
「あーいやなんでもない、ない。」
眉間に皺寄せて明らかに、馬鹿にした顔を見せて、持っていた皿を慎一と同じく桶に沈める。
「ごちそうさま。」
何故だかわからないけど、昔から、いただきますより、ごちそうさまは絶対に言わなければ、母さんと父さんに叱られた。えりもどんなに機嫌が悪くても、ごちそうさまは言う。双子のように一緒くたに育てられたりのも同じで、食に興味がなくて小食でも、ごちそうさまを言う小さいころの習慣は、海外生活を経験しても抜けてなかったようで、常翔の入学後、初めて食堂で見かけた時、まだ友達のいなかったりのは一人で寂しく給食を取った後、口がごちそうさまと動くのを見て、慎一はうれしかった。
えりは携帯を持ってまた炬燵に潜り込んだ。期末テスト前だと言うのに、勉強をする気は全くない様子。慎一も人の事は言えない、昨日の興奮がまだ抜けきれないで、とても勉強なんてする気になれない。
慎一は使ったフライパンや調理器具を洗ってコンロを拭く。食器は後で母さんが食洗器に入れるから洗わなくていい。母さんは、『調理器具も、洗わないでいい、食事を作ってくれるだけでも大助かりなんだから』と言うけれど、父さんが調理場を綺麗にしているのを見たら、やらずにはいられない。汚れを落とした布巾を干して時計を見ると、2時。
昨日、柴崎邸に泊まった藤木は、寮に戻っただろうか?
慎一は二階に駆けあがる。自室のベッドの下に転がっている携帯を拾う。充電のコードが繋がったままスマホを操作する。
作りかけのメール作成画面が出てきた。そうだった。グレンに返信メールを送ろうとしていた。ひらがなばかりのメール作成中に力尽きて寝てしまったらしい。これの続きは後にする。フランスはまだ朝の6時だから、もしかしたらまだ寝ているかもしれない。
それよりも藤木だ。着信はなかった。メールもなし。
開けぱなしのドアから、階下で玄関の扉が開く音がする。
「ごめんね~。えり。昼ご飯食べたぁ?」母さんが帰って来た。慎一はまた階段を駆け下りる。
「食べた。」
「母さん!電話来た!ユース16の日本代表候補!」
「あら~本当。良かったわね~。えーと充電、充電んとぉ、あれ?どこに置いたかしら。」
「でさ、冬休み、合宿に来れるかって聞かれて、行けますって答えたんだけど、良かった?」
「ちょっと慎一、母さんの携帯の線しらない?」
「知らないよ。」
「ちょっと探して!あと少ししか電池、無いのよ!」
「えー炬燵の下とかじゃないの?っていうか、母さん!合宿!行っていいのかって聞いてんだよ!」
「どこでも好きなところ行ったらいいでしょう。小学生じゃないんだから、それより線よ、線。充電の線、どこ行ったかしら?えーと昨日、そうよ、寝る前に切れたから寝室持って行ったんだったわ。」母さんは慎一を押しのけてリビングから出ていく。
慎一はため息を吐いて肩を落とす。母さんも知り合いからのおめでとうメールが多くきていた。祝賀会から戻って来た昨日の夜は、新田家は珍しく静かだった。3人ともメールの返信が忙しくて。父さんだけが、ケーブルの録画を遅れて見ていて、この子は誰だとか、この子がこの間、店に来た保護者会の長谷川さんの息子さんか?とか、母さんに質問して、うるさいと怒られ、しゅんとなっていた。
母さんが、寝室から携帯の充電器を持ってきて、リビングのコンセントに差し込みながら言う。
「そうだ慎一、家の前に女の子が来てるけど、えーとあの子、なんて名前の子だったかなぁ。ほら、あんたが小4の時に同じクラスで。ピアノ習ってて。ほら、いつも髪の毛2つ括りにしてた。」
「知らん!覚えてない!」
「何言ってんの、合唱コンクールの時、ピアノ伴奏してたじゃないの。ほら、森、山?森田?」
「森島愛里さんだよ。えりと同級の森島陸斗のお姉ちゃん。」えりが答える。
「あーそうそう。森島愛里ちゃん。ほか二人も顔は見たことあるんだけど、名前は知らないわね。」
あーそんな名前の子、居たなぁと慎一は記憶を辿る。だけど、明確な記憶があるわけじゃない。慎一は、少年サッカーチームに1年生から入部していて、学校が終わったら走って帰宅し、宿題を済ませて、彩都市と隣市を分ける彩流川河川敷のグランドに通いサッカーの練習を夕方6時までやっていた。慎一の通う小学校では、野球の方が人気で、少年野球チームが彩都市の中でも二つあって、サッカーしているを慎一は稀な存在だった。りののような孤立はしていなかったけれど、放課後に同級生と遊んだという経験が乏しく、地味な小学生生活を送っていた。
「あんた、待たしてるんじゃないの?」
「してねーよ!あれのおかげで、さっき外に出れなかったんだよ!んで、母さん、そいつら追い返してくれた?」
「しないわよ。出来るわけないでしょう。」
「何でだよ。出れないじゃん。」
「自分で何とかしなさいよ。あんたの友達でしょう。」
「友達じゃない!」
「あーぁ、また、りのりの泣かせちゃう~。」炬燵から顔だけ出したえりが、変な節回しでニヤつく。
「えっあんた、りのちゃん泣かせたの!?」
「泣かせてねーよ。」何故、りのの話になる?
「慎にぃが、あんなテレビに出てモテちゃうから、りのりのも、あたしも迷惑するんだよ。」
あんなテレビって・・・サッカーをまじめにやってるだけなんだけど。
「みてよ、お母さん、昨日からのメール。お兄さん紹介してって、メアド知らない子からも来んだよ!?いい加減うんざり!」
「あら、ほんと、凄いわね。モテ期ね、モテキ。」えりの携帯を覗いた母さんは、慎一の腕を肘で突く。
「面倒だから、全部、彼女、居てますって、送ってやった!」
「はい?」
「そしたらさぁ、もう今度は、それ誰?って返ってくんだよ。あーほらまたぁ・・・・」
えりの携帯の着信音が鳴る。
「真辺りのって、常翔1頭が良くて超美人の彼女ですっ写真付で送って、やっと終わるんだよ。」
「待て!俺たちは付き合ってないし!写真って、何の写真送ってんだ!」
「えー慎一、まだ、りのちゃんを、ものにしてないの?じれったいわねぇ~。」母さんとえりの話が、ややこしく交差する。
「え?何言ってんだ母さん。それより、えり写真ってどれ?」
「これだけどぉ」
「りのちゃんを、他の男に取られたら、どうするのよ!」
えりが向けてきたスマホの写真を見たら、文化祭の仮装していた時の写真。りのは柴崎が用意した白いドレスで、慎一はドラキュラの衣装で、体育館でチークを踊ろうとしている時の、慎一がりの肩に手をかけて、抱き寄せているアングルだった。
「やめてくれよ。プライバシーってもんを考えろ!」
「あら~素敵。いいショットね」
「でしょう。これ永久保存もんだよ。感謝してよね慎にぃ。」
「はぁー楽しみだわぁ。りのちゃんのウェデングドレス姿。あんた早くりのちゃんと結婚しなさいよ。」
「ば、馬鹿言うなよ、付き合ってもないのに、話、飛ばすなよ!」
「そうだよ、慎にぃ、りのりのと結婚すれば、りのりのはこの家にずっと居れるじゃん。そしたら、えり、宿題困らなくて済むーぅ。」
「馬鹿か!俺らは、まだ中学生だ!」
「16で結婚できるんじゃなかったかしら?あと1年じゃない。急がないとぉ。」
「学生結婚してどうすんだ!」
「いやーね。慎一、変にまじめで。そんな、もたもたしてたら、ほんとにりのちゃん取られちゃうわよ。あれだけの美人さんなんだから。」
「そうだよ。急げ急げ。」
駄目だ、新田家の女に口で勝てるわけがない。大体、何故にこんな話になった?
「もう、勘弁してくれよぉ。」
えーと合宿の話・・・行って、いいんだよな?
信号を曲がって、登り坂に差し掛かった所で、全力疾走の足を止めた。口から吐く白い息が風に流され消えていく。
まだドキドキして、手が震えている。やっとクラスメートと仲良く出来るようになって、日本語も少しはスムーズに出るようになったから、もう大丈夫だと思っていた。なのに、孤独と惨めが混じった恐怖は、まだ私の中に残っていた。
家に帰るつもりが、つい新田家の方に来てしまっていた。走って喉がカラカラになった。新田家に寄ってお茶をもらう事にする。慎一、家に居るかなぁ?まだ、おめでとうを言ってない。
優勝した慎一は試合の後、ケーブルテレビと雑誌とかの取材を受けていて、とても話の出来る状態じゃなかった。私は啓子おばさんの車に乗せてもらって応援に来ていた。試合終了後に開かれるサッカー部保護者会主催の祝賀会の準備しなくちゃならないおばさんと一緒に、慎一と顔を会わずに早々に帰って来た。慎一達選手は学園が用意したバスで試合会場に来ている。啓子おばさんも柴崎も、祝賀会に私も参加していいと言ってくれていたけど、本来なら関係者以外は参加してはいけないのだから、当然に遠慮した
昨日の祝賀会は引退式も兼ねていると聞いていた。なんとなく、自分の弓道の引退より寂しい。しばらく、二人の真剣なプレイは見る事ができない。高等部に進学するまで。
フランス料理店の店舗が近づいてくる。駐車場には高そうな車が止まって、窓越しに白いカッターシャツにスカーフタイをした黒いショートエプロンの店員さんが店内を動く姿が見えた。今日も忙しそう。店の角を曲がり店の隣が新田家で、門前に人が並んでいた。
同じ年ぐらいの女子が、私の気配に気づいて振り向く。
「真辺・・・。」驚愕に目を見開いた森嶋さん。
どうして?今日はなんて日・・・森嶋さんは平山さんと同じく同じクラスだった。他の二人は、名前は知らないけれど、覚えがある。同じ小学校だった同級生。
記憶が呼び起こされる。胸がズキリと痛んだ。
『何で、あいつ一言もしゃべらないんだ?』 『幽霊みたい。ずっと下向いて。』
『幽霊の方が、まだ、しゃべるぜ、うらめしやって』
『常翔の特待だってよ。』 『特待って何? 』 『タダで行けるらしいぜ学校』
何かを話しかけられる前にダッシュで逃げた。山の方へ。一体、今日は何だって、過去をえぐる人にばかり会うの?
坂道がきつい・・・・線路脇の金網に手をかけ足を止めた。
ここは、ニコの意識でいた時、小さい慎ちゃんと小さい私で蟻の巣を見つけた場所。今は蟻も働いていない。
もう冬だもんね。それともあの時、私が吐いちゃったから、引っ越したかな。そりゃ嫌だよね。汚物の雨が降ってきたら。
ごめんねぇ。蟻さん達。
小さい慎ちゃんと小さい私は、現れない。
当たり前か、あれは幻。
展望の光の中に消えていった。
でも、とても鮮明でリアルな記憶。
この手に小さい手の感覚がまだある。
繋いで階段を登った。二人の笑顔が心強かった。
りのでは会えないのかな?
行ってみよう展望に。
会えるかもしれない。
(私では藤木の気持ちに寄り添えないのだろうか?)
人の本心を読み取るその能力、人は良い心ばかりじゃない。誰もがある腹黒い思考、そんな人の薄汚れた裏の顔を見続けることが、どれだけの苦痛だろうか。
麗香は一度、『その能力、どうにかして止める事できないの?』と聞いたことがある。
藤木は、『アニメやヒーロー戦隊じゃあるまいし、スイッチ一つで止められるか。読むって言ってるけど、わかってしまうって言った方が正解だ、視覚で捉えた情報を頭が勝手に分析してしまうんだと思う。だから止めようと思ったら、目を閉じ続けるか、脳を壊すしかないだろうな。』と笑われた。新田と喧嘩した後ぐらいから 藤木の溜息が多くなったような気がしていた。喧嘩したからだと思っていたけれど、仲直りしてもそれは少なくならなくて、さらに多くなってきていると感じていた。常翔祭や、りのの事、おまけに昨日までの全国大会のプレッシャーもあったから、ストレスが溜まっていると思っていたのだけど。全国大会も優勝して、それは喜びに消えると思いきや、消える所か今日は特に酷い。
藤木の溜息は大きくない。人目を背けて小さくそっと吐く息は、取り込んだ人の黒い部分を吐き出しているかのように辛そうだった。
だから、麗香は努めて明るく振る舞った。録画の、その最高の藤木の笑顔を何度も見て。
「やめろよ。うぜぇなぁ。」
「うぜぇて・・・」
「ごめん。疲れてんだ。」
(私では藤木の気持ちに寄り添えない。じゃ、一体誰なら藤木の、この溜息を取り除いてあげることが出来るの?)
麗香は、藤木を生徒会に引き入れた。今年の生徒会は60周年記念行事や、大久保選手の表敬訪問などの意義ある年で忙しかった。藤木は通常でも一番忙しい書記に立候補し、その持つ能力を生かして、生徒会の人間関係までにも気を配り、暴君になりがちな麗香の言動もコントロールしてくれていた。麗香は藤木の細やかな気配りに頼り切って、いつしか、それが当たり前のようになっていた?
藤木にとってウザイ存在になるほどに。
藤木は携帯に目を落とし、麗香の方を見ようとしない。
疲れているのはわかる。だけど・・・
「そ、そうだよね。ごめん。」
部屋の柱時計が動く秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
「私・・・藤木に頼り過ぎていたわ」
「悪かった。」低い声でつぶやく藤木。
「私いつしか、それが当たり前になっちゃって、」
「ごめんって。」
「ウザイよね、感謝も出来ない女なんて」
「やめてくれ。」
「今まで、あり」
「柴崎!」座っていた椅子を倒して立ち上がった藤木の右手は、グーに震えていた。
唇をかみしめ苦痛の表情。
お礼を言わせてもらえないほど、そんなに私の本心は黒いのだろうか?『私にはあんたの力が必要なの』と言った私の心は。
藤木は首を振る。
「俺は、うれしかった。この能力を必要だと言ってくれて。礼はそれで十分。」
そんな言葉がお礼になるなんて、想像以上に、その力は藤木を疲弊している。
「悪かった、俺もお前に甘え過ぎた。」
どうして、辛い思いをしている人ほど自分に厳しいのだろう。
りのと藤木は似ている。
携帯の着信音が鳴った。藤木が携帯を確認する。
「新田から。」
りのには、新田が寄り添っていた。じゃ藤木は?
誰なら藤木に寄り添えるのだろう。
亮の言葉に傷つき落ち込む柴崎の、戸惑う感情から視線を外して、電話を出る。
「おっす藤木、今どこだ?寮か?」
新田の陽か陰かわかりやすい第一声。本人は気づいていないが、調子の良い時は第一声が『おっす藤木』、良くない時は『おぉ藤木』
だから、新田は夢をつかんだんだなと、わかった。
「いや、まだ柴崎邸。」
「あのさ、俺、ユースの電話が来た。」
「良かったな。おめでとう。」
「藤木は?」
「無いよ。」
柴崎が勢いよく立ち上がり、部屋から出ていった。理事長のいる書斎へ確認に行ったんだろう。
「寮の方に電話があるんじゃないのか?」
「寮より、ここの方が一報は早いんだぜ。それに、昨日も言ったろう、おれのレベルなんていくらでもいると。」
「俺は、お前が一番だと思ってる。」
「あのなぁ、新田慎一だけのアシストがうまくて日本代表なんか務まるわけ、ないだろう」
「あぁ、でも藤木なら他のやつとも、うまく出来るようになれるじゃん。」
「何を長期的に、かまえているんだ。連盟が欲しいのは、今スグ使えるやつ、だからお前が選ばれたんだろ。」
「俺、お前と出来ないなら・・・・」
「その先、言ったらぶっ飛ばすぞ!」叫んだ瞬間に、目の奥から後頭部にかけてキーンと痛みが走った。
「ごめん。」
新田とサッカーをすると楽しいだろうなと思ったとおり、楽しかった。新田の技術は、誰よりも軍を抜いてうまかった。
面白いようにアシストしたボールがゴールに入った。
とっくに捨てたものが、もしかしたらまだこの手にあるんじゃないかと自分は勘違いをした。
「電池が、そろそろ切れそうなんだ。切るぞ。」嘘をついた。携帯の充電は70%もある。亮自身の電池が切れそうだった。
「あぁ、ごめん悪かったな。じゃまた明日な。」
ごめん新田、今日はお前のフォローが出来るほど、気持ちに余裕がないんだ。
また走る目の奥の痛み、亮は左手で眉間を押さえる。
「痛っう。」
寝不足だろう。体も気怠く重い。
倒した椅子を起こして、足元に置いてあった鞄をかつぎ部屋を出た。
屋敷の奥、理事長の書斎の前で柴崎が部屋に入ろうとせず、立ち尽くしていた。
藤木の所に電話は、まだない。
どうして?
チーム全体を見渡し、今、何が必要で、誰が何をしなければならないのかを判断する能力は、誰よりも長けているというのに。
このメダルだって藤木がいなければ絶対に手にする事は出来なかったった。慎一が藤木のアシストがなければ、ゴールできなかった事ぐらい、連盟だって見抜いているはずだ。実際に広島戦の時、慎一のマークがきつくてどうにもならなくなったのを打開したD案の戦略で、先陣を切った藤木の戦い方は際立っていた。慎一の贔屓目が過分に入っていると言っても、膠着状態だったのを打破したのは間違いない。
あの時の藤木の動きを連盟が見過ごしている筈がない、トーナメントに上がって来た学校の選手をすべて見て、選抜すると言っていたのだから。
藤木の声が沈んでいた。慎一だけが先に夢をつかんでしまった。明日どんな顔で声を、かけたらいい?
「はぁ~。」慎一は大きく息を吐いた。
夢だった全国優勝を叶えたってのに、昨日の歓喜の余韻は一気に萎んだ。
とりあえず、このよれよれジャージを着替えよう。りのに、このメダルを渡しに行かなくてはいけない。約束した一か月遅れの誕生日プレゼント。
クローゼットを開け、適当に一番上の取りやすい位置にあるGパンとパーカーを取り出して着る。これをやると母さんに嫌がられる。同じ服ばかりになるじゃないと。ファッションの事はわからない、母さんがバーゲンで安かったからと買ってくるのを着るだけ、そうやって、クローゼットの上にある同じ服ばかり着ていたら、全く袖の通してない服がいつの間にか小さくなって着れなくなって怒られた。
藤木は着る物にも博識だ。私服を見る機会は少なかったけど、見る度に違う服を着て、ファッションの事は良くわからない慎一でも、おしゃれだと思った。
また携帯に手を伸ばし、真辺家の家に電話をかける。さつきおばさんが出た。
「慎一だけど。りのは?」
「さっき気分転換に散歩するって出かけて、まだ戻ってきていないわ。」
「何時ごろ出た?」
「んー、2時前、一時45分ぐらいだったと思うけど・・・。」
時計を見たら、もう2時半になっていた。
前回の中間テストが驚異のオール満点だった為に、あらゆる人たちから、次はどうだろうと注目を浴びていた。そのプレッシャーが重くて辛いと言っていたりの、勉強の合間の散歩にしては長い?どこに行ったんだろうか。
「俺、りのに用があるから、その辺、探してみる。もし帰ってきたら携帯に電話頂戴。」
「わかったわ、いつもごめんねぇ慎ちゃん。それから優勝おめでとう。」
「ありがとう。」
「ちゃんと夢つかんだわね。」
「おばさんが、あの時、目を覚ましてくれたからだよ。」
「ふふふ、もう慎ちゃんの呼び名も卒業ね。慎一君。」
「あっいや・・・なんか、慣れないよ。」
複雑な気持ちで電話を切った。
皆、大きな事をやり遂げたなと褒めて認めてくれるのは素直にうれしいのだけど、その度に何故か寂しさが募った。おばさんの卒業ねで、それが何故なのかわかった。自分は昨日も今日も変わらないのに、もう大人ねと繋いでいた手を放される寂しさ。
椅子に掛けてあったダウンベストを羽織って、メダルをポケットに突っ込んだ。
リビングを覗くと母さんが居なかったから、えりに出かけてくると声をかけて玄関に向かう。
音を立てない様に扉を開けて外の様子をのぞくと、さっきまの女子達は居なかったから、慎一はほっと安心した。諦めたのか、母さんが追い返してくれたのか、どちらかだろう。
店の前の角を左に曲がり、店内で母さんがお盆を手に働いているのを横目に、坂を軽く駆け下り始めて、慎一はふと足を止めた。
振り返り見上げる。
薄曇りの冬空、山も寒そうに鈍くどんよりしている。
体温を奪われていく手をダウンジャケットのポケットに入れて、止めた足を踏み出す。三歩歩いて再び足を止めた。
どうしても足が前に進まない。振り返り山を見上げた。
気になる、山が。
二度あることは三度ある。
そこに居るとは限らない。
だけど、絶対そこにいるという変な確信。
慎一は踵を返し、駆けた。
虹玉とりのを探しに行った、あの展望へ。
助走をつけて右足で踏み込み、左足で木の側面を蹴って、展望の柵の上に立った。
少しでも高い所から景色を見たいと思ったけれど、目の高さに太い幹がせり出していて、視界を遮られた。
ちょうど新田家の方角が見えない。向うに飛びおりた。幅1メートルもない先は崖になっている。
ぎりぎりの所まで行って、下をのぞいて見た。
光輝く彩都の街並みに孤を描いて落ちていった虹玉の入ったチャーム。
「ないね・・・・」
声に出してみても、小さい慎ちゃんと小さい私は現れなかった。
今日は薄曇り、光の反射がないので逆に街並みの彩がはっきりと見える。
柵にもたれかかる。スーパーの袋が策に当たった。そうだ、ここでプリンを食べよう。スプーンももらっているし。
スーパーの袋に入っている財布をポケットの中に入れ直し、はっと気がついた。
おつりを貰っていない。パニックになって飛び出してきちゃった。最悪・・・。
クリスマスカードを送るのに、お金、足りるかな?続きの漫画本も一緒に送ろうと思っていたけど、漫画は次の機会まで待ってもらうしかない。フィンランドとフランスの友達には毎年クリスマスカードは欠かさず送っている。12月に入ったらカードを用意して、少しづつ書いて送っていたけど、今年はまだ1通も書けていない。
柵の縁にジャンプして飛び座った。縁の幅が狭いからちょっと不安定だったけど、足を策に絡めて身体がぐらつかないようにすれば大丈夫。プリンの蓋を開けて一口。なめらかな甘い味が口に広がる。おいしい。
「皆に会いたいなぁ」
数日前、フィンランドの友達から送られてきていたメールには、冬時間に切り替わる前に冬到来のお祭りをする写真が添付されていた。みんな楽しそうだった。
もう一口、甘い味はすぐになくなる。
「楽しい時間はあっという間だね。」
そう言ってポポ爺が大きな手で頭をなでてくれた記憶がよみがえる。
フィンランドに住んでいた時の隣の家のお爺さん、私にロシア語を教えてくれたポポ爺は、アレクサンドラ・ステファノピッチ・ポポフというのが正式名で、長いから略してポポ爺、元ロシアの軍人さん。左足がひざ下から無くて義足をつけていた。戦争で失ったと。よく庭のベンチで義足を外して膝の傷口をさすっていて、私が隣の庭に猫を追いかけて入ってしまった時に、声をかけてくれたのがきっかけで、仲良くなった。私にロシア語を教えてくれた優しいおじいちゃんだ。
何度か町はずれにあるロシアとの国境の検問所を見に行ったことがある。そこでは車が国境超える為に並んでいて、警備員が一台づつ荷物検査や書類のチェックをしていて、ゲートが開かないと人も車も通る事が出来なかった。
国境のない日本にいた私には不思議な光景だった。向うの空も大地も区切りなく同じなのに、どうして人は自由に行けないんだろうと、ポポ爺に言ったら、『そうだね。国境のない世界はどんなに幸せだろうね。』と膝をさすっていた。当時、戦争って何かを知らなかった。キルギスの町が戦争の度に、ロシアとフィンランドの領土争いで血が流れた歴史がある事も。
ジュニア3年になってバスケのクラブチームに友達と入った。学校終わりにポポ爺に合う事が少なくなり、しまいには合わなくなった。ポポ爺とお話する事よりも友達とバスケをすることの方が楽しくて忙しくなったから。そんな時、ポポ爺が入院したと聞いて、大きな病院にお見舞いに行った。ポポ爺はよく来たねと頭をなでてくれて。「りのに会えて少しは償いが出来たかな。」と寂しそうに笑った。その言葉の意味が分からなかった私は、その場しのぎでただ笑っていた。ポポ爺はそれから1週間後に亡くなった。ポポ爺が死んでから知った。ポポ爺が先の戦争で軍人だった時代、沢山の日本人を殺していたと。りのにロシア語を教えることが、爺の罪滅ぼし。日本人の役に立つことが出来るって、いつもりのを心待ちにしていた。とポポ爺の家のおばさんが教えてくれた。
『りのちゃんが、病院に来てくれた日の後ね、ポポ爺は、ずっとりのは天使だと言っていてね。りのが爺を天国に連れていってくれる。爺は幸せだよと、言っていたの。ありがとね、りのちゃん。』
その時、もっとポポ爺の所に遊びに行けばよかったと後悔した。
露「ポポ爺、りのは天使なんかじゃないよ。」
プリンが無くなった。
露「おいしい時間も、あっという間だね、ポポ爺。ごちそうさま。」
さっきまで勉強していた近代史が、ポポ爺が経験した大戦の歴史、良く知ろうと、図書館で本をいっぱい借りて読んだのに、フィンランド、ロシア、フランス、日本の歴史はすべて違っていて、調べれば調べるほど混乱した。だから仕方なく日本語で日本の歴史を丸覚えしようとしていたけれど、全く集中できなかった。大好きだった慎ちゃんが慎一になって喜ぶ笑顔。それが頭から離れない。
私の顔にサッカーボールをぶつけた慎ちゃんは、私が日本にいなかった5年半の間、ずっと努力し練習して、夢をつかんだ。
薄曇りが所々切れて、晴れ間がのぞく。太陽に照らされた屋根がキラキラと光った。
『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』慎ちゃんはそう言ってキラキラの光の中に消えていった。
ニコは、りのが捨てようとした虹玉を大切にしていた。
虹玉が光の中に消えた時、ニコの絶望した感情が私の中にある。
もう、りのはとかニコがと考えるのは無意味なのはわかっている。
どっちも私、なのだから。
自分の事なのに、分からないことだらけで、自分じゃないような、であるような、区別された記憶がある事に気持ち悪い。
りのとニコが合わさって、もうすぐ一か月になろうとするのに、まだ時々ニコの記憶が掘り起こされて悲しくなる時がある。
ニコがと他人のように言ってしまうこと自体おかしいのはわかっているのだけど、ニコの記憶と、りのの記憶の境目がくっきりある内は、言い訳のように考えてしまう。村西先生は、「そのうち境目はなくなるよ」なんて言ってるけど、本当だろうか。
「はぁ~。」
大きなため息を吐く。白い息が口から出て消えていく。
溜息と一緒にすべてが消えてなくなればいいのに。何度吐きだしても胸の奥にあるモヤモヤとした物や、悩みはなくならない。
楽しい事ばかりを考えていた昔に戻りたい。
毎日が楽しくて、楽しくない日がある事すら疑う気持ちすらなかったフィンランドとフランスの日々。
りのと合わさった今は、来る未来に恐怖は感じないけど、来る未来が楽しい物ばかりじゃないと知ってしまっている分、明日を心から楽しみに迎える事が出来ない。
これって、いろんな事を知って、いわゆる大人になったって事?
嫌だな。大人って。あれ?
ついこないだまで、大人になれない自分が不安でたまらなかった。成長が止まって、皆に置いていかれる事が怖くて、慎一や柴崎や藤木に八つ当たりもした。
『大きくなれない私を心配するんだろ』
生理も始まって大人になったら今度は大人が嫌だって、ほんと勝手だよね、私って。
私もつかめるだろうか、慎一のように夢を、
っても、まだ自分の夢が何かを見つけてもいない。
空中に大きな円を描く。目を二つ。笑った口。世界共通のピースフェイス。
露「素敵な日は笑顔のある朝、素敵な日は笑顔のある昼、素敵な日は笑顔のある夕、素敵な日は笑顔のある夜」
最高のフレーズだ。
「りの。」
突然名前を呼ばれ、びっくりした。バランスを崩して、
やばい、落ちる・・・・
「ひゃっ!」
どうして、藤木ばかり、世の薄汚い物を背負わなければならないの。
私はお父様の部屋のドアノブを回せず立ち尽くしてしまった。
中から聞こえてきたお父様と凱兄さんの会話があまりにも理不尽で、手が怒りに震えた。
「私もそれは言ったんだが、まだ週刊誌の記事は記憶に新しい。ここで藤木亮の名前が連盟から出るとまた、マスコミは八百長だ何だと騒ぎかねないと、藤木君はまだ若い、今リスクを負わなくても、次のユース18もあると。」
「そんな!次に期待って、そんな簡単に次の候補にホイホイと挙がれるほど甘くないでしょう、スポーツってのは。」
「それも言ったさ。サッカー連盟のボスは文部科学省だ。あの時、常翔学園は生徒の管理不届きを教育監査から指摘されていた。そこをつかれた。」
「あの週刊誌事件で藤木君の非はどこにもない。そもそもの原因は連盟の不透明な会計が元で派生したガセネタです。非の元の責任を問うなら、藤木君より連盟でしょう!連盟が選手の可能性をつぶして、どうするんですか!」
「これ以上の反駁は、新田君の選抜に影響が出る。」
「なっ!脅迫ではないですか!」
「・・・・・・・・」
「藤木君の戦略とMFとしての技術は、あの全国を勝ち上がって来た選手の中でもトップクラス、そして新田君とのコンビネーションも抜群で、昨日、連盟の理事会の面々も絶賛していたじゃないですか。その技術を連盟は捨てて、本気で世界と戦う意志があるのですか?」
「・・・・・・」
「連盟は一体、誰の為に、何のためにあるんです!」
「凱斗、何もずっと藤木君を選ばないとは言っていない。世間の記憶が薄れれば・・・」
「それは大人の都合です。大人の都合に子供の成長を合わせるなんて出来ない。そんなの無理だ。」
「・・・・・・・」
「文部の官僚に知り合いがいます。僕が・・・・」
「やめるんだ、凱斗、お前はもう連盟に顔が知れている。お前が動けば、動いた事実が藤木君を永遠に沈めてしまう。」
「くっ・・・・」
「いいか、凱斗、お前は絶対に動くな。藤木君の未来を思うなら、今は連盟に屈するしかない。」
中から、ドンという、振動を伴う大きな音が聞こえてきた。
凱兄さんの言う通り、藤木のアシストは完璧。それが新田だけに特化した技術だとしても、そのパスが出来る技術そのもの自体も評価されるもので、そもそもその技術がなければ、新田へボールは通らない。藤木は新田の才能を埋もれさせない様に、足を引っ張らないように、常に努力をしてきた。それは約二年見続けてきていた麗香が認める。練習が終わっても、トレーニングルームで筋トレをし、生徒会で練習時間が少なくなった時も、宿題は休み時間に済ませるなどの工夫をして、少しの時間を無駄にすることなく、練習の時間を作っていた。それに加えて、フィールド全体を見渡し瞬時に構成を組み立てる戦略は新田より優れていた。
素人の麗香でもわかる事を、何故、連盟はわからない?
くだらない大人の世間体が、藤木の努力をつぶす。
連盟は一体何を見て、何を目指しているのか。
これだから日本のサッカーレベルはまだまだだと言われるのよ。
麗香は唇を噛んで、見えない扉の向こうの大人たちを睨んだ。
玄関ロビーで扉が開く音が反響する。振り向くと藤木が鞄を担いで外へ出ていく。
麗香は走って追いかけた。
(駄目よ、今、藤木を一人にしては)
ステンドグラスのはめ込んだ重い扉を開けて麗香は外に飛び出した。モコモコのルームシューズのまま。
藤木は大股で、門とエントランスの中央にある桜の植え込み花壇の向うを歩いている。
「待って!」
ルームシューズで砂利道を走るのは足の裏が痛い。でもこんな痛さ、藤木の心の痛さに比べたら・・・
麗香は必死の思いで、藤木に追いつき手を伸ばす。ボストンバッグの紐に手が引っかかり、藤木の肩からバッグがずり落ちた。
「待ってって!」
藤木は落ちたバッグに足を止めて、屈んだ。
「木村さんに、ありがとうって言っといてくれな。」ボストンバッグを手に取り、肩にかけ直す藤木は麗香を見ようともしない。
「藤木!」
「あと、理事長や凱さんに、お世話かけましたって」
「嫌よ!自分で言いなさいよ!」
麗香の言葉を無視して門の方へ歩き出す藤木。
駄目、絶対に一人にしては。私達はいつも皆で乗り越えて来たじゃない。辛い事は1/4に楽しい事は4倍に、私達は共有して乗り越えて来た。
「駄目よ、帰さない。」藤木の前に回り込んで、麗香は両手を広げて進行を防いだ。
「柴崎、悪いな、昨日、興奮してあまり眠れなかったんだ、眠くて・・・、寮に帰って寝るわ。」
目じりに笑皺を作って笑う藤木、その皺は人の汚れた本心を読み取り、傷ついた傷。
「嘘よ。」
「嘘つく必要がどこに」
「その笑顔が。」
「・・・・・・」
「どうして笑うの?どうして悔しいと、どうして辛いと泣かないのよ!」
「泣く?何、言ってる。泣くことなんて何もないじゃないか。」
「藤木は、私と新田は似ていると言ったわ。私は、藤木とニコは似ていると言うわ。」
藤木は上げていた口角を落として、目尻の皺を濃くして目を細める。
「ニコは、あの無表情の奥に、受けた傷と罪を閉じ込め隠していた。藤木は、その笑顔の奥に、読み取った人の黒い本心によって傷ついた心を隠し覆っている。」
(本心を読まれても構わない。これが私だから、)
「ニコには、ずっと新田が寄り添っていた。」
麗香は、表情を無くした藤木の顔に右手を伸ばし頬に触れる。
冷たい・・・
「私じゃ、駄目?」
誰がじゃなく、
(私が藤木に寄り添う。)
柴崎は、廊下の奥で、理事長の書斎に入ろうとせず、扉の前で立ち尽くしていた。その横顔で、柴崎が何を聞きとって中に入れなくなっているのか理解する。亮はユース16の選考から落ちたのだ。
笑いがこみあげてくる、自分が傷付いている事に。
何故傷つく?
手に入れた夢は、幻想だったのだ。
新田の夢に重ねた幻想。新田が向かっていく夢のレールに自分も乗れると思ってしまった。
新田が掴んだ夢を、自分が掴んだ夢だと喜んでしまった。
全部、勘違い。言葉通りに夢物語。
そう、全て、あの時、わかっていたはずだ。
影響する藤木家の現実を。
サッカーだけは、冒されない自分の物だと信じていたのも、幻想。
藤木家の血が亮に流れている限り、無影響ではいられない。
そんなの、嫌と言うほどわかっていたはず。
何を今更、自分は絶望しているんだ。
柴崎邸の重厚に装飾された扉を押し開ける。どんよりと曇った低い空。
息がしにくい。
そうだ。この景色が現実、この雲り輝かない景色が。
晴天に恵まれて光り輝いていた表彰式、称賛に笑い絶えなかった祝賀会。あれが幻想だったのだ。
「待って」柴崎の声を無視して歩む。
あぁ、面倒だ。ほっとけばいいのに。
「待ってって!。」
肩にかけて持っているボストンバッグが引っ張られて、足元に落ちた。
身体が重い。この曇り空のように。
あぁ、だから、これが現実。
落ちたバッグを持ち上げ肩にかけ直す。
「木村さんに、ありがとうって言っといてくれな。」
「藤木!」
「あと、理事長や凱さんに、お世話かけましたって」
「嫌よ!自分で言いなさいよ!」
面倒だ。
りのちゃんが、ずっと心を閉ざしてきた気持ちが良くわかる。
一人になりたくても、ほっといてくれない。
人と関わるのって時にほんと、ウザい。
りのちゃんのように、心を閉ざしたら楽なんだろ。
門へと歩く。
「駄目よ、帰さない。」亮を回り込んで柴崎は両手を広げて進行を防いだ。
「柴崎、悪いな、昨日、興奮してあまり眠れなかったんだ、眠くて・・・、寮に帰って寝るわ。」
「嘘よ。」
「嘘つく必要がどこに」
「その笑顔が。」
「・・・・」
「どうして笑うの?どうして悔しいと、どうして辛いと泣かないのよ!」
「泣く?何、言ってる。泣くことなんて何もないじゃないか。」
そう、泣く事なんて何もない。辛いと泣くのは、予想と反しているから。
自分はもう、すべてを知っている。すべてが幻想だったとわかった。わかっているのに泣くなんて、おかしいだろ。
「藤木は、私と新田は似ていると言ったわ。私は、藤木とニコは似ていると言うわ。」
亮を見つめる柴崎が懐かしい。漆黒に潤う目、健康的な頬、ウエーブのかかった髪、艶やかな唇。
初めて会った時と同じに、その姿は変わらず可愛いのだろう。
だけど、純粋に、もうそう思えなくなったのは、自分の心が汚れているせいだ。
「ニコは、あの無表情の奥に、受けた傷と罪を閉じ込め隠していた。藤木は、その笑顔の奥に、読み取った人の黒い本心によって傷ついた心を隠し覆っている。ニコには、ずっと新田が寄り添っていた。」
柴崎が、亮の左頬を包む。
暖かい・・・
「私じゃ、駄目?」
亮は、現実の本心を読み取る。
やっと認めた自身の想い。
(私が寄り添うわ。)
その思いは
幻想か、現実か、
偽りのない柴崎の愛情がそこにある。
やっぱり、りのは展望にいた。細い柵の上に座っている。また危なっかしい事をして、と慎一は顔をしかめた。
りのは片手を柵から離して空中に泳がした。何をやってんだか・・・慎一にはさっぱりわからない。
ニコであったときも、理解不能な行動や言動に慎一は悩み振り回されてきた。りのに戻っても、それは変わらないというか、増したような気がする。子供の頃は、お互い何も言わなくてもわかっていたのに・・・いや、それは慎一も子供だったからで、りのの成長が遅れているからズレが生じているのかもしれない。
聞きなれない言語で歌っているりのに声をかける。
「りの。」
「ひゃっ!」りのはバランスを崩し、後ろに倒れる。
「わっ!りの!っ」慎一はダッシュで駆け、りのの背中を受け止めた。
「うぁっと、あれ?何で慎一ここに?」膝が柵にかかり、ブリッジのようになったりのは、慎一のお腹で支えられて見上げる。
「あのさ、重たいから、そういう質問は起き上がってからにして。」
「あっ、あぁごめん。っていうか、慎一が驚かすからだろ!」起き上がり、柵の向こうに足を降ろすと不貞腐れて慎一を睨む。
「あぁ、はいはい、すみませんね。声かけて。・・・・ほら、危ないからこっちに。」
一か月前と同じシチュエーションに、慎一は鼓動が早くなる。またりのは向こうに行きたいと言うのではないか。
りのに手を差し伸べたら、プイと顔を背けられた。
「りの!」
りのはギリギリまで下がると、数歩駆けてジャンプし、樹の側面を蹴った反動を利用して柵の上に立ち上がった。そしてポンと柵のこちらに降りてくる。こんな危なっかしいやり方で、柵の向こうとこっちを行き来していると思うと、小言を言いたくなる。でもぐっと我慢して息を吐いた。
「はぁ~。りのぉ~」
「何?」りのは涼しい顔で手についた木の皮を、パンパンと払う。
「さつきおばさん、心配していたぞ。気分転換にしては帰りが遅いって。」
「えー、んー。だってぇ。」りのは眉間に皺を寄せ、うつむき加減で唇を噛んだ。
りのがここにいるという事は、うちの家の前を通り、もしかして新田家に来ようとして、あいつらが居てたから、入れなかった?
森嶋って確か、小6の時、りのと同じクラス。りのは、こっちの小学でも全くしゃべれなかったから、幽霊だと避けられたりいじられたりしていた。慎一は、それを助けてあげる事が出来なくて。慎一の胸がズキリと痛む。結局、自分は口先だけで最初から何もしてやれてない。小学時代の記憶がよみがえる。
『幽霊が来た!』『憑りつかれるぞ』
『やめろよっ!真辺さんの悪口を言うの。』
『新田は幽霊を庇うのか?』『おっ?!お前もしかして幽霊の事好きなんじゃねーの?』
『えっ?』
『そういやぁーお前も、サッカー推薦で常翔に行くんだよな。』『幽霊も常翔の特待って、お前らやっぱりラブラブじゃん。』
『かっ関係ないだろ。たまたまで。なんで、そういう事、言うんだよ!。』
『赤くなってんぞ。』『おーい皆ぁ、新田が幽霊の事好きだってよ。』
『やめろよっ!そんな事、言ってないだろ!』
慎一は同級生からのからかいが嫌で、それから、りのがいじめられている所を見ないように、近づかない様にした。
きっと、りのは思っていたに違いない。
『慎ちゃん、どうして助けてくれないの?』って。
「ごめん。」
「はぁ?」りのは首をかしげて訝しむ。
「あっ、いや・・・」今頃謝っても仕方のない事だ。「あ、そうだ、これ渡そうと思って。」
ポケットからきんぴかのメダルを取り出して、りのの首にかけてあげる。
「15歳の誕生日おめでとう。」
「えっ!だ、ダメダメ、こ、これは受け取れない、あれは、本当に欲しくて言ったんじゃなくて、頑張れって言う意味で・・・」
りのは慌てて首にかかったメダルを外して、返そうとする。
「うん、それでも、りのが持っていて。約束の一つだから。」
「約束?」
「夢のお絵描き帳、りのの分も描くって、夏のキャンプの時に約束したろ」
返されたメダルを、もう一度りのの首にかけてあげる。
「夢のお絵かき帳・・・」
りのは遠い記憶を呼び起こすように、メダルを両手に持ち眺めた。
「そう、やっと一つ描けたよ」
まだお絵かき帳は白いページが沢山残っている。
『何があっても、この手は離さいわ。ニコを置いていったりしない。』
『ニコ、見ろ、この輪はニコの好きな、ニコちゃんマークだ。』
『夢のお絵かき帳・・・・・』
『ニコちゃんマークも描くよ。消えないようにマジックで。』
『私達も、いっぱい描くわ、消えても、消されても、何度でも、』
『ニコちゃんの未来は、ないんじゃない。俺と同じ、思案中だよね。』
『私達はこの手で、つかむわ!。』
霧のかかった記憶はニコとの約束。ニコの記憶は、りのの記憶でもある。
だけどこんなに鮮明に区別できるほどの差があれば嫌でも意識してしまう。
私は皆と約束したニコに嫉妬している。
慎一が、かけてくれたきんぴかのメダルは、子供の頃、慎ちゃんが僕も貰ったもんねと自慢げに見せたメダルと同じ、
キラキラと輝いて・・・重い。
この重さが、慎ちゃんが慎一となるまで努力した結果の証。
「さぁ、おばさんが心配している。帰ろう。」そう言って踵を返した慎一に、妙な焦りが沸き起こる。
皆が繋いでくれる未来に、りのは置いていかれる・・・。
「慎一!」
(待って、私を置いて行かないで)
振り返る慎一が一段と大きく見えた。
「あ、ありがとう。それから、優勝、おめでとう。」
「うん、ありがとう。」
やさしく微笑んだ慎一の顔に、雲の切れ間からさす、太陽の光が当たった。
風が記憶を運んでくる。
『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』小さい慎ちゃんの声。
『ごめんな。ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。』慎一の声。
「・・・・見つけた。」
こんなに近くに、あったんだ
願いが叶う虹玉。
「わかるでしょう。私の本心。」
読まれても構わない。これが私の本心だから。
変われた麗香の行き着いた想い。
「好き」の心
麗香は藤木の能力を利用したんじゃない。
側に居て欲しかったから、それを口実にした。
確かに、藤木の頭脳、能力、手腕、人脈は生徒会になくてはならない、なるにふさわしい人であった事を評価しての誘いだったけれど、それ以上に麗香は藤木と繋がっていたかった。告白してくる女の子に断らず付き合いはじめる藤木を見る度に、麗香はモヤモヤが募った。
「私がそばにいる。だから・・・もう笑わないで、笑顔で傷を隠さないで、亮」
藤木の目から虹色に輝く玉が落ちた。
麗香は、両の手で藤木の頬を包む。
伝わってくる
藤木の氷のように冷たい心が、
寂しさが、辛さが。
『置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。』
その言葉は亮が言ったのよ。
「次は亮の番よ。」
傷ついた亮を、このまま置いては行けない。亮の受ける傷を共有するわ。
私が。
「私が寄り添う。」
「わかるでしょう。私の本心。」
わかる。誰よりもわかりやすい柴崎の本心。
嘘のない「好き」が亮に向けられていた。
やっと気づいた心を、ごまかすことなく素直に認めた柴崎は、驚異の速さで亮に告白する。
そのスピード感に、亮の方がついて行けない。
「私がそばにいる。だから・・・もう笑わないで、傷を隠さないで、亮」
頬から伝わる柴崎の熱い想いに誘導され、目から涙がこぼれ落ちた。
泣くのは、予想と反しているから。
「次は亮の番よ。」
『置いていかない、どんな事があっても。そう誓った。何もつかめなくても、共有するだけでもいい。俺たちは、いつもそうやって乗り越えて来た。』あの時、そう言った亮は、きっとこの中で置いて行かれるのは結果、自分だと現実を感じていた。
「私が寄り添う」
これが幻想でもいいと、亮は思った。
子供の頃、大人の真似をして踊った煌びやかな思い出のように。
いつか、これは幻想になる。わかっていれば、傷つかない。
わかるだろう、自分の心。
「麗香・・・」
無意識にその名を呼んでいた。
晴れていく光が、微笑む麗香の顔を輝かす。
夢心地に輝くキスは、
涙の味がした。
雲の合間から光が差し込む。投げ捨てた虹玉が解けて、染めたように屋根は輝きだす。
眩しくて慎一は目を細めた。
「・・・・・見つけた。」りのが驚いたように慎一を見つめる。
「りの?」
りのの右手がすっと上がり、慎一の目の下をすがるように添う。
何を、見つけた?りのの細い指が目に入りそうだったから、よけるつもりで手を握った瞬間、りのはこれ以上ないぐらいに目を見開き、声にならない声を上げた。
「っ・・・・」りの目が小刻みに動く。「あぁ・・・・あぁ・・」
その目は慎一を見ていないように。
「発作?!どうして!」焦って肩を揺さぶったら、りのの目からポロポロと涙がこぼれた。
「違う、晴れていく・・・・記憶が。」
晴れていく記憶?
「だ、大丈夫かよ。」
りのがうんうんと無言でうなづく。その拍子に涙が地面にポタポタと落ちる。
「村西先生の所に行った方がいいんじゃないか」
りのが激しく首を振る。
「い、い、行かない。だ、だい、大丈夫っうっ・・・」
止まらない涙を拭いてあげたくても、ハンカチを持っていない。りのも持っていないのだろう、コートの袖で涙を拭いてびしょびしょにしている。
「霞んでいたニコの記憶が晴れてりのと同じに、重なった。感情が、お、ぉいつか、ない。」
苦しそうに息を詰まらせながら話すりの。
大丈夫か本当に、こっちまで震えてきた。
催眠療法を行った直後は慎一も、学校での様子を報告しに村西先生の診察室に通っていた。その時に言われたのが、『りのちゃんの記憶は、ニコの記憶も合わせて時系列に整頓され、不安も解消されているけれど、りのちゃん曰くニコの記憶がおぼろげで、りのの記憶との鮮明度に差があり過ぎて気持ち悪いのだそうだ。どっちも自分の記憶だと認識はあるけれど、ここまではっきり区切りがあるとどうしても意識してしまうと。時間が断てばりのの記憶がニコのようぼやけて行くはずだから慣れるまでの辛抱だね。』と説明されていた。
慎一は、涙でへばりついたりのの髪を手でかき分けつつ、熱を測った。ちょっと火照った感じはするけど、熱はなさそう。りのの背中をさすってあげる。
鮮明度に差があり過ぎた記憶が、晴れて同じになる?
何故、今なのだろう?
風に誘われて顔を上げた。
広がる視界。キラキラと輝く屋根に降り注ぐ光の反射、慎一は、はっと気づく。
分岐点、ここから始まった。
『ニコ!・・・・・戻って来てたんだ。あの、ごめん、気が付かなくて。氏名が変わっていたから、わからなかった。』
『ごめん。それ効き目なかっただろう?偽物なんだ、駄菓子屋で見つけたビー玉。あの後、探したんだけど見つからなくて。それで、』
『知ってる・・・・・馬鹿だ、私。』
そうだ、りのに、「お帰り」と言っていない。
言ったのはニコへ、だった。
「りの、お帰り。ずっと待っていた。りのが帰ってくるの。」
そう、海外から帰ってくる時を、
罪の意識の奥から帰ってくる時を。
ずっと、ずっと、慎一は待っていた。
風が吹き飛ばしていくように、ニコが綴った霞がかがった記憶が、鮮明に晴れ渡っていく。それと同時に喜び、怒り、哀しみ、楽しみニコの得た想いは、りのの中の心の隙間を埋め、濃密にしていく。
あまりにも多くの記憶と感情が一気に押し寄せて、処理が追い付かない。
慎一が焦ってオロオロしている。また心配をかけてしまう。
誓ったのに、もう心配はかけないと。
『寂しくないね。怖くないね。・・・・手を繋いでくれるから。』小さい慎ちゃんの声。
うん、怖くない。繋いでくれているから。
慎一の手が私の顔を包む。
新しい記憶から古い方へとフィルムの逆回転のように辿った記憶は、ビタリと止まる。
3年前の12歳の冬、この場所がスタート地点。
「りの、お帰り。ずっと待っていた。りのが帰ってくるの。」
そう、私、楽しみにしていた、大好きな慎ちゃんに会えるのを。
再会は、どんな風だろうって、慎ちゃんは、別れた時と同じ笑顔で迎えてくれるかなって、
慎ちゃんに会ったら、きっと笑えて、声が出るって、そう思っていた。
ちゃんと涙を拭いて言わなきゃ。
笑顔で。
私はニコニコの、りのだから。
「うん。ただいま。慎ちゃん。」
近くにあったね、願いが叶う虹玉。夢を求め続けたその目に。その手に。
微笑む慎ちゃんが輝かしい。
もっと大事な物がここにある。
待っていてくれた慎ちゃんの想いが。
ニコに追い付け、りのの想い
背伸びをして追いかける。
慎ちゃんとのキスは、
3年前のやり直し。
何がどうなって、こうなっている?
あまりにも突然に、理由のわからないキスをしている自分に驚きながら、それでいてごく自然に受け入れていた。
わからないことだらけの状況の中でも、初めてのキスの味を感じる余裕さえある。
甘いカラメルの味がした。
こういうのって、甘酢っぱいとか言わなかったっけ?
突然、ダウンベストのポケットから鳴る着信音にビクついて、りのを突き放す。
「ご、ごめん・・・」
照れ隠しに、急いで携帯を取り出し確認する。
一体誰だよ。こんな時に、と心の中で悪態をつく。
「ん?グレンだ・・・」
慎一は、家を出る前に作りかけていたひらがなばかりのメールを完成させて送信していた。
グレンからのメールは、ローマ字で綴る日本語で送られてきている。読みづらいことこの上ない。日本語訳ソフトぐらいあるだろうから使ってくれと言っているのに一向に、それを使わずに送ってくるのは嫌がらせとしか思えない。という慎一もフランス語訳のソフトを使わず、ひらがなで作成して送っていて、互いに変なプライドを牽制しあっている。
「グレンから昨日、頑張れってメールを貰ってたんだ。結果報告とお礼のメールを、家を出る前に送っていたから、その返信。読む?」慎一は携帯をりのに見せてあげようと、向きを変えた。
「グレン・・・」りのは頭をわしづかむ。「あーっ」と叫ぶと慎一を押しのけ急に走り出した。
「えっ?何、急に、りの!」慎一は追いかける。
「痛っ!」りのはおでこに手を当て急に立ち止まる。ぶつかりそうになって慎一は、りのの顔をのぞきこむ。
「ど、どうした?」
「馬鹿だ私・・・返す!」りのは突然に怒った表情で、首にかけていたメダルを慎一に突き返してきた。
「えっ?わわわ」慎一がまだしっかり受け取らないうちに手を放すから、メダルを落としそうになった。
りのは、また駆け出して、展望の公園を後にする。
慎一はその後ろ姿を呆然と見送った。
これは同じ、3年前と。
やり直し?
いやいや、こんなことまで再現しなくても。
慎一は返されたメダルを手にため息を吐いた。
「えーと、」
これはどう解釈したらいいんだ?
やっぱり、ちゃんとした誕生日プレゼントを用意してないから、
怒ったって事?
グレン・・・・
仏『りの。りのが、ちゃんと大きくなれたら、大人のキスをしよう。』
「あーっ」
えー!!うそ。私、なに慎一とキスしてるの!
大人になれたからグレンとの約束、待ち望んでいたのにぃ。
うわっニコの感情が合わさって抑えが効かなかった!
しかも、このタイミングでグレンからメールって
どこかで見てた?うそっ、怒ってる?
ちがうのグレン!これは、そう、りのじゃなくてニコの感情で・・
あぁ、そんなの言い訳だけど、でも、言い訳したい~
早く帰ってグレンにメールを送らなきゃ、誤解されたら困る。
「えっ?何、急に、りの!」
駆け出したら首にかけていたメダルが跳ねて、おでこに当たった。
「痛っ!」ここは、グレンが約束のキスをしてくれた場所。
くそーまた邪魔された。
「ど、どうした?」覗き込む慎一の顔がむかつく!
あぁ、私の最高の記憶がぁ~
グレンより先に慎一とキスをするなんて・・・
「馬鹿だ私・・・返す!」
「えっ?わわわ」
首にかけていたメダルを外して慎一に突き返した。
3年前と同じように展望を走り去る。
あの時は、惨めな寂しさに追いつかれないように、逃げるように走った。
やり直しの慎一との再会は、
戸惑いと、悔しさに
うんざりするほど変わらない慎一の
心配から逃げるように走る。
全力で。




