虹色の記憶3
理事補が緊張している。というか、委縮していると言った方がいいかもしれない。
と部屋に漂う空気感に押しつぶされそうな和樹は、見下ろされる視線と合いそうになって慌てて顔を伏せた。どんな顔をしていいかわからない。
ロビーで篠原さんを待っていると、唐突に父親がエスカレーターから降りてきた。両者が互いを認識したのは同時で、その名をつぶやいて驚いた顔をしたのも同時だった。
見知らぬ大人と、子供が立ち寄る場所ではない我が息子を見つけ、威嚇を放ち理事補の前に歩み出た父親に、和樹はその場の誰よりも真っ先に言葉を発した。「学園の理事長だよ。」と言うと、父はますます眉間の皺を濃くして、今度は和樹に、「何をした?」と尋問。和樹は反発心を含めた嫌悪で「父さんがやったことよりはマシな事だよ。」と吐き捨てるようにつぶやき、後ずさりをする。理事補が「申し訳ありません。」と深々とお辞儀をすると、満足したのか、やっと顔を和らげた。
父は、連れて歩いていた二人の警察官に何やらこそこそと話をしてから下がらせて、和樹たちをエレベーターへと促した。そして、この建物の最上階へ。数室並ぶ一つ、父の名前の書かれたプレートの部屋に引き入れた。
父親が二人の警察官と話している時に理事補は、「ごめん」と突然謝ってきて、「誤魔化しは聞かないお人だ。すべてを話すから」と耳打ちしてきた。仕方ない、いつかは、というより、本来なら和樹が学園名簿をハッキングして売った時点で、両親に話が行くはずだった。それを理事補が止めておいてくれていた。退学処分だけならまだぬるい、本来なら被害届を警察に提出して和樹は逮捕されるはずの事柄だった。その事実が伸びて今になっただけ。
おまけに、昨晩のハッキングなる罪を重ね、こんなところで父親にばったり会うのも、運が尽きようというもの。
さて、息子がハッカーだった。昨日の警察庁のデーターベースへのハッキングが息子の仕業と知ったら、父はどんな顔をするだろう。そこが見ものだ。
ロビーの明るすぎるモダンデザイン的とは違って、入った部屋は、古めかしい様相の個室、茶色い板張りの壁に、古いキャビネット、の上にレトロなガラス製の振り子の時計。窓を背に大きなデスクは刑事ドラマのような風体。ドラマにあるような名前の入った三角プレートはない。カーテンの横にある何かわからない優勝旗みたいなのもなくて、観葉植物もない。よく見ればキャビネットの中や上には栄光を示すような盾やトロフィなどもない。とても殺風景だったけれど、座るように促されたデスクの前にある黒い革張りの応接セットのソファは、身体が沈み込むように柔らかかった。デスクの椅子も仰々しくでかい、さぞかしこのソファと同じく柔らかすぎる座り心地なんだろう。その雄雄しい椅子でふんぞり返った父が、兄さんを見捨てて殺したんだと思うと、和樹は憎たらしい気持ちで胸がいっぱいになる。
そんな和樹の心をよそに、理事補は、和樹がハッキングをはじめた理由から説明をしだした。
それは長い話になった。和樹は理事補の語りをまるで他人の事のように黙って聞いた。
「私の仕事は、理事長の補佐というより、常翔学園全学部の諜報活動的な事を主に担っています。わが学園の高い質を守る為に一つの噂も見逃さず、入ってくるあらゆる情報を精査し、必要あらば排除する。そうして学園の質と生徒の安全を守ることが、私の役目です。」いつもは(僕)を使う理事補が(私)を使って語る言葉は、やっぱり臨場感がない。
「黒川様のご家庭にご不幸がありました小学部5年生の三学期から不登校になってしまわれたご子息の事は、当時、学園もカウンセラーを伴い担任も訪問致して対応いたしましたが、残念ながら配慮が行き渡らず、そのまま小学部を卒業を余儀なく。」
「いや、それは、こちらも適切に対応できる者が居なくて申し訳ない。」
「いえ、中等部では欠席することなく登校いただいていますし、成績も不足があるというわけでもなかったのですが、ただ、校則に違反するような場所への立ち入り及び、常翔学園の生徒としての規律違反の目撃情報がありましたので、ご子息の生活調査を行っていた最中に、ある事情から学園の生徒名簿をハッキングして盗み、それを売り金銭を得ていたことが発覚いたしました。」
和樹は父が腰を浮かしたのをうつむいたまま感じ、身体をこわばらせた。
「黒川様、どうか、続きを・・・」理事補が父を宥め浮かせた腰を座らせてから、また語る。「ご子息のハッカーとしての能力、技術は極めて高度な物です。和樹君が類まれにな才能を開花させた理由に、お兄様の事を調べたいと渇望されていまして。」
和樹は、ゆっくり顔を上げて、父親の表情を見る。父は、顔を上げた和樹に変わらない睨みで一瞥してから、理事補へと顔を向ける。
「黒川広樹さんの事を調べたい一心で。自宅にあるPCでは満足のハッキングが出来ない、高性能のPCを手に入れる為の資金稼ぎでした。」
「広樹は殉職です。その内容は法に基づき公表できません。それは家内にも和樹にも説明してあり、警察に服す家としての」
「存じています。黒川広樹さんはわが学園の誇り高き生徒でした。訃報が学園に届いて、とても残念にお悔やみ申し上げました。だからこそ、私はご子息の納得できない不満に同調し、学園の名簿を売った行為に関しては不問にし、今後のハッキング犯罪の阻止を図ったのです。」
「常翔学園が?」
「幸いにも、名簿は回収ができましたし、名簿流出に対した被害、損害は程度の知れたものでして、二次被害も防ぐ処置を施せましたので。」
父親のため息を和樹は頭の上で聞く。
「それよりもご子息の心情を正す方が私には重要だと思いました。これから話すことは、私が単独で暴圧にさせたことです。」
「暴圧?何を?」
理事補は父の質問に答えようとせず、一つ息を吐いて口を引き締めた。
和樹が不審にその横顔を覗き込むほどに、無言の時間。
「私と篠原康太刑事は、児童養護施設で育った兄弟のようなものです。私は常翔学園経営者一族の柴崎家の養子であり、彼もまた柴崎家の援助を受けて警察官になった者。当時黒川広樹さんと組んでいた篠原刑事に私が頼み、話せる範囲で和樹君にお兄様の事を話してもらいました。しかし篠原刑事は事件の詳細をご子息には語っておりません。和樹君には不満だったことでしょうけど、身近にあこがれた兄の警察官としての姿を聞き、喜んでくれました。そして、ハッギングは2度としないと約束して頂いたのですが・・・類まれなご子息のハッキング能力を、どうしてもお借りしたい事態が起きまして。」そう言って、理事補は先ほどフリー雑誌の間に挟んだ調査書のコピーを父の前に差し出した。「これは、わが学園の女生徒の父親の事故調査書です。」
父親はそれを手にすると、目を大きくして理事補を睨みつけ、和樹にも向ける。
「彼女は父親の死を自分のせいだと思い、苦しんでいます。彼女の父親は鉄道投身自殺とされていますが、もし自殺ではなかったら、彼女は苦しまなくて済む、そう考え、これの入手に黒川君のハッキング能力を貸していただきました。」
理事補は一旦そこで言葉を切ると、急にソファーから立ち上がり、脇にそれて、床に頭をつけて土下座をした。
「大事なお子様を預かっておきながら、このような犯罪に加担させてしまい、申し訳ございません。」
和樹は驚愕に心の中で叫ぶ。
(嘘だろ!こんなやつに土下座することないんだよ。こいつは兄さんを見捨てたんだ。)
(僕のハッキングなんて大した罪じゃない、父さんの罪に比べれば。)
和樹も立ち上がった。
「理事補に頼まれたからじゃないんだ!僕はっ僕が真辺さんを助けたいから、僕からやると言った!理事補は悪くない!」
和樹の叫びに言葉を発しない父親、それはいつものことだ。いつも、この無言の制圧に自分は負けてきた。でも、今回は負けない!負けたくない。自分からは絶対に目をはずさない、と決めた。
「大体、警察がいい加減な調査をするから、真辺さんは苦しんでいるんだ。真辺さんをおかしくさせたのは警察だ。何が正義だ!僕は、お父さんみたいに見捨てない。何より誰より美しく優秀な真辺さんを、絶対に。」
父が立ち上がる。殴られる。そう思って身構えた。
「柴崎さん、頭をお上げください。謝まらなければならないのは、こちらの方です・・・・息子が、ご迷惑をおかけしました。」
えっ?お父さんが凱さんの前で正座をして、膝に手をやり頭を下げている。
嘘・・・。
柴崎先輩のお屋敷で一泊して家に戻ったのは、10時を過ぎていた。慎にぃは、もう家にいなくて、病院に行ったという。
母さんは家の片づけと、店の準備で忙しく、えりが一泊して帰って来た事に特に何の関心もなく、どうだったも聞かれない。またないがしろにされている孤独感がえりの胸に沸き起こる。だけどまぁ、昨日の晩に、柴崎先輩に電話を変わってもらって、責任もってお預かりしますと言ってくれているのだから、何も心配はなかったのだろう。
お父さんがニコちゃんの為に、お昼のお弁当を作った。それを持って行くというお母さんの運転する車に、えりも乗り込んだ。
ニコちゃんは、昨日の病室とは違う鍵がかけられる病室に移っていて、実質、監禁状態だった。窓にも鉄の格子が外についていて色は白いけれど、えりはまるで牢屋のようだと思った。部屋には無数の折り紙が散らばっていて、えりは見舞い一番に足元に落ちていた緑の手裏剣を拾った。様子を伺うようにえりを見つめる5歳児のニコちゃんは、ふいにえりへと近づき、手に持っていたピンクのクレヨンを差し出してくる。昨日はえりの事がわからず、怯えられた。また今日もそんな風にえりのことをわからず警戒されてしまうのだろうと予想していただけに、意外な事に面食らって言葉が出ずに、首をかしげてクレヨンを受け取った。
「かくの」
「えっ?えーとニコちゃん?」昨日のようにまた沢山のニコちゃんの絵を描きたいのかと思って聞き返すと5歳児のニコちゃんは首を振る。
「名前を書くんだよ、手裏剣に」慎にぃがテーブルで折り紙を折りながらそう補足をする。「どっちが遠くに飛んだかを競うんだよ」
「そ、そうなんだ。」
「できたよ。ほら、黄色とオレンジの手裏剣」
5歳児のニコちゃんは、慎にぃの側に駆け寄り、手にした黄色とオレンジの手裏剣を掲げて笑う。
「ニコの!ニコちゃんいろしゅりけんっ」そうして、ニコちゃんは赤いクレヨンを手にして、そこに点を二つ、にっこりした口を書き、裏に「りの」と殴り書く。筆跡も完全に5歳児に戻ってしまった。
そんなニコちゃんを、目を細めて微笑んだ慎にぃの姿が、えりの胸に痛い。
「上手ね、ニコちゃん、だけどお昼ご飯食べなくちゃね。」お母さんの声掛けを無視して、ニコちゃんはベッドに飛び乗り、そこから手裏剣を投げて、手をたたく。
「お片付け、誰が一番に出来るかなぁ。沢山折り紙を拾った人が勝ち、よぉーいスタート」
「あー、ニコがひろうっ」ベッドから飛び降りて散らばった
そういえばそんな風に競走した記憶がうっすらとよみがえる。ニコちゃんが手にいっぱいの手裏剣と紙くずを持って、お母さんに差し出す。お母さんは「すごい、いっぱい拾ったねぇ。ニコちゃんが一番ね。」と頭をなでる。ニコちゃんは嬉しそうに肩をすくめて、その場にバラバラと落とした。
「あらあら、ここに入れようか。」お母さんは取り出して空になった紙袋にテーブルにも散らばった折り紙の一つ鶴を入れる。ニコちゃんは床に散らばった折り紙をぐしゃりと両手でかき集めると、お母さんが手にしている紙袋にバラバラと入れるも、何個も入らないでまた床に落ち散らばる。
5歳児に戻ったニコちゃんに対して、動揺することなく接し誘導し、いつも通りに笑っているお母さんが素直にすごいと思った。
さつきおばさんも加わって早めの昼食を皆で食する。ニコちゃんは5歳児でも食事の量は少量で、まだ皆が食べている内に食べ物には興味を無くし、また折り紙を広げ散らばせ始める。そして食事中の慎にぃの頭に折り紙の紙吹雪を振り注いだりする。
誰も怒らない。
そうして傍若無人に動き回った後、電池の切れたおもちゃのようにふいに床にうつ伏して寝てしまった。
慎にぃは手慣れた手つきで、さつきおばさんと眠り込んだニコちゃんを抱えてベッドに寝かせる。
お母さんはタッパーなどを片付けて、また晩御飯に用意が出来たら持ってくるからと、さつきおばさんに声をかける。
今日は日曜日、店はそれなりに忙しい。お母さんはえりに『あんた女の子なんだから、慎一に出来ない事を手伝うのよ』と言いつけを残してあわただしく帰って行った。ニコちゃんが眠り込み、お母さんが居ない病室は、とても静かだ。
「おばさん、仕事は?」沈黙に耐えられなくて、聞いてどうするようなこともない話を、えりは囁くように聞く。
「夜勤にしてもらったの。夜だけは薬を投与して眠らせるから。」
「じゃ、今、寝ないんと駄目なんじゃ」えりは自分が占領している椅子から立ち上がった。
「いいのよ。大丈夫。えりちゃんこそ、ごめんね。無理にりのに付き合う必要ないわよ。ボーイフレンドと約束してるんじゃないの?」
えりは首を振る。そして、そのまま窓際へと移動した。
柴崎先輩たちはもう女性の家に着いただろうか。黒川君と凱さんはうまく鑑識の人を紹介してもらえただろうか。
外はまだ細い雨が降り続いている。病院の裏側にある駐車場に止めてある車が、窓に付着した水滴で歪んで見える。
洗面台やテーブルを布巾で拭き掃除をはじめたさつきおばさん。
ニコちゃんの枕元で窓に背を預けて、寝顔を見つめ視線を外さない慎にぃ。
二人とも何を思い、何を考えているのか。
ニコちゃんが元に戻ってと願い祈っている事に違いはないのだろうけれど、えりにはその深さを知ることができない。
藤木さんからは、俺たちがやってる事を、まだ慎にぃには言わないようにと言われていた。期待はまださせるなと、やっぱり自殺だと断定されてしまったら、期待からの落胆は二人には酷だ。
えりは携帯を取り出し、柴崎先輩からか、黒川君からかのメールが届いていないか確認する。
両者からメールも着信も何もない。
軽くため息をついて、えりは暇つぶしにそのまま、携帯にダウンロードしたオセロのゲームをして暇をつぶす。
黒と白、
表と裏、
どっちが裏で、
どっちが表だろうか?
まるでニコちゃんだ。
白がニコちゃん?
黒がりの本体?
そもそもオセロの表はどっちだ?
白が表?
黒が表?
相撲は黒星と言って色塗られた方が勝ちを表す。
いい方が黒だから、黒が表?
そもそも勝ったのは誰?
急に現れたニコちゃん?
それとも世間から逃げ引きこもった、りの本体?
そんな事を考えていると、もそもそと掛け布団が動く。ものの20分ほどでニコちゃんは起きてしまった。
「ママ!」そのテンションの高い声で、また5歳児のニコちゃんだとえりは肩を落とす。
もう、りの本人であっても、どんな言葉をかけていいか、えりはわからない。だからどっちでも肩を落とす事になるのだと漠然と感じていた。
「ママ、パパはぁ?」
昨日から頻繁に栄治おじさんを呼ぶニコちゃん。お父さんがまだ生きていると思っている。その現実に、そう思っていた方が幸せなんだなぁと実感する。
「パパは、お仕事が忙しいの。」
「お仕事?」
「そうよ。お仕事。」
「ふーん。」ベッドから降りた5歳児のニコちゃんは、はだしで窓へと近づいて、鼻をくっつけて外を見つめる。乱れたパジャマの襟元から見える身体の細さに、精神だけじゃなく身体もまだ子供だと変な納得をしてしまう。骨太のあたしとは完全に体つきが違う。ニコちゃんの身長を抜かしてしまった。ニコちゃんの食べる量を見て、よくあれで朝までもつよなぁと不思議に思っていた。それでも新田家では食べている方だとお母さんから聞いてびっくりした事がある。だけど、今回の事で、ニコちゃんの頭の中や胸の中がおじさんの死の罪の意識でいっぱい詰まっていたら、そりゃ食べられないよなぁと理解した。
5歳児の精神のニコちゃんは、窓についた水滴が流れおちて行くのを手でなぞっている。
水滴が思うように動かない事にイラついたのか、ニコちゃんは、窓ガラスを叩く。この病室の窓は開けられない構造になっている。
叩いた振動で、水滴同士がくっついて大きな雫となり下へ落ちていく。それが面白かったのか、何度も叩いては落ちて行く雫をじっと目で追うニコちゃんに、慎にぃが「叩いちゃ駄目だよ」と気力のない注意をする。
見にくかった窓の向こうの景色は、叩いて水滴が落ちたおかけで、見えやすくなった。ニコちゃんが、またおでこと鼻を窓にくっつけて外をじっと見つめる。
「雨やんだ!外で遊ぶ!」そう叫ぶと、ニコちゃんは窓とは反対のドアへと走っていった。雨はまだ止んでいない。細く静かな雨をニコちゃんには見えないだけた。
「外いく!ママ開けて!」
「りの、駄目よ、外では遊べないの。」
「いや、外で遊びたい!」
この病室の扉は、内からも外からも簡単には開けられない構造になっている。扉についた機械に暗証番号を入れないと扉は開けい。ニコちゃんはガチャガチャとドアノブを回し扉をガンガンと叩き始め、暗証番号のボタンもでたらめに押す。その度にエラー音が鳴る。慎にぃがニコちゃんの手をつかんで、やめさせる。
「ニコ、ほら、あっちで折り紙をしよう。」
「ほ、ほら、ニコちゃん、風船もあるよ。」紙袋から取り出した紙風船を手に乗せて見せた。
「いや、外に行く、慎ちゃんと外で遊ぶんだ!」
ここにいる慎にぃは、幼馴染の慎ちゃんじゃない。ニコちゃんは5才の慎にぃに会いたがっている。
意識は5才児でも力は14才、ドアノブをガチャガやって、機械も叩くから壊れそう。
さつきおばさんと慎にいがどうにかやめさせようとニコちゃんの手を抑えるのだけど、増々暴れて手に負えなくなった。
「りの、ジュース飲もう。」
「いや、いや、慎ちゃんの所に行く!」
「ニコ!」
「慎ちゃんと遊ぶ!」慎にぃのつかんでいた手が振りほどかれた。ニコちゃんは外に行けない苛立ちを、扉を叩いて泣き叫ぶ。
「ママ、ここ開けて。慎ちゃんのおうち行く。」
慎にぃも、さつきおばさんも、うな垂れて諦めてしまった。顔を背ける二人。
「ママ・・・開けて。お外いくの・・・・パパ・・・・慎ちゃん・・・」
「開けてママ。・・・・会いたい・・・・・慎ちゃん・・・・パパ・・・・」
えりは、胸の詰まる思いで立ち尽くす。
そのうち、ニコちゃんの泣き声小さくなり、崩れるようにまた眠りにおちた。
父親の黒川警視監が頭を下げた事に動揺し取り乱した黒川君を、人を呼んで部屋から出させた。黒川警視監はついでにお茶ではなくコーヒーを淹れるように頼み、それが届く間、終始無言にこちらとは目線を合わせず、テーブルの上の事故報告書のコピーの束を、威厳ある表情を崩さず見つめているだけだった。
年増の制服姿の女性警察官が運んだコーヒーは、メーカー名が印刷された紙コップのコーヒーだった。香りだけは一人前だ。
手の仕草だけで、どうぞと勧められ、凱斗が口に含んだところで、黒川警視監は口を開く。
「あなたは柴崎家の養子だと・・・」
「はい。」
「柴崎家はたしか華族の・・・」
「はい。私は華選の称号を得て迎えて頂きました。」黒川警視監は納得ができたと言うようにわずかに頭を縦に振る。
「篠原刑事も称号を?」
「いえ、康太は、失礼、篠原刑事は持っておりませんが、ある事情でしばらく柴崎家の屋敷で下宿をしていた時期があり、常翔学園の生徒だったわけでもありません。」
「ふむ。」黒川警視監は重い息を吐いてから続ける。「昨日遅くに、情報部から警察本部データーサーバーを攻撃、ハッキングされていると連絡があった。昨今それらのサイバー攻撃は主にとある外国からの仕業で、すぐにセキュリティの強化対策を講じたのですが、その犯人が息子だったとは。」
「申し訳ございません。何分急ぎでしたので」黒川警視監は手をあげ制する。
「息子が、ハッキングをしているのは知っていました。」
なんとなくそうじゃないかと思った。凱斗が語った際に、ハッキングをしていたという言葉には反応せず。売って金銭を得たと言ったときに、警視監はやっと腰を浮かして怒ったのだ。
「情報部からの要注意アカウントの出所が我が家のipコードの物でありましたから。ただ、まさか金銭を得ていたとは思いもよりませんでしたが。常翔学園には本当にご迷惑をおかけしました。」膝に手を当てて姿勢よく頭を下げる警視監。
「いえ、そのことは、もう本当に解決済みでして、というのも、これも事後報告で申し訳ないのですが、名簿の回収、および常翔学園のサーバーセキュリティの構築を息子さんに施して頂いたのです。」
黒川警視監は険しかった顔をわずかに緩めて驚いた風の様子。
「それぐらいに息子さんのハッキング能力は、とてつもない、世界的にもトップレベルなのです。いえ、すみません。だからって生徒に犯罪をさせてしまう理由には当たりません。」
「そのこと、はっきりさせておきましょう。柴崎さん、私は和樹の親権者として、あなた及び常翔学園を問責するつもりはありません。」
「ありがとうございます。」
「権位を出されては、いくらこれらを持ってしても敵いませんし」と警視監は胸の階級章を指し、目を細めまっすぐ凱斗を見つめる。それが警視監の精一杯の抵抗だろう。黒川和樹の保護者としては頭を下げられるけれど、警視監としての立場では頭を下げられない。
「このことは内密に処理しておきます。」
「助かります。」
そこでやっと黒川警視監は紙コップのコーヒーを手に取った。一気に飲み干すと、カップを音もなくテーブルに置き、つぶやいた。
「しかし・・・そうですか、息子が、ハッカーとしてトップレベル・・・」
警視監は事故調査書を手に取りパラバとめくる。警視監の表情が先ほどまでの厳しいものがなっているのに気付いた。凱斗の視線に気づいたのか、顔を上げ口を開く。
「我が国のサイバー犯罪に対する防御は弱い。専門的な技術を要する為に、技術者が育ちにくい。ですが、ハッカーたちはあの手この手と高度な技術を開発してくる。サイバー犯罪に対する最高の防御は現役のハッカー自身。和樹のハッキングを黙認したのは、私が何を言っても止めはしないと、諦めもありましたが・・・・あの子がハッカーとして育てば、その技術を防御に変えることが出来る。
一縷の期待を抱いたのも事実。まさか世界トップレベルと言われるまでになるとは思いもよりませんでしたが。」と言って苦笑しながら報告書をテーブルに置いた。その表情に凱斗は確信した。この人は、自分の息子がハッカーに育つのをわざと黙認していたのだと。その行為が社会的に違法であり犯罪であることを承知の上で、わが子を技術者として育つことを持していた。
凱斗は、急速に喉の渇きを覚える。黒川警視監、この国の正義に対する姿勢は、家族を犠牲にしてまで強い。息子の黒川君が警察にいや、父親に反発したくなる気持ちがわかる。
「ビッド脳というものをご存じでしょうか」
「いや…私は、そこまでは詳しくはありません。」
「世界に一桁しかまだ認証されていない貴重な能力をご子息はお持ちです。実は私もそっち方面は詳しくはありません。情報部にはそれに詳しい方もいるでしょう。お聞きなさってください。」
「そうしよう。」
凱斗は紙コップの中身を飲みほした。それを待っていたかのように黒川警視監はわずかに身体を前にして、表情も声のトーンを下げた。
「広樹の事件をあなたはどこまで?」
「何も、ご子息と同じレベルでしか存じ上げません。」
沈黙。視線は互いに刺さったまま逸らさない。
黒川広樹巡査が殉職に至った事件を康太は、これ以上は出せないと言って、詳細を隠した。被害者、加害者もわからない。ただ、子供を庇い死亡したとだけしか、あの資料に書かれておらず、資料の大半が黒塗りで埋め尽くされていた。その異常なほどの隠匿が、在る権威、もしくは権位を含んだものであることの証左であると凱斗は感づいていた。
興味を覚えないわけではない。ここで権位を出し警視監に語らせることも可能だ。だが、それはきっとしてはならない。人道的にではなく、自身の保持の為。知れば、捨てたくなるに違いない。きっと・・・
それは佐竹が手を差し伸べて来た時と同じぐらいの、すべてを捨てたくなるような事柄なんだろう。
何を図ったのか、何に納得したのか、何を信じたのか。体感一分の後、黒川警視監は姿勢を元に戻し、表情も空気も変えた。
「さっきの息子の態度には驚きました。和樹は人を助ける意義を得たようです。で、この報告書を元にどうしようと?」
りのちゃんのお父さんの自殺に関わる疑問について、それを調べるに至った過程を含めて説明をした。
黒川警視監はもう一度、報告書を手に取り、今度は丁寧に読み入り凱斗の説明に相槌をうつ。
「なるほど、その疑問は尤もだ。協力しましょう。」そう言って黒川警視監はソファーから立ち上がりデスクに向かうと電話を取る。
「黒川だ、頼みたいことがある。鉄道事故の写真を見て鑑識してほしい。・・・・ああ、写真だけだ、自殺か転落事故かを見極めてほしい。・・・・そう言うな、私の客だ。お前なら大した時間はかからないだろう。今から、そちらへ行ってもらう。・・・それをするとお前は依頼を後回しにして忘れるだろう。今から行ってもらう。名前は、柴崎凱斗さんだ。無礼のないようにな。頼んだぞ。」
電話を切った黒川警視監は、何かをデスクにあったメモに記し、凱斗に向き直る
「風貌は無礼ですが、目は確かです。ここを訪ねて、その写真を見せてください」
立ち上がり、差し出されたメモを見ると、科学捜査研究所の住所と電話番号、そして剣持と記されていた。
都内で昼食をしてから証言女性の家へと訪問する予定だったけれど、渋滞にはまり予想以上に移動に時間がかかってしまい、約束の30分前に証言女性の家の近くで、喫茶店の軽食をとる程度にしか、食事はできなかった。あわただしく食事を済ませて、
中層階のマンション。玄関先で麗華達を見た女性は少し戸惑った微笑で家に招き入れてくれる。家の中は子供のおもちゃがあちこちに置いてあって、夏にりのと一緒に行ったスターリンを思い出させた。
「突然、申し訳ございません。」
「いえ、こちらこそ、散らかっていて、すみません。」
「お電話を頂いたのは・・・・こちらの方?」と首をかしげて藤木に顔を向けた。
凱兄さんが、この女性に電話をして訪問する約束をしてくれていた。唯一の男である藤木が電話の主であるにしては、若すぎると思ったのかもしれない。
「いえ、電話を差し上げましたのは別の者です。申し訳ありません。その者は所用が出来ましたので、私が代わりに伺いました。この子はうちの学園の生徒で藤木亮君、そして私の娘で柴崎麗香、申し遅れました、私、学校法人翔柴会、会長をさせていただいています。柴崎文香と申します。」
お母様から受け取った名刺を見た女性は、驚きの表情をお母様に向けた。
「もしかして、サッカーで有名な神奈川県の常翔学園ですか?」
そう誰もが驚く、常翔学園のすべてを取りまとめているのが女性であるという事に。私は、そんなお母様を誇らしく思う反面、こんな風に私はなれるのだろうかとも不安にもなる。
「恐縮です、お知り頂いて。」
「えぇ、主人が学生の頃サッカーをやっていまして、子供が生まれたらサッカーをやらせて、常翔のサッカー推薦を受けさせるんだと今から息巻いているもんですから・・・・」
「そうでしたか、今日は、ご主人様は?」
「主人は仕事です。遅くにならないと帰ってきませんので、どうぞごゆっくり。」
「ありがとうございます。突然のお伺いにご主人様のご了解がないまま上がり込んで、大丈夫でしたでしょうか?」
「いいえ、主人はきっと、この名刺を見たら驚いて喜ぶと思います。もうスカウトに来たのかって。」
女性には2才の子供がいた。人見知りのしない女性によく似たかわいらしい女の子。女性に促されてダイニングテーブルに座ろうとすると、麗華の腕を掴んで「こっち」と女の子は隣の和室へ引っ張った。和室にはおもちゃの小さなキッチンがあって、コンロの上にはフライパンの中に輪切りミカンが入ってある。
「ナナ駄目よ。お姉さんは遊びに来たんじゃないのよ。」女性はキッチンで給仕をしながら女の子に窘める。
「かまいません。私で良ければお相手していますので、話は母たちにしていただければ。」
「ごめんなさい。じゃ、お言葉に甘えて」
ナナちゃんは、小さなお玉を「どうぞ」と渡される。まだ少ない髪を両サイドに括った束がぴょんぴょんと弾むのがなんともかわいらしい。
「ジュウジュウ、これは何ができるのかなぁ」フライバンの中に入っているミカンの輪切りを揺らしてお料理。
「はんばーぐ!」
「は、ハンバーグ?」
クスクスとお母様と藤木が笑う。
みかんを煮詰めたハンバーグソースという設定なのかもしれない。
「どうぞっ」ナナちゃんはおもちゃのフライ返しでミカンの輪切りをフライパンから取り出し麗華の口元持ってくる。
「あ、ありがとう。もぐもぐ。」
「だめっ、いたき、ますして」
「あぁ。ごめんなさい。頂きますね。」
もう、お腹を押さえて笑うお母様と藤木に、麗華は頬を膨らませて叱咤する
「こらっ、ナナ、お姉さんを困らせたら駄目でしょう。すみません。」
「いえ・・・」
もう少し大きい5歳児ぐらいなら、スターリンで相手にした経験があるけれど、まだ、たどたどしい言葉しか話せない幼すぎる子供の相手は、ほぼ初めてだ。簡単にできると思った自分に若干の後悔をする。
女性はダイニングテーブルにお茶の用意をして、お母様は事の経緯を丁寧に説明した。
その説明の間に、ナナちゃんはままごとからお絵かきへと移行した。
クレヨンを掴み、お絵かき長に殴り書きしていく様は、病院でのニコを嫌でも思い出させる。
麗華は、黄色のクレヨンを手にして、ニコちゃんマークを描いた。
「これ、なぁに」指さす手が人形のように小さい。
「ニコちゃんだよ」
「ニィコたん?」
「そう、ニコちゃん、ニコニコのニコちゃん」
「ニィコニィコ?」
麗華は水色のクレヨンに変えてもう一つニコちゃんマークを描いた。
するとナナちゃんは真似してピンククレヨンでぎこちなく円を描き、その中に二つの小さな丸を描く、笑う口は輪郭の円よりはみ出てしまっているけれど、それは紛れもなくニコちゃんマーク。おそらくナナちゃんが人生初めて描いたニコちゃんマーク。
お母様の話が終わると、女性は、一度ナナちゃんへと顔を向けてから、大きなお腹を支えて椅子に座り直した。
「私が見た事が役に立つかどうかわかりませんが・・・・真辺さんの役に立つなら・・・」と言いながらも、黙ってしまった。次に口を開くには、大きく息を吐き出さなければいけなかった。
「何から、お話しをすればいいでしょうか・・・。」
ごめん。りの・・・
慎一は、無表情に眠る白いりのの顔に、そう心の中で、祈りのように何度も語った。
『俺の為に生きてと言った。』それは、りのの心に逃げ道を塞いだ重石、辛かっただろう。どんなに謝っても、慎一の後悔はぬぐえない。
慎一は絶望の果てに決心をすることで、その後悔を拭おうとしていた。
りのの望みどおりに、どこまでも一緒に行こう。
俺たちはいつも一緒だった手を繋いで。
もう、りのが寝ている間の定位置にとなった枕元、預けている窓には雨の水滴が無数について、外の景色を見づらくしていた。
雨は止んだのか、まだ降っているのか、慎一にはどうでもよかった。
どうせ、りのは、この鍵付きの部屋からは出られはしない。
えりは、さっきのニコの姿にショックを受けたのか、「何か手伝う事あったら、病院内にはいるから携帯で呼んで」と言い残し、病室から出て行ったきり、帰ってこない。
眠ってしまったりの、病室は静かだ。
疲れた様子のさつきおばさん、後ろで束ねている髪が乱れて、顔の前に垂れている。おばさんは自分の髪ではなく、眠るりのの髪を整えて、静かなため息を吐く。
そして慎一へと身体を向けると、落とした声で話しかける。
「慎ちゃん、明日は、学校に行きなさいよ。」
もう、学校なんてどうでも良い。学校に行くという状況が頭になかった。明日も、明後日も、ここに来て、りのの側にいる。それが当たり前で、慎一の責務。
「慎ちゃん!」返事のしない慎一を、さつきおばさんは腕を掴んで、揺さぶった。
「もういいんだ。学校なんて。」
「慎ちゃん、あなたが学校に行かなくなったら・・・りのは何を希望に生きればいいの?」
「でも、俺は・・・俺がニコと呼んだから、俺のせいで。」
「りのは、あなたが常翔学園に受かったと聞いて、やっとあの暗い部屋から差し込む光に目を向けられたの。慎ちゃんに会いたい一心で、声を出す練習をして、どんなに辛くても決して音を上げなかった。慎ちゃん、あなたのせいじゃない。あの子は昔と変わらずニコと呼んでくれるって喜んでいた。」
そう言われたら、余計に責任を感じ辛い。堪らなく顔を背けた。
「慎ちゃん、ちゃんと目を見て。」と、さつきおばさんは両の手で子供の頬を挟み、顔の向きを正面に固定する。
昔懐かしい、さつきおばさんの躾方法だった。大切な事を言う時、さつきおばさんはこうして両の手で頬を挟んで、まっすぐ目を逸らさないようにしてようにして慎一たち子供に諭した。昔はさつきおばさんはしゃがんで、慎一たち子供の目線に合わせていたけど、今は慎一の方が、目線が上だ。
「慎ちゃんは、りのの目標なのよ。あなたが学校で過ごす生活が、サッカーをする姿が、あの子の希望になるの。あなたたちはいつも、そうやって競ってきた。りのの為にも、学校に行って、ちゃんとサッカーもするの。」
「おばさん・・・」
「お願い、慎ちゃん。おばさんに、これ以上、後悔を増やさせないで。」
その言葉で、はっとする。
おばさんは、慎一よりも沢山の何故?ドウシテ?を背負って来た。慎一が学校に行かなければ、さらにそれは増える。
沢山のどうして、何故を抱えて。おばさんは潰れそうに、うな垂れた。
慎一は、両の頬を挟む手を捕まえて外す。
「俺・・・逝くよ。」
それは、親に対する嘘で反抗。そしてりのとの約束。
りのが望む所へなら、どこへでも、
手を繋いで一緒に逝こう。
渡されたメモの場所へは、黒川警視監の配慮で、康太が付添人として送ってくれることとなった。
凱斗達が乗って来た柴崎家のバンを康太が運転をする。しかし走り出して30分もしないうちに、康太はファミレスの駐車場へ車を入れた。昼ご飯がまだだった。康太は4人掛けのテーブル席のソファ側の真ん中にふんぞり返る。
極上に機嫌が悪く、仁王像のような顔をしている。
「康太ぁ、黒川君が怯えるだろう。」
「誰のせいだと思ってんだ。」
「すみません。僕のせいで・・・」
「和樹に謝らせるのか、お前は」
「まさか、警視監と出くわすなんて思いもしないだろう。そもそも康太がすぐに降りて来ないから悪いんだろうが。」
「あぁ?」康太は更に怒りの表情を濃くして睨み、店員を呼ぶボタンを叩き押した。すぐに若い女性アルバイト店員が注文を取りに来る。
「極上うな重三つに生ビール一つ」
「勝手に決めんなよ。黒川君、好きなの選びなよ。」
「こいつの言う事など聞くなっ」
店員までもが康太の不機嫌さにたじろぐ。
「ぼ、僕、それでいいです。」黒川君は委縮して、メニューで顔を隠す。
仕方なく店員にそれでいいと言ってオーダーを済ませた。すぐに届いた生ビールを康太は一気飲みして、すぐにもう一つ注文する。
「職務中にいいのか。」
「いいわけあるかっ!ったく・・・」康太はソファに背に天井を仰ぎため息をつく。
康太の機嫌が悪いのは、警察の内部資料のコピーを外部の人間に渡すといった職務規定違反をしたことが、黒川警視監にバレたことではない。そんなのは、凱斗が華族の称号を持つ柴崎家の名を出した事で、警視監も不問にせざる得ない。
その不問にせざる得ないバッググラウンドが、康太にはあるということが、知られてしまったことの方が面倒なのだ。
「黒川警視監は、権力にも権位にも理解あるお人だったよ。」
警察上層になればなるほど、権位に苦い思いをした人間が多くなる。康太が柴崎家と繋がっている事は、最強の武器であり防御であると同時に、急所でもある。
「ふんっ、理解あって一理なしだ。」
そんなことわざはない。康太が何を言いたいのかわからず、それ以上、機嫌を宥めるのをあきらめた。
康太は届いた極上うな重と生ビールを一気に口にかけ込みと、不機嫌な態度を改めることなく席を立ち去ろうとする。
「おい、連れてってくれるんじゃなかったのかよ。」
「ナビついてんだろうがっ、勝手に行け!」
当然、極上うな重と二杯の生ビール代は払う気なしでファミレスを出ていく。
黒川君と苦笑に首をすぼめた。
ナビの案内で車を走らせ着いた場所は、都内から車で一時間半がかかった隣県の倉庫街の一角だった。敷地を囲うフェンス、ゲート、建物は周囲の物流施設と変わりなく、とてもそこが警察施設だとは思えない。ただよく見れば、隠れた場所に監視カメラが至る所にある。シンプルなモダンテイストの建物は、正面一階だけが奥まったすりガラスで、一瞬どこが入り口かわからない。横幅のわりに狭い規模の自動扉を視認して進むと、天井近くに警察庁、科学捜査研究所と小さく記名されている。
開いた自動扉に誘われるように入ると、もう一つ自動扉があって、それは開かなかった。扉の横にタッチパネル式のモニターがあり、画面に「御用の方は、身分証明書のご提示をお願いします。」と表示されている。「警察関係の方」と「その他の方」のボタンがある。
その他の方を押すと画面が変わり、自分の顔が映る。画面右下に矢印が表れ、右に付属しているカード置き場に身分証明書を置くようにとの指示がある。これで訪問者の顔と身元が登録管理される仕組みのようだ。中々のハイテク、おそらく警察庁管内でも最新のシステムなのだろう。指示された通りにすれば扉は開くのだと思ったが、まだ開かない。画面に、「連れの方全員の提示をお願いします。」と出ている。
「僕、何も持っていません。」
「学生証も?」
「はい。学校のカバンに入れっぱなしだから」と
係員呼び出し、というボタンを押して、警察庁黒川警視監の紹介で剣持という方に会いに来た事、連れはまだ学生で、身分証明書がないことを説明すると、しばらく待たされてから「どうぞ、中の1Nの扉の先、応接室1へとお入りください」と案内される。そしてやっともう一つの自動扉が開いた。中は20平方メートルほどの白い壁に囲まれた空間、右手にエレベーターがあり、1S、1Nと記された扉がある。数値は一階を示し、英字は方角を示しているのを凱斗は瞬時に理解する。
1N、つまり一階西の扉を開けると、薄いグレーの色の廊下が建物端まで続いていて、先には非常階段のマークが付いた扉が見える。両サイドの壁は薄いクリーム色で、間近にその応接室はあった。
これまでの雰囲気を裏切らない殺風景な応接室、というより打ち合わせ室と言った方がいいほど、何もない部屋。誰かが来る気配が全くなかった。黒川君は前夜の疲れもあり、うとうとと頭を揺らして寝てしまい20分が経った。ふいに部屋の外にバタバタと足音がする。
ノックもなしにドアが開けられた音で、黒川君はびくついて目を覚ます。
入って来たのは、しわくちゃの白衣を着た年配の痩せた男、白髪の混じった髪は手入れされずにぼさぼさで、その頭を掻きながらズカズカと入って来る。この人がメモに書かれた剣持という人だろう。白衣の胸についた名札は垂れ下がって名前が見えない。
凱斗が挨拶をしようと立ち上がると、反対にその年配の痩せた男は、凱斗の前の椅子にドカッと座った。
「どれだ?」
「えっ!?」
「写真だよ」
凱斗は慌てて座り、事故報告書のコピーの束を渡す。無造作にそれを掴み写真のページを探し当て、顔を顰めた後、白衣のポケットからルーペを取り出し見る事、数秒。
「自殺じゃない。事故死だ」
あまりの即答で、凱斗達は唖然と言葉が出ない。そんな凱斗達に見切りをつけるように剣持という人は、事故報告書をテーブルに投げ置くと立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
「ちょっちょっと、その根拠を説明してください。」
「あぁ。」振り返った剣持という人は、不機嫌に凱斗の顔を見る。「俺が見た。十分だろ。」
「あなたがどういう人かも知らずに、見ただけじゃ。信用できるものを提示していただかないと。」
「俺にとっちゃ、あんたも突然来訪してきた知らない人だ。」
「ご挨拶する暇も与えてくれなかったじゃないですか。」
剣持という人は頭を掻きむしり、身体を向き直ろうともしない。
「柴崎凱斗です。」常翔学園の名刺とついでに弁護士バッチを見せた。スーツを着て来てよかった。
剣持という人は、苦虫をつぶしたような表情をすると、より一層頭をかきむしり、やっと椅子に座りなおした。
「名刺は上に置いてきた、俺は剣持だ。一応、ここの副所長をやっている。」
そういって、曲がった名札を凱斗に良く見えるように引っ張った。名乗るときにそうやって見せるのがこの人の常なのだろう。白衣のポケットが破れてしまっている。黒川警視監の言った通り、風貌おまけに対応も失礼な剣持副所長は、もう一度事故調査書を開き、こちら向きに写真を見せる。
「ここ、見えるか?」
特急スカイライナーの正面車体の下部がアップにされた写真、その車輪との際の上部を指さす。黒川君と共に写真を良く見ようと体を前のめりに。剣持副所長は先ほどのルーペをあてる。
「上の所に髪の毛がついている。」
「ほんとだ。」つぶやく黒川君に対して、
「子供じゃないかっ」と驚いた剣持副所長「こんなもの、見せていいのか」
心の中で、今、気づいたのかよ!と突っ込む凱斗。
「彼は黒川警視監のご子息です。」
「なっぬ!?」増々驚愕の表情をした剣持副所長、そして「あの馬鹿!何やらせてんだ。」と首を左右に振る。
「黒川警視監がご子息にやらせているわけじゃなく、たまたま、このような経緯に至っただけで、彼らは苦しむ仲間を救うべく調査することになりまして。」
剣持副所長は、黒川君を苦悶の面持ちでしばらく見つめた後、はぁーと大きなため息をついた。
「続きを、ここに髪の毛がついていて、事故死と断定できる根拠を」
「この仏さんの検死結果とホーム、車両の走行方向から見て、仰向けの状態でホームから落下し、静岡からの上り電車により轢かれている。ここ」先ほど指さした場所にもう一度ルーペをあてて、「に、髪の毛がついていることから、落下後に頭をもたげて逃げようとしている、が間に合わなかった。この車両の台枠までの高さを見て、頭をもたげなければこの部分に髪の毛は付着しない。」
「うつぶせで飛び込んで、車両との接触時の衝撃で転がって、仰向けになり右側ばかりが損傷したという可能性は?」
この疑問は、朝、藤木君が出したものだ。そうした疑問が、自分達では何一つ解析できないからこそ、専門家に見てもらおうとなったのだ。
「ない。この固い車輪がぶつかって転がるほど人間は固くない。この頭部が、まず最初に接触して弾かれた。すぐに右脇胴部、右手が車輪に絡んで切断された。」
写真だけでそこまでわかるのかと、凱斗はこの風貌粗い剣持副所長を見つめた。
「よく胴が繋がっていたもんだよ。この特急は・・・」とページを戻して車両の構造項目を読みとっていく。「あぁ、やっぱり最新のアンチブロックシステムブレーキがついている、それが幸いして、このスピードで止まれた。古い車両だったら、遺体まっぷたつだったな。」
子供にこんなもの見せていいのかと怒っておきながら、その物言いはないだろう。そのまだ子供の黒川君は平気な顔をして説明をうなづいて聞き入っていた。
「じゃ、自殺じゃないんですね。」黒川君が念押しで聞く。
「あぁ、まず、車両への飛び込み自殺をしようとする奴が、仰向けに飛び込むという難しい姿勢を取ることが考えにくい。ビルなどの高所からの飛び降り自殺ではままあるが、電車に飛び込んで死のうとする奴は、首をつる奴より肝が据わってるんだ。どんな状態で飛び込むにしろ、線路に横たわったら頭をもたげたりしない。」
黒川君と顔を見合わせ、うなづきあって喜んだ。確実で信頼の「自殺じゃない」証拠を得た。
「しかし、この仏さん、よっぽどこのプレゼントが大事だったんだな。この衝撃で最後まで、しっかり握ってるなんてな。」
「慎にぃ・・・・」
病室に戻って来たえりが、自動でロックのかかる扉を背に立ち尽くして、俯いたまま動かない。
ニコは、ドアの前で泣き崩れ眠りに入った後、15歳のニコと5歳のニコを短時間で繰り返し、そしてまた眠りについている。今回は少し長い眠りだ。さつきおばさんは、りのが眠っている間に村西先生との話をしたいと少し前に出たきり帰ってこない。えりは売店にでも行って来たのだろう、レジ袋を手に持っていた。
「どうした?」
「おばさんが・・・このままでって。」うつむいて言葉を詰まらせるえり。
「何が?」
「ニコちゃんをこのままで、催眠療法も受けないって。おばさんと先生が立ち話しているの、えり聞いて、それで・・・それで、ここを離れて遠くに行くって。」
特に驚きもしなかった。なんとなく、そうじゃないかと、感じ取っていた。
えりは、ニコの為に売店でプリンを買ってここに戻る時、手に持っていたレシートを自販機の隣のゴミ箱に捨てようとした。本館の売店近くの休憩兼談話室、自販機が数台並んでいて、テーブルと椅子、テレビが置かれていて、誰でも利用できる。
テレビから離れた一角の観葉植物の側でさつきおばさんと村西先生が立ち話しをしていた。自販機の陰にもなっていたから、さつきおばさん達はえりの存在に気が付かず話を続けたという。盗み聞きするつもりはなかったけれど、聞いてしまった話にえりは愕然とした。
「どこか静かなところで二人だけで療養生活を送りたいって。慎にぃ!いいの?それで。ニコちゃんとまた、離ればなれになるんだよ。」
「・・・・・・」
ニコの為を思うなら、無理に元に戻すより栄治おじさんが生きていると思っている5歳児のままの方がいい。さつきおばさんも、そう思って決断した。さつきおばさんだって、もう疲れている。
新田家と芹沢家が昔から家族ぐるみの付き合いをして、助け合って子育てをしてきて、何も遠慮は要らないと言っても、さつきおばさんの性格なら、ずっと気にしていただろう。もう助けられてばかりだと。合うと、いつも「りのの面倒を見てもらってありがとね。」の言葉を繰り返されていた。
「いいんだ。ニコは、自分で見つけたんだ。楽に生きられる方法を。」
「慎にぃ!」
「そう、ニコは、いつも自分でみつける。俺の助けは要らない。」
「そんな事ない!ニコちゃんには慎にぃがいないと!」えりが、泣きだした。
何年ぶりだろう、えりが泣くのを見るのは。この前の喧嘩の時、頬を平手打ちした時も、怒りに震えはしていたけれど、慎一の前では泣かなかった。小さい頃は転んだや苛められたとかでよく泣いて帰ってきたし、我儘言って泣くことも多かったが、いつしか、えりは母さんを追従するように底なしの明るさを、新田家にもたらしていた。
ベッドの手すりにかけてあったタオルを取り、えりのそばへ向かう。顔をタオルで拭ってあげると籠った声で訴える。
「慎にぃがいないとニコちゃんは、突っ走ってしまう。慎にぃだって、ニコちゃんが居ないと駄目なんじゃないの!」
「俺は・・・俺の事はいいんだ。りのが選んだものはすべて認めると誓った。」
りのが選ぶものを認める事が、唯一自分にできる事だ。
りのが生き辛いと、ここを離れたいのなら
りのが死にたいと、この世から消えたいのなら
認め、そして一緒について逝こう。
「慎にいが良くても、えりは嫌だ!えりだって、ニコちゃんは大事なお姉ちゃんなんだ。」
「えり・・・。」
えりは慎一の手からタオルを奪い取り、鼻水をふき取りると一呼吸して真剣な向ける。
「えりだけじゃなく、皆だって!皆、ニコちゃんを助ける為に探してるの、今!だから慎にぃ、おばさんを止めて説得して!遠くに行かないでって!」
「何?皆って?探している?」
えりの携帯が鳴った。首にぶら下げていたストラップを手繰り寄せて、えりは涙声のまま電話に出た。
「はい、えりです。」
(えり、確定したわよ。自殺じゃないって。)
「あーん。せんぱーい。」
えりが電話を耳に当てたたまま、突然、その場に座り込んで、さらに泣き崩れた。先輩と呼称しているから相手は柴崎か。
(なに?どうしたの?何かあったの?)
「ニコちゃんが、遠くに行ってしまう。先輩止めて、早く戻って来て~」
(何?遠くに行ってしまうって、何?ちょっとえり!泣いてないで、ちゃんと説明しなさい!)
えりはしゃがんだまま、慎一に携帯を差し向ける。受け取った携帯の画面をみたら、やっぱり柴崎だ。
「電話、変わった。」
「えりは、何を言ってるの?」
「さつきおばさんが決断したんだ、もう治療はせず、ここを離れて静かな所で療養生活をすると。」
「そんなぁ。待って、私達、見つけたの!ニコのお父様が自殺じゃない証拠を。」
「えっ?」
「ニコのお父様、自殺じゃなかったのよ!」
栄治おじさんが、自殺じゃない?
見つけた?
今一つ柴崎の言っている事が理解できない。
「新田!聞いてる?」
「あぁ・・・。」
「ニコのせいじゃないの。ニコのお父様は自殺じゃなくて事故なのよ。」
自殺じゃない・・・・栄治おじさんが?
ふと、見ると、足元でうずくまって泣いているえりのそばに、ニコが同じように座り込み、えりの顔を下からのぞき込んでいる。
慎一たちの声で起きてしまったようだ。
「お姉ちゃん、泣いてるの?お腹いたいの?」
もう何度目か・・・また5歳児のニコ。
「ニコちゃん・・・。」
「大丈夫?」泣き顔のえりの頭を、ニコはなでた。
ニコのせいじゃない・・・
おじさんは自殺じゃなかった。
7
当時、私は芹沢さんと通勤時間帯が同じで、朝、よくお見かけしていました。名前は知らないけど、毎日乗る電車の同じ顔触れ、同じ長瀬駅で降りる、通勤電車仲間とでも言いましょうか・・・・芹沢さんは帝都電鉄のどこから乗ってきているのかわかりませんでしたかけれど、だいたい、いつも同じ場所付近に座っていらっしゃいました。時々、英字新聞や、英語で書かれた書類なんかを読んでいらっしゃって、英語が堪能なんだと印象が深かったんです。事故の起きる1か月前ぐらいに、私、その電車で気分が悪くなりまして、立っていられるかと冷や汗でした。そんな時、どうぞと言って席を譲ってくださったのが芹沢さんでした。
その日から芹沢さんは、私を見るなり、私の為に席を取って置いてくれているかのように、何も言わずに席を変わってくれるのです。ある日、そのことを不思議に思って、お聞きしたんです。すると芹沢さんは
『失礼かなと思いましたが、妻の時と同じ様子だったもので・・・つわりですよね。』と声を潜めと問われました。
当時、私は妊娠していまして、つわりがひどくても仕事を辞めるわけにいかず、通勤していました。私が『そうです』と言うと、
『妻もつわりがひどくて、よく介抱しました。辛そうにしている仕草が同じだったものでしたから。おめでとうございます。』
と素敵な笑顔でおっしゃって頂きました。
それがきっかけで互いの名前を知って、帝都電鉄の区間、芹沢さんは毎日、席を譲ってくださり、お話をする間柄となりました。』
芹沢さんは毎日、体調はどうですか?と気遣ってくださいました。
あの日・・・
事故のあった日、リボンのついたかわいらしい包装紙につつままれた細長い箱が、鞄のポケットからのぞいていることに気づいた私は、娘さんへのプレゼントですか?と聞いたんです。その時にはもう、芹沢さんには娘さんが一人いっらっしゃる事を知っていましたから。芹沢さんはそれを手に取り、娘に嫌われちゃいましたと、はにかみながら話されました。
『昨日、娘の誕生日だったんてすが、仕事が忙しくて、早く帰れなかったんです。妻には娘の誕生日ぐらい、どうにかならなかったのかと責められまして・・・私のせいで娘が楽しみにしていた誕生日会ができませんでした。で、さっき家を出る前に、娘にこれを渡そうとしましたら、要らないと言われまして・・・。」
『あらら。』
『そのまま持って、出て来ました。』
『それは・・・・私は何とも言えませんね、娘さんの気持ちが、わかりますから。』
『ははは、そうですよね。』
『お嬢さん、5年生でしたか?』
『はい。難しい年になってきました。』
『ふふふ、今日は早く帰って一日遅れのお誕生日会をしなければなりませんね』
『ええ、会社を首になってでも、今日は早く帰らなければ。』と、苦笑いして・・・・
娘さんに嫌われて、寂しそうではありましたが、とても自殺を考えているようなお顔ではありませんでした。私の記憶では。まさか、自殺で処理されているなんて、私、知っていたら・・・・私が、もっとちゃんと警察に言っていれば・・・・。
すみません。はい、大丈夫です。
私と芹沢さんは長瀬で降りると都営環状に乗り換えますが、お互い内回りと外回りで別れる為に、お話するのは長瀬駅到着まで。
芹沢さんは長瀬で降りた後、駅ホームを北上する形で、人の流れと共に歩いてA階段に向かわれます。私は、長瀬を降りたら、すぐそばにあるB階段を降りるのですが、妊娠してからは、人の流れが落ち着いてから降りるようにしていました。
あの日も、いつものように人の流れが落ち着くのを階段の降り口側で待っていた時、長瀬を通過する特急スカイライナーがキキーと凄い音がして・・・・急停車したんです。悲鳴と共に見る間に、芹沢さんが歩いて行った先のホームに人の塊が出来ました。何だろうと見ていると、人だかりを割って逃げて来るように、一人の男性・・・青年と言った方がいいですね。若い子でした。あまり品が良いとは言えない、その青年は、血相を変えてこちらに向かって来ました。そして、階段の降り口側にいる私を突き飛ばすように進路を開けせて駆け下りていきます。その時、その青年がつぶやくのを聞いたんです。「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」と。私は突き飛ばされた時によろけて、側にいた年配の男性にぶつかってしまい、その年配の男性も青年の危険な行為を見ていましたから、青年に向かって「君、危ないじゃないか」と叫んでくれました。青年は振り返りましたが、何も言わずまた駆け下りていきました。
それから・・・どうしてそうしたのか、自分でもわからないのですが、私は人だかりへと足を向けていました。何も見に行く必要はなかった。つわりがひどく赤ちゃんに悪影響するかもしれないのに・・・もしかしたら嫌な予感がしたのかもしれません。急停車した特急スカイライナーの先頭には人だかりが凄くて間近には行けなかったのですが、駆け付けた沢山の駅員さんが人だかりを整理しだして・・・見えたんです。車両の下隙間に、線路の上にある・・・・プレゼントを握っている左手が・・・
見間違いかと・・・だけどさっき、芹沢さんが娘さんに渡しそびれたプレゼントだと私に見せてくれた物だったから・・・
私、怖くなって・・・胸に気持ち悪さが込みあげて、吐きそうになって・・・
そこから離れました。・・・・・・
す、すみません。今でも思い出すと。ごめんなさい。・・・・・・はい、大丈夫です。いいえ、ちゃんとお話します。
次の日の朝の朝刊で、事故にあった方が亡くなったと知りました。私は、たまたま事故の被害者が芹沢さんだと知りましたから、お葬式に行きたかったのですが、流石に芹沢さんがどこに住んでいらっしゃる方だったのか知りません。なので、長瀬駅の駅員詰め所に行ってお聞きしたのですが、プライバシーの関係で教えていただけなくて。その時に、階段で突き飛ばされた青年の事をお話しました。
「違う、俺じゃない、俺のせいじゃない。」っていう言葉がずっと引っかかっていて、おかしいと感じていましたから、駅員さんは、私の証言を書類に書いて、鉄道警察の方に連絡しておくと言ってくださいました。そして何かあれば、もう一度お話を伺いするかもしれないと言われていたのですが・・・結局、何も連絡は来ませんでした。その日から私はつわりがひどくなり、電車に乗れなくなってしまいまして、仕事も辞めました。
私が話せるのは、これだけです。
はい、あの時お腹にいた子です。今は2才になりました。・・・・・・ありがとうございます。あの・・・芹沢さんの娘さんは、今・・・あっ、今は真辺さんでしたね・・・・・・・・・・・・・・・そうですか。
あの芹沢さんのお子様なら、素敵なお嬢様でしょうね。』
5歳児のニコは、さつきおばさんの膝に頭をのせて、じっとレコーダーから聞こえる女性の声を聞き言っている。
黙って動かないでいれば、15歳のりのだけど、精神は子供だ。
さつきおばさんは、女性の証言に涙を流しながら聞いている。その涙がニコの顔に落ちると、ニコは顔をあげた。
「ママ?・・・ママ、泣かないで。ママ、笑って。」
「りの・・・・そうね、うれしい時は、笑うのね。」
さつきおばさんは、そう言うと涙をそばに握ったハンカチで涙を拭うと、ニコの顔を両の手で支えて、自分の方にまっすぐ顔を向ける。
さつきおばさんの大事な事を言う時の、昔からの仕方。
「りの、ちゃんとママの目を見て。パパは、自殺じゃない。あなたに罪はないのよ。だから、りの、帰ってきて。」
「ママ?」5歳児のニコには、理解できない。きょとんとしている。
「皆が、見つけてくれたのよ。りのを助ける為に、皆が待っているわ、帰ってきなさい。りの。」
そう言うとおばさんは、頬から背中に手を回して、強くニコを抱きしめる。
「帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。」
「ママ?・苦しいよ、ママ。」
さつきおばさんは、胸の中で苦しむニコを、それでも離さず、ずっと
「パパは自殺じゃない、りののせいじゃない。帰ってきて」
の言葉を呪文のように繰り返した。
「正式文書では、ありませんが、警察庁、科学捜査研究所の副所長から芹沢栄治さんは自殺ではないという見識をいただけました。当時、芹沢栄治さんが持っていました診察券の診療所に、カルテ開示請求を明日にでも行います。今日は日曜日で連絡が取れませんでした。事故の調査書にも記載されている通り、栄治さんは、8月28日に一度だけ受診しています。おそらく、この日にうつ病の診断が正式に降りている訳ではないと思われます。それは明日以降にわかります。その事と、女性の証言も含めまして、警察庁鉄道事故捜査課に再捜査の依頼と、捜査不備を訴え、この青年を重要参考人として探させる事も可能です。仮にこの青年が芹沢英治さんと何らかのトラブルがあり、加害者となれば、芹沢英治さんへかけられた賠償金は、加害者側へと移行し、鉄道会社に返還を請求する事が出来ます。」
りのちゃんのお父さんが自殺じゃないという確かな見識を元に、今後のあり方を提示すると、りのちゃんのお母さんは、少し疲れた様相で呆然とし、凱斗を見つめて、小さく口を開く。
「あの・・・理事長補佐さんは・・・。」
「凱斗は、弁護士免許を取得しています。弁護にかかる費用は必要ありませんので、ご安心して再捜査の依頼をなさってください。私も凱斗と共に協力をいたしますので。」隣に姿勢よく座る文香さんが、そう言ってりのちゃんのお母さんに微笑む。
「そ、そうですか・・・・あの、いえ弁護は・・・再捜査や返還など・・・するつもりはありません。すみません。学園にはご迷惑ばかりおかけして、お世話になってばかりで、これ以上は。」
「真辺さん、遠慮なさらないでください。1年前も申し上げました通り、私どもは大事なお子様を預かっておきながら、職員の不祥事でりのさんに重傷な怪我を負わせました。本来なら、真辺さんから訴えられても仕方のない事です。公にすれば学園存亡も危ぶまれるほどの事を、それを黙っていただいている。それだけでも、私どもは真辺さんに感謝しきれないぐらいです。りのさんが苦しむ原因を作ったのは我々ですから、りのさんの生活を保障するのは当たり前の事です。迷惑だなんて、とんでもございません。我々に、償う機会をどうぞ与えてくださいまし。」
文香さんが、立ち上がって、土下座をしようとするのを、真辺さんが、悲鳴に近いを声を上げて、辞めてくださいと制した。
「弁護を要らないと言ったのは、りのの為、いえ、私自身の為です。再捜査をすれば、また、あの人の死に向き合わなくてはならなくなります。りのも私も、それに耐えられる自信がありません。この女性のお話だけで十分、私は救われました。・・・・・りのを妊娠した時、つわりがひどかった私を、おろおろしながら介抱してくれた事が、この方の役に立っていたと思うと、あの人らしいと。あの人の優しさを思い出す事が出来ました。・・・・・・・すみません。」
真辺さんは、今日、何度目かの涙を流して、もう目の周りが真っ赤だった。
「私、あの人が死んだ後、心の奥で恨んでいたんです。なぜ自殺なんかしたの?いくら私に不満があっても自殺なんて卑怯だと、残されて苦しむりのと私を、あの人は望んで死んでいったと思うと・・・・・りのが、あんなになったのは、あの人のせいだ。と許せなくて。」
文香さんは、静かに真辺さん横に移動して、泣き崩れる真辺さんの肩を抱きしめる。
「あの人が自殺じゃなかった。それがわかっただけで、もう・・・・・もう十分です。ありがとうごさいます。」
りのちゃんだけじゃなく、真辺さんのお母さんも、ずっとずっと苦しんでいた。その苦しみは、俺が里香を失った時より、アフリカで仲間を失った時よりずっと深いんじゃないだろうか。よく耐えてきたよなと思う。
そしてふと、「あぁ、りのちゃんが居たからか」と納得した。
児童養護施設の前に捨てられて、そのまま、そこで育った俺は、母親の顔も、ぬくもりも知らない。だけど、知らないからこそ、真辺親子の絆を理想の親子像として美しいと思える。
康汰は、そんな俺を、お前は甘いと笑う。
康汰は親から虐待されて捨てられて施設に来た。康汰の妹、里香は実の親に虐待されて死んだ。人の残忍しか知らない康汰は、親子の絆を見て鼻で笑う。
康汰に真辺親子を見せてあげたい。
泣き崩れても、りのちゃんに劣らず綺麗な真辺さんの顔を見て、凱斗はそう思った。
神奈川医科大学付属病院別館の1階ロビー、待合所の長椅子に、和樹達は無言で座っていた。診察のない日曜日、電気は消されていて薄暗い。唯一の光源であるガラス張りの出入り口からも、曇り空でほとんど望めていない。朝から降り続いていた雨がやっと止んだ。空模様が和樹たちの心を表しているようだった。
和樹達が得た確実なる見識と柴崎先輩たちが得てきた女性の証言によって、真辺さんのお父さんが自殺ではなかったという真実に一度は喜びはしたが、重い現実の前に、すぐに脱力した。
自殺じゃない証拠を手に入れたら、真辺さんはすぐに元に戻る。
和樹たちは、証拠を手に入れることに夢中になって、いつしか、そんな風に思い込んでしまっていた。
だけど、女性の証言が入ったレコーダーを聞かせても、事故調査の見識の説明をしても、真辺さんは5歳児のまま。
それもそのはず、5歳児の真辺さんでは理解できない。5才児の真辺さんの世界では、お父さんはまだ死んでいないのだから。
和樹の隣で、えりは手持ちぶたさに携帯のストラップをいじっている。
何故か、お父さんが理事補の前で膝をついて頭を下げる姿が、ずっと頭から離れない。
あんなことしても、許さない。だけど・・・お父さんが剣持副所長を紹介してくれたから、このミッションは成功したのだ。そこに感謝などしなくていい。お父さんがしたのは、自身の保持の為だ。警察庁警視監の息子が犯罪を犯して学校を退学させられたなんて知られたら、最悪だ。出世に響くどころか、きっと警察の信頼が揺らぐ。だからお父さんは理事補に頭を下げた。科学捜査研究所の偉い人を紹介することなど大した事じゃない、頭を下げることだって雑作もないことだ。そうして、お父さんはまた、沢山の真実を隠す。
また、お父さんが頭を下げる光景が右脳に浮かんできた。
はぁ~嫌いなのに、頭から離れないって最悪だ。
この薄暗い場所が、良くない。あたりを見回し、壁に埋め込まれているデジタル時計を見ると、もうすぐ5時だった。和樹は待合の椅子から立ち上がった
「すみません。僕はそろそろ、失礼しようと思います。」
「あぁ、そうね。ごめんね。長くつき合わせちゃって。」
少し疲れた表情の柴崎先輩が立ち上がって微笑む。
「いえ。」
「あの、柴崎先輩、理事補に・・・」約束を破った処分は受けますと伝えてください。と言おうとして、口を噤んだ。えりが和樹を見上げている。
『君がこの学園からいなくなれば、えりちゃんはどうするだろうね。美術部に君を追いかけて入部したえりちゃん・・・同じく君を追いかけて学園をやめると言うかもしれないね』以前に理事補がそう言って、和樹の退学する意思を止めた。
確かに、えりならやりかねない。ここで下手な事を言えば、えりは取り乱すだろう。新たな混乱は避けた方がいい。
「ん?何?」
「いえ、時間が出来たら連絡をくださいとだけ伝えて下さい。」
「わかったわ。伝える。」
「黒川君。」柴崎先輩を押しのけるように和樹の前に進み出る藤木さん。昨晩の言い合いと反発から、和樹は気まずい思いでうつむく。何か目的がある間は良い、そのことだけを事務的に話せばよかったから。だけど、それがもうなくなった今、また何かを言われるかもしれない。昨日からの和樹の態度は先輩に対して、良い態度ではなかった。
藤木さんは更に一歩踏み込むと、和樹の耳に顔を寄せ、ささやく。
「早まるなよ。どうにかするから。」
「!。」
まただ・・・この人は、人の顔色を読みとるのがうますぎる。
藤木さんはすぐに和樹から離れ、目じりに皺を作りにっこりと微笑んだ。
「ありがとう。君のおかげで、見つけることが出来た。」
つかみどころがない。言葉通りに信頼できない。反発心が和樹の中でまた出る。その顔色もまた読み取られるのではないか、そう思ったら、警戒と戸惑いに、顔を伏せざるえない。
「いえ・・・。」居たたまれず、和樹は踵を返す。
「ありがとうね。」学園最強の柴崎先輩の謝辞を背に、出入り口へと向かうと、静まり返ったロビーに足音が響いた。
新田さんが階段を駆け降りて和樹達に駆け寄ってくる。
「新田、りのは?」
「まだ、寝てる。おばさん、病室に戻って来たから。」
「そう。」
「明日の午後、催眠療法を行うって。あのレコーダーが、りのの意識を戻しやすくするだろうって。」
全員がうなづく。
「皆、ありがとう。」
「礼は、黒川君に。」と藤木さんが和樹へと促す。
「黒川君が、ほとんど見つけてくれたようなものよ。」
「いえ、僕は・・・。」お礼を貰う資格なんてない。自分は真辺さんの事よりも、兄さんの事を優先した。したかったのだ。あの時、兄さんが悲しそうな顔をしなければ、確実に兄さんの事件の報告書を選んで盗んで来ていた。
「黒川君、ありがとう。」そう言って、和樹の両手を取り、包み込んだえりのお兄さん。
深々と和樹に頭を下げた。
「本当に、ありがとう。」
常翔学園の宣伝部と言われるサッカー部の部長が、藤木さんでなくて、えりのお兄さんであることが、わかったような気がした。
この人にありがとうを言ってもらえるなら、頑張れる、何でもやろうと思える。そんな厚みのある心からのありがとうだ。
あの時、兄さんの悲しそうな顔を見逃さず無視せず、事故調査書の方に手を伸ばして良かったと和樹は心から思った。
えりが、黒川君を追って病院を出ていく。
終わった。
何かを成し遂げた割には、手応えない結果。麗華は沈んだままの気持ちをどこに置けばいいのかわからない。
誰も居ない薄暗いロビー、新田は、麗華へと一瞥してうつむいた。
藤木は、そんな新田を細めた眼で視認してから、軽く息を吐いた。
りののお母様が倒れた事をめぐって言い争いをした二人、新田は藤木の本心を読みとる能力に嫌悪を抱いて、関係はぎくしゃくしていた。二人の認識の違いによる誤解、嫌厭は、りの解離性障害の発覚によって、解消されたはずなのに、素直になれない二人。
麗華は我慢できずに、声をあげた。
「あーもう!じれったい!」麗華は、二人を向き合いさせた。所在なくうつむき続ける二人。そして・・・
「あの~藤木・・・」
「えーと新田・・・」
同時に口を開いたものの、それでも二人は目を合わそうとしない。その先を続けられないで、また沈黙。
「もう!言葉なんか要らないでしょ!黄金コンビなんだから!」麗華は二人の手を掴んで、無理やり繋げた。
麗華の言葉でやっと目を合わす。
「ごめん。」
「ごめん。」
それも同時。二人はうなづきあう。
男同士の友情に沢山の言葉はいらない。男は女と違って言葉に含みを持たないから。
「全く、世話、焼かせるんじゃないわよ!」と麗華は二人の頭を小突いた。
「痛った・・・」
「お前が居るから、語れるもんも語れなくなるんだろ」
「あら~、女に歯向かうなは、新田家の教訓じゃなかったの」
「あぅ・・・」
「あははは」藤木が笑う。
ほっとした。二人が仲互いになって昼休みにサッカーをする姿を見なくなって、崩れていく4人の関係に危惧を抱き、寂しい不安を心にためていた。そんな麗華の心の曇りも、これでなくなっていく。
ほっとしたら、涙があふれてくる。麗華は二人から背を向けた。
「世話、焼かせて悪かったな。」
「ありがとな、柴崎。」
肩に重く組まれる絆。黄金コンビに挟まれて、麗華は強く仲間を感じる。
あふれる涙に麗華は誓う。
「私達は、りのを置いていかない。」
8
ここは・・・病院?
また?
私、何した?
あれは・・・折り紙で作った手裏剣。
頭に、おぼろげな記憶。
誰かが『はい、できたよ』と渡してくれた。
『ニコちゃんいろのしゅりけん』と喜んだのは誰?
これはいつの記憶?
誰もいない白い部屋。
ベッドから降りる。
冷たいリノニウムの床。
いつもの病室とは少し様子が違う。
窓へ。
格子の張りがある。
開けられない窓。
『雨やんだ!外へ行く!』
おぼろげな記憶が次第に面名になっていく。
脇から、ドアへと走る誰か。
『ママ開けて、慎ちゃんと遊ぶ!』
振り返り叫ぶあれは・・・私⁉
気持ち悪くなって、部屋の隅にある洗面台へと駆けた。
『りの!大丈夫?救急車呼ぶ?』
『やめて、もう私をほっといて』
――――ママのテヲフリハラウ、私。
景色の違う記憶が重なる。
これは何?
じゃない何時?
鏡に映っている顔、
これは誰?
ニコ?
りの?
私は・・・
どっち?
慎一は、さつきおばさんとの約束通りに、学校に通う。木曜日の放課後に保健室に行ったきり、翌日から欠席しているりのの事を、クラスメートは心配の装いで、どうなっているのかを聞いてくる。慎一自身も土曜日を欠席しているから、りのは風邪をこじらせて調子が悪く長引いていると言えば、「今年の風邪は質が悪いな」だとか、「移るほど仲がよろしいことで」と冷かされた。
幸か不幸か、慎一の土曜日の欠席が、りのの病欠に真実性を増すことになっている。
一時限の終わりに、サッカー部の顧問の石田先生がいる職員室へと向かった。土曜日に練習を休んだ事の謝りと報告に。石田先生は教職員の中でニコが精神科に通っている事を知っている数少ない先生。石田先生に促されたこともあり、慎一は先生の机に隠れるようにしゃがんで話す。先生には、また発作が起きて入院となっていると、日曜日の電話で言ってあったが、流石に5歳児に退行しているとは言えなかった。今回もそれは言わずに、今回は長引きそうです。とだけ伝えた。先生は、眉間にしわを寄せて、「そうか。」と一言。そして、慎一の背をバシッと叩き「報告ありがとな」と言って、うなづく。先生なりの、励ましの気合い入れだ。
慎一に沈んだ気持ちは、もうなかったが、決意は変わっていない。
どこまでも、りのについて逝く。
そうなれば、ずっと気にかけてくれた石田先生の期待を裏切る事になる。そう言ったことが慎一の我儘で裏切る形になるのは、心苦しいが、何よりも、もう、りのと離れることは考えられない。それが自分にできる唯一の事であり、責任だ。
職員室を出ると、佐々木さんが出入口から少し離れた場所で立っている。慎一を視認すると、駆け寄り腕を取り引っ張っていく。非常階段へと慎一連れだし、そして向き直る。
「真辺さんに何かあったの?」
聞かれる事は予測していたから、平静に嘘をつける。
「ちょっと体調を崩しているだけ。ほら、急に寒くなってきただろう、この時期はいつも崩すんだ。心配ないよ。」
そう、毎年、この時期、りのは辛い日を送って来た。その毎年に自分は何もできなかった事が悔やまれる。
「そうなの?なら、安心だけど・・・」と言いながらも、まだ不審な表情を残している佐々木さん。「今野がね、木曜日の怪我が酷くなったんじゃないかって心配しているの。」
そうだった、あの怪我の痛みが全くない事に驚いて、りのが普通じゃないと判明した。
「違う、違う。あれは治ってきているよ。」
「そう。安心した。今野に言っとくわ。」
「あぁ、悪いな。心配かけて。」
「ねぇ・・・」そう言うと、佐々木さんは、苦悶の表情で口を閉じた。
佐々木さんは、夏の肝試しの時、慎一とペアを組んで、りのが病気持ちである事を知られてしまっている。その時、何の病気かは伏せる事ができたけれど、何の病気か?病状はどうなのか?まだ休まなくちゃいけないのか?聞きたいことだろう。
だけど、佐々木さんはグッと我慢した。その表情が、慎一には心苦しい。
「できる事があったら、何でも言って。協力するから。」佐々木さんは力強い目でうなづいた。
「ありがとう。」答えるように、慎一はうなづいた。
心からお礼を言う事しかできない。
りの、帰ってこい!
俺たちだけじゃなく、皆が、りのを待っている。
昨日と違って今日は青い空が広がる。
慎一は、ズボンのポケットから虹玉の入ったチャームを取り出した。
ずっと預かったまま、りのに返せないでいた虹玉。
チャームの中で転がる玉の感触が手に。
これには、りのの願いが、詰まっている。
パパを生き返らせて、
ママの悲しみをなくして。
私の声を戻して。
あるいは・・・もう、私を楽にさせて
と死を願ったのかもしれない。
透かし細工されたチャームの隙間から太陽の光を反射する虹色の光。
りの、もう背負う罪はなくなっただろう。
帰ってこい、りの。
顔を浸した水の冷たさに反応して、また違う記憶がよみがえる。
『私は、どれぐらい寝てた?』
『・・・・1、2分かな。』
『ニコちゃん、約束覚えてる?ちゃんと見てるから、ダメなときはちゃんと言うからって。』
『覚えてる。』
『駄目じゃないけど、おかしいよ、最近のニコちゃん、』
おかしい?
私が?
だから、病院なのか・・・。
タオルが見当たらない。後ろのクローゼットを開けてみる。
そこには制服が、かけられてあった。
『・・・りの、皆が待っている。』
そうだ、学校・・・・
行かなくちゃ。
皆が、待ってる。
「藤木、木曜日に、真辺さんが手に怪我した時、ちゃんと処置したんだろうな。」金魚の糞みたいにトイレにまで亮のあとをついてきた今野。聞きたい気持ちは、朝からわかりやすい程に、わかっていたけれど、わざと無視していた。
「したよ。なんで?。」そしてとぼけた。
「だって、あれからずっと休みだから・・・」
「あの傷とは関係ないぜ、風邪だって。勉強を頑張りすぎて夜更かししすぎたんだよ。最近夜は冬並みの寒さだし、文化祭の準備とかも忙しかったし、疲れが出たんだよ、もうすぐ弓道の全国試合だから、大事を取ってるって。メールくれた。」
「えっ、お前、真辺さんのメル友なの?」
「もちろん。」
「えー、いいな。俺にも教えてくれよ。」
「はぁ、駄目に決まってるだろ。」
嘘をついた。この嘘がいつまでも持つか、わからない。
亮達が得た女性の証言を入れたリコーダーも使い催眠療法を行い、りの意識を呼び戻し、ニコと合わせる、精神の解離を治す施術をすると聞いているが、うまくいくかもわからず、りのちゃんが学校に通えるようになるのが、何時だと断言できない。内科や外科と違って、完治の診断が難しくできないのが精神科だという。ただ、女性の証言を入れたリコーダーは大いに役に立ち、成功率を上げるという。りのちゃんお母さんが、ここを離れて静かに二人だけで療養生活をすると決めた考えを、一旦保留にはしたけれど、催眠療法を行うのは一度だけ、駄目ならやっぱり、ここを離れる意思は持ち続けている。
今野たちが、クラスメート達が心配して、亮達に聞いてくるけれど、今はそれ以上の事は何も言えないでいた。
「なんかさ、真辺さんいないと、花がないっていうかさ。真辺さん静かな人だけど、存在感はぴか一だしさ。お前らも元気ないからさ、こっちまで調子狂うよ。」そんなつもりはなかったが、元気なく見えていたのか。今野は意外にも周囲の雰囲気に敏感だ。
「悪いな、伝染させちまって、気を付けるよ。」
手を洗って濡れた手で今野の肩を叩いた。
「うわっ、お前、何してっ、びしょびしょじゃねーかっ」
今野の訴えを背に、亮は廊下に出る。
学園は今日もいつも通り、稚拙な思惑が渦巻いて、にぎやかだ。
りのちゃん、皆は、りのちゃんの存在を認めているよ。
もう誰も、りのちゃんを阻害しない。
だから、帰っておいで、
俺たちの為だけじゃなく、
皆の為に。
すがすがしいほどの青い空が、目に突き刺さる。
景色が作り物のよう。
コンピューターグラフィックスで書かれた綺麗すぎる違和感。
違う、自分自身が違和感。
借りものの服を着ているような。
車のクラクション、
音が遠い。
バスの排気ガスが、生暖かい塊となって顔に当たる。匂いも遠い。
乗降ステップを踏みこんだ足音も遠い。
開いている二人掛けの席に座る。
『壊れたんだ。』
『見せて。』
『何して、こんなになったんだ。』
『・・・・・・ひっかけた。』
『ペンチで曲げて、治すしかないな。』
『治るの?』
『まぁ・・・・完璧に元通りとまでは行かないけど、』
近いのは記憶だけ
何が、壊れた?
何か、大事なもの。
私が、壊した?
「柴崎、真辺さんはどうしたんだよ?日曜日も合わせたら4日目だ。」
三次元の女に興味のない中島が、珍しく自ら麗華に話しかけてくる。
「風邪が長引いているのよ。」
「ひどいのか。」
「ううん、大丈夫よ。もうすぐ学園祭だし、全国大会もあるから、大事とって休んでるだけよ。」
「そっか、良かった。学園祭には絶対に来てもらわないと困るからね。」
「困るって、あんた、また盗撮しようとしてんでしょう!」
「人を犯罪者みたいに言うなよ、学園のアイドルを普通に追っかけしてるだけだろ」
「それこそ、ストーカー犯罪じゃない。」
「今回の文化祭は、真辺さんは何を着るんだい?」と麗華の詰問を無視する。中島は他人の話をいつもぶった切って自身の話題を突尽きる。
「えっ。あっ、そうね。忘れてたわ。」
「えー用意してなのか?じゃ、俺が決めてあげるよ。いいのあるんだ。」
去年は喫茶店だったから、メイドさんの服を私がサイズ直しをして準備した。
今年は生徒会や、新田達のいざこざで忙しく何も考えていない。クラスの催しはお化け屋敷で、役割に関わらずクラス全員がそれらしい衣装を各自で用意することになっている。男子は捨ててもいい私服を切り裂いてゾンビのペイントをするのが多い、女子もゾンビと何故かドレスが多く集まっていて、中にはどこで調達したのか、ナース服もある。それらに赤いペンキを塗りつけてお化けにするのだとか、完全にハロウィンだ。
「これなんかどう?」と、中島は携帯の画像を麗華に見せてくる。
「え?馬鹿!こんなの駄目に決まってんでしょ!」
一体何のアニメか知らないけど、ほぼ下着?っていうぐらい露出度の高いコスプレの衣装。
「だいたい、お化け屋敷なのよ。テーマ違ってきてるじゃないのよ!」
「あぁ、そうか・・・」
「何?また中島のオタク談議?」近くの席に居た、野球部の田中と家庭科部の仁科さんが話に加わって来る。
「今年の真辺さんの衣装を考え中なんだ。」
「あははは、中島君、必死ね。」
「また、応募するとか考えてんだろう。新田に怒られるぞー。」
「んじゃ、これなんかどうかな。」オタクは、専門話になると、人との会話を平気でぶった切る。
「思い切って、男装してもらうっての、どう?かっこよくなると思うんだ。」
と見せられたのは、軍服見たいなもの。
「だから!、お化けの恰好しないといけないんでしょう!うちは!」
「だからさ、これに血糊とかつけて、戦死したお化けって、すればいいじゃん。」
「ほほー。」
「真辺さんなら、カッコよさそうね。」
「だっ、駄目よ、そんなの」
「今、流行ってんだぜ。軍キャラ。」
アニオタ仲間で流行ってるからって、こんな地味なのは駄目よ。りのはもっと気品のある衣装を着なくちゃ。
「ニコの身長で、男装は無理よ。」
皆が引いて黙る。身長の話題になるとりのが機嫌が悪くなるのは周知のことだ。
「ひどいな、お前、親友だろ。」と田中
「つい・・・。」
「そうだなー、じゃ、やっぱりあの身長を生かして、これにすっか!」
やっぱり、中島は麗華たちの話を聞いてない。
「真辺さんが居てたら、怒りそう。」と仁科さん
ニコ、じゃなくて、りの、帰ってきて。
また学園祭が始まる。
学園のアイドルを皆が待っている。
楽しい記憶を、今度はりのとして、一緒に沢山作ろう。
りのがいない学園祭なんて、つまらないわ。
『ニコ、いくぞ!』
声に顔をあげると、手のひらを差し出して笑っている子供。
「慎ちゃん・・・」
『早く!』
そう言うと、小さな慎ちゃんは、私の手を握り、バスの扉まで引っ張る。
慌てて、ポケットから定期を出して運転手に見せ、バスを降りた。
『俺、一番!』
小さい慎ちゃんはバスのステップから飛び下りると。振り返って自慢げに笑う。
そこは、いつも学校に行く時に乗るバス停。
『見て、慎ちゃん、すごい、きれい!』ふいに、女の子の声。
そばには誰もいない。私と小さな慎ちゃんんだけ。
小さい慎ちゃんは、丘へと続く道の方を見上げた。
つられて私も見る。
何もない。
緩やかな坂道が線路沿いに続くだけ。
『いこう!』小さい慎ちゃんは、丘へと続く道を指さし、踵を返して走っていく。
まるで私の中から出てきたように、スカートを履いた小さな女の子が小さい慎ちゃんに追いつき並んだ。
手を繋ぐ二人。また駆けて行こうとする。
「待って!」二人を止めた。振り返った慎ちゃん、そしてスカートを履いたおかっぱの女の子、それは・・・私!?
二人が、手を繋いだまま、私に手を差し伸べる。
『いこう!虹玉を探しに!あの虹の下にある!』
にっこり笑った小さな慎ちゃんと、小さな私。
じゃ、私は誰?
慎一は落ち着かない授業を受けていた。いや、受けてなんかいない。時間が過ぎるのを、ひたすら耐え続けていたと言った方がいい。
りのが催眠療法を行う今日、本当なら、朝から病院に行って、そばに居たかった。だけど昨日、おばさんと約束した。りのの為に学校に行って、サッカーする。それがりのの目標になるからと。りのの為と言われたら、それを認めないわけにはいかない。
慎一の決意は何があっても変わらない。
やっと、二時間目が終わる。
何ともなしに、藤木と柴崎が慎一の席にと集まってくる。
「まだ、10時半・・・」慎一の前のクラスメートを一瞥で退かせた柴崎が、大きなため息とともにつぶやく。
「今日は時間が経つのが遅いな。」側に立つ藤木は、通路向こうの席に尻を預けて、ポケットに手を入れる。
「ニコの治療は何時ごろ終わるのかしら?」
「ニコじゃないだろ。」
もうニコと呼ばないと決めた。りのはりのとして、慎一たちとまた、楽しい記憶を綴って行けるように。
「あぁ、ごめん。りのね。りの。慣れないわ。」
呪文のように、りの、りのと繰り返す柴崎。
慎一は自身が命名し、呼び続けたあだ名を捨てなくてはいけない。
「1時からやるって言ってたから、夕方には、終わるんじゃないかな。」
「うまくいくかしら。」
それには、誰も答えられない。
「うまくいくことを願うしかない。」
「ねえ、虹玉は?今、どっちが持ってるの?」
「俺。」慎一はポケットから取り出し机の上に置いた。
「これに、お願いするわ。」と柴崎が掴もうとするのを慎一は手で覆って防いだ。
「これに、奇跡の力なんてない。」
詰まり過ぎたりのの苦しみが入っているだけだ。そんな虹玉に祈ってりのが元に戻るとは思えなかった。
不審に頭を傾げた柴崎が、何かを言おうとしたのを、藤木が首を振って止める。
かつて、この虹玉が柴崎の危機を救った、だからあの絵本のように願いが叶う玉だと認識があって致し方ないことだが、これは慎一が駄菓子屋で100円で買ったビー玉だ。これを絵本に登場する虹玉だと思い込む幼き意識は、とっくにない。
それは慎一にもりのにも、もう必要のない夢だ。
チャイムが鳴る。
三時間目は社会、サッカー部の顧問石田先生の歴史だ。藤木が柴崎の肩を叩いて促し、自分の席に戻っていく。
慎一は机の中から教科書とノートを出して揃える。
歴史の苦手なりのの為に、ノートをちゃんととっておかなくては。りのが帰ってくることを信じて。
石田先生は、サッカー部の顧問である時とは正反対で授業は緩く、チャイムが鳴ってから職員室を出る。だから、授業始まりが遅いし、先生が教室に到着してから、席についても怒られない事は周知で、皆はまだ廊下に居たりしている。しかし、サッカー部の生徒たちは、その緩さに甘えられない。先生が、本当はめちゃくちゃ礼儀に厳しく怖いのを十分すぎるほどわかっている。チャイムが鳴って5分も過ぎてから、石田先生の「入れよぉ」と気の抜けた声かけが廊下から聞こえて来る。
1時間目2時間目は気が入らず、ただ時間が過ぎるのを耐え過ごした慎一だったが、石田先生の3時間目はそうはいかない。いくら気持ちの入らない事情が慎一にあると、先生が理解してくれていても。
引き締めに、大きく深呼吸した。まぁ歴史は慎一の好きな教科であるから、気が入らないなんてこともない。
「石田先生!」
教室に入ろうとした石田先生を、廊下から走ってくる足音と共に、止めた。
先生は、廊下へと身を戻す。声の主は馴染みある凱さん。
「新田!藤木!」険しい顔の石田先生が再び顔を出して慎一たちの名を呼ぶ。
「麗香!」続いて、凱さんも身を乗り出すように、柴崎の名を呼ぶ。
慎一たちは同時に立ち上がって、顔を見合わせる。
生徒の前で、身内を名前で呼んでしまった凱さんの慌てぶりが、慎一を不安にさせた。
出張中で居ない柴崎理事長の代わりに、届いた郵便物を開封し内容を視認して仕分けていた。
目に入った書類は、忘れない記憶となる。表題から重要度を目算し、締め切りのある物は早いものから重ねて未処理の箱に入れておく。そうした作業をしながら凱斗は別の事を考えていた。
今日、催眠療法を行うりのちゃんの事。成功するかどうかは、わからない。
身体的病症とは違って、精神的病症は即効性がある治療はない。
凱斗も、いつ起こるかわからないPTSDを持っている。戦地からの敗傷だ。皮肉なことに、劣悪な戦地ではその病は発症せず、平穏な暮らしになってから、それは発症した。病院に通いはせず、凱斗なりの対処法を会得していた。
完全なる完治が難しいのが精神病、それを見込めないのなら、凱斗のように自分なりの対処法を見つけてうまくコントロールしていくしかない。
常翔学園の特待生で、精神病を持つ、という共通点に、凱斗は「真辺りの」に「同類」というカテゴリィの感情を意識していた。
その真辺りのをはじめて見たのは、約2年前、この学園の図書館で。帰国してやっと1年が経ち、対外的にも凱斗の心身が「普通」と判断され、やっと柴崎家の一員として理事長補佐として中等部に就任する事になった。正式な就任は来期の4月から、準備の為に凱斗は年が明けた1月の終わり、常翔学園の敷地に足を踏み入れた。10年ぶりの学園だった。凱斗が通っていた頃から比べると要所に改築がされているが、さほどの変化はない。特に学園自慢の図書館は変わらず重厚に佇む。建物自体は100年を超える歴史的価値ある建築物、常翔学園中高開設10周年を記念して、手狭になった小学部の講堂を移築して補強したもの。凱斗が学園の特待生として通い出した年に、地域の人にも開放された図書館は、市営図書館より蔵書数をしのぎ、専門スタッフを常勤させる、わが常翔学園のパンフレットの表紙を飾る自慢だ。
自然に、校舎内よりも先にその図書館に足が向いた。吐く息が白くなった外とは一転した快適な館内。ほっと一息、IDをゲートの機械に接触させて入る。変わらない景色に自然と目を細めた。学生の頃、凱斗はここに入り浸っていた。本が好きだったわけじゃない。目的は休むことにあった。凱斗にとって本は、読むものじゃなく記憶するもの。見た活字を写真のように覚えてしまう凱斗の特殊な脳は、どんなに面白いストーリーもそれは紙と文字が並ぶ記憶でしかない。ストーリーよりも先に活字の羅列が頭に刻まれる。この記憶力をツールとして使い熟すには、情報の取りやすさが必要で、無駄な情報はなるべく排除しておきたかった。この記憶力に限界があるのかどうかはわからないが、もしあるとしたら、容量の節約は必須だろう。記憶の消去はできないのだから。
この図書館の2階に、音楽のライブラリースペースがあった。そこで適当に選んだCDをヘッドホンから耳に流して目を瞑る。それが凱斗の周囲から遮断した真の休息だった。音楽は記憶されない。
高い書棚が連なる一階の最奥に、左右へ別れて2階へと登っていく階段がある。その左側の階段を上るのが凱斗の常だった。馴染んだ景色と匂いを感じながら、奥へと進んだ。今、凱斗に音楽を聴く暇などなく、2階に上がる必要もなかったのだが、無意識に向かっている自分の足に苦笑しながら、凱斗は階段を静かに上る。2階は、音楽のライブラリィと学習スペース、そして海外の原本が並ぶ。音楽もほぼクラッシックばかり、外国語の原本を手にする生徒は滅多にいない。学習スペースは1階にもあるため、そもそもに、わざわざ2階に上がる必要もない。一般人もしかり、寒空の土曜日に図書館に足を運ぶ人は少なく、館内は全体的に閑散としていた。なのに、2階の学習スペースに一人の女生徒が座っていた。机の上は分厚い沢山の本が積み重なり、何かを一心に書き綴っている。
フロアにただ一人、だから目立つのだと考えた自分の分析が、すぐに覆される。整った横顔、放つ雰囲気が大衆の生徒と違っている。
ただ座っているだけなのに、注目させられる。視線を外すことが難しい。学期末試験はまだ先、試験勉強をするにはまだ早い。何をしているのかも興味を覚える。
凱斗は静かに近寄った。
そして驚く。積みあがった沢山の本は、どれも外国語の原本。
ここ2階は外国語の原本が並ぶ図書空間がゆえに、それで当然の状況のはずに驚いた自分が情けない。
女生徒は英語表記とフランス語表記の資料集を広げてノートに書き綴る。その筆記が英語であることで、やっと凱斗は理事長の言葉を思い出す。
『今年の、3年ぶりの特待生は学園初の女生徒で、英語とフランス語が出来る帰国子女だ。凱斗とはまた毛色の違う賢明さだよ。一度、話して見ると良い。但し英語で。彼女は日本語より英語の方が流暢だから。』
ずいぶん長い時間を見つめた凱斗の視線に気づいた女生徒、真辺りのは、動かしていたシャープペンを止めて顔を上げた。
整ったその顔は、特待生の名にさわしい、聡明な無表情だった。
はたと気付く。
あの時、りのちゃんが読み広げていた原本は美術に関する物だった。学期末テストにはまだ早いが、特待生が年度末に向けてしなければならない事がある。特待生のとして学習レポートの提出。提出は学期毎ごと年3回の提出を求められる。学期末試験と同様、提出期限はまだ先だが、学期末のレポートは1年の総まとめとしての完成度の高さを求められるために、早い段階から取りかからなければならないのは必至だ。それは、かつての凱斗も同じだった。特にこのレポートが凱斗は苦手で大嫌いだった。
顔を上げた真辺りのの整った雰囲気に圧倒されて、凱斗は何も言わず、ただ見つめた。真辺りのはすぐに顔を伏せて、続きを書き綴る。
その書き綴っていたのは、特待生の査定用学習レポートの作成だったのではないか?
今更ながらに気付いた、その内容。凱斗は理事長室の壁に並ぶキャビネットの一つ、下層の扉を開け、りのちゃんが査定の度に提出してきたレポートを保存したファイルを取り出し、めくる。凱斗は、正式に理事長補佐として就任した年の、りのちゃんが2年生の時のものしか、その完成度の高いレポートを拝見していない。
やはり、りのちゃんが1年時の提出した学習レポートのテーマは「フランスの美術史における日本文化」だった。
りのちゃんが学習レポートのテーマに美術を選んだのは、盗品売買を目撃した影響だろう。レポートの中には、あの盗まれたミューズ・ハリスの名画、受胎告知の事も記されている。
りのちゃんは、この時からsosを出していたんだ。学園の裏で大変な事が起きていると。この時点で気づけていれば、りのちゃんは次の年の文化祭で教頭に殴られることなく、レニーグランドに殺されそうになることなく、もう一度父親の死をなぞるような眠りに落ちることなく、そして、解離性同一障害 を引き起こす事はなかった。連なる後悔。
常翔の特待生で居続ける事が並大抵の努力では続けられない事、強い精神力を伴うと、共感できるはずの自分が、りのちゃんの苦しみを共有し取り除かなければならなかった。それが本当の、生徒を守る仕事だ。
自分の無力さが悔やまれる。
何時だって、自分は無力なのだ。守る力なんてない。
だから、罪責を積む。
その重みを感じる事で、自分は本来の罪から目を背けている。
帰って来てはならなかった・・・
あぁ・・また守れなかった。
手のひらに広がっていく血。
尽きる命を振り絞って何かを叫んでいる仲間。
聞こえない。
苦渋の選択を・・・、
いやそれは、仲間の願いだと、無理やり心に刻む・・・罪
内線電話の音に、凱斗は息をのむ。
あぁ、やばかった・・・
落ちるところだった。
深呼吸をして、受話器を取る。
「はい、理事長室」
「理事補佐、3年5組、真辺りのさんのお母様からお電話です。」
真辺さんからの電話?やっぱり再捜査をする方に気持ちを変えたのだろうか?
「ありがとう。繋げて。・・・・お待たせいたしました。凱斗です。昨日は遅くまで申し訳」
「理事補さん、そちらに、りの、行ってませんか?」いつも丁寧な電話対応とは違って、凱斗の言葉を途中で遮り慌てた口ぶり。「は?」
「りのが学校に登校していないか、すぐに確認して頂けませんか?」
「あの~真辺さん?」
「りのが居なくなったんです。あの子、制服を着て・・・」
『見て、慎ちゃん、こっちまで続いてる!』
『うわぁすげー。これ、蝶の羽を運んでる 』
小さい慎ちゃんと小さい私は、道の脇のアスファルトと砂地の境目にある蟻の巣を見つけて、観察している
『あっ。あの蝶の羽を持った蟻、あっち行った・・・』
『わー地面の穴に入って行ったよ。』
私も座り込んで観察。一匹また一匹、アスファルトと砂地の境目にある小さな穴に入っていく蟻、出ていく蟻も限りなく続く。頭の中でまた記憶がよみがえる。
『りの!どうしたの!そんなずぶ濡れで、まさかこんな雨の中、外に行ったの?やだ、おしり泥だらけじゃない。何してたの!』
私は、りのじゃない。どうしてりのの記憶があるの?
りのは、あの扉の向こうに行った。もう二度と出てこない、出てきたら駄目なの。
「私は、りのじゃない。」
そう声に出してつぶやいたら、小さい慎ちゃんと小さい私は振り返り、不思議そうな表情で見つめる。
『蟻さん探してたんだよね。』と小さい慎ちゃんはにっこりと笑う。
『蟻さん、雨の日どうしてるのかなぁって思ったんだよね。』小さい私もにっこり笑う。
そう、蟻さんは働き者、雨の日も。家の中でお仕事をしていて・・・・・パパのように忙しい。
『りの、最後よ。パパの顔見てあげて・・・・』
違う、私はりのじゃない、ニコ。
ニコニコのニコ。
「やっぱ、今日、休めば良かったかなぁ。」
えりが大きなため息とともに、渡り廊下の真ん中で立ち止まった。二時限目の音楽が終わって和樹達は教室に帰る途中。
えりは持っていたアルトリコーダーを両手に持ち伸びをする。その拍子に脇に抱えてた、音楽の教科書が下に落ちる。
和樹は苦笑した。
えりは朝から全く授業に集中できないでいて、さっきの音楽の授業では一人、音程が外れて、先生に注意を受けていた。
「何時に終わるって?」
「1時から始めるってのは聞いたけど、終わるのは聞いてないなぁ。」えりはだるそうに落ちた教科書を拾って、渡り廊下の窓へと肘をついた。和樹も並んで外の景色を見やる。裏山ばかりが圧迫される景色、いい景色ではない。
「長くかかるの?」
「さぁー?今日はクラブ休んで、学校終わったらニコちゃんとこに行くつもり。一緒に行く?」
真辺さんの催眠療法はまだ始まりもしない午前であるのに、終わったことばかりを考えている和樹達。
「え?うーん、どうしようかな。僕は、それほど真辺さんと親しくないから、迷惑じゃないかな?」
「そんなことないよ。黒川君が、ほぼ全部を見つけたんだし、ニコちゃんだってお礼、言いたいと思うよ。」
「お礼なんていらないんだけど、っていうかえり、ニコちゃんと呼んだら駄目なんじゃないの?」
「あぁそうだったぁ。りのちゃん・・・・なんか言いにくいなぁ。他に言い方ないかなぁ。」
真辺さんは、呼称される名前によって意識が分裂されてしまった。本名のりのは、日本語の発音がおかしいと苛められて、父親を亡くした辛い経験で笑えなくなってしまった名前。
その、りのの代わりに笑ったのが、えりのお兄さんが付けたあだ名のニコと呼ばれる人格。
えりのお兄さん達は、もうニコとは呼ばないと誓い、えりにも念を押してニコって呼ぶなよと、昨日散々注意を受けていた。
だけど、えりはすっかり忘れている。
「慎にぃみたいに、りのねぇ・・・なんか違うなぁ。りのりん、りのたん。りのっぺ。」
次々と真辺さんへの呼称を変えていく。
「何、笑ってんのよぉ。」
「プくくくく、だって~、りのっぺって、それはないよ。」
あの頭脳明晰、容姿端麗の真辺さんに、そんな田舎くさい、呼び名は似合わない。
「そうかなぁ。ニコちゃん、ああ見えて、結構、どんくさいし、やる事めちゃくちゃだよ。」
「だから、ニコちゃんって呼んだら駄目だって。」
「あぁ、うーん。りのちゃんね。りのちゃん。」
姿勢を変えると、渡り廊下の窓の向う、北棟の理事長室から、理事補が出てくるのが見えた。
理事補は慌てた様子で、理事長室のドアは開けっぱなしで突っ走てくる。
渡り廊下を滑るように曲がり、和樹たちの前を険しい表情で走り過ぎていくかと思ったら急に立ち止まり、振り返る。
「黒川君!いい所に、ちょっと来て!」
「なっ何ですか?」
「あっ・・・いや、やっぱりいい。」
「えっ?」
理事補は踵を返して走りかけて、また止まる。そして首の後ろを大きく掻きむしると、「あぁ・・くそっ」とよくわからない独り言を吐き捨てると、和樹の元に戻ってくる。
「やっぱり来て!」と和樹の腕を掴み引き連れていく。
「えっ?えええ!?」
昨日、「落ち着いたら、連絡を下さい」と柴崎先輩に伝言をお願いして帰った後、結局、理事補から連絡は来なかった。何かと忙しいのはわかっていたから、和樹から電話を掛けるのは遠慮して、今日、普通に学園に登校してきてしまった。
退学の覚悟があるのに、通常通りに登校している自分の心理に呆れながら、庇護も期待していた。
お父さんは昨日も家に帰ってこなかった。自分の子供が犯罪を犯したと発覚しても、帰ってこないんだ。と思った。
誰も、和樹に関心を示さない。
もう、寂しいとか、悲しいとか、腹が立つとかの感情もない。
ただ、やっぱり。と納得しただけ。
理事補の慌てぶり、それは、おとといから警察のデーターベースのハッキングの犯人が和樹だと断定されたのかもしれない。それで今、学園に電話が来て・・・
和樹は退学届を用意していた。
理事補は和樹を理事長室に押し込む。当然ながらえりもついてきていた。
「理事補、僕、用意してます。あと日付を書けばいいだけにしてますから」
「はぁ?何が?」と言いながら、理事補は理事長室の片隅にあるロッカーのカギを開けて、黒いビジネスバックを取り出す。
それはPAB2000のパソコンが入ったカバン。
理事補はカバンからPAB2000を取り出すと、指紋認証を行い、長い暗証番号も間違うことなく入力して、立ち上げる。
そして、和樹に押しやり、
「これも持って、PCルームへ行って!」
「え、え?何ですか?」
「りのちゃんが居なくなった!病院の防犯カメラと周囲のカメラをハッキングして、探してくれ!」
『どんなお仕事かな?見てみたいなぁ・・・・』
『りの、最後よ。パパの顔見てあげて・・・・』
『パパ、寝てるの?起きてパパ、お仕事行かなくちゃ。蟻さん達はもう働いているよ。この花、邪魔・・・・こんなんじゃお仕事いけない。取ってあげよう。』
『りの、ダメ!そこは!』
リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ
嫌だ、どうしてあの声が聞こえる?
違う。私はりのじゃない。
りのはパパの所へ行った。
だからもう、
私は笑えるんだ。
リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ
逃げた?
りのは逃げてない。
りのはちゃんとパパの手をつかんで、
あの扉の向こうに。
『帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』
駄目!帰ってきたら駄目。ママと引き換えたの。りのが帰ってきたら、ママが居なくなってしまう。
小さい慎ちゃんと小さい私は、蟻の巣の入り口を手で掘り起こし大きくして、中をのぞき込んでいる。
蟻の巣は壊れて、蟻も巣の奥に引っ込んでしまったのか、一匹も出て来なくなった。
「駄目よ。帰ってきたら・・・・りのは帰ってきたら駄目。」
「居なくなったっていつ?」
「気づいたのは9時過ぎ頃だそうだ。病院を病院職員と真辺さんで探したらしい。だけど、どこにもいなくて、部屋のクローゼットの制服がない事に気づいて、ついさっき学園に電話をしてきた。学校に来ているか確認してくれと。」
慎一たちはパソコンルームに駈け込んだ。部屋には既に黒川君がいて、パソコンの並ぶ名がテーブルの端で見慣れないPCを操作していた。黒川君は慎一たちを視認するや否や、叫ぶ。
「見つけました、8時52分です!病室階のエレベーターに乗り込む映像があります。」
慎一たちは駆けつけ、パソコンの画面を白黒に映っている画面を凝視する。映像はりのの病室がある階層のエレベーター前。
そのエレベーターの斜め前にはナースステーションがあるも、わずかに映っているその場所に、職員の姿はなかった。タイミング悪くすべてのスタッフが出払っていた時間帯だったのだろう。
制服姿のりのの足取りはしっかりしていた。ふるまいから見て5歳児のニコではなさそうだった。
「どうして?病室は鍵がかかっていたはず」
「5歳児ならパスワードの入力はできなかったけど、14才なら、俺たちが入力している手元を見て覚えたのかもしれない。」
「じゃ、今は14才のニコ?」
慎一は黙ってうなづく。
「この時間に病院を出発したのなら、学園にとっくに着いていているはず。門のIDは?」と藤木。
「それは電話があった直後に確認した。来てない。守衛には、りのちゃんが来たら保護して連絡するように言ってある。」と凱さん「りのちゃんはこの後どこへ?」
「病院前のコンビニの防犯カメラに真辺さんと思われる姿があるのですが・・・」とその映像に切り替える。コンビニの映像は店内から外に向けて、店内に入ってくる客を映している物だから、店外の歩道を歩く人の姿に焦点を合わせていない。常翔の制服を着たショートカットの生徒が歩いている程度にしか判明できないが、慎一たちはそれがりのだと断定できる。
だが・・・
「この後どこに行ったか分からないのです。駅の防犯カメラの録画を盗ってきて見ていたのですが・・・改札、ホームにも居なくて。」
「りのが、病院から学園に来るとしたら、電車じゃなくバスを使うはずだ。学生定期を持っているから。」
慎一たちが利用している学生定期は、乗り降りする区間だけじゃなく、その路線全区間を自由に乗り降りできる。
「じゃ、バス停の防犯カメラを。」と言った藤木に、黒川君は躊躇った表情を向けた。
「この辺のバス停の防犯カメラは、JRTモコスなんです。」
「あぁ・・・」と、凱さんは手を額に天を仰ぐ。
わからないのは慎一と女子二人。
「何?」との柴崎の問いに答えたのは藤木。
「日本道路交通監視制御システムの事で、頭文字をとってJRTモコスという。全国主要都市の道路を監視して、交通整備を行うシステム。監視による情報を元に信号の切り替え時間を変えたりして渋滞の緩和を行うのが主な目的のシステムだけど、時に犯罪者の追跡にも使われる。」
相変わらずの博識ぶりだ。
「国土交通省と警察庁の合同機関によって設立された最新システムか。」
「はい・・・彩都市は、そういうところが妙にハイテクですから。」
彩都市は、元は何もない田舎だった所を、近年、鉄道会社を誘致しても急行停車駅を造り開発、発展成功した市だ。その為、歴史ある隣市の香里市よりも駅周辺及び行政はハイテク化が進んでいたりする。そのJRTモコスもその影響だろう。
「でも、昨日よりは簡単に盗んでこれそうです。」と黒川君は滑らかにキーボードを打ちながら答える。
「本当か?」
「ええ、録画された映像はモコスの本プログラムとは切り離された場所に保存しているようです。」
「まさか、もうハッキングしている?」
「いいえ、モコスを開発したシステム会社のホームページでプログラミング図を見ています。」
「行けそうか?黒川君自身の体調も含めて。」
「はい。ただ、ここからやっちゃってもいいのですか?」
「うん。いい。後のもろもろの事は気にするな。黒川君に責任は取らせない。皆にも。」と引き締めた顔を慎一たちに向けた。
「わかりました。では、少し、時間をください。モコス本プログラムから切り離されているとはいえ、機関内のセキュリティは突破しないと行けませんから。」そう言って、黒川君は制服のジャケットを脱ぎ、座りなおした。
栄治おじさんの自殺じゃない証拠をつかむ為、警察のデーターベースにハッキングをした経緯は昨日に聞いていた。しかし、それらの話に、慎一は実感なく、犯罪行為であることもさほど重厚な問題とも思えなかった。しかし、こういった会話を聞いている内に、慎一はやっと実感する。
黒川君は、手をグーパーと握り開きを繰り返すをして、誰ともなしにうなづきの合図すると、驚く速さでキーボードをたたき始めた。
『りの、ダメ。そこは。』
顔が半分崩れて肉片が見える頭、どす黒く変色した血の中に骨が異様白い。見たことない怖い顔。だけど、あれはパパ。
リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ シンダンダヨ。
リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ・・・・・・パパと。。イッシヨニ。。シノウ
『さつきさん、あなたのせいよ。貴方が、栄治を殺したのよ!』
『違う。違うの・・・・殺したのは私。おじいちゃん、おばあちゃん、私なの。ママじゃない!ごめんなさい。私がパパを、だからママを責めないで。』
私が殺した?
違う、私じゃない
殺したのはりの。
私じゃない!
ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ シンダンダヨ。
違う、この記憶は私のじゃない。
違う。
違う違う。私は殺してない!逃げてない、
手を振り払い殺したのは、
りのだ。
胸にどす黒い物がたまる。
我慢が出来なくなって、蟻の巣の上に吐いてしまった。
『大丈夫?』
小さい慎ちゃんと小さい私が心配そうに顔をのぞき込んでいる。
『慎ちゃん・・・』
小さな私が背中をさすってくれる。
こんなに小さいのに、その存在が、そばに居てくれる事が
心強い。
『大丈夫、母さんと父さん、もうすぐ迎えに来るから。』
『泣かないで・・・ ちゃん』
「な、なに・・・黒川君は何を」
「しっ!高度な集中力が必要だから。」
驚愕の声を発した新田を亮は退かせた。柴崎やえりりんも心得て、静かに黒川君の側から離れた。昨日に続いて、今日もまた黒川君のVID脳に頼らなければならない。やるせない気持ちに嫉妬が混ざる。
瞬き一つしないで画面を凝視する黒川君、豹変した様子に新田は、目を見張り続ける。
黒川君は、10分ほどで国土交通省と警察庁の合同機関によって設立したJRTモコスへの侵入を成功させる。
合図とともにとキーボードを打つ手を緩め、顔を上げた黒川君の黒目は、異常なスピードで上下に揺れていた。それを見て尚更に驚愕する新田に、首を振り、何も言うなと目で訴えた。
「どうだ?」と凱さんを筆頭に亮たちは黒川君の側へと集まる。
囲まれた状況に困惑した黒川君が、「えーと、それらのパソコンに転送しますから、それぞれで画面を見てください。」と前に並ぶ学園のパソコンを指さす。
「あぁ、そうだな。」
「じゃ、それらのパソコン5台に、電源を入れてください。」
黒川君の指示通り、亮たちは並んだパソコンの前にそれぞれ立ち、電源を入れた。
「あとは、どうすればいいの?」と待ちきれない麗華。
「こちらから遠隔で操作しますから、少々お待ちを。」そうして黒川君はまた、驚異の速さでキーボードを打つ。のち、亮の前にあるパソコンは触ってもいないのに、ビデオ再生アプリケーションが表示される。
「うわー、なんだか心霊現象みたい」とえりりん。
「やめてよっ」とえりりんを睨む柴崎、心霊という単語も禁句だ。
「待ってくださいね・・・時間は8時52分だったから・・・」
画面に映像が映り始めた。彩都市駅の南ロータリー中央に設置された時計の柱からの高所映像だ。病院方向に向けた主にバス乗り場を映した映像とと静線沿線の脇から入ってくる道路を映した映像が二分割で再生されている。
はっきり言って画像は良くない。一応はカラー映像だが褪せた色をしているし、バス停の行先看板の文字は、かろうじて読める程度の輪郭だ。システム自体が莫大なメモリを必要とするから、録画映像の画素数を上げるわけにはいかないのだろう。このシステムの目的は交通システムの監視だ。渋滞の有無、事故現場の監視さえできればいい、犯罪者の追跡は副産物的システムで、個人情報の保護観点から公にはされていない。
「あっ居たっ」新田が声をあげた。
ロータリー病院から駅方向へ歩くりのちゃん姿は、停車しているバスの車体に隠れて見えなくなった。その先、バスの前頭からいくら待ってもりのちゃんの姿は表れない。
「やっぱり、バスに乗り込んだね」
「この二台のうちのどっちか。」
「学園方向へ行く路線は後ろの3番乗り場です。」と流石に新田は詳しい。
監視カメラの映像からは、バスの中までは判明しない。黒川君がバスの車体をクローズアップして見ても、画像が極度にあらくなっ他だけで、何もわからない。
映像を進めて、バスは9時10分に出発した。東静線の高架下へと走り出して後部が見えたところで、黒川君は映像を止めて、ナンバープレートをクローズアップする。
「このバスの、学園前停留所に到着する時間は?」
黒川君は忙しそうにキーボードをたたく。
「9時33分です。映像、切り替えます。」
5台のパソコン画面が一旦黒く染まってから、新たな映像が映し出される。
学園前の交差点、県道168を香里市内方面行に向いた映像と反対車線、彩都市へと向いた映像の二分割。交差点の信号に設置された映像で、病院からの進行方向の画像ではバス停はカメラより後ろにあるため、乗り降りする瞬間は見られない。反対車線を映してい法からはバス停の距離までは遠く、しかもバスの車体に隠れている為に望めない。
「もう、これじゃわからないじゃないのよ!」
と怒る柴崎先に、条件反射のように「すみませんと」と謝る黒川君。
「バス停を監視してるわけじゃないからな。あくまで交差点の状況を監視するのがこのカメラの使命だから」
「でも、バス停を降りたら、この交差点を渡るから。」と新田言葉で皆が、バスが過ぎ去った後の映像を見守る。しかし、いくら待ってもりのちゃんは表れない。
「降りていない・・・」
「降りずにどこに行くんだ・・・」
「か、もう既にどこかで降りてしまったか・・・」
「このバスが通った道路のJRTモコスの映像を、皆で手分けして探していこう。黒川君こっちの画面にそれぞれ順番に映して」
「はい。」黒川君が亮の指示で操作し始めたのを、満足して待つ。
この場を取り仕切る事でやるせない嫉妬は消え、自尊心は満たされる。
小さい慎ちゃんと小さい私は、手を繋いで坂道を駆け上がっていく。
走る事が楽しい、元気いっぱいの笑みで走る子供たち。
私も置いて行かれないように追う。
金網の向う東静線の伏線、深見山線下りの電車が通ると、子供達は足を止めて金網越しに電車を見送り、
そして逆方向からの電車が近づいてくると、電車と競争しよう!と、また走りだす。
轟音を伴った風が背後から抜けていく。
車輪の焼け付く鉄のにおい。
誰だかわからない声が、遠ざかる電車の音に混じる。
『さっき家を出る前に、娘にこれを渡そうとしましたら、要らないと言われまして。そのまま持って出てきてしまいました。とおっしゃって』
リノ、ドウシテ、ソノテヲフリハラウ。
『ええ、首になってでも早く帰ります。と』
帰ってきたら駄目、りのが戻ってきたらママが行ってしまう。あの扉の向うに。だから駄目。
『いつものように人の流れが落ち着くのを階段の降り口側で待っていた時、長瀬を通過する特急スカイライナーがキキーと凄い音がして・・・・急停車したんです。』
『駆け付けた沢山の駅員さんが人だかりを整理しだして・・・見えたんです。車両の下隙間に、線路の上にある・・・・プレゼントを握っている左手が・・・』
『見間違いかと・・・だけどさっき、芹沢さんが娘さんに渡しそびれたプレゼントだと私に見せてくれた物だったから・・・』
リノ、ドウシテ、ニゲタ、リノ、ドウシテパパカラ、ニゲタ。リノガニケダカラ。パパ・・・ハ シンダンダヨ。
そう、りのが殺した。パパは、怒っている。
だから、りのを連れていく。
私じゃない。
ニコはパパを殺してない、
だからニコは笑えるこんなにも。
子供たちと同じ笑顔でニコは笑う。
小さい慎ちゃんと小さい私が、
先で振り返り、早くとせかす。
りの、どこに行った?
制服に着替えてバスに乗り込んだのなら、なぜ学園に来ない?
途中で、5歳児に戻ってしまったとか?
慎一は考えをめぐらす。
意識が切り替わるときは、必ず意識を失うように眠りにつく。短い時で5分弱の眠りがあった。
もし、バスに乗り込んだ後に座席で眠りに入り5歳児に切り替ったとしたら・・・
それを想像すると、血の気が引く思いで、慎一は映し出された映像を見つめる。
りのが乗り込んだバスが通った道の交差点に設置されたJRTモコスの監視カメラは、全部で28か所。
それを黒川君を含めて6人で手分けして4つないしは5つの場所の映像を見ていく。しかし、道路に焦点を合わせているJRTモコスの映像はアングルが悪く、うまくバス停が映っていない。まともにバス停をとらえているのは、先程の出発点と終点のロータリーだけで、終点の馬場園車庫でりのの姿はなかった。
「ニコちゃんどこで降りちゃったんだよぉ~」とえりが嘆いたのを、
「ニコじゃないでしょ」と柴崎が注意する。
「この路線上のどこかのバス停で降りている事は間違いないのだから、バス停の近くの店や会社の防犯カメラをピックアップして出せる?」と藤木が新たな提案をする。
「少し、待ってください。飛んで集めてみます。」
飛んで集める?専門用語だろうか?慎一は首を傾げて黒川君へと顔を向けると、また驚異のスピードでキーボードを打ち込み、画面を見る目の黒目も高速に上下に刻んでいる。
何だ、これは・・・見たこともない、ハッカーってこんなのか?
疑問をすぐに口にする柴崎が何も言わず、好意を寄せているえりすらも、何も言わずに協力的だ。
「この路線のバス停は全部で22、うち19か所でしか防犯カメラを見つけられません。」
「十分だよ。」
「また彩都市駅前から順番に映していきます。」
慎一の前のパソコンにまた画像が動き始める。一人3か所の映像を見ればいい。
「中には遠くて判明できるかどうかっていうのもあります。ご了承ください。」さっき柴崎に文句言われたからか、黒川君は委縮してつぶやく。
慎一は黒川君からえりを挟んで三番目のパソコンを見ている。最初の彩都市駅前ロータリーから二番めの商店街にある自転車屋さんの防犯カメラだ。外に並んでいる自転車の盗難防止の為だから、側を通るバスは大きく鮮明に映っている。バスの窓から車内も見えた。
「りのだ。」
「えっ!」
思わず叫んだのを黒川君以外が慎一のパソコンを覗きに来る。
「車内に座っていた。」
「巻き戻して。」は、各自のパソコンで操作できる。
「新田さんのその映像は末広町3丁目停留所です。」
二人掛けの椅子の奥に座っているりのは頭だけが窓から見えていた。
「降りない・・・」
「降りるのを見つけるのよ!」苛立った口調の柴崎に叱られる。今までで一番鮮明にりのの姿を確認できる映像だった。
様子からして5歳のニコではないとホッとした。確証はないのにそう思う感情は、自分の希望かくるものか、それとも双子のように育った馴染みからくる物か、そんな思慮を、今は必要ないと、慎一は次の画像に切り替える。
「ん?んんんん?」えりが唸り画面に顔を近づける。
「どうした?」
「これ・・・」
えりの指さす画面を覗いた。
「この頭がニコちゃんでしょう。」
「あぁ。」さっき慎一が声をあげた映像の車内の位置と同じ場所に頭だけが見えている。ただ、その映像はコンビニからの防犯映像であるため、アングルはずれて画像は悪い。
「ほら、ここ、立ち上がってない?」
画面の上部ギリギリにりのの頭が見えている。コンビニを出て左手の先にバス停がある為、画面では本当に左隅にわずかに見えていて、そのバスが停車してしばらく経ってから、その黒い頭が動いたように見えなくはない。そして、すぐにバスは発車してしまう。
えりは、何度も巻き戻しては再生して、スロー再生でも確認してみる。
「このコンビニって・・・」
「えりの二番目の画像は深見山公園入口です。」
見覚えがあると思ったら、いつも登校で使うバス停で、そのコンビニは慎一の家から一番近い店だ。
「慎にぃ!ニコちゃん、家に帰っているんじゃ」
「真辺さんが学園に電話をしてきた時、家に一度戻って確認すると言っていた。もし戻っていたら、学園に連絡があるはずだ。」
凱さんが腕時計を見ながら冷静な判断をする。
「違う。家じゃない・・・展望。」
「展望?」
「ニコはあそこに居る!絶対!」
そこに居るとは限らない。だけど、絶対そこにいるという変な確信。
幼き頃、虹玉を探しに手を取り合い探しに行った山の展望公園。
ニコが、真辺りのとして、この街に戻って来て再会したあの場所。
慎一は駆けだした。
「どこ行くんだ!」藤木の呼び声で我に返る。そうだ、ここから走っていくには遠すぎる。
「国定公園の展望にニコはいる。絶対に。」
「展望って、このバス停から、随分あるわよ!歩いて上まで?」と柴崎。
「俺たちは子供のころから歩い行っている。」
なぜニコがそこに居る理由はわからない、だけど絶対にいるという確信は、あの時のように消えない。
「居るんだ、絶対に、あそこに。」
「わかった!バイク出すから後ろ乗れ。」凱さんは強くうなづき、テーブルを回り出てくる。「みんな、僕たちが出たら鍵を閉めて、見つからないようにね。」
「わかったわ。」
「新田!」藤木の呼び声に慎一は足を止めて振り返る。「必ず、りのちゃんを見つけろよ。」
「あぁ。必ず。」
慎一は力強く手を握り締めた。
『ママ、笑って・・・・』
『りの・・・・そうね、うれしい時は、笑うのね。』
違う、笑うのはニコ、りのじゃない。
小さい慎ちゃんと小さい私は、早くとせかし私の手を引っ張る。緩やかに続く坂道は、じんわりと疲労が蓄積されていく。
身体が重い。これぐらいの坂を登るのに、肩で息をしなくてはならないなんて。
吐いたから、あれで結構、体力を取られた。
「待って、少し休憩。」足を止めて、膝に手をつく。
『ここまで頑張ったね。えらいえらい。』
小さい私が背伸びをして頭を撫でてくれる。
『引っ張ってあげる。ほら、ちょっとは楽でしょう。』
小さい子供たちが元気いっぱいだというのに、情けない。
『ほら、慎ちゃんも後ろから押して』
『えー僕も疲れてるんだ。』
『男のくせにぃ。よわっちぃ』
『弱っちくない!』
小さい慎ちゃんは、ほっぺを膨らまして不貞腐れる。
それでも、行くよと言って、その小さい手で私の背中を押してくれた。
『あと少し、頑張って・・・ちゃん。』
小さい私は、どこまでも元気な笑顔で私の手を引っ張り、先を進む。
新田の確信に、ここに居る誰もが、その根拠は?と言えない。
それが新田のカリスマだ。天才的ドリブルの技術があるだけじゃない。その情熱が誰にもない特別だった。
その新田のカリスマが凱さんをも動かす。
新田と凱さんがPCルームを飛び出した後、呆然とする黒川君に次の指示を出した。
「黒川君、この展望までの道にある防犯カメラを探して」
「あ、はい。」
新田の確信を確定する為、と言えば聞こえは良いが、もしかしたら亮自身の自尊心を保つ為、自衛本能なのかもしれない。
「東静線深見山線の運行監視カメラと、展望公園駅の一番二番ホームのカメラしかありません。このあたりはコンビニもありませんから。」
黒川君は残った三人の前のパソコン画面に、その場所のカメラ映像を表示させた。
「これは?何時の映像?」
「リアルタイムです。」
りのちゃんが公園入口で降りた時間は9時半頃だった。
「えりりん、この公園入り口から歩いて行ったら、このホームの監視カメラに映る場所を通る?」
亮はこの展望公園に行った事がない。学園の裏山から続いて深見山とするこの山、彩都市全体が一望できて、月がきれいに見えるとちょっとしたハイキングコースになっている。寮に住み始めて、一度は行こうと思いながら結局、卒業間際になりつつの今も、まだ行けていない。近すぎて今一つ行こうとならない。柴崎も同じだと、いつかの話題になった。
「うーん。通るけど・・・微妙。この屋根と屋根の間にうつる・って感じかなぁ」
「じゃ、このバス停からこの駅まで何分かかる?」
「うちの家から10分ちょっとだから、15分ぐらいだよ。」
「ありがとう」
新田の確信どうりに、りのちゃんがこの展望に行ったとしたら、9時45分頃にはりのちゃんの姿が映っているはずだ。
そう考えて、黒川君に指示を出そうと思ったら、黒川君は悟り早く、カチャカチャと手を動かしていた。
「録画映像、9時40分から映します。」
線路の運行監視映像は、モノクロで画面垂直に上下線の線路が映っている。並行する道路の半分が金網の向こうに視認できるが、人が映るとしたら、かなりの小ささだろう。やがて、モニター画面を上から下へ走ってくる電車と、下から上へ遠ざかる電車が走り抜けて、金網の向こうの道路に人影が走り行く。
「あ・・・。」全員が同時に視認する。
「りの?」
人影は、かろうじて、スカートをはいている人、ぐらいにしか判別ができない。わずか数センチの大きさだ。黒川君が、画像を巻き戻して停止し、その人影をクローズアップする。も、やっぱり更に画像が荒くなっただけで余計に見ずらい。
「これじゃわからないな。展望公園駅のホームの映像を確認してみよう。」
当たり前だが、東静線深見山線の展望公園駅ホームの監視カメラ映像も、ほぼ画面垂直に、線路とホームにアングルを合わせている。
画面右端に、展望へ向かう階段入り口が見えていて、それも駅建物の屋根にさえぎられている。
下り電車がホームに入って来て、降りる人もいずに電車は発信する。数分の間をおいて、上り電車がホームに入ってきて、やっぱり誰も降りる人はいず、そして電車は発進する。
そして、10ほどして、人が表れる。
「ニコちゃんだっ」えりりんが叫ぶ。
ホーム向こうの展望公園への上り階段前の広場に現れたりのちゃんは、歩きながら後ろを振り返った。そしてしゃがみ込む。
黒川君が映像を巻き戻し、りのちゃんの姿をクローズアップして、もう一度再生する。
歩きながら後ろを振り返ったりのちゃんは何かをしゃべっている。そして、しゃがみ込む。
右手が、何もない空をなでなでする。
「な、何?」息をのむ柴崎
まるで、そこに小さい子がいるかのような動作。りのちゃんは立ち上がると両の手を広げて、左右に顔を向けてから歩み、階段へと向かう。小さい子に話しかけ、手を繋いで歩いて行った。そんな動作に見えるが、その小さい子の姿は映像には映っていない。
「誰もいないよね。ニコちゃん誰に話しかけてるの?幽霊?」とつぶやいたえりりんに
「やめてっ」と悲鳴に近い声で怒った柴崎。
「黒川君、録画映像に何か不具合とかは?」
「ありません。」
亮は唇を噛む。
りのちゃんは、何かの幻想を見ている。亮にはそれが創造もつかないけれど、危険だと感じる。
何かに導かれて展望へと向かい、その先を超える。昨年の事を思い出す。
りのちゃんはあの時も、その先を超えたがっていた。
「柴崎!俺たちも行こう!」
「え、えっ?」
「俺たちは、りのちゃんを置いて行かない。手を繋ぎ、約束した。」
亮たちは、何度も危機にあい、乗り越えてきた。危機が4人の結束を固め、乗り越えた経験が成長となった。
それが自信となって、うなづきあう。
同時に走り出した。
「えっ、えっ、先輩、えりたちは?」
「留守番してて」
「黒川君、新田達にりのちゃんの姿を確認したことを連絡してやってくれ。」
「わかりました。お気をつけて。」
亮たちはパソコンルームを飛び出した。
子供達のよいしょ、よいしょという掛け声で、私は重い身体を押され、
やっと展望を登る階段の入り口まで来た。
4つの小さい手は背中に小さいながらも暖かい。その手に元気が出る。
私は後ろを振り返り、押してくれた小さい慎ちゃんと小さい私に、声をかける。
「慎ちゃんありがとね。私も頑張ったね。」
後ろに居る小さい慎ちゃんと小さい私に、
しゃがんで頭をなでる。
二人は、えへへと笑って。
『・・・ちゃんも頑張ったよ』
と私の頭をなでてくれる。
展望まで、まだ少し頑張ろう。
「あの上に、あるんだね。虹玉。」
『うん。あるね。願いが叶う虹玉。』
「行こう!皆で手を繋いで。」
小さい慎ちゃんと小さい私、
3人で手を繋いで、階段を上る。
凱さんの運転するバイクにしがみつく、バイクの後ろに乗るなんて初めての経験だ。1個しかないヘルメットを慎一に渡したから、凱さんはノーヘルだ。警察に見つかれば即免停だろう。だから、ほらと渡された時、慎一は断った。けれど凱さんは、「生徒を守れない過ちをこれ以上増やさせないでくれ。」と言ってヘルメットを頭にかぶせられた。
凱さんも、1年前のりのが頭を殴られた事件を悔やんでいる。常に「生徒を守るのが俺の仕事」と口癖である凱さんが、おそらく初めて守れなかった事なのかもしれない。事件の翌日、凱さんは、理事長室に慎一を呼び、突然、土下座をした。突然の事で慎一はびっくりして慌てた。26歳の大人が14歳の子供に土下座をする事など、ありえない。慎一がいくらやめてくださいと言っても、凱さんは頭を上げない。学園を悪事に利用されるなんてあってはならない事だ。それを知らなかったでは済まされない。新田君の大事な人を守れないで傷を負わせてしまうなど、僕の落ち度だ。と言って再度頭を下げた。普通の大人では中々できないだろう。それをする凱さんを慎一は、心から凄いなと思う。
学園から続く裏山から、山道へと入る。彩都市が一望できる展望公園からは反対側になる。中腹に数台の車が止められる駐車場があるが、展望までに行くには蛇行した緩やかな坂道を1キロほど歩かなければならない。
バイクを降りた瞬間、凱さんの携帯が鳴った。
ヘルメットをとる間に、凱さんは携帯をつなげる。
「黒川くんからだ。はい・・・・。」聞きながら慎一に顔を向けて、目を見張る。「りのちゃんの姿が展望公園駅の監視カメラに映っていて、やっぱり、ここに居ることは間違いないそうだ。」
慎一は、その言葉を聞くやいなや、すぐに走りだした。
りのはここに居る。
走れ俺の足、
もっと速く。
展望広場に着いた。
子供たちは、きゃははと走り回り、思い出したように、草をかき分けて、無いねと言う。
でも、その無いねも楽しそうで、常に笑顔だ。
私も虹玉探しを手伝う。
木の根元、草の間、
ゴミ箱の裏・・・ないね。
『ないね。』
『ないね。』
二人の声がこだまのように響く。
皆で居ると、
なくても楽しい。
その笑顔につられて
私も笑う。
ほら、やっぱり私はニコ、
こんなに笑えるもの。
りのじゃない。
『皆が、見つけてくれたのよ。りのを助ける為に、皆が待ってるわ、帰ってきなさい。りの。』
ママの声が聞こえる。
違うの、りのは帰れない、ママと引き換えたから。
りのが帰ったら、ママが居なくなる。
だから、りのは要らないの。
『りのは要らないって。お願いした。それは私の願いを邪魔する物・・・・』
そう、りのは要らない。
私は、ニコ。
りのの代わりに虹玉を見つけてお願いするの。
何を?
私の心の声が聞こえたように、小さい慎ちゃんと小さい私は、
言葉を繰り返す。
『お願いするのぉ!』
『お願いするんだぁ。』
『何を?』
『何にしよう?』
言葉と追いかけっこ。
広場を走り回る。
『虹玉、あるよ』
『虹玉、あるね』
『・・・・ちゃん、こっちだよ!』
『・・・・ちゃん、あっちだよ!』
子供たちが私を呼ぶ名前は、いつも良く聞こえない。
小さい慎ちゃんと小さい私が手招きする。
目の前に広がるそこは、彩都市の街並みが白く輝いてまぶしい。
目を閉じたら、瞼の裏に虹の光が広がる。
3年前の残像が残っている気がした。
展望公園駅から上がってくる階段の場所まで来て、慎一は足を止めて膝に手をついた。
息を整える。すぐに歩きだす。歩きながら息を整えた。
もうトレンディドラマも懐かしの域に入って、公園と言っても何もなく、ただ彩都市が一望できるだけの小さな山、いや丘といった方がいいかもしれない。紅葉の季節でもあるけれど、展望に秋を感じられる木々はなく、平日の午前に展望を訪れる人は皆無だった。
もう一度駆け出し、樹々の合間に住宅街の屋根が見えはじめる。
やっぱり、りのはそこに居た。
いや、ニコか?
どっちでもいい。
りのは、どうやって超えたのか、展望の柵の向こうで、大きな楠の木のそば手をかけて立っている。
「りの!」慎一が叫んでも、りのは身動ぎせずに無反応。
りのじゃわからないのか?
ニコと呼ばなくていけないのか?
その名前を呼ぶには躊躇いがある。もうその名を呼ばないと決めた。りのがりのであるために。
良く見ると、りのは目を閉じて微笑んでいる。両手がゆっくりと上がり、空に浮かぶ何かを受けようとするかのように手のひらを差し出す。そうしてりのの身体も前へ、崖へと。
「駄目だ!りの!行くな!」
『虹玉、あったね。』
『虹玉、見つかったね。』
「うん、見つけたね。」
子供たちの歓喜。
私の心も弾む。
うれしい。見つけた。
虹色に輝く玉が、こんなに沢山。
ふわふわと浮いて、暖かい。
たくさんの虹玉。
「駄目だ!りの!行くな!」
突然の大きな声、
びっくりして目を開けてしまった。
虹玉がすっと消える。
夏のキャンプを思い出した、あの時もフラっと崖の方にりのは行こうとしていた。
あの時から、りのは死にたかったのだと、慎一は今更ながらにそれを気付いてやれなかった後悔に心を痛める。
りのは、慎一の声にゆっくりと振り向いた。
「りの、じっとして、動くなよ!」
どっちだ?
りのか?ニコか?
5歳か14歳か?
慎一は、ゆっくりと歩みを進める。
「りのじゃない。」
その言葉で14歳のニコだと判断する。まだ話の分かる14歳の意識で良かったと息を吐く。
「ほら、危ないから、こっちにオイデ。」
「りのじゃない!」慎一の差し出した手をパシっと振り払った。「りのは消えた!どうして邪魔するの!せっかく見つけたのに!」
何を?
見つけた?
上靴のまま校舎を飛び出した。
正門へと向かおうとしたら、藤木が「こっち、図書館を抜けよう」と叫ぶ。
正門で守衛さんに捕まって説明する時間がもったいない。図書館内のゲートを通り抜けた方が距離的にも近道だ。
IDカードをタッチするのも時間が惜しい。ゲートのバーを軽々と乗り越えていく藤木を真似て、麗華もジャンプしたかったが、無理そうなので、強引に隙間から足を抜ける。
警告音が図書館内に鳴り響いて、図書館職員が叫び咎めるのを、麗華は「お咎めは凱兄さんに言って!」と叫びながら、一般人出入口のゲートも同じように駆け抜けた。再び館内に警告音が鳴り響くのを背後に、麗華たちは学園の外へと駆け出る。
学園前の交差点を地団駄を踏んで赤信号を待つ。青信号でダッシュ、藤木は流石に早い。麗華たちは駅前で客待ちをしているタクシーに乗り込んで、行先を告げた。
タクシーの運転手は、こんな時間に制服姿の学生が乗り込んで来て、不審に発進しようとしない。
「楢園2丁目の柴崎よ。急いで!」
地元のタクシー会社は、柴崎の名前でサインすれば後で屋敷に請求が行くようになっている。柴崎家並びに常翔学園の贔屓がなくなれば死活問題になる故に、麗華の学生IDを視認すると、態度を変え言いなりになる。
「どうされたんです。連絡くだされば学園までお迎えに上がりましたものを。」とバックミラー越しに聞いてくる運転手
「とにかく急いで、支払いはサインで」厳しい口調で牽制をして、やっと、運転手は肩をすくめて運転に集中した。
学園前を通り過ぎて裏山を超える道へ、山を抜ける道から左に外れて、車は蛇行する。
数台の車が駐車できる砂利の広場の隅に凱兄さんの黒いバイクが置かれてある。展望公園の麓、東静電鉄深見山線の展望公園駅前でタクシーを飛び降り、防犯カメラで見たことのある階段を駆け上がった。
タクシーをその場に待たせておいて、麗華たちは駆けだした。
樹々に囲まれた小道は、木の根が張って走りにくい。まして麗華たちは上靴のまま。躓いて、麗華は地面に手を突いた。
「大丈夫か」先を行っていた藤木が戻りつつ手を差し伸べる。
「ええ、大丈夫」藤木の手を掴み、麗華はうなづく。
誓った夏と同じ、私達はこうして手を取り合って、
越えていく。
下り階段のある場所にたどり着く、そこが、彩都市側の東静電鉄深見山線の展望公園口から登ってくる階段。
側の案内板を見て、麗華達のいる場所、地形の全体像を把握する。麗華はここに登ったのは初めて。近所の公立小学校や幼稚園は絶好の遠足のコースだと聞いているけれど、常翔の幼稚舎や小学部は横浜市にあるため、麗華はずっとそちらに車で登校していた。
かつて、ドラマの撮影場所になったとかで、新田家が営むフランス料理店と共に、デートコースとして人気の場所になりもしたらしいけれど、そのドラマもひと昔、麗華が幼児の時だ。ただ彩都市の住宅街が見えるだけの、展望広場は、紅葉や桜に彩られるわけでもない。おかけで、誰一人とすれ違うこともない。
樹々の合間が空いて、住宅街が見え始める。
凱兄さんが展望公園の真ん中で立ち尽くしている。麗華たちの気配に気づいて振り返る。そして指さした。
展望広場と言われる場所は、麗華の屋敷の庭よりも狭い。その奥どまりに大きな樹が崖に枝葉をせり出すようにして生えている。
樹を挟んで柵がめぐらされ、その柵を挟んでりのと新田は向かい合っていた。
「りの?」
「りのじゃない!ニコが見つけた!慎ちゃんと一緒に見つけたのに。どうして邪魔する!」
叫ぶりの・・・じゃない主張はわかるけれど、何を見つけたといってるのか、麗華にはわからない。
麗華は、歩みよろうとすると、つないだ手を引っ張られ、藤木に首を横に振られる。
新田に任せろと。と意味に捕らえた。
「どうして慎一は、いつも邪魔をする!」
「・・・ごめん」うな垂れて謝る新田。「そう・・・俺はいつも、りのの邪魔をしてきた。・・・ニコと呼んで、りのの意識を邪魔してしまった。ずっとニコって呼ぶなって言ってたのにな。ごめん。りの。」
俯いた新田の目から光る物が落ちた。それは砂に吸い込まれてすぐに消えてなくなる。
「もう、ニコとは呼ばない、りのの意識を邪魔しない。だから、戻ってこい。りの。」
りのの顔が険しく歪んだ。
慎一が泣いてる。
何?
私、何か悪いことした?
わからない。わからない事が怖い。
悪いのはりの、
パパを殺して、ママを泣かせて・・
慎一も泣かせている。
「わ、私は、りのじゃない。私はニコ。・・・ニコは悪くない。」
声が震える。
「悪いのは、りのだ。」
手も震える。
「りのがパパを殺した。ママを泣かせた。りのは、悪い子だから、パパがつれて行った。りのはもういない。帰ってこない。帰ってきたら駄目。」
そう帰ってきたら駄目、
りのはママと引き換えたから、
帰ってきたらママが逝ってしまう。
「りのは悪くない、聞いてただろう。栄治おじさんは自殺じゃない、事故だって。りののせいじゃない。不運の事故だったんだ。」
頭の奥で聞こえる。
見知らぬ女性の声。
『とても自殺を考えているようなお顔ではありませんでした。』
自殺じゃない?
りののせいじゃない?
じゃどうして、りのはパパの所へ行った?
りのが悪い子だから、
りのが笑えないから、
ニコが居てニコが笑うのに、
「さつきおばさんが倒れたのだって、りののせいじゃない。もう大丈夫って退院しただろう。どこも悪いところはないって。」
「ママ・・・」
ママの声が聞こえる。
『りの・・・そうね、うれしい時は笑うのね。・・・りの、パパは自殺じゃない、あなたに罪はないのよ。だから、りの、帰ってきて。りの。帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』
ママが何度もりのを呼ぶ。
皆が、りのを待っている。
どうして、りの?
りのは悪い子なのに、どうして?
ニコは?
私は要らないの?
「りの、オイデ、こっちに」
どうして?
皆、どうして、りのばかり・・・
ニコは?
ニコを呼んでよ。
皆、ニコのニコニコを求めていたじゃないか。
偽りでもニコと呼んで柵のこちら側に来させるべぎなのか?
いや、駄目だ。
違う名前で呼んだら、またりのは混乱する。二度の過ちは許されない。
ニコと呼んで、りのの意識を分裂させてしまったのは俺の責任だから。
もう一度、ここからやり直す。今度はちゃんと、〈りの〉と呼んで。
呆然とするりのの動きが止まった。今のうちに捕まえようと慎一は踏み出す。
「りの、オイデ、こっちに」りのの腕を掴んだけれど、すぐにまた振り払われてしまった。
「嫌だ!皆、ニコニコのニコを呼んだじゃないか!どうして、りのを呼ぶ!りのじゃ笑えない、りのじゃ皆と仲良くできない。りのは悪い子だ、要らないんだ!」ニコは叫ぶ。沢山の不満を責めて。
「そうだよな。ニコと呼んで笑えと要求してきて、今度はニコがおかしいからと、りのに戻れだなんて、酷いよな。ごめん。ごめんな。」
そう、ニコは何も悪くない。ニコは俺達の要求に必死で答えようと努力して来ただけ。
笑えなくなったりのが、少しでも楽に生きれるようにと、りのの気持ちに応えようとして頑張ってただけ。
ニコは何も悪くない。
だけど、ニコは・・・
りのが作りだした偽りの意識。
りのが本物の意識。
何度も謝る慎一の目から、虹色に輝く涙がとめどなく溢れてくる。
『見つけたね。』
『見つけた。』
子供たちの声。
そういえば、さっきから子供たちの姿が見えない。
どこにいる?
周りを探した。
小さい慎ちゃんと小さい私は、振り返った先に。
並んで、にっこり笑っいる。
『良かったね。りのちゃん。』
小さい慎ちゃんが私を、りのと呼ぶ。
「そんな・・・慎ちゃんまで・・・」
『良かったね。りのちゃん、迎えに来てくれたよ。』
小さい私も、りのと呼ぶ。
『ニコは行くの、遠い所、ふぃんらんどってところ。』
この小さい私がニコ?
私の疑問に答えるように、小さい私はこくりと頷き、スカートを華麗に翻して走り行く。
「待って!」
慎一が腕を掴み私は追いかけられない。
小さい私は輝く光に溶けるように消え行く。
「りのは、ニコだ。ニコはりの。」
慎一が耳元でささやく。記憶がよみがえる。
『りのに似てるこれ。わかった。りのはニコだ。』
『うん、ニコニコのニコ! 慎ちゃんが、つけてくれたぁ。』
見上げている小さい慎ちゃんと目が合う。
『偽物なんだ、駄菓子屋で見つけたビー玉。探したんだけど見つからなくて。』
「慎ちゃん?」
『それで、何をお願いする?』そう言う小さい慎ちゃんが指さす、
私の目の前には、虹玉が入ったチャームがあった。
不意に後ろを向いたのを、慎一は後ろから抱きしめてその動きを止める。
りのが「待って!」と崖の向こうに行こうとするのを、慎一は強く強く、抱き止めた。
何故か、頭に昔の記憶が読みがってくる。
それはまるで、りのじゃないと主張するニコの意識が伝え訴えてくる証拠だ。
『またニコちゃんマークばっか書いてるぅ。』
『だって好きだもんニコちゃん。へへへ簡単だし。ほら、○とこれ3つで、顔になるんだよ。』
『りのに似てる、これ。わかった。りのはニコだ。』
『 りのは、いつも笑ってるからニコニコのニコ!これからニコって呼ぶ!』
幼き自分を責めはしない。りのは満面の笑みでその名をとても喜んでいたから。
幼き過去を後悔すれば、大事な記憶を否定する事になる。
慎一がりのの意識を分かれさせた責任は、忘れず覚えておく。
「りのは、ニコだ。ニコはりの。」
そう、どっちもりのだ。
ポケットから、虹玉の入ったチャームを取り出し、りのの目の前に出した。
「虹玉・・・・」
りのがチャームに手を伸ばす。取られる寸前で慎一は隠すようにチャームを握った。
「これは偽物。駄菓子屋で見つけたビー玉。りのは、要らないと捨てようとした。りのは、わかっていた。これに奇跡の力はない事を、願いは叶わない事を。」
そう、りのが一番わかっていた。この世に奇跡の力などない事を。
奇跡は自分で作り出すものだと。
自分で何とかしようとして、りのはもう一人の意識を創って笑った。
慎一は、握った虹玉を一望する彩都市の街並みに向かって投げた。
「いやーーーーー!」
孤を描いて光の中に落ちていくチャームを追いかけようとニコが駆け出すのを、更に強く抱き止める。
「いやー私の。慎ちゃんがくれた虹玉!ニコの大事な。ニコのぉー」
ニコは泣き叫び、腕の中で暴れる。
キラキラと光るチャームが、虹の孤を描き、
落ちていく。
あれは私の大事な宝物、りのは要らないと捨てようとしていた。
だから私が、ニコが受け取った。
『りのちゃんの大事な宝物はあれじゃないよ。』
見上げた小さな慎ちゃんは、指さして微笑み言う。
『思い出して、もっと大事なもの、いっぱいあるから。』
そう言うと、小さい慎ちゃんは虹玉が落ちていった光の中に消える。
「いゃー、慎ちゃん、待って、行かないでー」追いかけないと!
慎一が、また邪魔をする。
「置いてかないで!慎ちゃん!ニコも一緒にいく!待って!慎ちゃん!」
そう、慎ちゃんとニコはいつも一緒。
慎一の力が強くて行けない。
「はなせ!慎一!邪魔するなっ!」
「うっ・・・・そ、そうだ。ずっとっ・・・一緒にいる。りのと一緒に。りのを置いていかない。」
いや、置いて行かないで、
慎ちゃん待って!
慎ちゃんとニコは
ずっと一緒なのに・・・
無意識に亮たちは二人の側へ歩んでいた。
新田と共に、崖の向こうに行こうとするニコの腕を掴み引き寄せる。
生まれた時から双子のように育った二人。
約15年の歴史と重み、いや愛か、文字にすれば陳腐な新田のそれが、りのちゃんの意識に届く。
亮は、暴れるニコの意識の中に、りのの存在を読みとった。
不思議な現象、感覚。一人の人間の中に二人の人間の本質がある。
安心と、喜びにめざめつつある、りのの意識と
寂しさと、絶望に怒りつつある。ニコの意識。
それは、どっちも、本物で本質。
りのであり、ニコである。
ふいに、頭に記憶がよみがえる。それはさながら、ニコからの訴え、忘れないでの切望。
『ニコちゃんおはよ。』
『なぁにかなぁ?、おとといって。ニコって、何んだろねぇ』
『ニコちゃん。久しぶり、調子どう?』
『・・・・それは私のセリフ。』
『渡す物が、あってきた。』
『えっ、何、何、プレゼント?うれしいなぁ。や、やっだなぁ、こんな大事な物くれるって。期待しちゃうよ。いいのぉ?)
(それはない。今の藤木では。)
『ちゃんと見えた?虹』
「うん、見えたよ。大きな虹が」
りのちゃんが忘れても、俺は覚えておく、
それは、ニコちゃんとの大切な約束だから。
行かないでと崖向こうに手を伸ばすニコの目には、何が映っているのだろう。
ニコにとって、新田は大好きな「慎ちゃん」じゃなくて、邪魔をする「慎一」。
ニコは新田への気持ちを、わからないと言っていた。
すれ違い。
新田は無意識に、笑えるニコを求め、それに応じたニコを大事にしていた。
りのに、わからないはずだ。新田が求めていたのは、りのの半分、ニコの存在だったから。
近くて遠い、究極のすれ違い。
切なすぎる。
何時からニコだったのか、何時の時がリノだったのか麗華には判別できない。
麗華もニコの腕をつかむ。
ふいに、出会った頃に記憶が頭に浮かぶ。
『ねぇ、今日、新田が、ニコって呼んでいたけど、あだ名?』
『えっ?う、うん子供の頃の、呼ぶなって言ってる・・・・』
『可愛いあだ名ね。でもどうして、ニコなの?』
『・・・、本人に聞いて。』
それはニコからの疑問、せつない記憶。
「ニコを置いていったりしない。私達はずっと一緒、そう約束したでしょ。」
「りのも、ニコも置いていかない。何があってもこの手は離さい。」
「消えても、消されても、ニコちゃんの未来はなくならない。」
「俺たち、皆で描いただろ。大きなニコちゃんマーク。」
諦めたのか、ニコがやっと身体の力を抜いた。
「りのはニコ、ニコはりの。何があっても俺達はずっと一緒。」
新田が、優しくニコの耳元でささやく。
「りのもニコも置いて行かない。ずっと一緒。りのはニコ、ニコはりの。何があっても・・・」
「慎ちゃん・・・・ニコは・・・・」そう呟いて、ニコは力なく崩れる。
私と藤木に腕を掴まれたままのりのは、新田の腕からずり落ちて、イエスキリストのような恰好になって眠った。
新田が柵を乗り越え涙をこらえて、眠るりのの頬を触る
「ごめんな、ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。」
りのの目から虹色に輝く涙がこぼれ落ちた。
それは砂に吸い込まれて
なくなった。
慎ちゃんが行ってしまった。虹玉もない。ニコは笑えない。
「りのはニコ、ニコはりの。」
笑えないニコはニコニコのニコじゃない。
「りのはニコ、ニコはりの。何があっても俺達はずっと一緒。」
笑えないニコはりのと同じ。
「ニコはりの・・・」慎一の声が段々遠くなる。
「慎ちゃん・・・・ニコは・・・・・」
消えても、いつも一緒?
「ごめんな、ニコ。今度は本物の虹玉を探そうな。りのとイッシヨニ。」
じゃぁニコは、あの偽物の虹玉にお願いする。
本物の虹玉が見つかりますようにって。
『見つかるよ。きっと。』
『皆と一緒だから、見つかるね。』
小さい慎ちゃんと小さい私の声。
姿は見えない。
『寂しくないね。怖くないね。手を繋いでいるから。』
そうだね。うん。寂しくない。
怖くない。
りのはニコ、
ニコはりのだから。
凱さんが戻って来た。えりたちは、展望公園で何があったかを聞く。
全てを聞いて、やっぱりニコちゃんには慎にぃがいないとダメであること。そして慎にぃも、ニコちゃんが居ないとダメなのは、わかりきっている。この間、慎にぃの机でコンパスを探した時に見つけたあれは、慎にぃの弱い心を表したものだった。
コンパスにくっ付いてきた色あせたニコちゃんと慎にぃの子供の頃の写真。何度も握りしめたとわかる指の形の皺と汚れがあって、えりは、慎にぃの弱さと、ずっと変わらないニコちゃんへの思いを知った。その後、えりはニコちゃんに対して、イライラして嫉妬した。慎にぃが大事にしているのは、血のつながった本当の兄妹より、他人のニコちゃんだったと知って悔しかった、寂しかった。
「目を覚ましてから、催眠療法を施すそうだ。新田君が、りのちゃんを引き出しているから、無理なくりのちゃんとニコちゃんを合わせることが出来るだろうって。新田君に、仕事取られたなと村西先生が嘆いていたよ。」
そう、慎にぃは、ニコちゃんの専属の心のお医者さん。
無茶して怪我をするニコちゃんを治療するよう説得するのは、いつも慎にぃの役目、昔から。
「良かった・・・ニコちゃん治るんだ。」ほっとしたら、涙が出てきた。
もう、嫉妬なんてしない。慎にぃとニコちゃんは二人であたしのお兄ちゃんとお姉ちゃんだから。
「もう、最後だよ、ニコちゃんと呼ぶのは。」と凱さんは、えりの頭を優しくポンとなでた。
「うん。もう呼ばない。ちゃんと新しい呼び名、考えたから。」
ふいにニコちゃんと再会した時の記憶がよみがえった。
『ニコちゃんよ。ほらあんたが3歳の時に、フィンランドに引っ越した。』
『えっ!ニコちゃん?うそー。マジ?あの?うわーびっくり、美人。』
『えり・・・・ちゃん?』
『そうそう、えり、うわー会いたかった!』
もうニコちゃんと呼べない、何だか寂しいなと思う。でも、覚えておく。それがニコちゃんとの大切な思い出。
慎にぃと柴崎先輩と藤木さんは、早退扱いにして、ニコちゃんじゃなくて、りのりのに付き添っているという。
「さぁ、えりちゃん、涙を拭いて。午後からの授業はちゃんと出るんだよ。」
もう、給食の時間になっていた。
「あー、いいなぁ慎にぃ達。えりも、ついていけばよかったぁ。そしたら授業サボれたのにぃ。」
「クラブが終わったらタクシーで病院に連れていってあげるから。」
「えークラブは休もうと思ってたのにぃ!」えりは頬を膨らませる。
「クラブ休んだらタクシーに乗せてあげないよ。」
襟たちは凱さんに促されて、約2時間引きこもっていたパソコンルームを出る。
和樹は、pab2000パソコンを持って理事長室に帰ろうとする理事補を、踵を返して追いかけて問うた。
「理事補!」
「ん?」
「あの・・・僕の処分は?」
「して欲しいの?」
「え?いえ、して欲しくは、ないですけど。でも、学園に迷惑が・・・。」
「あっ、そういや、まだ言ってなかったっけ?そうか、昨日真辺さん達の事を優先していたから、忘れてたな。」
そう言って、理事補は首の後ろを掻く。
「ハッキングの件は黒川警視監と話しをつけて、犯人捜しをしない方向に持って行くとしてくれたよ。だから、もう大丈夫なんだ。」
・・・・・けっ、そりゃそうだ、自分の息子が警察のデーターベースをハッキングした犯人だと分かったら、自分の出世に関わる。
そうだよ。何が何でも隠すよな。やっぱり、自分の事しか考えてない、あのくそ父。
「だけど、僕は凱さんとの約束を破って、」
「僕との約束より、大事なもの得たんじゃないのか?」
理事補は、PCを脇に抱えると、開いた手をあげる。反射的に、体に力を入れて、身構えた。
格闘技を習っている僕は、人の動きに身体が勝手に反応してしまう。が、その手は頭にポンと優しく乗せられた。
「ありがとう。黒川君のおかけだ。身体的にも精神的にも辛い思いさせちまったな。」
そう言うと僕の髪をくしゃくしゃと乱した。
「黒川君、お兄さんの真相は、もうしばらく待たないか?君が大人になるまで。」
僕が大人になるまで?やっぱり子供には知られたくないほどのヘドロにまみれた中で兄さんは死んだんだ。
「大人の都合に勝手な事をと、反発する気持ちはわかる。だけど、その大人ですらも、世間や国家の都合に身動きできない事がある。」
国家の都合・・・お父さんはそれで、兄さんの事を家族には言えないでだんまりを続けている?
お母さんが壊れて、家が崩壊しても?
理事補が悲しそうな顔でうなづく。
ネットの世界で出会った兄さんの顔と重なった。過去に篠原さんと共に言われた言葉を思いだす。
『康汰も僕も和樹を弟だと思っている、和樹には、お兄さんの事よりも、もっと大事な事に目を向けて大人になって欲しいと思っている。』
兄さんの事よりも、もっと大事な事・・・
えりが心配そうに和樹と理事補と顔を見比べて、うつむいた。
ふいに、真辺さんとの記憶がよみがえる。
『あっ、あり・・・・がとう・・・・』
『く、ろかわ、君?』
『・・・・・英語でもいいですよ。』
『余計なことはするな。』
余計な事か・・・
真辺さんのその言葉は、的を得ているのかもしれない。
兄さんの事件を知っても兄さんが生き返るわけじゃない。それを頑なにこれ以上追い求めたら、きっと多くの物を失う。そんな予感がする。
手に入れられるチャンスが何度もあったのに、それが悉く出来きなかった。しかも出来なかった代償は、失望じゃない。沢山の絆を和樹は得た。そうやって得る方向を示してくれたのは、兄さんだったような気がする。
「大人になるって、めんどくさいですね。」
「だよ~、君たちが羨ましいもんねぇ~。僕も、もっと青春やっとくんだったなぁて思うよ。さあ、心入れ替えて、学生は学生らしく、沢山食べて、勉強勉強。」
「えー、凱さんがそれ言います?説得力ないんですけど。」とえり
「えりちゃーん。僕は一応、学園側の人間だからねぇ。嘘でも、そこは、〔はいっ〕て言ってくれないと。」
「いきなり黒川君を〔来い!〕って引っ張りこんで授業サボらしたの凱さんですよぉ。そりゃないですよ。」
「しっ、大きな声で言わないの」
と理事補は慌てて、周りを見渡す。そして、「じゃね。僕はいろいろと忙しいからね。」と理事長室に隠れるように入り込む。
和樹はえりと声を潜めて笑った。
8
また長い長い夢を見た。
それは大好きな慎ちゃんと一緒に成長してきた、ニコとりのの虹色の記憶。
ニコは笑う。りのも笑う。
ニコは怒る。りのも怒る。
ニコは困る。りのも困る。
ニコは戸惑う。りのも戸惑う。
ニコは楽しい。りのも楽しい。
ニコは痛い、りのも痛い。
ニコはむくれる、りのもむくれる。
ニコは夢を描く。りのも夢を描く。
ニコは思い出す。りのも思い出す。
ニコが、りのである事を。
りのがニコである事を。
気が付いたら、皆が勢ぞろいに部屋にいる。
慎一とママと、柴崎と藤木と、えりちゃん。凱さんまで・・・私の隣には村西先生。
病院?また私、何をした?
私は・・・・
「りの、気分は?」
ママが、顔をなでる。気分は悪くないけど、この状況をどう理解していいかわからない。
わからない事が不安で。
それを言っていいのかも、わからない。
だから黙っていた。
「りの、お腹すかないか?喉かわかないか?」
慎一のまた食べ物の心配。
それを心配する前に、この状況を説明しろと思う。
柴崎と藤木に目を向ける。やっぱり藤木は私の気持ちをわかってくれて、知りたいことを教えてくれる。
「りのちゃん、学校で手に怪我したの覚えてる?」
怪我?あぁ、段ボールが固くて、カッターで手を切った。藤木が手当てしてくれたっけ。
左手を確認する。もう傷は塞がりつつあって、皮膚がこんもりと固く白くなっていて、みたら痒くなって来た。傷は治りかけが痒い。
「覚えてる。」
「あの後、りのちゃん意識を無くして、もう4日、経つんだよ。」
「今日は月曜日よ。」
意識をなくした?4日も?月曜日?
今日は日曜日、練習はないと言う慎一の記憶がうっすらとある。
意識無くしたって事は、また私、発作を起こしたの?
だから、みんな病院に集まって、また入院していた・・・
またママに負担をかけたのだと思うと胸が痛い。
「ママ、私、また・・・」
「りの、大丈夫。りのは何も考えなくていいの。りののせいじゃない。」
ママがハグしてくれる。ママのいつもの匂い。ちょっと消毒液の匂いが混じる、それでも甘くて暖かい。大好きな匂い。
あれ?つい最近も、こうやってハグしてくれた記憶・・・
『りの、パパは自殺じゃない、あなたに罪はないのよ。りのの、せいじゃない。帰ってくるのよ、りの、皆が待っている。』
ママの力が強くて痛かった記憶、何だろう。
この薄い、薄い記憶は。
「真辺さん、すみません。最後の確認をさせてください。」と村西先生がベッドに近づいて、私と目線を合わせる為に丸椅子を引き寄せ座った。
英「りのちゃん、今から使う言語を真似て答えてね。」
急に英語で話しかけられる。何故し疑問に思うも、意識せずとも英語はすらすらと出てくる。
英「はい」
英「りのちゃんが日本に帰国したのはいつ?」
英「11才の6月」
英「今は何歳?」
英「14才」
英「もうすぐ誕生日だね。いつ?」
英「11月5日」
英「その次の日は?何の日?」
何の質問だ?みんなは、黙って私の様子を固唾を吞んで見守る。そういう感じだ。
英「・・・・パパの、命日。」
英「パパは、どうして亡くなったの?」
英「パパは事故で、長瀬駅のホームから転落して。パパはりのにプレゼントを用意してくれていた。」
英「そうだね。パパはりのちゃんが大好きだったね。」
英「パパ、大好き。」
心からそう思い、パパの笑顔を思い出す。
胸が暖かくなる。
もうすぐ、パパの命日だ。
私の誕生日の翌日、できなかった誕生日会を心の中で、パパとの記憶を胸にしよう。
りのが帰って来た。大好きな英語を流暢に話すりのは、あの人が生きてた頃と変わらず、パパを大好きと言って私達を幸せにする。
りの。大事な娘。りのの笑顔は私の力、りのが笑うためなら、私はいくらでも頑張れた。
村西先生に続いて、凱さんがりのと会話をする。
露「りのちゃん、もうすく学園祭、楽しみだね。りのちゃんのクラスは何をするんだっけ?」
露「お化け屋敷、皆お化けの姿に変身して。お客さんを脅かす」
露「そっか、楽しそうだね。体育祭ではりのちゃんは何に出場するの?」
露「私はバスケと、100メートル走に出る。」
露「バスケは、どこかでやってた?」
露「フィンランドで、ジュニア3年からクラブに通いはじめた。フランスでも、友達とずっとやってた。」
りのと凱さんのロシア語を聞きながら、私は懐かしい雪景色のフィンランドに住んでいた頃を思い出していた。刺すほどに寒いフインランドでもりのは笑顔で外を駆けまわっていた。そして、いつもりのの通訳に助けられて、異国の地でも私はさほど不自由を感じることなく過ごせていた。
あの頃のりのの笑顔がまた戻ってくるだろうか?治療はまだまだこれから。
露「フランスには何年間住んでいた?」
露「1年半」
わが子ながらりのの語学力にはいつも驚かされたけれど、理事長補佐の凱さんにもびっくりだ。ロシア語なんてマイナーな言語をどこで覚えるのか、ロシアに留学でもしていたのかしら、柴崎家ならそれも可能だろう。流石、常翔学園と言うべきなのかしら。
それにしても、この間は弁護士免許取得しているとも聞いた。まだ若い、どう見ても、26、7ってとこ・・・たった二十数年で沢山の勉学が取得できるって、脳の構造がそもそもに違うのかもしれない。理解を超えた天才って世の中にいるものなのね。目の前に。と見つめていたら、その理事長補佐の凱さんが、私へと顔を向けて笑いかけてくるので慌てる。
「真辺さん、大丈夫です。ロシア語もフランス語もりのちゃんは流暢ですよ。」
「はっはい。ありがとうございます。」
「一体・・・・何の確認?」
皆が、ほっと笑顔になる中、りのだけが、訝しげに、周りを見渡す。村西先生が簡単に説明をする
「りのちゃんの記憶、ちょっときれいに正したんだよ。それがうまく行ったかどうかの確認。経緯は、また明日お話しするから、今日は身体を休めて、明後日から学校行けるように準備してね。」
「りの!学校に行けるのね!良かった!待ってたのよ!」
柴崎さんや、えりちゃん、慎ちゃん、藤木君が喜ぶ光景に、改めて親の力なんて微力だなと思った。
あの人が自殺じゃなかった証拠を見つけてくれたのも、りのが居なくなって見つけてくれたのも、りのが深く精神世界に落ちたのを引っ張り出してくれたのも、大人の力じゃなくてこの子達。
こうやって親の手から離れて大きく育つのだと、少し寂しく思う。
「良かったわね、りの。皆、待っていてくれて。」
精神科医の村西先生が、退出するのをきっかけに、凱兄さんも一旦失礼するよ、と言って出ていく。
りののお母様が見送りで部屋の外に出た。りのが、新田が繋いで放さない手を上にあげて、顔をしかめる。
「慎一、いい加減に放せ、暑苦しい。」
「あぁ、ごめん。」
りのの新田に対する毒舌も復活、新田は顔を赤くして手を離した。
その毒舌で、なんとなく、ニコは消えていない気がした。
りのとニコが合わさったら、どんな風になるのだろうかと、ちょっと不安だったけど、変わらない。
麗華達が知っているニコが、りのとしてここに居る。
りのはニコ、ニコはりの。新田が呪文のように言った事だ。
英語、ロシア語、フランス語を流暢に操る姿は学園の誇り。才色兼備の真辺りのの復活。
明日から、また変わらない、いいえ、もっと楽しい学園生活を新たに、りのと記憶を作っていく。
「その包帯、どうした?」
腕まくりしていた新田の腕に、包帯が巻かれているのを、りのが気づく。
さっき、看護師であるりののお母様に処置してもらっていた。
「え、あ、いやこれは・・・・動物に噛まれて・・・」
「動物?」
「ぷっーくくくく」麗華はえりたちと吹き出して、お腹を抱えて笑いをこらえるのに身もだえした。
「何の動物?」
「えーと。あれは・・・・博識の藤木に聞け。なっ。」
「ばか、俺に振るな!」
「何?」
りのが興味深々の顔で藤木に向ける。
笑いをこらえるのに必死の藤木が目に涙を浮かべて、苦し紛れで答える。
「小さくて、かわいい動物、だよ。」
「何、その抽象的な表現は、名称を言って。」
小さくてかわいい動物、確かに間違いじゃない。嘘は言ってない。
麗華達は、りのに嘘や隠し事はしないと誓った。あの満月の夜の事件、麗華たちはニコの為にと事件じゃなくて事故だと嘘をついて誤魔化してきた。ニコは私達が嘘を言って何かを隠していると悟って怖がっていた。催眠療法で嫌な記憶も楽しい記憶もすべてを真実にきれいに正した後は、もう嘘は付かずに、正しい情報を教える。その情報が辛い物だとしても、りのはちゃんとそれを乗り越えられる。
「んー、猫っぽいかなぁ~。」
ニコが新田の腕に捕まり、崖向こうへと行きたがって暴れた時、新田の腕に噛みついた。かなり強く噛んでも、新田はその腕を離さなかった。病院で噛まれた箇所を見ると、歯型に内出血がひどく、一部分、血もにじんでいた。
「猫?猫に噛まれるって、イジメたなぁ。可愛そう、猫。」
りのが、顔をしかめて新田を睨む。
「えー?1文字違い、なんだけどなぁ。」
「くー、もうダメ。やめて。」
「ひーっ えりも・・・これ以上は、耐えられない。」
「俺も、くくくくく」
「はぁ?何?皆、一体。」
そう、嘘はついていない。1文字違いのニコを新田がイジメたから噛みつかれた。
小さくてかわいい動物、ニコの容赦ない決死の反撃。
りのに、それを教えるのは新田の包帯が取れてからにしよう。